2010年7月29日木曜日

夏とアート

あと数日で7月も終り。この8月は7月後半以上に暑いと、天気予報。いま流行の帽子を買いにいったが、何か似合わない。男の日傘も見つからなく、直射日光を避けるしかない。こんなことを考えるのも暑さのせいである。
そんななかAICHI TRIENNALE(愛知トリエンナーレ)の知らせがきた。前からやっていたと思っていたが、正式オープンは8月ということ。知り合いもいるので見にいこうと思っている。その知らせもそうだが、ここ何年か、夏休みに(それだけではないけど)いろんなアートフェスが行われるようになってきた印象がある。去年は妻有トリエンナーレ(これは楽しかった)、今年は愛知と瀬戸内でのアートフェス。こうした大規模なもの以外だったら無数にある。この夏の地元京都を見てもそれを感じる。もちろん美大系大学にも無関係ではない。勤務する大学の芸術学部は、今日から上賀茂神社で学生100人ほどからなるアートフェスを行う(8月1日に案内人として参加)。他の美術系でも何かしらの学生たちのフェスがあるだろう。それからアートフェアというのも増えてきた。マーケットを意識した一種の市場的フェスである。これも学生にまで広がりを見せている。学生のアートオークションというやつである。
とにかく、ぼくが美術や芸術の領域に関係しているためだろうが、アートのさまざまなフェスティバルが増えてきているような気がするし、おそらくそうなのだろう。この現象を単純には喜べないが、「美術」にとって代わった「アート」が社会に広がっていくのは悪いことではない。ただし、いまのところ、多くが内向きである。内向きというのは、外に開いていこうというダイナミズムが希薄ということだ。もちろん、大きなフェスでは当然海外からのゲストを呼んでいるが、だからといって「国際的」な感じがあまりしない。そのことと同時に、日本のフェスは何かヴィジョンがはっきりしない。「アートによる地域おこし」といったことはわかるが、じゃ、なんでアートフェスになるの、ということがはっきりしない。まあ、そんな硬く考えるのはやめよう。ぼくたちの世代のアートを硬く考えてしまう悪い癖かもしれない。美術から変身した「アート」には、イデーなどいらないのかもしれない。
暑い夏だが、教師にとってはやっとゆっくり本が読める季節ではある。冷房がきき客の動向に気を使わないカフェでの読書は格別である。格別さのせいか、ここ1週間はけっこう読書に集中できた。そんな本のいくつか。
鈴木貞美『「日本文学」の成立』(作品社、2009年)。日本近代における「文学」なるものの概念史を丹念に追った力仕事。参考にするところが多かった。これで概念史という枠組みを相対化できれば完璧。H.マタラッソー、P.プティフィス『ランボーの生涯』(粟津則雄、澁澤孝輔訳、筑摩叢書、1972年)。近くの新書・古本屋で525円。カフェで3時間少しで読んでしまった。すごく得した感じ。L'invention de la critique d'art, Presses univeritaires de Rennes, 2002(Edité par P.-H.Frangne et J.-M.Poinsot).『美術批評の創出』のタイトルをもつ論集。長く手元にあって、やっと手に取った。まあ、超専門的といってもいい論集だが、美術だけではなく写真やジャズ評論の論文もあってなかなかバラエティーに富んでいた。批評を論じるという現代の批評のパラドクスはどこに行くのだろうか。
なんやかんやで、いくら暑くても、夏はけっこう楽しい!

2010年7月21日水曜日

フットボールについて

ともかく暑い!身体もふらふらする。書きたいこともあるが暑さに負ける。そこで前々回に予告したフットボールについての文章を載せる。少し前に勤める大学の冊子に書いたものを修正した文章である。W杯の熱狂が去ったが、メモランダムとして書いておく。
フットボールというスポーツが世界中の人を熱狂させるのは、競技そのものにおいてだけではない。このスポーツが「世界の現実」とでもいうものを過激に抱え込んでいるからである。少なくとも、ぼくはそう考えている。「世界の現実」とは政治、経済、文化などのすべてを、そしてその矛盾までも含み込んだ現実そのもののことである。したがって、フットボールとはけっして幸せなスポーツなどではないのだ。
フットボールが世界の表象であることは、たとえば、グローバリゼーションという現代のキーワードをいち早く実現したことからもわかる。たとえば、イングランドやイタリアのチームでは、同国人がひとりも先発に入っていないことも稀ではない。日本では想像できないことである。このことが良いか悪いかには意見があるだろうし、このところ自国保護主義的動きが目立ってきてもいるが、グローバリゼーションとは究極、こうした姿にもなるのだ。ナショナリティーという近代的概念がフットボールでは崩れ始めている。しかし、そのことによってクラブチームのプレーの質とスペクタクル性は飛躍的に向上し、大きな金銭を大量に生みだすことにもなる。金融工学の手法にも似ている。だから、弱者も大量に生みだすことにもなる。そうした弱者にアフリカの若者たちがいる。前回書いておいたことである。
ヨーロッパのチームにはアフリカの優れたプレイヤーが数多くいることは誰でも知っている。ただし、そうしたスター選手の蔭に、挫折した、それだけならいい、エージェントにだまされて悲惨な境遇に陥った無数のアフリカの若者たちが存在するのだ。W杯が南アで行われるので、この問題を日本のサッカー・ジャーナリズムはどのように取りあげるのかと注意していたのだが、僕の目にはほとんど入ってこなかった。NHK・BSでルポジュタージュとしてとりあげたのを見たときは、さすが、NHKだと、W杯での中継の節度も含めて妙に感心した。この問題に関心がある人は番組でも紹介されていたfootsolidaire(フットソリデール)というパリに本部を置く組織のHPにアプローチしたらどうだろう。
実は、スター選手にも苦悩がないわけではない。FIFAが「差別撲滅キャンペーン」をするのは、それだけ黒人選手に差別が酷いということだ。黒人選手への汚い言葉は、ぼくもスタジアムで耳にしたことがある。彼ら成功者にとってもそうしたことがあるのだ。アフリカのプレイヤーたちは、先の若者のことや差別のことなど、すべてをわかったうえで、ピッチの上を躍動するのだ。世界の現実の矛盾を背負いながら、一人の人間として、選手としてピッチを駆け巡るのだ。たとえば、ドログバの見事なシュートやパスが感動的なのは、それが世界の現実に亀裂を入れ、希望の回路を幻想させてくれるからである。

2010年7月18日日曜日

夏とアカデミック

前回、ここに前に書いたフットボールについての文章を載せると書いたが、その文章をペーストすると、何故かフリーズしてしまう。だから、もう一度打ち直さなくてはならなくて、時間がかかる。もう少しあとにしてみる。やっと梅雨が明けた。大学はもうすぐ夏休みに入る。この夏は気分もゆったりと過ごせそうなので、少し読書と本の構想に集中しようかと思っている。例年の夏休みは8月の後半に、パリで過ごす予定だ。
7月は3回ほど、ギョウカイ関係の集まりがある(ひとつは終わったが)。日仏の美術史関係、7月末に大正イマジュリーと日文研の集まり。ただし、そうしたアカデミックなギョウカイも捨てたものではないと思うことも少なくない。多くの言説がメディア的言説(形式としてはレジメ的エクリチュールと言ってもよいか)に染まった日本では、アカデミックな言説が新鮮であるといった状況も生まれてきているのだ。それほどにメディア的言説が、うさんくさいものになってきたということか。もちろん、今でもアカデミック・ギョウカイ言説には、ちょっとうんざりすることもあるが(学問的言説そのものに対しての批評的視点が少ない)、一般の(新聞や雑誌、あるいは新書)言説の貧しさはいかんともしがたい。こんなことを感じるのはぼくだけではないだろう。といって、では「あんたはどうなの」と言われると、はっきりと返す言葉がないのだが・・・
この1ヶ月話題にしてきたW杯に関しても同じだった。もちろん、良質で感動的なフットボールの批評や報告を読んだことはないのだが。このブログを使って何とか良質の言葉を綴りたいと思っているのだが。そのためにはよい意味での、つまり精密で暖かな論理を綴るための勉強である。もうひとつ締まりのない文章になってしまった。

2010年7月9日金曜日

流浪するアフリカのサッカー少年たち

この日曜日でW杯が終わる。オランダとスペイン。結局、「バルサの血」的決勝になってしまったのだが、ぼくとしてはオランダ。それより、こちらもほんとうに疲れてきた。1ヶ月は長い!
そんななか、この月曜日(だったと思う)にNHKのBSでヨーロッパでサッカー難民となったアフリカの少年たちのルポルタージュが放映された。さすがNHKである。5、6年前に、この問題を知りすごく気になっていた。南アでのW杯なので、その問題をレポートした記事やルポなどがないかと、日本の新聞や雑誌、ネットでかなり探したが、ぼくには何もひっかからなかった。サッカーと呼んで、世界との差を語る、あるいは世界を目指すという言説だけに還元しながら希望の情報をつくるだけの日本のサッカー・ジャーナリズムの貧困さかもしれない。そんな折のドキュメンタリーである。
ぼくはヨーロッパのリーグで活躍するアフリカのスターたちを見るとき、いつもこの少年たちのことが頭をよぎる。W杯のスリリングな試合でもそうだ。といって、フットボールに指を向けたいとは思っているのではない。その逆だ。だから素晴らしいのだ。フットボールは単純なものではない。グローバル化(世界のすべてが参加しているという意味では、このグローバル化こそ「グローバル化」といってもよい現象だ)するフットボールの奥の深さ、それは同時に世界、あるいは現実の深さでもあるだろう。そうしたフットボールの現実の中では、日本でよく言われる「サッカー文化」という言説などはほんとに甘えたものに見える。こんなことを考えながら、少し前に書いた文章があったことを思い出した。次のブログでそれを見てもらうことにしよう。


2010年7月5日月曜日

祭りの終り

French Libraryというのに、W杯のことばかりなのは、この図書館はカフェも兼ねているので、テレビもフットボールだけは見ることができるというヴァーチャルな場所なのだ。と、W杯のことばかり書いてきたが、ついに4強、あと4日で祭りが終わる。少し前にも書いたが、今回は面白い!準々決勝の数々のドラマは、他のエンターテイメントでは味わえないものだった。映像は残酷なものである。ギャンやカルドーソの絶望感を楽しめてしまうからだ。
そういえば、デュ・ボス師という18世紀フランスの哲学者が、残酷な絵なのに我々人間は楽しめる、というようなことを言っていたが、確かに絵も含めて映像の真実である。フットボールにはそうした絵が少なくない。準々決勝でのガーナ、パラグアイ(日本戦とは違ったチームになっていた)はそんな試合をした。アルゼンチンは応援していただけに残念だったが、メッシをマラドーナにかぶせたのが間違っていた。でも、マラドーナには次のブラジルでも監督をやってほしいとは思う。戦術家をコーチに迎えて。
ベスト16に入ったおかげで、日本はちょっと自信をつけたようだが、それはこれから欧州のクラブに行く人の活躍しだいだろう。ぼくはW杯で活躍してくれる以上に、欧州のクラブで個々のプレイヤーが躍動して欲しいのだ。その方が楽しみが増える。日本人にはまだそうしたプレイヤーがいない。中田がいたじゃないかという人も多いが、彼が活躍したのは最初のペルージアだけではなかったか。ローマでは数試合であっと言わせたが、平均的にはパク・チソンの半分もいっていない。パルマでの司令塔失敗については誰も無視している。パク・チソンのような、あるいはボルトンのイ・チョンヨン(うまくいけばパクを超えると思っているが)躍動を誰か日本人が見せて欲しいと思っている。
ともかく、あと少し。1ヶ月近く家にこもっていたので身体がなまり、7時間差を暮らしてきたので体内時計も狂っていて、これではいけないと思い、一昨日の日曜日は町へ出て、久しぶりに映画を観た。前から観たいと思っていた『オーケストラ』(原題ル・コンセール)というフランス映画。最後の昔の仲間とパリのシャトレ劇場でチャイコフスキーを演奏する場面が感動的だったのだが、テーマの基調をなしていたのが、社会主義時代のロシアのユダヤ人だったということで感慨もひとしおだった。似たような境遇の人にお世話になったことがあるのだ。その人は画家だったのだが。それからヴァイオリニストのアンヌ=マリーを演じていたメラニー・ロランがナスターシャ・キンスキーに似ていたこともうれしかった。
これでオランダが優勝してくれたら、この6月から7月初めの季節は深く心に刻まれるはずなのだ。