2010年10月25日月曜日

ピザとシェーキーズ

先週、久しぶりにシェーキーズでピザを食べた。食べ放題である。ぼくはこのここのピザが好きなのである。決してピザグルメの店ではないが、月に一度は行ってしまう。
とにかく、一番好きな食べ物は何か?聞かれて、ぼくは迷うことがない。ピザだからだ。どうして、このイタリアのスナックが好きになったのかはよくわからないが、ピザがすごい食べ物であることを意識したのは、イタリアでも日本のしゃれたビザ屋でもない。確か、1970年代の初め、東京の吉祥寺にオープンしたシェーキーズでのことだった。その頃は西荻窪に住んでいて、また、仕事の関係もあって吉祥寺へはよくでかけたのだ。そこにオープンしたのだ。もちろん店名は知らなかったので、シェーキーズに入ろうと思ったのは、それまでによいピザ経験があったのだと思うが、実は思い出せない。その頃にはイタリアを1ヶ月ほど旅行したことがあったので、食べているはずなのだが、記憶がないの。ひょっとしたら吉祥寺のシェーキーズ・ショックのためかもしれない。確か、その頃から食べ放題でなかったかとも思う。
京橋にある編集室に出社する前、たらふくピザをお腹に詰め込んでいったものだ。とにかく、美味しかった。それを何枚も食べることができるのだ。それ以来、ピザは、大袈裟ではなく、ぼくの食べ物になり、シェーキーズがピザの☆☆☆になったのだ。
こうして、ピザとの歴史が始まるのだが、以来、もちろんシェーキーズ以外での感動的なピザとの遭遇も少なくない。イタリアはフェラーラ駅前のピザ屋、ナポリのマルガリータ、ニューヨークのイタリア街はずれのテイク・アウト、これらはずいぶん昔のことである。とにかくどこでもいつもピザを探している。ソウルでもバンコックでも食べた。最近で言えば、百万編近くのショットバーのピザ(何ヶ月も行ってないなあ〜)だ。こうしてピザの舌はこえてきたと思っているが、そうした舌からしてもシェーキーズは相変わらず重要な地位を保っているのである。そこは「美味しいピザ」で話題にのぼる店ではないだろう。でも、好きなだけ、独特のトマトソースを塗った木地にのった好きなトッピングのピザを、ゆったりと食べれるのは幸せなのだ。行くとだいたい1時間以上は店内にいる。好きなピザが焼き上がるのを待つので、時間がかかるのだ。だから、シェーキーズではいつも本を読みながらピザを食べる。先週は、西川長夫さんの『国境の超え方・増補版』(平凡社)を紀伊国屋で買ってピザに臨んだ。「シェーキーズのピザは国境を越えている!」と真面目に思いながら、お腹いっぱい食べたのだった。
実際、国境を越えるために、シェーキーズは前衛的である。ぼくはピザの保守派なので、オーソドックスなピザ(サラミやアンチョビののった)しか食べないが、この店がピザを過激に日本化させているところも気に入っている。たこ焼きピザ、チョコレートピザなどなど、他にも信じられないトッピングを工夫していて、ピザをイタリアから日本のものにしようとしている。ちょうど、カレーが40年間に日本化し、それが世界化していきつつあるように、ピザの前衛はシェーキーズなのだ。ともかく、その日はたくさん食べ過ぎて苦しくなり、もう行かないぞと思うはめになったのだが、数日すると・・・シェーキーズの罠である。



2010年10月12日火曜日

カプセルホテルのこと

久しぶり(10年以上はたつ)にカプセルホテルに泊まった。疲れた!昔は好奇心もあって大阪の難波で何度か泊まったが、さすが、あの密室空間に耐えきれない歳になって、もう泊まることはあるまいと思っていたのに、泊まらざるをえなくなったのだ。その説明の前に、カプセルへの好奇心というのは、いつだったかパリのポンピドゥーでリオタール(だったと思う)の企画(監修?)したポストモダン的展覧会があって、そこにカプセルホテルが展示されていたことに根ざしていたのかもしれない。と言っても、そのことは好奇心の一部にすぎないし、「どうしてカプセルなんかに?」と聞かれたときの答えのひとつとしてあってもいい、そんなものでもあったのだが。むしろ、カプセルホテルに泊まっていたのは、ぼくのコアな部分と関係するのだと思っていることもあるが、それを書くのはブログの領域を超える。
ともかく、先週の日曜と月曜に、ぼくのギョウカイのひとつ美学会の全国大会のために西宮の関学に行き、その懇親会から二次会の流れで、京都へ帰るのがきつくなり、西宮近くに泊まることにした。それがカプセルだったのは、尼崎、西宮あたりのビジネスが満員、結局、深夜1時間もかかって尼崎のカプセル付き大衆温泉にたどり着いたのだった。レジャー用温泉のカプセルのせいか、都心にあった昔の純粋カプセルホテルの資本主義的矛盾が空間にも空気にも流れていたところと違っていたが、ゲーム機の音が深夜にも鳴り響く大衆温泉の、連休の深夜の雰囲気は初めての経験だった。これも疲れたが、それ以上に、ぼくのカプセルの隣人が朝5時頃からテレビをつけ、その音が気になって安眠できなかったのである。数十センチも離れていないのに、プラスティックのボードで分たれて、どんな人間かわからない隣人が、もちろん、眠れなかったのだろうが、隣にひとがいることをわかっていながら、ボリュームを大きくしてテレビを見ている、それも次々にチャンネルを変えながら、というのは、練れないこと以上のいらだつ感覚だったのである。そのために懇親会と二次会の充実感が一気に疲労へと変わってしまった。
翌月曜日は、三人の若い研究者の発表を聞き刺激されたが、疲れのために頭の回転がいまいちで悪いことをした。ともかく、金、土の東京出張に続く宿泊、それも、上のようなカプセル宿泊だったので疲れた!のである。
その東京は、初めての六本木ヒルズ森タワーだった。カプセルと対照的だと視覚的には見えるのだが、感覚的にはどこか似ている。明るく開放的な高層ビルVS明るくはない低層ビル、というわけなのだが、なんか二つとも閉じた感じがするのだ。低層に育ってきた者のひがみか、ポスト摩天楼の「むやみ」なデザイン性へのいらつきのためか、あの高層ビルで開放感がもてなかったのである。こんなことを感じたのも、久しぶりの負的カプセル体験の反動かとも思ったりもするが、それだけでなく、二つの対照的な空間が、ともに記憶を刻み込めないような空間と感じたことがあるのかもしれない。こんな感想を書いたが、カプセルとヒルズに対して悪意があるわけではない。ともかく、これが最後のカプセルホテル宿泊になるようにしたいと、強く思っている。

2010年10月5日火曜日

美術、ジジェク、運動会などの1週間

少し時間ができるかと思ったが、授業が始まると、やはり時間がたつのがはやい。授業以外にも会議や打合せ、催しもある。先週は月曜日からず〜と、楽しかったけど、わさわさしていた。まず、同僚で版画の池垣さんの個展を見る。去年バルセロナに研修でいたので、ぼくも何日かお世話になった。彼のドローイング、というより落書きに近いとも見えるが、そこにオートマティズム的倫理性があり魅かれる。打ち上げも盛り上がった。
そして、久しぶりに鎌倉にも行った。昔からの友人で写真家(写真小僧って感じだが)の中村冬夫さんの展覧会をわが情報館でするための打合せである。60年代末から70年代、東京の文化的前線を素直にカメラにとっていた。井上陽水の「氷の世界」のジャケット写真が知られているが、ぼくの好きなのは彼が人間にカメラを向けるときの身体の構え、というより手とカメラの関係だ。それが時代の現実を切り取っていたのだ。そんな冬夫さんの展覧会ができるのは本当にうれしい。
その鎌倉までの時間に車内で何か読もうと駅の書店に入ったら、スラヴォイ・ジジェクの『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書)という新書があって買った。こんなラカン系の精神分析学者が新書かと不思議な気持ちになり、タイトルも気に入って新幹線で読み出したのだが、訳がどうもぴったりしない。「現実界」といった精神分析用語が大切だと思うのに、そこがこなれていなくて、いまひとつ要点をつかみきれない。それで名古屋から新横浜までうとうとしてしまった。そして、鎌倉、打合せとなったのだ。鎌倉の近美
(ちょうど岡崎和郎さんの個展をやっていたのは幸運だった)のカフェでけっこうな時間の打合せ。展覧会はうまくいきそうだ。
帰りの新横浜で崎陽軒の真空パックではないシュウマイとラーメンを買って、翌日食べたが、シューマイはおいしかった。真空パックのものはもうひとつだと思っていたが、生シュウマイ(日持ちが2日)はいけた。そして、土曜日は地区の運動会。ちょっと遅れて参加。玉入れとボール運び、全員ジャンケンをした。個人の運動機能の問題は別にして、ぼくの町内は地区行事に熱心で、とくに運動会はモエル。子供たちが少なくなり、いまや中高年運動会に近いが(多くの地区が)、それでも少ない子供たちも含めて、「ウンドウカイ」を楽しむのである。ぼくの地区は総合3位と好成績をおさめ、その上、最後のくじ引きで、向かいのご主人がテレビを当てて、打ち上げがすごく盛り上がったのだった。
そして、日曜日。アーセナルの無惨な負け。チェルシーとの格の違いを見てしまった。ドログバという感嘆符と、その夜気付いた、ハン・ヒョジュの最新ドラマ「トンイ』がすでに日本で放送されていたことの、こちらはもうひとつの感嘆符。この二つの「符」で終わった日曜日。こんな風に1週間は過ぎたのだった。