2011年12月27日火曜日

フランスのクリスマス、いざアルゼンチン、よいお年を!


少し文字を大きくしてみた。読んでくれる人を増やしたいと色気がでてきた。これで増えるわけはないことはわかっていても、「パリ便り」風のこのブログ(来年の3月までだけど)を、やはり少しは届けたいと、ギャラリー・ラファイエットのイリュミネーションを見たあと、ふと思ってしまったのだ。それから、自分の名前も出した。横文字で。こうした気取り(?)を早くなくしたいと思うのだが、変にかっこをつけたいという、結局、ガキ的な心持ちが歳をとっても出てくることに、いやな感じもあるのだが。「いくつになったの!」と天国の祖母の声が聞こえてきそうだ。
と、書き出してはや1週間近く過ぎてしまった。クリスマス(ノエル)の季節で街がそわそわしていたのだ。ぼくのような通過者がそれに合わせなくても、と思うのだが、前にここで書いたジェニーというアーティストが実家にクリスマスをしに来ないかと誘ってくれたので、クタンヴィルというモンサンミシェルに近い海岸町に行ってきた。夏に「緑の太陽」を見たところである。冬の海岸は映画「男と女」の1シーンを思い出させて、何か懐かしかった。つい、あのメロディーを口ずさんでしまった。
そのクリスマス・パーティーは、日本の正月と同じ。親戚一同が集まり、ごちそうを食べる。フランスは、思いの他、家族的な国である。とくに田舎は。だから、食べ物も基本的に手作り。フォアグラに始まり、牡蠣(これは名物)、軽く薫製にしたサーモン、そして鳥(何の鳥か聞き忘れた)、テーズにデザート。そのそれぞれに合う上等なワインが出てくるのだから、これをグルメと言わず何と・・・という雰囲気。ちなみに、フォアグラと牡蠣は手作りではありません。料理として加工するという意味での手作り。苦しくなったのは言うまでもない。
ついでに、モン・サン・ミシェルにも行ってきた。初めてだった。車で遠くに見えてきたときには、オオオ、となったが、着いてしまうと、少しイメージが違った。あくまで海に浮かぶ教会を見るところだったのだ。ジェニーのお母さんがガイドをやっていたこともあって、かなり細かく説明してくれた。なかなかためになった。ある様式が移り変わるときに生じる、形式間の衝突と調和。中世から近世のヨーロッパでは、もちろんロマネスクからゴシック。そこに地方色が絡まる。この色合いが少し理解できたような。
帰ってきたパリはひっそり。クリスマス休暇のためだろう。年末からお正月と、今年は家の掃除がないので足腰をこすりながら元旦を迎えることもない。こちらは正月気分はないので、淡々と年が終わっていく。
そして、年末から正月明けは、画家を追いかける旅行が待っている。けっこうハードな旅行になりそうだ。ひとつはロンドンのレオナルド展。二つの「岩窟の聖母子」(ルーヴルとロンドン・ナショナル・ギャラリーの作品)が並んで展示されている。こんなことはほとんどないので、これはマスト!行かなくてはと、1ヶ月ほど前に予約チケットを探したらソルド・アウト!でも、何とかチケットを手に入れ、弾丸旅行をすることにした。疲れそうだが、何かを求めるというのはこういうことだと思い、決行することに。
レオナルドは、ぼくにとって最高の画家である。絵というものが、世界を説明するのではなく捉えることができることを、初めて見せてくれたのはレオナルドだと思っている。それが絵画というものだと考えているのだが、そんなことをできる人は、ほとんどいなくなってしまった、と思っている。ピカソやマティスは世界を捉えているのではなく、絵画を捉えている。ロスコは絵画を象徴のレベルで考えた。中世の画家たちのように。現代の絵画は、もうレオナルドのようなことはできないだろう。写真は、絵画とは決定的に違う。世界を捉えようとしているというより、世界を重複化しようとしているといった方がいい。最後の大きなレオナルド展というふれこみに、心がざわめき、弾丸旅行になったのだ。
弾丸旅行するためには、ハード(経済性も含めて)さを必要とする。ユーロスターで往復したのでは弾丸にならないので、8時間かかるバスにした。若い頃の旅行のスタイルがいまだトラウマになっているとも思う。疲れ果てることがわかっているのに、昔のバックパッカー・スタイルが染み付いているのだ。となると、これは実際に旅行するというより、もはや幻想の旅行になっているかもしれない。きっと、そうなのだろう。実際の旅行以上に、頭の中で旅行している、というより、頭で旅行を楽しんでいるといったらよいか。もう少し、想像力が大きく、もっと妄想力があれば、実際の旅行などしなくてもよくなるかもしれない。おそらく、それが理想の旅行といえないこともない。
そのロンドンから帰ってから、アルゼンチンに行くことにしている。エゼキエル・リナレスという画家の足跡を追いかけるためだ。10年来の夢でもあったことである。スライドで見ただけなのに、見たいという気持ちが薄まらなかった画家である。フランシス・ベイコンに似ている所があるが、決定的に違う。ラテン・アメリカのもつ独自性、たとえば「百年の孤独」のイメージ、そんなものと共通する絵画のような気がしたのだった。そのことはブログで報告するつもり。本でも書きたいくらいだ。
日本でもパリでも、アルゼンチンのイメージはタンゴ、サッカー、パタゴニア?あるいは、日本の将来を暗示するような破綻国家?ともかく情報が少なかった。パリにはたっぷりあるかと思ったら、これがこれが。とくに、美術の領域は。ただし、リヨン・ビエンナーレがそうだったように、アルゼンチンの現代アートを見る機会は多くなったような気もしているが。ただし、リナレスは、現代アートといった舞台に上がったことはあまりない画家だ。世界は広い。こちらにいて一番感じることである。ぼくの持っている情報の少なさ、ものの知らなさ、がっかりしてしまうが、逆に、世界にはまだまだ素晴らしいことがあるのだと思えることは楽しい。ぼくにとって、リナレスは世界の広さの証左である。
そんなわけで、ブログを読んでもらったみなさん、よい年を!


2011年12月18日日曜日

リリアン・テュラムの「野生の発明」展、アルマーニのジャポニズム


サッカーファンなら、リリアン・テュラムの名を知らない人はいないだろう。あの、1998年フランスW杯のフランスチームのSB。真ん中少し前にジダン、前にアンリ、その他ブランやデシャン、プティもいた。フランス史上最高のチームと言われ、そのとおりに勝った。そして「あの」と書くのは、日本が初めて出場できた歴史的な大会だったからだ。あのときのナイーブな日本代表は、思い出すと、いまでもジーンとくる。そして、テュラム。どの試合だったか忘れたが、後方から上がってきてシュートを決めたシーンはいまでも頭に入っている。文化的には多様性の勝利、つまりいろいろな民族が集うフランスの、いわば、国家における共生の新しいモデルとも言われた。テュラムはもともと知的な(サッカー以外のことに興味をもつ、と言う意味で)人間だった。ある雑誌でインタビューを読んだときに驚いた。そして引退後、人種差別をなくすための基金を創設した。
そのテュラムが展覧会を組織した。「野生(野蛮)の発明」(L'invention du sauvage)。場所はケ・ブランリー(世界民族博物館と言うのか)。ジャン・ヌーベルの建物も話題になった博物館である。そこでテュラムは、啓蒙の時代から20世紀前半にかけて、西洋がどのように「野生」あるいは「野蛮」という概念とイメージをつくりだしたのかの歴史を、展覧会として組織したのだ。パスカル・ブランシャールというアフリカという言説の研究者と一緒に。見応えのある展覧会だった。これまでで見た一番といってもいい。アフリカを中心にアジア、ラテン・アメリカ、北米アメリカのさまざまな民族、部族が、万博の民族館、フォリー・ベルジェール等のキャバレー、「植民地展」といった、欧米のスペクタクルの場に「出品」され、西洋とは「異なった人間」として輪郭化されていったのかが、しっかりと展示されていた。ポスト・コロニアル」という研究概念のひとつの展示化だといえば簡単だが、研究ギョウカイにおけるそれは、ぼくの目からは依然として、他者を言説化する、その意識に自覚的ではないとみえる。といって、展覧会はサイードの「オリエンタリズム」のように、西洋を告発するといった姿勢を打ち出すわけではない。西洋が「野生」「野蛮」というイメージをかかえてしまったことへの静かな悲しみさえ感じられる展覧会になっていたのだ。
日本はこの展覧会に表象されていない。というのも、「野生」を売り物にする博覧会的場に出店することを、すでに文明化した国家ということで、ロシアとともに拒否したためとのことだが、芸人たちがアメリカやヨーロッパを巡業し喝采を受けたというのは、同じ文脈ではないのか。そう言った意味で、日本近代の捻れが展覧会の裏側に張り付いている。これは日本人だからわかることだろうし、そうした意味では、ヨーロッパ内でも「野生」「野蛮」は、あるものと結びつき、つくられていった歴史はあるだろう。また、」展覧会から、歴史的「野生」は、近現代アートのなかで「プリミティスム」という美学へとすり替えられてしまったんだ、とあらためて考えた。ピカソとアフリカの仮面、そこに美的創造といった概念だけを貼付ける言説に違和感があったが、その原因のひとつがわかったような気もした。
「野生の発明」の隣では「サムライ展」。日本のサムライの武具を中心に展示された、人気の展覧会らしい。ケ・ブランリーというエスニックな空間は不思議な博物館・美術館である。人種差別とは反対の、世界の多様性を知らせるところなのだが、このスペクタクルあふれる大都市で、多様性はスペクタクルに吸収されてもいく。スペクタクルとは、確実に、差異を、あるいは他者を、好奇心とともに、マーケットの美学に回収するマシーンである。といって、そんなことはつまらないと言いたいわけではない。ぼくたちはスペクタクルの世界に生きており、そこから逃れることはできない。だから、できることは、その世界の窪み(希望が生まれるところといったらよいか)のような場所に出かけるしかない。あるいは、スペクタクルに窪みを見つけるしかないと思う。どうしたら、できるだろうか。好奇心を、こうしたところに向けたいといつも思っている。
テュラムの展覧会の少し前、あのアルマーニの「クリスマス・パーティー」(ソワレ・ド・ノエル)に偶然行くことになった。家内がそこで「書」の仕事をすることになり、好奇心もあって通訳として付いていったのだ。夜10時から。パリの夜は遅い。ともかく、何だろうと思ったら、今年のソワレは日本ナイト。アルマーニがFUKUSHIMA支援をしてきた関係だろうか。細かいことは知らないが、会場には日本を紹介するフィルムが流れ、食べ物は寿司(マグロとサーモンのにぎりと巻き寿司)、そして焼き鳥。飲み物はシャンパンとスーパードライ(デザートになって赤ワイン)。もちろん、
アルマーニのfemmeのコレクションの展示も。そこに展示されたドレスなど、すべてがジャパン・モティーフ。でも、そのデザインと色合いはこちらのものだ。だから、ますますジャポニスムになる。綺麗な服だった。洗練、繊細、単純性などなど、ジャポニズムはジャポンをそのように形容しながら、日本を理想化する傾向がある。一見、「野生」とか「野蛮」の反対のことと考えるが、それは紙一重の違いにすぎない。
パーティーは想像していたほどに華やかではなく、また、豪華マダムも少なく、若い人が中心のパーティーだった。ただし、日本人はぼくたちだけ。これも不思議だった。会場は、ファッションのデモをするわけではなく、寿司をもぐもぐしながらのおしゃべり、ポップスバンドの演奏、といって参加者がダンスするというのでもない。想像とはかなり違った。あの、ファッションショーの華やかさが持ち込まれたようなパーティーと想像していたのだ。
家内の仕事は、これも何故か知らないが、客たちの求めに応じて、墨で日本風の名前を書くことだった。それだけでは能がないから、好きな言葉を選んでもらって、それも一緒に。「愛」が一番多かった。世界中考えることは同じだ。2時間以上、ひっきりなしに客がやってくる。ぼくたち唯一の日本人も、ひょっとしたらソワレの余興のひとつだったのかなと、「野生の発明」展のあと、そんな想像もしたのだった。




2011年12月7日水曜日

現代と昔のアート、スペクタクルについて


このところけっこう仕事があって夜遅くまでワードを打ち込んでいる。ちょっとした仕事があったのである。となるとブログが少し重荷に。それもやっと終わって、久しぶりにここに。前回の続き。つまり、現代アートではなく「の」のついた「現代のアート」と、昔のアートを見たことの感想のようなもの。。遅くまでパソコンに向かっていると眠たくなくなり、リヨンの友人からもらった美味しいコート・デュ・ローヌもあっという間に空に。
そのリヨンから帰ってから、伝統のサロンを見に行った。伝統というのは、時代をさかのぼれば、17世紀末のことだ。もちろん、その伝統は消えた、ここで言う伝統は、19世紀アカデミズムのそれだが、ともかく友人2人が出展しているので見に行く気になったのだ。オープニングはあまりにも行列がすごくて、引き返してしまった。伝統のサロンも行列なのかと驚いたが、日展でもそうしたことがあるのだろう。ともかく、平日に行くと入場者も多くはなく、ゆっくり見れることもできた。ただし、ゆっくりといっても、こちらのアートは、現代アート以上にぼくをとまどわせた。日本で言う団体展4つが合同しての、それも場所はグランパレ((FIACと同じ場所)。2500人のアーティスト(ほとんどが画家)が、基本的に1作品を出展している展覧会だ。何と言ったらいいのか。日本語で言うと「美術」と言った方がぴったりなのだが、こちらではアート。アール・コンタンポラン(現代アート)。同じ言い方が、FIACにも使われる。でも、繰り返すと、こちらは現代「の」アート。つまり現在、アートをしている人たちの祭典である。そういう人も多いのだ。ともかく、会場に絵があふれんばかりに並んでいる。
これも現代のアートの現状である。大きなビエンナーレやアートフェアと基本的には別世界である。趣味の問題があるがので、どちらがいいとは言えない。たまに好きな作品もある。日本の団体展と同じ感じを持つ。でも作品の前で考えることはあまりない。安定したアート概念の上に作品があるからだ。現代アート側の人たちは否定的だが、でも、こちらのアートの方が現実的とも言える。といって、現実がアートとして問題化されている作品は少ない。これまでの絵画の伝統に少し味付けしているだけだからだ。それはぼくたちの現実の生活のあり方と似ているとも思う。そういう意味で現実的といえるのだ。
一方、現代アートは、世界を変えようと闘っているように見える。ただし、その闘いはグローバルなマーケット、あるいは経済システムの論理の中での闘いであることが多い。戦えば戦うほどそうなっていく。ということは、マーケットが闘っていないかぎり、闘うことにはならない。闘うアーティストは、かなり厳しい闘いをしなくてはならなくなる。闘えない場で闘う。ほんと、どうしたらいいのか。
そんなことを考えると、昔のアートは落ち着いている。もちろん、時間がたって言えることだが。ひょっとしたことから、パリのネーデルランド研究所の人と知り合いになり、おかげで研究所と深い関係にあるフリット・ルフト・コレクションを見せてもらうことになった。実は、長らく尊敬してきたルフトという大美術史研究家のコレクションがそこにあったのだ。大学にも美術館にも勤めることなく、多くのアートをコレクションし地道に資料収集という仕事をしてきた。素人の研究家・蒐集家である。昔でいう「目利き」だ。ルフトの質の高いコレクションにある絵画やデッサンは、ぼくたちの美意識の基盤になっているアートなので、もうまったく安心。そして感覚が揺さぶられる。壁いっぱいにかけられた17世紀オランダ絵画の塗りの丁寧さ、光への感受性、それからデッサン。イラストではなくデッサンがあるのだ。手の技術が何かに昇華してくのが昔のアートといえるかもしれない。それには、もちろん時間も必要だ。この「何か」を長い間アートと呼んできたのだが、今まは、時間を必要とする昇華なんて待ってられない。いちはやく、感覚をくすぐらなければならない。そのためにはスペクタクルの手法がいるのだ。現代「の」アートには、この感覚はまったくないし、その多くが昇華も期待できない。ただし、イラスト的感覚はある。となると「飾り」?。他方、現代アートはスペクタクルに向かっている。ビエンナーレやアートフェアはスペクタクルなのだ。ただし、美術以外にもスペクタクルはあふれている。ぼくの好きな領域でいえば、ポップミュージック、サッカー、Kポップ、映画等々。そのなかで、現代アートの見せ物性はまだものたりない。
訳のわからない文章になってしまった。次回は、もう少し面白いものを書くことにしよう。これでは、このブログを読む人がゼロになってしまうことうけあいだ。それはちょっとまずいとも思う。ブログも少しはスペクタクルにならないと。ただ、フェイスブックのように「いいね!」って言ってほしくはないのだが。
パリはいたるところにクリスマスの電飾。都市はもちろんスペクタクルを目指している。

2011年11月27日日曜日

現代アートとチョコレート、リヨンと村木くん


このブログを書いているのは近所のユルスナール・メディアテーク。パリ市のWiFiが2時間使えるので、ここに。アパートでの接続が現在できないのだ。これで2度目。ネットを使えないと苦しい。仕事をするにしても、ネットからの情報が不可欠だし。まあ、ぼくの接続トラブルは完全な環境を整えない限り完全解決にはいかない。不便だが、あと4ヶ月くらいなので我慢することにしよう。
ここ何日か、アートをけっこう見た。リヨンのビエンナーレ、それから、パリ伝統のサロン、そして昔の、17世紀オランダの絵画と装飾文字。この都市にいると、自然にアートに触れることになる。そのうえ、これは書き飽きたが、パリはとにかく催しが多い。「文化の狂乱」。アートはその重要な構成物だ。そのアートと書いているものは、ただし、なかなか複雑である。日本語でも、しだいに美術という言葉に代わってアートが使われるようになったが、これはどちらかというと現代アートというギョウカイの美術のことを指しているようで、日展なんかの公募展にあまりアートという言葉は使わない。でも、欧米は、すべてがアートなので(当たり前だが)、その識別がポスターくらいではわからない。第一、アートということ自体、現在何を意味しているのかを説明、そして分析できる人だって多くはないだろう。そのアートの3つを見たというわけである。
少し前にやっていたパリFIAC(国際現代アート見本市)。世界の一流の画廊が集まり、自分のところのアーティストの作品を売ろうとする、文字通りのフォワール(Foire=見本市)である。現在、ヨーロッパではスイスのバーゼルのものが一番力があると言われてるが、ぼくにはわからない。とにかく、現代アートの現状を知ろうとするには、こうした大きな見本市に行く必要があると言われているので、アートに関心がある端くれとして、気持ちがそそられたが、入場料32ユーロ(3500円ほど。高すぎる!)、そのうえ入るのに長い行列で1時間以上は待たなくてはならないというので、結局行くのをやめた。行った人に聞くと、やっぱり1時間半並んで会場は大混雑。世界的だけのことはある。現代アート業界の商売の場は、いまや一般の人にとっても大イベントとなっている。結局、そのFIACに行く代わりに、同時期にやっていたチョコレート見本市に行った。入場料は3分の1、待ち時間半分のこの甘い見本市と現代アートのそれとの違いは、ほんと何だろう。試食のチョコレートを口に入れながら考えてしまった。ほんとは違うけど、何かこう書くと、いかにもの感じがするでしょう。実際に考えたのは、このブログを書いていてのこと。会場のカカオの香りにくらくらしていただけなのだ。
現代アートとチョコ。文化的価値の違い?文化的にチョコレートの方が下?そんなことはない、原理的に。そうした時代は終わった。とすれば、こんな違いを考えること自体が実際は無意味なのだという結論に行きつく。いろいろな、それもものすごい量の、何かを主題=文化的商品として活動するギョウカイという場があり、それらが同時・平行存在していて、それぞれが人を引きつけ、経済規模を大きくしようとして、さまざまなイベントを打つ。現代アートもそうしたギョウカイのひとつである。ただし、この業界は、ぼくなどの予想をはるかに超えて、21世紀に入って急速に拡張してきた感じがする。
一昔前は、現代アートのフランスでの一般認知度はかなり低いものだったと、ある社会学者が報告している。しかし、それから10年以上たって、事態は急速に動いているようだ。たとえば、パリ第1大学の美術史学部は何千人という学生が登録しているそうだが、その入学理由のトップは現代アートが好きだからだということだ。同大学に勤める教授がこぼしていた。ぼくたちの世代のように、ドラクロワの、印象派のという学生に代わって現代アートが美術史、あるいは美術を学ぶことの大きな動機になってきたのだ。そういえば、日本でも変化は確かにある。大学では現代アートを勉強したい人が増えてきたし、大きなフェスティバルも盛んでかなりの観客を集めている。最近では、ツマリ、名古屋、瀬戸内、横浜などなど、どこも予想以上の人を集めているという。現代アートは社会に根ざしてきた?と、楽観的に考えることもできる。でも、ちょっと違うと思っている。要は、文化的イベントをすることが定着してきたと行った方がいいだろう。ある意味「もの」は何だっていいのだ。
ここを勘違いしている人も少なくないし、その作品やフェスティバルをめぐって、昔と同じような議論の仕方をしている。現在、現代アートと呼ばれているものは、20世紀のアバンギャルドの続きではない。昔、美術と呼ばれていたものは、現在、後期資本主義のイベント欲望のメカニズムが要求するスペクタクル性を身につけてきたと言っていい。徹底的な消費の快楽である。昔のアートが、基本的には、消費に背を向けるという矛盾の中に存在していたことを考えれば、素直になったのかもしれない。だから、大きな現代アートの催しは、その意味で面白い。
こんなことを感じながら(これは同時進行)、リヨンのビエンナーレとかサロンとかを見たのだった。リヨンはもう10回目になるのか。昔、一度見て、ブライアン・イーノの作品に感激したことがある。世界のビエンナーレからすれば、中規模なのだろう。でも、こうしたフェスティバルは出品者が多いので気に入るものもいくつかある。とにかくわがままだが、自分の趣味にあうものがあればいいのだ。今年はアルゼンチンの女性が総合ディレクターということもあって、ラテンアメリカの作家が多いような気がした。ぼくは二つが気に入った。ひとつはポーランドのロベルト・クスミロウスキーという人の、おそらく記憶をモチーフにした巨大な閉ざされた図書館とアルゼンチンのディエゴ・ビアンキの混乱をテーマとしたインスタレーション。現代アートの質のよいスペクタクルだった。それから何といっても、ビエンナーレの関連プログラム「レゾナンス」(リヨンの80近い会場で行われているのだが)での、あの(前にここで書いたことがあるから、あの、なのだが)村木くんの作品。細やかな手仕事によってインスタレーションをする、その作品は現代アートの会場でも、きちっと見させていた。巨大な作品とは、別の意味で、スペクタクルになっていた。見に来たフランス人は「日本的美しさを感じる」と感心していた。そういえば、ビアンキの作品も、ぼくには「アルゼンチンらしく」感じた。サッカーで知るアルゼンチン的感性である。昔は、何かインターナショナルなスタイルがあると信じられていたけど、そんなものはなっかたのだろう。もちろん、グローバルなシステムはある。現代アートもそうしたシステムで動いているが、そのシステムをつくる個々はあくまで個々なのだと思い知らされる。ひょっとしたら、現代アートは、システムと個とのしのぎあいをしているギョウカイかとも思う。伝統の美術のことは次に書くことにしよう。

2011年11月20日日曜日

パリの図書館

テェト・レェド(les têtes reides)のコンサートは思った通りで感激だった。ロック色が強くなっていたけど、スピリットは変わっていない。前座も含めて3時間半。名曲「ジネット」のメロディーとステージ感が頭の中にいつまでも残った。翌日、iphoneを耳にいつものフォルネイ図書館へ。サンポールという地区にあるパリ市が運営する図書館である。サンス館という昔の館をそのまま使っているのでなかなか重厚である。人も少なく、ぼくのターゲットにしている資料が充実しているので、ここを日課としている。イベントに出かけているばかりではないのだ。その図書館のことを少し書いておこう。これこそフレンチ・ライブラリーである。本当は、見果てぬ古本屋兼喫茶店の名前なのだが。
パリには図書館が多い。国とパリ市の図書館、そして美術館や博物館付属の図書館(これは特別な許可がいるのだが)、大学や高校の図書館。まだ他にもあるかもしれない。パリ市のものは国に比べて一般的で国の方は専門的といったらよいか。国立の図書館については政府の強い意志が働いている。1980年代の中頃だったか、かっての大統領フランソワ・ミッテランが世界のパリ計画をとなえ、その一環として「世界最高の情報ベース基地」を作るということになったのだ。中華思想の国であるフランスは、とくに文化に関しては1番が好きなのだろう。それでこそ、アメリカと対抗できるということかもしれない。
そのミッテランの意思は、20世紀の終わりに実現し、ミッテランの名前の付いた大図書館をつくってしまった。4つのタワーからなる建物はドミニク・ペローの設計。建物は気に入っているが、個人的には前の国立図書館の方がいい。オペラ座界隈のリシュリュー通りというところにあって、こちらは19世紀のアカデミックな、いかにも学問という感じの雰囲気が、極東の研究者たちを酔わせていたところである。この建物は、もちろん今でも健在で、図像や地図などを所蔵する国立図書館別館になっている。ぼくが関係するのは、その別館に同居する国立美術史研究所図書館というところである。もともと、初期のファッション・デナイナー、ジャック・ドゥーセという人のコレクションをもとに、パリ4大学付属の美術史・考古学図書館となり、21世紀に入っていくつもの大学の図書館が統合され、美術史と考古学の専門的なの総合図書館になったところである。これまでよく世話になった図書館である。当然、資料点数はものすごい。院生や研究者にはすごく便利なところである。また、ラーメン街が隣接していることもあって、日本人にとっては、昼飯に軽くラーメンができるので(この言い方いいですね)、またまた便利なのだ。今回は、研究所に居候させてもらっているので気軽に行けるようになってはいるのだが、実際にはほとんど行っていなくて、最初の方で書いたフォルネイというパリ市の図書館に行っている。一般の図書館で専門ギョーカイの仕事をするというスタンスも気に入っている。
図書館の人たちが、この2ヶ月程でやっと認識してくれ、冷ややかな対応が微笑み対応となってきた。フランスは親しくなるのに時間がかかるのだ。この図書館に通っていると、自然、パリ市の図書館事情が耳に入ってくる。一言で言えば、活動が多様でサービスも結構なものだ。受付の人の笑顔という意味ではなく、システムがしっかりしているという意味である。毎週、何らかのイベントをやっていてそれなりの人を集めている。フォルネイ図書館では、「ガズ展」という都市ガスの歴史を実物のガス製造機、ガス器具、図像を使った展覧会をやっていた。図書館で何で?と思ったが、こんなのもありなのだ。結構面白かった。
詩の朗読や本の著者による自作紹介とサイン会(出版社の差し金ではない)、展覧会といったことは普通だが、気をそそるものも少なくない。「ガス展」に続いて行こうかと思っているのは、いつも乗るバスの道筋にある推理小説図書館の「殺人者の口ーレオナルドからフェデリコ・フェリーニまで」。こんなことを研究していて、それを図書館で企画できるなんてと感心。
その他、音楽(ロックからクラシックまで)、ダンス、芝居等々、図書館というより文化センターである。おそらく、そうした意識が強いのだろう。それから文化や科学に功績のあった人の名前をもった図書館も多く、これもいい。トリュフォーはもちろん映画図書館、マルロー、レヴィ=ストロース、デュマ、デュラス、ビュフォンなどなど、フランスというか近代に名を残した人たちの名前が図書館の名前なのだ。そういえば、パリの通り名にも人の名前が多い。歴史化するというのはこうしたことでもあるのだ、といつも思う。歴史化とは、ある部分、広く社会に貢献した人物への敬意を市民が払うということだからだ。
さらに、どのくらい前からか知らないが、映像やマンガ、アニメなどを集めるメディアテークも多くなってきた。アパートから近いところにも作家ユルセナールの名をもつメディアテークがある。こちらは文化的ツタヤ。ここでも催し物が多い。この前は、日本のマンガとアニメ大会をやっていて、子供から高校生までにアンケートをとっていた。「どのマンガが一番好きですか?」というもの。興味があるので、結果をもらいにいこうと思っている。図書館やメディアテークの催しは、タダとか小額の入場料しかとらないので、文化を堪能するにはもってこいだが、といっても、前にも書いたように、これも「文化の狂乱」のひとつ。「何かしなければ」という強迫観念に取り憑かれているような。となると、「何もしないこと」が貴重にもなるが、現代社会では、誰もできないことだ。自然を相手にすればよいという人もいるだろうが、自然は文化と一体になり、すでに自然という文化になっている。こうなると、文化とのつきあい方が一番大切になってくるはずだ。好奇心で歩いていれば、そんな方法も少しはわかってくるのかもしれないと、うろうろするのである。


2011年11月15日火曜日

砂漠のロック、小さな町のロックフェス、テト・レェド


週末を利用して、低地ノルマンディー地方のSt-Lo(サンロー)という小さな町に行ってきた。そこでやっているロックフェスを聴くためである。ジェニーという知り合いのダンナさんニコが、プログラミングの責任者ということで、来ないかと言ってくれたからだ。人口25000人の町でのロックフェス?と思っていたけど、これが大間違い。日本の「町おこし」ではまったくなかった。火曜日から日曜日まで6日間続く本格的なフェスで、出演ミュージシャンも30組近く。といって、フジロックのような大観衆がいるわけではない。夏だったら小さな町でも大きなフェスがあるが(場所の問題で)、この季節では珍しいのではないだろうか。フェスのタイトルはLes Rendez-Vous Soniques。そして、この「出会い」(Rendez-vous)ということが、きちっとプログラムされたフェスだった。最大の会場で1000人くらい、他の2つは、ちょっと大きめのライヴハウスといった感じ。町の劇場や体育館などを使っている。そうした会場で、午後から深夜まで、ライヴが行われるのだ。
滞在2日ちょっとなので聴いたのは7グループくらいだが、アメリカのレゲエ・グループ、ベルギーやカナダのロック・グループ、もちろんフランスのニュー・ポップというか、さまざまなグループやソロも。有名どころから新人まで、日本では知られていないグループがほとんどだ思うが、そのヴァラエティーがすごい。といって、乱雑なものではまったくなく、企画に1本芯が通っていた。小さな田舎町でのフェスの意味、ロック音楽の意味、招待されたミュージシャンたちの世界への構え等々、フェスにひとつの世界観があったのだ。後期資本主義のシステムが抱える窪みというか、というより、そうしたシステムだからこそ生まれる窪みを組織するのに、こうしたロックフェスという方法があったか!、そんな大げさな感じまでもってしまった。
なかでも驚いたのは、アフリカの砂漠の遊牧民の音楽をロックにしているTerakaftというグループ。アフリカのマリで結成されて10年。最近、ヨーロッパのライブシーンによく出るようになったとか。ぼくの勤める大学のサコさんという教師と同じ出身。知ってるかな?ともかく、初めて聴く音で、びっくりした。顔にターバンを巻いていたので、始めはこれはアラブ系過激派のバンド?と驚いたが、少し時間がたつとアラブの旋律やリズムとは違っていた。シンプルなメロディーとリズム。でも、それが身体にしみてくる。メイジャーなロックにこんなリズムはないと思う。思わず身体が動いてしまい、あとで節々がちょっと。ジェニーの2歳の子供は、この音楽が一番好きだとか。泣き止むらしい。なるほど!
それから、Cascadeurというソロも面白かった。ボーカル、音響、映像を動員してのスピード感あふれた音楽だった。現代アート的ロック?。それから、セルジュ・ゲーンズブールの最後の奥さん(ヴェトナム系らしい)との間の息子、ルルーが歌ったゲーンズブールの名曲、「ぼくは出て行くよと君に言いにきた」。伝統のシャンソンだが、偉大な父親と息子の物語がかぶる。アメリカで音楽の勉強をして、最近やっとフランスに帰りデビュー。父親を吹っ切れて、愛せるようになった息子の父親へのオマージュのような歌になった。泣けた。ジョニー・ディップ似(友達でもあるらしい)の美男子で、女房はたちまちファンに。
こんなこと書いていくときりがないが、このフェスは、サンローという町と地方府がスポンサーになっていて、運営にも町の人がボランティアしているとのこと。2年ごとのフェスは今年で4回目。最初は3000人くらいの規模が、今年は1万人を超えた。毎年のフェスにニコはしたがっている。そして、続けることができれば、このフェスは大きなものになっていくだろう。それだけの思想をフェス自体がもっているからだ。すべてに思想が必要だ。昔風のイデオロギーではなく、何と言ったらいいか、世界へのスタイル。
そして、今週はもうひとつパリでコンサート。音楽月間になってしまった。テット・レェド(Tetes raides)。この10何年間で一番好きなグループで、何曲も耳に焼き付いている。80年代後半に結成されたというから、長いキャリアだ。パンクから出発し、現在はシャンソン、ポップ、ワールドミュージック等々、オールタナティヴといったらいいのか、いろんなものが混じり合っている。リリカルで音楽にスピード感があり、歌詞カードを読むと、すごく詩的だ。ライヴではクレーアニメをオープングに使ってもいた。幅が広いし、ジャンルを越境するところも魅力だ。その音楽活動は、グループの政治参加と密接に結びついている。
マイノリティーを徹底的に支持する左翼だ。こう書くと、何かうさんくさいと思う人もいるかもしれないが、それは日本の政治参加のスタイルの問題だろう。テト・レェドの歌詞にはそうしたメッセージがあるのだろう。そのラブソングも秀逸だ「ジネット」(Ginette)という曲は歴史的名曲ではないかと思っているのだが。でも、人さまざま。政治と愛は、ほんとは一緒のことなのだ。

2011年11月5日土曜日

アナトリア、パリ映画メモ


カンヌ映画祭で賞をとった作品がぞくぞく封切られている。日本より、というより東京かな、半年ほど早い感じがするが、加えて、賞をとった、またコンペティションに出されたほとんどの作品が映画館にかかる。旅行で来るときは、一人なので毎日夜は映画館だが、家内も一緒となるとそうはいかない。映画を観るぞと意気込んでいたのだが、夕飯を家で食べてしまうと、映画館に足を運ぶのがおっくうになって、8月からまだ10本ちょっとしか観ていない。ただし、カンヌとなると心も動く(韓国映画祭も心躍ったが)。カンヌは映画祭の姿勢がはっきりしていて、ある意味で、気持ちがいい。だから、ハリウッドのようにわくわくするとか、韓国のようにセンチメンタルに泣けるとか、そんな感じとは違って、少し重たいが、読み応えのある本のような映画が多い。家でDVDで、という風にはいかない。そのカンヌで今年グランプリをとった「アナトリアにいたことがある」という魅力的なタイトルの映画が封切られた。大昔、トルコのアナトリア地方を汽車で旅行したことがあり、そんなノスタルジーがあったこともある。長いことトルコに行っていないが、トルコは何か馬が合う。ぼくの父方が串本出身で、その大島というところに明治のトルコ軍艦の慰霊碑があるばかりではない。近代の感じが日本と似ているためかもしれない。トルコ論は別にして、映画「アナトリア」は単純に「感動!」というものではなかった。でも、妙に心が刺激された。監督はトルコのヌリ・ビルゲ・セラファン。インタビューでドストエフスキーに憧れると書いていたが、なるほど!と思わせる映画だった。それまでにもカンヌで賞をとっているので映画ファンは知っているのだろうが、ぼくは初めてだった。
リアリズムな映画だ。昔のネオ・レアリスモの庶民の現実をテーマにするというのとは違って、現代のリアリズムは、映画というメディアそのものの現実的構築性を強く意図しているというか、物語性をそぎ、現実のありようそのものをフィルムで作り上げていこうとしている、そんな感じだ。だから、つらくもなる。しかし、現実は喜劇も含んでいる。検事、医者、殺人犯たちが、埋められた死体を掘り起こす丸1日が、びっちりと、アナトリアの広大な風景のなかに展開される。風景が素晴らしい、そして、その風景が人間たちの悲喜劇を抱え込む。
映画のことをもう少し。カンヌといえば、アメリカ映画「ドライブ」も何かの賞をとっていたな。今、話題のライアン・ゴスリング主演。孤独なタクシードライバーの非日常的事件が淡々と綴られた、でも、「淡々と」というところに作為が見えすぎているのがもうひとつ。それから、イランのアスガー・ファルハディ監督の「別離
」。日本でもこの4月くらいに上映されたとか。こっちはベルリンでの賞。知り合いの映画好きにあまりにも勧められるので観てみたが、日常をドラマ化する手つきがなかなかだが、よくありすぎるテーマ。でも、それがイランでということは驚きではある。ぼくたちの世界の情報は狭い。イランの政治ばかりが表に出て、あの国の日常はほとんど知らないからだ。エンターテイメント(といってもハリウッド的ではない)としての面白さからすれば、イタリアのナンニ・モレッティの「Habemus Papam」が秀逸だった。ローマ法王の選出をネタにした映画だが、バチカンの内幕を見るという好奇心ばかりでなく、法王に選ばれた人間の悲喜劇がほんとにドラマとしてよく描かれていた。名優ミッシェル・ピッコーリの演技に加えて、当のモテッティが精神分析医として登場し、その分析が通用しないあたりの皮肉もよく利いていた。ただ、ラストがもうひとつという感はある。こちらもカンヌのコンペティションに出品されたとか。
こんなブログを書いていると、アパートの斜め前にある名画座にすぐにでも行きたくなる。9時をまわってしまった。平日はラストが9時なのだ。週末は10時。去年までサン・ランベール映画館と言っていたのに、名前を変えている。独立系の映画館なので経営が大変なのだろう。子供向けのプログラムを導入したので、土日は家族連れでアニメ。悪くはないが・・・映画の都(見やすいという意味で)パリでも映画館は減少している。加えて、統計を確認していないので実感だが、大手の配給会社ネットワークに押されていることも原因かもしれない。独立系の映画館が健在であることが映画の都の都たるゆえんなのに。そして、この独立系がコアなプログラムを組んでいるのだ。サン・ミッシェル界隈にあるギャランドという映画館なんかは、今でも毎週「ロッキー・ホラー・ショー」(76年)を上映しているというのだから驚く。加えて、映画でも当然フェスティバルが盛んだ。日常といってもよい。話題の映画が封切られると、その監督の特集がかならずどこかの映画館である。シネマテークも充実しているのだが、映画はやっぱり映画館でということが共通認識としてまだ残っているのだろう。パリの近代はしぶとい。


2011年10月28日金曜日

墓地とB級グルメ


やっと終わった。ラグビーのWCがである。感動的な決勝、フランス人の精神力の強さ。こんな言葉ばかりが踊ると、背中が痒くなってくるが、そうした面も確かにある。23日のパリの街は余韻が漂っていた。翌日の夜に行ったヴェトナム料理店は、なんとパリのスポーツバー街。そこには濃厚な前夜の香りが。そして、その通りは、どこかドアーズの傑作「ストレンジデイズ」(だったかな)のジャケットの通りと似ていた。そんことをラグビーの余韻の中に思い出したら、そうそう、一度、観光名所ジム・モリソンのお墓にも行かなくてはと思うのだった。
パリは市内に墓地が多い。多くの所に有名人が眠っているので、名所になっているが、この前の日曜日、そうそう決勝を見終わったあとだった、久しぶりにモンパルナス墓地を散歩した。サルトル/ボーボワール、デュラス、ゲーンスブールなど人気のお墓を回ってきた。他にも、本で読んだことのある女性の精神分析学者(文化論に多かった)も眠っていて、そこに写真で初めて顔立ちを知った。かわいらしい顔をしていた。ときどき写真や肖像があるのも日本とは違う。現代アート的なものもある。お墓は死者のモニュメントというのはわかるが、日本のような「無常」の演出がほしいとも思う。線香の香りに包まれた日本の墓地(お盆やお彼岸なんかのときだが)は、死者を思い出すと同時に、墓の前に立つ生きている人間の儚さのようなものを感じさせるが、モニュメントの前では思い出が強調される。ジム・モリソンのお墓(ペール・ラシェーズ墓地にある)に一度線香を立ててみようかなと思った。
話題を変えて、またも食べ物のことを。といっても、パリで本格グルメをすることはない。ラーメンのことを書いているのでわかると思うけど、星付きレストランは、若い頃の貧乏旅行のプライドとトラウマを抱えた人間には、どこか距離がある。もちろん、行ったことはあるが、そして美味しいとも思うが、自分から足がななかな向かないのだ。誰かに背中を押してもらわないと行かないのだが、そうして行ったは行ったで、どこか釈然としない気持ちをもってしまう。若い頃の経験とは恐ろしい偏見を植え付けるものだと、つくづく思う。
となると、日本でも同じだが、B級グルメを目指すことになる。でも、これは体力と資本主義の味覚経済学によって成立するものなので、ぼくのような歳になってしまうと、ほんとうはできることではないのだが、何かがかき立てる。戦争(第二次大戦)を体験した世代は、「飢餓」経験が食べ物への異様な執着となっていると野坂昭如が書いていたような気がするが、ぼくたちの団塊の世代は何だろう。よくわからないが、いつになってもB系に興味をもってしまう。戦争世代と違って、何かが賎しいということだろう。
ともかく、B級料理は、実際には、たいして美味しくはない。もちろん、美味しいという定義が問題なのだが、B級は味覚の強い刺激、あるいは食べる欲望の満たしによって美味しいと感じるようなレベルだろう。もちろん、ここに価値があることは十分わかっているが、それだけでは寂しい、グルメの国では何とかA級への階段を登ろうとも思っていたのだが、やっぱり、プライド=トラウマが許さなかった。というわけで、そんなところを探すのだが、美味しい所にぶつかることはあまりない。やっぱり、家で食べるのは別として、ハム、サラミ、肉の練り物、そしてパンとワインにつきてしまうのだ。加えて生野菜と果物。シンプル・イズ・ベストの原則だ。なので、こちらのB級は、文化的好奇心からということになる。ぼくの知らない料理方や食べ方があるところ。料理と食べ物の知識が氾濫している現在では、そうしたことを見つけることも難しい。というわけで、どこかすごい食べ物がないかと、図書館の帰りにうろうろしているのである。

2011年10月20日木曜日

パリの韓流、W杯決勝


一度しっかり韓国語を習いたいと思っていたが、時間が合わなかったり、教室がなかったりと、これまで実現できずにいた。それではと、夕方からは時間があるこの機会に、パリで韓国語を習おうと決め、教室を探した。でも、いまだ実現できていない。3つの教室にトライしたのだが、ひとつは受講希望者が多すぎて予約できず、2つ目は模擬授業の教師が何かいい加減なうえ、少し授業料が高かったこと、3番目は、最初OKと言われたのに、何故か満員ですと断りのメール。ぼくが怪しいと思われたのか、あるいは、訪ねた運営機関(すごくわかりにくく看板もあげてないし、不思議な場所だった)の方がおかしいのか、まったく解せなかった。もう少し探してみるつもりだ。
ともかく、このところ、パリの韓流(あのハンリュウというより、一般的に「韓国の」という意味で使うが)は力がある。最初に申し込もうとした韓国文化センター(政府機関)は、授業料が安いこともあるが、登録するのに朝の6時から並ばなくてはならないとかで、昼過ぎに行ったら受付のフランス人女性に、こんなに遅く来るなんてと嫌みを言われてしまった。そんなことはよくあることとして、韓国語を習おうと言う人が増えているような気がする。もちろん、メディアの言う「韓流」は、その程度は知らないが、パリにも入ってきている。そう言えば、少女時代のパリでの歓迎ぶりを何かのニュースで見たことがある。そして、サムスンやヒュンダイ等々の宣伝もいたるところに。昔のソニー、ナショナル、ホンダといった感じだ。勢いのあることは、かっこうよく見えるものだ。勢いは、また「新しさ」を伴う。今の韓流はそういったことだろう。そんな勢いは、若い韓国人がすごく目立つようになっていることとも関係する。その目立ち方は中国人とはまた違う。
そんなパリの韓流の具体的なイベントにも参加してきた。韓国−フランス映画祭。もう6回目だそうで、かなりの人を集めていた。韓国文化会館でするのではなく、普通の映画館の2つのホールを借りて。ぼくもパリに来ると時々行く映画館で、8日間。時間の関係もあるので、ポイントを決めて、ある若い監督をチェックすることにした。Yoon Sung-Hyun(ユン・サンユン)。去年、最初の長編を撮ったというから、新しい世代なのだろう。その短編4つと初長編Bleak Night、そしてdébat(討論という意味だが)、監督とフランスの映画関係者を交えた討論会に参加。長編はまあまあ。討論会で韓国のトレンディーなドラマのこと、当然、ハン・ヒョジュを知っているかどうかを聞きたいと思ったのだが、かなり真面目な討論会で、それもメディア的韓流ではない、もうひとつの韓国映画文化をうたっているので、ちょっと聞けなかった。
映画祭の雰囲気はリラックスしていて、スタッフとして若い韓国人とフランス人がボランティアで参加しているようで、若々しく、変に構えたところがなく、好感が持てた。こうしたリラックスしたスタイルから新しいことは始まるのだと思う。自国の文化を外国に紹介するときの、変に官僚的な手法はもう受けないし、パターン化した、ということは自国文化と構えてナショナリズムぷんぷんのやり方もだめだろう。でも、そんな紹介の仕方はいまでも少なくない。日本関係のものにそんなことを強く感じる。もちろん、韓国もそうしたやり方も多いだろう。しかし、勢いは新しいスタイルもつくりだす。それが大切だと思う。ぼくたちは昔から、いつも「意味」だけを考えてきたのではないか。それは、決定的に言葉に属するが、スタイルはそれだけでなく、身体や感情といった、個人的レベルに関わるはずだ。何かを伝えるとき、息づかいを通して伝えることが必要ではないか。映画祭は、そんなことも感じさせた。
このブログは、こちらに滞在中は、時間にゆとりがあるために、1週間単位で更新しているが、だんだん「パリ便り」になってきている。でも、見る人が少ないと、誰に向けて?などと思ってしまうが、ぼく自身の日記的なものと考えて納得はしている。
そして、今週末、やっとラグビーW杯のラスト。フランスが決勝まで行ったので、それもよろよろしながら、けっこう騒いでいる。決勝はオールブラックスが勝つと、フランス人以外は全員予想しているだろうが、試合は何があるかわからない。そもそもフランスが、決勝まで行けたこと自体が不思議なのだ。実は、ウェールズを応援しだしたのだが、あの(これは見た人しかわからないよね。でも「あの」と言いたい試合だったのだが)フランス戦は見た人の記憶に残るだろう。2007年のアルゼンチンとフランス戦のように。そうした意味では、フランスは変に記憶の回路を刺激するチームだ。他のスポーツでもそうかもしれない。まずは、金曜日のウエールズVSオーストラリア。
今朝は真っ青な空で、息も白い。冬がきている。エッフェル塔の放つ光がピカピカと輝きだしている。

2011年10月10日月曜日

パリのラーメン屋、3点セット日本料理店


この何年かで変わってきたことは、ラーメン屋や日本料理店の増加だ。ぼくはパリでよくラーメン屋に入る。このブログでも不思議な(それなりに美味しいのに満員の時が少ないとい意味で)来来軒のことは書いたが、毎年来ていて、とにかく驚く。もちろん、メッカであるサンタンヌ通り(オペラ通り1本東)は当然のこと、パリ全体の至る所に日本料理屋があるようになった。ラーメン屋と言っているのは、ラーメンとか餃子初め中華系の食べ物がメイン(カレーがあるところも多い)で、他に関連のものがあるというやつだが、日本料理屋と呼んでいるのは、ちょっと日本にない(あっても数が少ない)タイプである。ぼくは3点セット日本料理店と呼んでいるのだが、焼き鳥、寿司、天ぷらをメインにした料理店である。このタイプが増殖している。ぼくのアパートからもそうした店が見える。
こうした料理屋は、伝え聞くところによると、日本人の経営ではなく、中国人が多いという。この意見は的を得ているような気もする。安め目の中華料理屋が減ってきたのと比例して、中華惣菜テイクアウト店と3点セット店に衣替えしてきているようだ。前者の方は寿司とか日本的餃子を置いてあるところもある。ぼくが実際に確認したのは、パリではなく南のモンペリエという町でのことだが、行ったことのある中華料理店が、次の年、3点セットの日本料理店に変わっていた。同じようなことがパリでも起きているのだろう。ただし、この手の店にぼくは入ったことがない。この3店セットというのに食指が動かないということが1番の原因。文化的関心から、一度入らなくてはと思うのだが。
この日本料理店は日本人に評判が悪い。アジア系の店で、日本料理ではないというのが大方の意見だろう。でも、本当の日本料理って何なのか。一度、人に連れられて上等な和食、本物の日本料理屋に行った。確かに、悪くはない。これぞニホンショク!という意識で成り立っているコースだった。でもね〜、と思う。こちらが本物で、あちらは偽物っていうことをぼくは考えない。だいたい、日本料理を刺身、天ぷらで懐石風に構成すれば、そしていいネタを使えば本物の日本料理になるという考えがあまり好きではない。日本の食べ物の神髄は雑食だ。その雑食性を外国で発揮するするとなれば、やっぱりラーメン屋でしょう、というのがぼくの舌であり、意見である。まあ、B級グルメの屁理屈だが。
そのラーメン屋もアジア系の経営者が多くなってきたとのこと。こんな話題が時々出る。でも、味は深みを帯びてきたと思う。昔は、パリのラーメンは邪道、外国だから仕方なくといった感じを多くの日本人がもっていた。そのうえ高い!何か、大昔のアンカレッジのうどんみたいだが(この話に反応できる人はいないだろうね)、ぼくはそうした感覚をいつもおかしいと思っていた。外国での日本食の偽物性という意識はいまでも健在なのだが、しかし、感覚を鋭くして、素直にパリのラーメンを食べてみることが大切だ。美味しいところもあればそうでないところもある。当たり前だ。そして、1番重要なことだが、パリのラーメンは「パリのラーメン」だ、ということだ。ラーメンがパリ風に自分から変容しているのである。短い期間でなくなってしまったが、少し前、東京のはやりのラーメン屋、当時はスープの技を競っていたじだいだが、その「今のスープ」を持ち込んだラーメン屋が進出したのである。ぼくも行った。しかし、ダメだった。パリの風土に合わないのだ。美味しさは普遍ではない。食べ物はとくに風土と関係する。日本のキムチと韓国のそれが違うように、食べ物は土地を生きている。パリのラーメンはパリのラーメンの味なのだ。ぼくはパリのラーメンが好きなのだ。そして、美味しいラーメンもある。
このところ、うどんも人気を呼んでいるとかで、メッカのうどん屋は長蛇の列。お好み焼きやたこ焼き、そして、日本風カフェも進出。フランス人があんぱんや抹茶系ドリンクやケーキを美味しそうにほうばっている。ぼくはこれはパス。抹茶系がどうも好きになれない。日本ブームという枠を超えはじめている。
フランスにいて、ラーメンでどうするの、ということを考える人も多いだろう。でも、そうした意識を薄くする必要もあるのではないか。とくにラーメンに関しては。ちょうど北アフリカのクスクスと同じように、ラーメンはパリの料理のひとつになっているのだ。国際化。3点セットの日本料理も。これはすごいことではないのか。こんなこと書いていると、明日の昼飯はラーメン(餃子のついたセットメニューで10ユーロくらい)にしたくなってくる。
そうそう、ブログを読んでくれている方たち、知り合いに宣伝しておいてくださいね。あまりにも見てもらえないと、やっぱり寂しくなってきたので。

2011年10月4日火曜日

ラ・ニュイ・ブランシュ、文化の狂乱


あっという間に2ヶ月がたってしまった。何かのんびりやっているな、と思う。結婚記念日ということも、その数日前から思い出す。普段は後でなのに。時間があるというのはこうしたことか。初めてのこともあるし、ちょっとはりこんで、しっかりしたビストロで昼食。食前酒、ワイン(それもボトル)、コーヒーまで付いたフルコースで42ユーロ。安い!これがなかなかのものだった。そして、夜はパリ名物となってきた「ラ・ニュイ・ブランシュ」(英語でホワイト・ナイト)へ何人かの知り合いと。
10月の最初の土曜日の夜から朝まで、パリと郊外のいくつもの地区で繰り広げられる現代芸術祭とでもいったらよいか。10年前にパリで始まり、現在では世界の大都市でも行われるようになってきたとのこと。初めてなので楽しみにしていたのだが、とにかく人が多い。パリでは4つの地区に、いくつあるかわからないほどの展示やイベント。ゲスト・アーティストの展示場などは長蛇の列。歩いているだけで疲れてしまい、腰も痛くなる(軽いヘルニアなのだ)。4〜5カ所、比較的人の少ない、といっても並ぶのだが、教会や劇場といった会場に入ってみる。まあ、大きなビエンナーレにあるのと大差なく、目新しいものでない。要は、アイデアのある文化的イベントである。アイデアというのは、1日、オールナイト。地下鉄もバスも朝まで運行。カフも。若い人たちには楽しそうだ。仲間とわいわいと。そして、放逸は現代芸術によって文化的放逸となり、おそらくつかの間の恋愛もそうしたことになるのだろう。結局、人ごみをうろうろしながら、深夜のカフェで、いつもは禁止しているビールとフリット(ポテト・フライ)を。10年ぶりくらいの深夜のビールとフリットはほんとに美味しくて、ラ・ニュイ・ブランシュって素晴らしい!と感激してしまう。何のことやら。
パリは文化にあふれている。すぎている。ジャン・クレールという批評家が最近出した『文化の冬』(フラマリオン社)という言い方が的を得ているような気もするが、現在の文化熱狂がどうなっていくのかはまだわからない。ともかく、今は、あまりにも文化と称するイベントや催しが多くて、いまや何が文化なのかわからなくなっているのだ。クレールはそれに警告を鳴らしているのだが、確かに、文化に、というよりそのように呼ぶことに飽きてきたという感覚はある。ここにいるととくに思う。もちろん日本でも、ここ10年あたりから何でも文化だ。京都という小さな都市にいても、文化的イベントや催しはやたら増えてきている。パリはその何十倍ではないか。メディア的話題を持つものから、地区の小さなイベントまで、毎日文化的な何かをやっている。そして、どこも人が集まっている。そういうぼくも情報誌を見ながら、来週は「ジョルジュ・ブラッサンス」祭りに行こうとか、あのコンサート・シリーズ(ひとつ予約している)、あのアートフェアー、マンガフェアー、画廊や美術館のオープニング、あるいはカンヌで賞を取った映画とか、近いところでは、地区のバザー(イベント付き)と、何かきょろきょうろしているのだ。こうなったら、パリの深夜の、行ったことはないが、金と欲望がむき出しになるエロスの世界も文化ということになるだろう。もちろん、性の文化史という言い方があるくらいだから、文化なのだが。
ともかく、文化という言葉は便利だ。「それは何ですか?」「文化です」と、これで何か要領を得てしまう、そんな時代になってきた。そして、文化を生産的(人を豊かにする)と考える傾向が強いので、文化という言葉はますます増殖する。でも、近年の文化バブルに接していると、そろそろ立ち止まって考えてもいいかと思う。文化って、そんなにいいことなのか?って。別の言葉を使おうよ、ということでもあるのだが、なかなか思いつかない。研究者の業界も、アングロサクソン系発のカルチュラル・スタディーズ以来、モットーは文化だ。学問を民主化しようという善意の民主主義が、何かを曇らせているとも思う。学問が差別的であるということを隠そうとする時代になったのか。
その「文化」という日本語は、「便利」という言葉とかなり近い意味をもっていた。文化包丁、文化住宅等々、近代合理主義が生活様式の中に入り込んでいく過程で、広く使われるようになった概念である。でもそこには、ちょっと平板でつまらないという感覚があった。その「便利」という意味が、今では変質し、いい意味で「人間的」といった積極的なものになってしまった。でも、文化に参加すればするほど、そうでないこともわかってくる。「人間的」というのには2つの意味があるだろうが、豊かという意味での人間的であることは、知的な動物であることを前提にしているが、文化は、逆に、人間の欲望や怨念をむき出しにする舞台と化している。それを生産的とするなら、文化の反乱は文明化された人間社会の欺瞞(というなら)を明らかにする逆説的な言説ではある。だから疲れるのかもしれない。
ともかく、文化をまじめに受け取らないようにしよう。というより、文化という言葉を少し控えるようにしたいと思う。といっても、このブログは、15年もののカルヴァドス(リンゴのドライ・リキュール)を飲みながら書いている。フランスの豊かな酒文化の逸品だ。結局、メディア文化と後期資本主義のマネー・ゲームの中に生かされるぼくたちは、文化から逃れられないのかもしれない。このブログは読みにくいように書こうとしているのだが、それはブログを文化としないようにしたいためなのに、書きながら、この日曜日のパリ・サンジェルマンとリヨンでのパストーレのシュートを思い出しているのだから、文化になってしまうのだ。

2011年9月26日月曜日

またもラグビー、ムラキ君、北京スープ


アルゼンチン対スコットランド、ほんと見応えがあった。素人だからこうみえたのか。ともかく、1点差でアルゼンチンの勝利。これで準々決勝はニュージーランドと。スコットランドがイングランドに勝てば別だけど、この激突も面白そう。これまでのところ黒軍団と南アフリカが抜けている感じがするが。アルゼンチンには、前回大会のフランス戦のような感じでやってもらいたい。これでエルナンデスがいたらな〜と思う人も多いのではないか。この1週間、印象に残ったことは、と考えると、日曜朝の上記の試合。ムラキ君が寝ていることなどかまわず応援してしまった。今年、こちらの美大を卒業したムラキ君が数日我が家に滞在しているのだ。その彼は、下に書くように、初めての個展と、こちらでの活動場所を求めて燃えている。だから、自然、アートの話になる。お土産に持ってきてくれたフランシュ・コンテ地方の「黄色ワイン」をやりながら。初めて飲んだが美味しい。チーズがよく合う。コンテというチーズが一番合うそうだ。
9月も後半になってくると、やっぱり美術の秋。画廊、アートフェア、アート祭り、大小の展覧会が目白押しだ。2度ほど知りあいのヴェルニサージュにも行った。明日も。何か業界人みたい。面白いのもあればそうでないのも。何かを見ていくと、突きあたってくるのは、自分の好みだと思うようになった。そんな感じを持つようになったのは、もう10数年以上前からだ。もちろん、現代美術の傾向や理屈はわかっているつもりだ。スターたちの動向も。もちろん、政治学や経済学も。でも、自分にピピッとくるものしか身体がついていかなくなってきた。というより、世界の美術界で共有される言説についていけないのだ。ほんとは、そんな言説などないのだが。
だから、何でも見るが、いいと感じるのはすごく少ない。でも、自分にいいものは見たい。となると、結局、大きなフェスティバルということにはなる。もちろん、ヴェネツィアでもどこでも、100点あったら4つか5つはすごいと思うものがあるのだから、やっぱり行こうかなという気持ちにはなる。そのように思ったものは、頭を揺らしてくれる。だから今年もヴェネツィアへ行こうとしているのだが、滞在許可証というやっかいな資格証明書のせいで、まだ日程をつくれていない。ヴェネツィアとは別に、リヨンのビエンナーレにも。こちらは、先のムラキ君がビエンアーレの関連企画「レゾナンス」で個展をすることになっているので泊まりがけである。情報はここ。http://www.aflyon.org/Espace-culturel/resonance-lyon-2011ムラキ君を知っている人が来てくれればと思うけど。リヨンは食べ物が美味しいよ。ホテルの値段も手頃だし。少し前のブログで少し書いたフランス/ロシア人夫婦との久しぶりの再会もしたいしと。こちらの方が生産的かも。
このところ、何人か知り合いが日本から来ている。と、なるとちょっとした観光をすることになる。こんなことでもないとパリの名所はなかなか行かないのだ。数日前もパリのパッサージツアーに。ルーヴルに入るのは時間がかかりすぎて、つい遠慮。だから街歩き。19世紀〜20世紀初頭の香りを残すパッサージュは、パリ近代都市の象徴のようなものだ。現在は、観光的にもかなり人気があると聞く。実は、ぼくの所属している研究所はそのパッサージュを丸ごと施設にしているところである。パレロワイヤルの裏手。ということは、完全に観光的環境に身を置いていることになる。そこでいくつかの大学の授業やゼミも行われている。裏手には専門の図書館。美術史にとっていたれりつくせり。というのも、学問として制度的、言説的に成立しているからである。この状態、というより、美術を学問として現在のような制度にすることが、ほんとうに生産的なことなのか。ここはしっかり考える必要があるところだ。それはビエンアーレに代表される現代アートという領域にも言えることだ。制度がなければ始まらないが、といって制度は次第に自浄作用をなくしてくる。今は、それがはっきりしてきた時代のような気もする。
と、いつも最後はややこしい話になる。ただし、今日は、夜にテイクアウト中華屋のまずい「北京スープ」(ポタージュ・ペキノワ)を食べたせいかもしれない。この10年前くらいから急増してきたテイクアウト中華は、日本風ラーメン屋の急増とおそらく対応している、と思っている。どのようなことなのか。その全貌を知りたいのだが、なかなか教えてくれる人がいない。1週間があっという間にたっていき、もう10月だ。

2011年9月20日火曜日

バスケット、ラグビー、ユマニテ


9月半ばの日曜日夜(これを書き始めた時間帯)。バスケットのヨーロッパ選手権男子決勝を見終わったばかり。普通、バスケは見ないのだが、フランスが初めて決勝に勝ち進んだことと、急遽生中継が一般TVでも見れるようになって、これはとテレビの前に。結果はスペインの貫禄勝ち(強い!素人でもわかった)。バスケットはフランスで結構人気がある。トニー・パーカーというNBAのスター選手と今年ナショナルチームに加わった、ヨアキム・ノアという若い、これもNBAの選手の2人が人気を呼んでいるためかもしれない。そのノアは父親がカメルーンに出自を持つ、かってのテニス界のスター(現在は人気のポップ歌手である)ヤニック・ノア(ぼくの世代ならよく覚えている)、母親がミス・スウェーデンというサラブレット。フランス、アメリカ、スウェーデンの3つの国籍をもち、今回はフランスを代表チームとして選んだこと、そして父親が息子の応援に会場のリトアニアまで駆けつけているといったことも話題になっている。ただし、父親ノアは、決勝戦の日、パリでの「ユマ」と呼ばれる共産党の秋祭りに出演で会場にはいなかったのだが、このことも話題になるだろう。息子のプレーに迫力がないように感じたのは、そのせいもある?
本当は、ぼくも「ユマ」に行く予定にしていたのに、朝早くから昼過ぎまでずーっとラグビーWCを見ていて行けなかった。イギリスとグルジア、そしてフランスとカナダ。どちらも、強豪が順当勝ち。でも、日本と戦うカナダは結構いいチームだった。大丈夫か?ともかく、WCの決勝は10月23日。誕生日なんです。1ヶ月半という長丁場。まあ、ファンとしてはうれしいし、それも時間の関係で午前中というのもいい。こっちにいてよかった!と思うのだが、パリに来て何やってんのと言う人もいる。それはそれ、スポーツがきちっとスポーツである国で、試合を見るのは幸せなことなのだ。
さて、少し触れた「ユマ」。これは共産党の機関紙「ユマニテ」の略語で、そこが主催する大祭り。日本では赤旗祭り。参加したことはないが、メディアで知るその祭りと「ユマ」とは大違い。これまで2回行ったことがあるのだが(加えてイタリアでも行ったことがある)、かなり楽しめた。とにかく、3日間にわたっての大ロックフェス、ジャズフェス、芝居といった催し、討論会(これは当然か)、そしてフランス全土と海外(キューバも来ていた)からの物売りや食べ物のブースが立ち並ぶ、大々的な、そのうえかなりリラックスしたフェスティバルなのである。今年のゲストは残念ながらジョーン・バエズ(やっぱり?)とノアしか知らないが、おそらく人気のグループがいるに違いない。大ステージに加えて、小ステージもあり、こちらは売り出し中のグループなんかが出てくる。こんなこと書くなら行けばよかったと後悔してしまうのだが、ともかく、前夜に友人宅で上等なワインとともにたらふく食べて、翌日(「ユマ」に行こうとしていた日)、最初に書いた朝早くからラグビー観戦。さすが疲れてしまったのだ。でも、ラグビーとバスケットのテレビ観戦で気持ちのよい日曜ではあった。
一番好きなサッカー(フットボール)は、スカパーのようなチャンネルが見れないのでストレスがあるが、これはスタジアムで見ようと思っている。とくに今年、アラブ・マネーを得て金持ちクラブになったPSG(パリ・サンジェルマン)は見逃せない。フットボールというスポーツはお金と比例してスリリングになる残酷なスポーツなので(スポーツ自体がそうなのだが)、お金が深く関係する。なかでもフットボールは、世界的にみて一番の後期資本主義の権化的スポーツである。それに酔うのは、フットボールが欲望をカタルシスに変えるシステムをもっているからである。そうだとしたら、そのことは時代が突っ走るグローバル金融的システムに似ている。
こうしたシステムと戦わなくてはならないのが共産党だとすれば、その戦略はどこか間違っている。とくに日本の場合は。といって、教条的なところが少ないフランスの共産党(「ユマ」を見ていてそう思うだけなのだが)も低落傾向がはなはだしい。残酷な現代の世界システムの「裏」を追求してしまっているためかもしれない。そもそも「人間性」(「ユマ」はユマニテ(人間性)の意味)を善ととらえるようなところが少しおかしい。何かを、正しいものとして捉えてしまうことの罠にはまっていると思う。
こんなことを書くつもりではなかったのに、何のせいなのか?今日、月曜日で、このブログを書き初めてから1日たち、ワインも抜け、キリッとした空気の中、パリの美大(ボザール)の図書館に。そこで里見宗次という戦前のデザイナー(学生時代は絵画専攻)のデッサンを見せてもらった。1925年にボザールのコンクールでの賞をもらったものだった。これは発見!感激したのだった。このことは来月サンケイ新聞に書く予定。それにしても今年9月のパリは寒い。

2011年9月10日土曜日

WiFi、再会、ラグビーWC


新しい環境はいろろなことがおこる。ぼくのマックプロがwifiにつながらなくなってしまった。こちらのfreeという会社の電波をキャッチしているのだが、どうやらipアドレスが電波を解釈してくれなくなったようで、現在中断中。メールは、もうひとつのマック(家内が使うというのでもってきた)から「どこでもメール」で開いている。もちろん、市内のさまざまなhotspotにある他の電波は受け付けてくれるので、自然、カフェなんかに入る機会が多くなる。詳しい人に聞くしかないが、いまのところ見つかっていない。誰か助けて!といっても、超マイナーなこのブログで呼びかけてもね、と少し気持ちはダウンする。まあ、生活リズムは少し狂うが、なんとかなるだろう。
今週は2つの画廊でのヴェルニサージュ(展覧会のオープニングのことで、昔、展覧会の前に絵にニスを塗ったところから開幕を意味するようになった。仏語でニスのことをヴェルニっていうのだ)に行ってきた。ひとつはBD(フランスのマンガ)の作家の、マリー・アントワネット物語出版を記念しての原画展。去年、大学に来てもらったBD原作者ピエール・クリスタンに教えてもらった。この夏は映画の脚本を書いていたとかで、元気いっぱいだった。久しぶりに合うのはなかなか楽しい。そういえば、韓国の女性で、こちらの美大で映像を勉強していたユジン(冬のソナタの主人公と同名)にも再会。パリではいろんな人と偶然合うことが少なくない。
もうひとつの展覧会は、この知人も合うのは6〜7年ぶりなのだが、陶芸家のアンドッシュというフランス人。日本にもよく来ていて、現在は楽さんと仕事もしているの、少し知られてきた。日本の陶芸に触発されて独自の焼き物をしているアーティストだ。フランスでは、日本以上に陶芸の地位は低いらしい。まあ、こうしたこともそのうち終わっていくだろうけど。ということは、近代の価値秩序の終わりが始まったということである。悪くはない。
9月に入るとパリは活気を帯びてくる。画廊がぞくぞく開き始め、映画もカンヌの受賞作などが目白押しになり、行ってみたいものが目白押しだ(この表現の起源を知らないのだが)。
そうそう、ニュージーランドでのラグビーのWCが始まった。今日の朝は(こちらは午前中に生中継)日本とフランス、それからイングランドとアルゼンチン。日本が思った以上に善戦したのには驚いたが、いつものようにフランスはなめていた。それからゲームが相変わらず荒い。こちらのテレビに試合後の監督の渋い表情が何度も繰り返されている。ラグビーでもアルゼンチンを応援するのだが、今回のチームに2007年の10番、エルナンデスがいない。怪我だそうだ。前回、世界中を惹き付けた彼がいないのでは、と思ったが、意外と強かった。イングランドの出来が悪かったのか、力が拮抗しているのか、素人にはわかりにくいが、アルゼンチンのバックがいまひとつ、それからキックも。これでエルナンデスがいたらと思うのは、ぼくだけではあるまい。ともかく、WCは10月のぼくの誕生日まで続く。できたら、好きな国が優勝してほしいものだ。
このブログを近くの公園で書いている。パリは21世紀先端都市を目指しているのか、かなりサイバー都市にもなっている。パリ市が無料で公園や図書館でネットに接続できるようになっている。家にネット環境がないときには、そうしたところでできるようにとの配慮か。この公園もそのひとつ。ベンチに座ってパソコンを組んだ足に置きキーボードをたたいている。ただし、足が短いせいだろう、しびれてくる。さすが、パソコンのためのテーブルはない。そのパリはヴェリブという貸し自転車の都市でも知られているが、この秋には貸し電気自動車が登場するとのこと。ホーという感じ。雑なところやいい加減なところは日本から見ると気になるが、いろいろな前衛的な試みを見ると、世界の先端近代都市として200年近く存在しているパリの懐は深い。

2011年9月5日月曜日

Very British! ブライアン・フェリー、ボン・マルシェ














パリにボン・マルシェという百貨店がある。観光的にも有名なので、パリに来た人は知っているだろう。左岸のセーブル=バビロンという地下鉄駅を降りてすぐのところ。パリで初めての百貨店としても有名だ。確か、1830年代に創設されたのだと記憶する。現在のような百貨店イメージをつくったのもここだと言われている。パリには他にもいくつかの有名な百貨店があるが、個人的にはここが一番好きである。一階の食料品売り場は、質、量、親切度でパリ一番かと思う。ちょっとしゃれたテイクアウト飯をするときは、ここの惣菜でという気持ちなる。
それ以外に、ボン・マルシェの特色は全体に漂うイギリス趣味である。昔から感じていたのだが、何とこの夏からのキャンペーンが、まさにそのイギリスど真ん中。
フランスの人がイギリス文化に触れて、それを形容するとき、「very british」と言うことがある。どうして「イングリッシュ」と言わないのか知らないが、ブルトン人がフランスにやってきた大昔からのフランスとの関係によるのかもしれない。ちなみに、画家ゴーギャンたちがコミューンをつくったことでも知られるブルターニュ半島は、そのブルトン人が支配した土地である。
ともかく、この9月のボン・マルシェは
「very british」なのだ。その言い方を下敷きにして現在のキャンペーンのコピーが「So London」となっている。そして、そのメインキャストが、あのブライアン・フェリー。ロキシー・ミュージックの時代から聞いてきたダンディーなポップ・ロッカーである。なんせカッコイイ。こんな男に生まれてきたかったNo1である。そのブライアン・フェリーのいくつかのポーズがポスターを飾り、ウインドーに貼られている。このブログは、書いた内容にあった写真を載せないのを原則としているが、今回だけは、禁を侵し、2点の載せることしよう。
さて、フランスとイングランドの関係は、歴史的に複雑なものがある。大昔のブルトン人の時代はともかく、海峡の向かいの国が、フランスに先駆けて近代国家を築いていったこともある。それに対する、一種の憧れ?嫉妬?というのはあったのではないか。たとえば18世紀のパリにはそんな気分があった。それを19世紀、20世紀も引きずっているようにも感じる。ともかく、すべての分野で互いに意識し合ってきたことは間違いないだろう。極端に言えば、ブリティッシュと違った文化をつくろうちょいう意識がパリにあったのではないかとも思う。ぼくが惹かれるのは、フランス(パリ)の見るイギリスである。もちろん、それはパリ風に改変されている。そして、日本人のぼくはフランス風ブリテンを日本的に見る、この重層する文化イメージの感じがいいのだ。なかなかわかってもらえないが。ともかく、いわば近代の香りを残すボン・マルシェがイギリス趣味として選んだのが、ブライアン・フェリーであるところが、さすがというほかない。まあ、これは左岸の7区という伝統的な生活様式を残す地区の話ではあるのだが。


2011年8月28日日曜日

研究と昼飯


早いものでこちらにきてもう1ヶ月近く。ヴァカンス王国フランスの夏も終わっていく。近所の閉まっていたカフェや店も開いてきて、平常の姿になりつつある。研究の方は(なんせ、在外研究で来ているので)少しずつ。ただし、研究のやり方が従来とかなり変わってしまった。ネットに開かれた膨大なアーカイブのおかげである。多くの資料(マニュスクリまで)がネット上で検索、そして閲覧できるようになって、ある意味で、研究はどこでも、いつでもできるようになってしまったからである。もちろん、手に取らなければならない資料もあるので、ここにいることが便利なのは言うまでもないが、昔のように、探すことからしてアナログなやり方は、基本的になくなりつつあるということだろう。
ただし、そうやって電子的なものだけでやっていると、現物の資料とともにわかってくる時代感覚というか、そんな能力を落とすような気もする。ピンポイントで検索でき、それだけを引き出してくるからだ。それもデジタル形式で。紙の手触り、奥付けの出版情報、本や雑誌の匂い、その雑誌であれば、そこに掲載された別の論文や記事といったものに接することはない。引き出された資料は、そこにあるテーマを論理的に説明・解釈する「意味」としてだけ現われる。学術的という論理の世界は、こうした意味の世界なので、悪いということはできないが、世界に論理的意味を与える言説が、知として特権化されることが学術ということであれば、ぼくは少し納得できない。世界は信じがたく多くのものを抱えているからだ。ぼくは美術史をやっているが、そうした歴史に関係するためには、資料の時代的手触りといったものは必要であるに違いない。こんなことを考えながら、研究所に行くのである。
まあ楽しみは、そこに付設されている食堂で昼ご飯を食べることである。フランス語でカンティンヌという学食や社食、あるいは給食のことなのだが、レストランの高いパリでは格別の安さで質も悪くはない。毎日、メインが4種類用意され2、5ユーロほど。当然、前菜とデザート(ぼくは取らないが)、そして飲み物という、日本で言うフルコースの昼食となる。トータル5〜6ユーロ。半分くらいの人はワインなどを飲んでいる。機内食で出てくるあれで、だいたい1€以下。ぼくは学食を始め、給食ものが好きなので、好奇心がうずうず。それに毎日ピザがメインにあって焼いたものを出してくれるのがうれしい。ピザがおいしくないパリでは、値段を考えれば格別のピザである。こんなところで、ぼくのピザ心が満足されるとは思わなかった。そうして満腹になると、机に戻ってウインドウズの画面に向かおうという気持ちが少し萎える。そんなことで、どうしたらうまく研究体制に入れるのか、まだ試行中なのである。
短期間で来るときには、まあ一人ということもあるが、毎日のように映画館に行くのに、今回はまだ3回だけ。アパートの近くに、少し前まで「サン・ランベール」(現在はチャップリン)と言っていた名物映画館があるのに、まだ一度も行っていない。一番落ちのいい映画がかかっているので、行きたいのだが、夕食を食べてしまうと、4階から下に降りるのがおっくうになる、それだけのことなのだが。「おっくう」って標準語なのだろうか?ともかく、常連になるつもりだ。とりあえず、来週にはパスなど買って、イラン映画「別れ」とかイタリア映画「静かな生活」などを見ようかと思っている。
あまり面白くない日記風の文章になってしまった。昨日は土曜日だったこともあって、ベルヴィルという界隈のタイ・レストランで、知り合った日本の人たちと、食べ過ぎ、飲み過ぎたせいかもしれない。それとも夏が終わっていくせいか。



2011年8月21日日曜日

緑の光線、ノルマンディー、ジェーン


「緑の光線」を見た。夕日が海岸線に沈む直前に、太陽が緑色の光を放つ、その光線のことだ。珍しい気象現象らしい。エリック・ロメールの映画のタイトルとなり、映画でもその光が映しだされていた。その光線を、下ノルマンディーのクタンヴィルという小さな避暑地の海岸で目撃したのだ。シャッターを押したが、映ってなかった。ぼくが見たのは、光線というより、太陽が緑色になったという感じで、「緑の太陽」あるいは「緑の夕日」といった感覚だが、初めてなので、見終わったあとの感動は、いうまでもがな。夕日が水平線にしだいに沈み始めていき(この光景も素晴らしい)、空が朱色と青色の光に覆われ、最後に、それも一瞬だけ緑の光が、太陽が・・・。
自分の感覚で太陽が緑と感じたら、そのように描けばいいと書いたのは、明治43年の高村光太郎だった。緑色の太陽は美術における反自然主義的な主張のキーワードだったのだが、こうして実際に目撃すると、自然は人間の想像力をはるかに超えることがわかる。反自然主義よりも自然主義のがずっと大きい考え方だとわかる。こんなことを書いていると、「緑の光線」の魅力が失われる。翌日は、雲が多くて見ることはできなかった。
週末を過ごしている、この海岸地帯は、これもロメールの「海辺のポリーヌ」という名作の撮影が行われたところで、いかにもフランスらしい海岸の避暑地(こちらの思う)。加えて、美味しい食べ物。最初の日の夕食は、ここの主人が釣ってきたサバの蒸しオーヴン焼き。次の昼はムール貝とフライド・ポテト、夜は牡蠣。このあたりの名産である。そして、それぞれの食べ物にピッタリのシードル、ワイン、そしてカルヴァドス。リンゴの産地でもあるノルマンディーはグルメ地方なのだ。こんな食事の間に何年かぶりの水泳。あ〜あヴァカンス。
そのついでに、この地方でも知られた教会、クタンスという町のノートルダム聖堂を、友人でアーティストのジェーン(昔はジェニーと言っていたのだが)のお母さんが案内してくれた。彼女はプロのガイドで、知識は半端ではなかった。前にはモン・サン・ミシェルのガイドもしていたそうだ。ここは、その観光の聖地に近いところなのだ。行こうと思ったが、夏は人が多すぎるので冬に行こうということになって、近くのクタンスという町へ。
ノルマンディーの教会建築のことはまったく知らなかったけど、もともとのローマン様式(古代ローマの建築に発するが、ヨーロッパ各地でさまざまな地域性をもつ)がフランス王の征服によってゴシックへと変わっていった痕跡がはっきりとわかり、すごく面白かった。というのも、お母さんの配慮で聖堂内部に入ることができ、建物の内部を見ることができたからである。概観は華麗なゴシックだが、内部は、その前のローマンを残しているところも多かった。ローマンといっても、ノルマンディーのそれはかなり重たい感じだ。それが華麗なゴシックに変わる。そのとき北ヨーロッパは真のカトリック王国を確立することになったのではないか、そんなことを想像させる。
あと、ちょっとだけジェーンのことを書こう。彼女のことは、この4月に精華の卒業生たちの展覧会のパンフレットに少しだけ書いた。京都の室町アートギャラリーで行われた「美しき町」というグループ展だ。少し前にジェーンから送られたフランスの田舎町でのワークショプと、「美しき町」のイメージがリンクしたこともあった。
彼女は7年前、1年ほど京都にいて親しくしていた。カーンという町の美大を卒業して、アーティストを目指していた。その彼女がちょっとした障害を克服し、2年前には母親となり、再びアーティストへの強い希望を持ち活動しているのである。そんな彼女の姿は、「アートとともに生きる」ことの意味を考えさせてくれたのである。日本で一度展覧会ができたらと思う。
そんわけで、短い週末のノルマンディーは終わった。フランスのヴァカンスはあと少し。

2011年8月11日木曜日

パリから2ー二つの界隈、再会、洋野菜


パリに来てやっと落ち着いた。来年の3月まで住むことになるアパートに入り、地域の雰囲気もそれなりにつかめ、生活のペースもできた。長い滞在が2度目なので、すんなりいくことはありがたい。ただし、滞在許可証の手続きが残っているのだが。住むのはパリの15区。地下鉄12号線のヴォージラールという駅近く。モンパルナス駅の裏の方。地図でいうと南。中流上の地区のようだ。だから、白人が主流で、ちょっと庶民的な「おフランス」の雰囲気である。。近くにも魅力的な地区(とくに、コメルス通り)もある。その通りのカフェで、今の季節、よく晴れた日、夕方に飲むビールは最高だ。日本では夕方にビールを飲まないが、こちらではそうもいかなくなる。
借りることになったヴォージラールの日本の友人のアパートは、前回の滞在時に出会い、その後何年も親しくしていたロシア・フランスのカップルが住んでいた同じ建物だった。こんな偶然って、ないよね。ともかく、驚愕!その夫婦とは10年以上連絡することができなかったのだが(北米に行ってしまったため)、偶然の魅惑の力は二人を発見させてくれた。ネット時代ということもあるが、連絡がついた!10数年という年月は、いろいろなことが起こると、いまさがながらしんみりする。再び巡り会ったこのカップルとは終生つきあっていくだろう。2年前にフランスに戻り、リヨンに住んでいるという。ダンナの方はすっかりえらい研究者になっているようで、これもうれしかった。
今のアパートに入るまで、1週間だけ、ヴァカンスで留守になった友人のアパートにいた。こちらは、ヴォージラール界隈とはまったく違った雰囲気。アフリカ、アラブ、そしてアジアからの人が多い。お世辞にも「おフランス」と言えるところではない。民族が混在する、今のフランスの現実を映し出す界隈なのだ。こんな街にいると、ぼくもどこから来たのかわからなくなる感じがする。そのことが気分いいと思うこともある。コスモポリタン(世界人)とかノマド(流浪の民)ということを感じ、うれしくなるのだ。近代のひとつの果たせぬ夢の生き方だった。もちろん、日本の特殊性、そんなものは通用しない。ただ、ひとりの人間という感じなのだ。だから、気軽でもある。まあ、つらく厳しい現実を経験せず、わがまま放題に暮らしてきた人間が、コスモポリタンとかノマドと言ったところで、知識人の頭でっかちにすぎないし、そんなことが実際できるわけもない。でも、その界隈には、国を離れ異国でぎりぎりの生活をおくる、あるいは、世界を難民しながらやっとパリにたどり着いた人もいるだろう。そんなことを考えると、コスモポリタンなどと思い出したことが恥ずかしくもなる。
妙に話になってしまったが、こんなことをずっと考えていたわけではない。いつも考えているのは、ご飯のことである。何を食べようか。短い期間でも住むとなると、やはり家飯となる。ぼくは米を食べたいと思わないので苦労はない。ともかく、毎日サラダを食べている(もちろん肉や魚も)。何といっても、こっちはオリーヴ・オイルにあう野菜がふんだんにある。日本では値のはるアンディブ(チコリ)、アーティチョークは安いし、もちろんズッキーニ(クルジェットという)も。キノコ類も豊富だ。秋に入るとそのバリエーションはさらに増える。パリの外飯は、基本的には高いし、値段に見合っていない。もちろん、美味しいものはあるに決まっているし、美味しいが,
―といってB級グルメ派のせいかフランスで星のついたレストランに入ったのは、長く来ているのに1回しかない―コスパフォーマンスにちょっと納得がいかない。そんなこともあって、久しぶりに夫婦でスーパーやマルシェ(路上市)で買い物をしていた最初の10日間だった。

2011年8月2日火曜日

おパリ、大韓航空、そしてオリーブパン


昨日パリに着いた。インチョンからの大韓航空はがらあき。あんな少ない乗客の国際便に乗ったことはない。どうしてだろう?と、ちょっと、漠然とした不安に。アテンダントたちがすごく感じがよかったし、全体に前に比べて、すごく進化していたのに。パリに日2便という問題か、それともアシアナ航空とサービスを競っているせいなのか?そんなことも親切で綺麗なアテンダントに聞きたかったが、もちろんできず、音楽を聴いていた。というのも、機内ミュージックのSeo In-Young(誰だとは識別できないのだが)の「セス」(?)というバラードが最高で、繰り返しイヤフォンで聴いていたのだった。眼の方は関空で買った松本清張の『網』。軍隊の記憶を引きずる人間たちの欲望と憎悪、そして捩じれた愛情が戦後の政治と絡まるという筋書きなのだが、途中から、一度読んだことのある小説だとわかってきた。そういえば、松本清張は短編を除いてほとんど読んでいるので、再読になるのは仕方がないか。というより、歳をとってくると再読、再視聴ということは少なくないのだ。その上、そのことを後半になって思い出すのである。まあ、パリとはまったく関係がないが、到着までの機内は、韓流ムードの中での日本戦後史の気分だったのだ。
飛行機は夜の9時にシャルル・ド・ゴール空港に着き、乗客が少ないのであっという間に荷物が出てきて入国。夏時間のせいもあるが、まだ明るい。いつも思うことだが、やっぱりパリだ。この言葉の感じを伝えるのはひどく難しいが、都市の個性という平凡な言葉を使うしかない。もちろん、パリの個性を伝えるのも難しい。ただし、気持ちのいい乾燥度については、そのまま。湿った夏の日本から来るとなおさらだ。そして、世界の天気でチェックした7月のパリよりは暑かったが、それでも快適。かけ布団を首までかけて、冷房なしで寝れるなんて、これ最高でしょう?(誰に尋ねているのか?)。
知り合いの15区のアパートに入るまで6日あるので、それまで別の友人の19区のアパートに。ここの夫婦は1週間のヴァカンスで太平洋沿岸の町に。その空きアパートに10時到着。やっと夜の暗さになったころ、眠たくなって、時差の関係か、今日の朝は6時前に起きてしまった。それではと、家内と、18世紀のルドウーの名建築、ロトンドのあるラヴィレット運河の周辺を散歩。こんなの初めて。「こんなの」というのは、朝早く家内と散歩するということだが、何か老夫婦になった感じもして、少し戸惑う気分も。ヴァカンスの季節なのに、カフェやパン屋は開いていて、そこでオリーヴ・パンとハムとグルイエール・チーズのサラダを買って朝食。これがまた「パリ!」。繰り返すと嫌みになるのがわかっていても、パリだ。ともかく、この都市で2回目の長め滞在をする。このブログもこれからは、その滞在記のようなものに。

2011年7月16日土曜日

やっとビザ、お・フランス、それからピザ


フランスのビザをとるのは大変だ。この8月からの在外研究のために出かけるフランスでは、3ヶ月以上の滞在ということで入国にビザがいる。公的な受入れ先は4月の初めに決まっていたので、あとは受入れ先を管轄する役所(パリでは警察)の許可だけで、これですっきりと思っていたら、その書類(受入れ同意書)がなかなかこない。近年久しぶりの大焦り。7月15日までには、東京のフランス大使館にビザ申請しなくてはならず、研究所にメールを打ちまくった。そうしているうちに、やっと警察から書類が届いたとのこと。ただし、当日までに原本は間に合いそうもない。といっても、申請日ギリギリなので、15日に東京のフランス大使館まで。メールの添付で届いた同意書を見せたら、原本が届いたら送って、とあっさり。これで、無事8月1日に出発できることになった。書類のイライラ加えて、この暑さなのでぐったり。書類は15日に届いた。どうして、その同意書が遅くなってしまったのかもやっとわかった。5月初めに研究所から警察に送ったぼくの同意書が、どこかに消えてしまったらしい。フランスの役所仕事らしい。初めてパリに滞在したときの「滞在許可証」取得の大変さをあらためて思い出した。でも、この歳になってブツブツとフランスの役所仕事の悪口を書いてみても仕方ない。日本人という、あるいは教授や研究者という妙なプライドを脇にやり、世界中からフランスに来る外国国籍の一人という意識をもつよい機会だったということにしよう。こんなことを、あらためて意識したのだった。
7月の前半はフランスのビザのことばかり考えていたためかどうか、フランス人たちとの昼食会に招待された。
フランスのフレデリック・ミッテラン文化大臣の入京にあわせた20人あまりのこじんまりとした昼食会。大学やフランス人のBD作家たちとの関係からマンガとBDのことで仕事をしてきた縁で、京都フランス領事館の総領事カミヤマさんが呼んでくれたのだと思う。大臣列席の会なのに、服装もラフ(クールビズの感じではない)で、ああ、こうした会合もあるのかと、妙に感心した。隣に座らされたのだが、話題の流れの関係で大臣とは少ししか話す時間はなかった。昔、テレビの映画番組の司会をやっていたときの雰囲気が残っていて何かほっとした。
何やかんやで、行く前からお・フランスになっているのである。フランスのことを長くやってきたが、その経験をストレートに語ることにどこか躊躇するところがあって、よく「おフランス」とう言い方をしてしまう。それは、日本人のフランスという国や文化の測り方のねじれに関係しているのだと思う。明治以来、文化的憧れの一等国であった一方、それだけにフランス経験をもつ日本人のフランス振りは、どのように屈折しようと、一種の高級スノビズムをまとってしまっている。こう書くぼく自身が、そうだとも思う。
外国の旅行記や滞在記で一番書かれた国はフランスだろうし、ぼくもけっこう読んできた。前回のブログに書いた横光利一の「欧州紀行」でさえ、そんな感じがある。多くのフランス体験者の仕事、年齢、目的等々の差があるとはしても、そこにはどこか高級なものを相手にしてきたという意識がにじみ出ているのがフランスの体験記である。その意識が帰国後にかもしだすのが「お・フランス」の気分だった。「お・ドイツ」や「お・アメリカ」とは絶対言わず、フランスだけに「お」をつけること。これは長いフランス文化、それだけでなくヨーロッパ受容の重要な歴史の一面だろう。ただ現在、そうした近代的「お・フランス」の歴史が大きく変化していることも間違いない。ラーメン店に列び、日本のマンガやアニメ文化のオタクになる若いフランス人たちがつくり出しているフランス文化の一面を、フランス文化として経験するいまの若い日本人には、もう「お・フランス」のねじれ感覚はないのではないか。その感覚は、懐かしくもあるが、一昔前のことにしておきたい。とすれば、これからのフランス文化受容は、どんな感じになっていくのか、8月からの滞在で見てみたいところでもある。
ともかく、ビザのことばかり考えていた7月前半だったが、そうしたら、ピザを食べたくなった。いつもピザを食べたいのだが、今回は特別な願望となったのだった。ビザとピザという、完全にウケナイ親父ギャグだが、ピザ好きゆえに、ピザへの欲望が、この暑さの中でさえ湧いてきたのである。この食べ物のことは、このブログに何度も書いているので、特別なピザを発見しないかぎり書かないようにしようと思っていたのだが、ビザがピザとつながってしまうとは!
French Libraryとしては、少しであっても本については触れておくことにしよう。いつものぞく銀閣寺道の古本屋で300円で買った滝井孝作の『俳人仲間』という本がすごく面白かった。俳句をかじっているというだけでなく、滝井孝作という作家の資質と日本文学の私的記録文の魅力が、言葉を「読ませ」、俳人たちと滝井のつくった俳句仲間の世界が生き生きとして伝わってくるのだ。そんなこともあって、6月末につくった駄句2句、恥ずかしながら、載せてしまうことにする。
*マルクスに兄などおらぬと夏布団
*蝦蛄むく手つき年代記のかたり方
有季定型でやっているのだ。横光利一がヨーロッパでは俳句ができない、といったことを書いていたが、どうなんだろうか。


2011年7月2日土曜日

血尿、横光利一、いつもハン・ヒョジュ


*ここに書いているブログを投稿しようとした直前、フリーズ(error413)!2日たってやっと修復されたが、それまでの文章の3分の1しか保存されてなかった。というわけで、最初の部分を除いて書き直し。
6月という月は、1年でいちばんハードだ。陰暦で水無月。水のない月と思ってしまうが、「水の月」なのだ。その水(梅雨)と、休日のないこと、天候がうっとうしいので身体のスイッチ調節に苦労する、そんな月である。その月も今日で終り。水無月のせいか、3週間前に初めて血尿というのを経験した。尿に薄い赤ワイン色の血が混じった。ネットで検索すると、「絶対に検査だ!」ということが書いてある。なんとなく原因は想像できたのだが、とりあえず病院へ。原因は不明から癌まで、それも内蔵から泌尿器官までと多様である。何ごとも楽観的なので心配はしなかったが、ただし、MRIやCTといった現代の医療テクノロジーによる検査そのものがちょっとした不安をおこす。ギュンギュンという音を響かせながら、身体の奥を映像として暴きだす、そのことが不安をおこすのである。比喩的に言うと「悪い箇所を見つけようとする」冷徹な機械の機械としての意思のようなものにちょっとふるえるのだ。こうした検査は、この歳になると何度も受けてきたが、いつもそんな感じになる。
MRIやCTに比べると、内視鏡での検査は機械的意思の冷徹さの程度が低い。自分の胃や腸の内部映像を画面で見ることができるからかもしれない。もちろん、自分のものとは思えないのだ。どうして自分の内部器官を自分のものと思えないのか?鏡の中の自分は、自分の映像だと信じられるのに、内側の器官は、どうして?そんなことを考える。でもMRIの断面図に比べて、内視鏡でのリアルな画像は何と人間的なことか。ぼくは検査中にいつも画面を見せてもらう。去年、久しぶりに食道・胃、そして腸の検査をしたが、胃の内壁のピンク色の綺麗さは、われながら感激した。外の皮膚は荒れているのに、内側がこんなに綺麗だとは。でも、自分の胃だと確信できない。内蔵を自己化するにはどうしたらよいのだろうか?これは深い哲学の問題となるはずだ。
さてさて、フリーズした前は何を書いていたんだろう。数日前のことなのに忘れている。記憶力減退の問題か?それとも、ブログという言葉のままに書く電子書記形式の問題か?真っ白なパソコン画面は、紙と比べるとどうやら痕跡を感じさせないようだ。6月後半の手帳を見る。そこで、思い出した。ここ1週間の暑さのことを書いたのだった。睡眠調整がうまくいかないこと、蚊にかまれること、掻くことなど、たいしたことではなかった。7月になってしまった。

そんな過ぎた6月、いつも行く古本屋で横光利一の『欧州紀行』(昭和12年)を買い、ついでにネット文庫で『旅愁』も読んだ。昔から気になっていたのに、横光を読んだことがなかったのは、「新感覚派」という日本の文壇的ネーミングがうっとうしかったのかもしれない。ぜんぜん「新感覚派」ではなかった、というより、その意味合いが文章からは伝わってこなかった。でも、あまたと書かれた欧州体験談の中では少し変わっている感じは受けた。欧州という「本格的」な文化風土に悩むところは、近代日本でよくある体験ものの型なのだが、横光の妙な開き直り方とひねくれ方が面白かった。近代日本の欧州コンプレックスとその反転との弁証法と言ってしまっては身も蓋もないが、横光は、その弁証法をただただ個人で引き受けると思ってしまっているところが変わっているのだと思う。『欧州紀行』には、高浜虚子や岡本太郎も登場する。それとあのナチスのオリンピックの様子(その取材が大きな目的だった)も。憂鬱に沈み込みながら、現在にも興味を引くエピソードをちゃんと書いているのは、ジャーナリズム的感覚がしっかりしていたからかもと、現代的に考えてしまう。ひょっとしたら憂鬱を書くことも、近代のジャーナリズム的身振りなのかもと考える。
相も変わらずはまっている(言い方がおかしいか?)、最近ソ・ジソプの魅力を発見した。「カインとアベル」というドラマのおかげだが、そのジソプがハン・ヒョジュと映画で共演するという。贔屓の俳優二人のラブドラマで、韓国では秋に公開らしい。日本公開は来年だろうから、帰国してから見る楽しみがある。日本より早くパリで公開されたらうれしいのだが。パリで韓国語の教室に行こうかと思っている。別の筋からの韓国というのも興味があるのだ。パリの韓国人はどんな感じなのか、そんなことにすごく興味があるのだ。

2011年6月20日月曜日

ダラダラと6月、アルゼンチン、同窓会も


近所の哲学の道に蛍が舞い出した、紫陽花はもう後半。夏野菜も美味しくなってきた。ムサカ(ナス、トマト、ひき肉、チーズを使ったギリシャ起源?の料理)の季節である。こう文章に書くと夏前のこの季節は風情があるのだが、やっぱり、雨の匂いばかりだと気は重たくなる。6月に入って、何かダラダラ過ごしている。8月からのパリでの在外研究の準備もしているが、8ヶ月間とはいえ、することが意外とある。やはり健康のこともきちっとしていかなくてはと思って病院に行ったり、そうそう歯も検査しておかなくては。保険がきかない!受入れ先の機関からの「受入れ協定書」もなかなか来ないのでビザを取りに行けない。フランスのお役所仕事は時間がかかるのだ。準備をしていると、どうも気持ちが落ち着かなくて、本を読んだり考えることが続かない(これはいつものことか)。
はまっていたいくつかの韓国ドラマが終了して、次の番組を待っているのだが、そんなおり、ハン・ヒョジュの百想芸術大賞女優演技賞受賞のニュース。「トンイ」の演技なのだろう、授賞式をテレビで見たが、ちょっとふっくらして、雰囲気が変わっていた。のんびりして太ったのか?服装のせいか?ともかく、大スターの道を歩いているみたいだ。まだ24歳なのに。よくある韓国の大スターと違っていたので、どうなるのだろうと思っていたが、こんなに早くトップに近い所まで来てしまうとは。新しいタイプということなのか?最初からのファンとしては少し寂しいような。
ダラダラしながらも、ネットでさまざまな情報検索を、やっと人並みに、することが日常化してきた。ダラダラするのも悪くない。それで長く気になっていた、アルゼンチンの画家エゼキエル・リナレス(Ezequiel Linares)もきちっと押さえた。これまで、ちょっとしか情報がないと思っていたら、ネット検索を理解してくると、けっこうある。1924年に生まれて2001年に亡くなっている。画像も多くあった。美術史的にいうと表現主義的なのだが、ヨーロッパのそれとは違って、抑圧的あるいは精神の奥といったうつうつしたものはなく、都市的な「生の力」が爆発している。現代文明がつくりあげた文化のシステムのなかの人間のシステムの空しいが、しかし力強いエネルギー。そんな感じだ。やはり、これはリナレルを追う旅をしなくてはと、再確認。少し前に、ブエノスアイレスで回顧展が開かれたようで、その様子がyoutubeに上がっていた。さすが。
こうなるとアルゼンチンが気になって、キーボードをたたく。数年前に観たアルゼンチン映画「カメラ・オブスクーラ」の監督ヴィクトリア・メニス・マリアのことも細かく知ることができた。その映画については、学長をやっていたときのブログに、他の映画の印象とともに触れたのだが、そのブログは消してもらったので、今はまぼろし。少し、その文章を再録してしまおう。この映画のことを日本のヤフーで検索したら、ぼくの文章しかヒットしてこなかった、そんな貴重な日本への紹介だったのだ。
「10数本見たなかで、女性監督マリア・ヴィクトリア・メネスの「カメラ・オブスクーラ」とリサンドロ・アロンソという監督の「リヴァプール」などアルゼンチン映画が印象に残った。20世紀初頭のアルゼンチンのユダヤ人移民家族を舞台として、カメラの視線によって解放されていく女性をテーマとしたのが前者だが、暗室として使われた小屋の小さな板隙間を通して映し出される主人公の映像がなんとも奇麗で、カメラという第二の眼が光とともにあることを改めて実感した。もうひとつの方は、ひとりの船乗りの帰郷を、センタメンタルな要素をすべて削って撮った一種のロードムービーで、DVDだったら絶対最後までは見ないようなタイプの退屈といえば退屈な映画なのに、ラストシーンが素晴らしく(そこではじめてタイトルの意味がわかる)、それですべてがひっくり返って感動してしまう映画だった。こんな映画に感動するのも映画都市のなせるわざか。」と夏の短いパリ滞在の報告としてだった。今年はアルゼンチン映画も多く観れそうだ。
こんな6月、前に勤めていた帝塚山学院大学の同窓会があった。93年あたりに入学した学生のゼミを中心としたの集まりである。結婚して 子供を連れてきた元学生も独身貴族(?)も元気だった。鹿児島からやってきた人もいて感激!同窓会はいろいろなものがあるが、ぼくは教えた学生たちとのそ れが一番楽しい。懐かしいという感情より、彼女たちがどのようになっていっているのか、アラサー前となったかっての女子学生の現在が面白いのだ。もちろん、にぎやかさも笑い声も 変わらない。

2011年6月2日木曜日

Facebook、ネット情報、回転寿司


Facebookに加入してしまった。知っている若い人たち6人からメールでの誘いがあって、「友達になる」をクリックしたのだ。「トモダチ」という言葉に妙なアレルギーがあるのに(子供のときの体験)入ってしまった。実際には、このブックが何をするところかわかってないのだが、去年から目覚めたネットという世界で、とりあえずいろんなことをやってみようと思ってのことだった、ような。それともクリックというボタンシステムのオートマチズムのせいか。使い方を大学院生に聞いて「明日はピザを食べる」と送ってみた。ほんとは明後日なのだが。2週間前に例の(このブログで書いたことがあるという意味で)シェーキーズでたらふく食べたのだが、とにかくピザを食べたい気持ちが、ここ数日続いている(何を書いているんだか)。
ネットに目覚めたというのは、この不可視の網目の爆発的情報量に気づいたからかもしれない。専門の領域でも、情報の充実ぶりはすごい。昔、苦労して注文した資料なども指先ひとつで入ってくる。無料のものも多い。やっと手に入れた、ぼくの専門領域の本が、中指のクリックで手に入ってしまうとは!これは研究そのもののやり方を変えていくかもしれないとも思う。コピーの時代に入った頃を思い出す。
必要な、でも手に入らない本や雑誌を手写していた時代がコピーになって、研究のための情報量は爆発的に増えた。ただし、貴重な資料をコピーしてしまうと、コピーした満足感だけに浸る場合も多く、反省したこともある。それから、コピーは本と雑誌そのものを切り取ったものなので、書かれた内容はわかるが、書かれたこと(écriture/エクリチュール)の手触りの感覚がない。雑誌の場合なら、雑誌全体が見えないので、コピーした論文が、どういった文脈に置かれていたのかがわからないのだ。だから必然的に、内容(意味)だけを読み取るだけになってしまう。本の場合だって似たようなことだ。書かれたことの内容だけを読み取る意味論的な、あるいは解釈的な読み。ぼくはこうした読みに違和感がある。過剰な意味や解釈への違和感かもしれない。そういった意味では、手写しは違っていたように思う。その「手触り」というのは、「もの的」な手触りではなく、書かれたことがどのように派生してきているのかのシステムを見ることといってもいよいか。このことを説明するためには、まだまだ考えないといけないが、少しずつヒントになるような本も見つけた。それは、ネットのエクリチュールとも関係するだろう。ややこしいことを書いたのは梅雨のせい、としておこう。
ネットのことを考えたら、話がなかなか前に進まず、5月後半にはアップしようと思ったブログが、6月になってしまった。あるものごとに出会って考えることがあると、これを書こうと思うのに、数日たつと「まあいいか」ということになる。小さな感激はなかなか持続しない。ただ、習慣化すると「感激」というフィクションができるのだが。回転寿司のこともそうだ。数日前に、久しぶりに全皿100円の「くら寿司」に行った。この回転寿司大手には思い出もある。最初に行ったところだからだ。前の大学に勤めていたときだから、ずいぶん前のことになる。学校帰り、小腹を満たすためにゼミの子たちとよくいった。「すごいね」と学生たちと感激したことを思い出す。寿司の概念を変えたというか、寿司であって寿司にあらず、「回転寿司」という独自の食べ物が生まれてきたことにである。そのときから比べれば、大幅に進化した。初期の回転寿司は、ネタが干涸びるくらいベルトコンベアーの上に乗っていた寿しもあったふが、そのせいで常連たちは、素早く確実に新しく握られた寿しをゲットし、なれない客は時間のたったものを口にするという、小さなプロフェッショナリズムがあった。それが一定の時間で破棄されるという、後期資本主義的民主主義のシステムになり、現在の回転寿司は、味はよくなったが平板なものにもなった。
ともかく、久しぶりのくら寿司でけっこう食べてしまった。久しぶりなのは、家の近くにないからだ。新聞の折り込みの宣伝を見て行きたいと思うが、ぼくの家からは車でしか行けないようなところにしかないのだ。ぼくは免許証がない。回転寿司は、概してそうしたロケーションにある。ファミレス・コンセプト。それが家族の同意を得て行くことができたのだ。味?悪くはない。美味しい?100円なら。ともかく、回転寿司は寿司ではない。「回転寿司」という寿司の進化した新しい食べ物、日本人の加工、あるいは創意能力を最大限生かした食べ物である。ちょうど、インスタントラーメンがある時期から、ほんもののラーメンを追求するのではなく、インスタントラーメン自体の論理を見いだしたように、回転寿司も独自の論理をめざしまだまだ進化するだろう。欲をいえば、エンターテイメント性を加えてほしいと思う。ぼくの理想は、回転のスピードを、時間帯によって変え、現在の3倍くらにする時間帯をつくってほしいということだ。となれば、食べたい皿をうまくとるための技術、スポーツ的技術必要となるだろう。こんな楽しい回転寿司を想像しながら、お腹かヘビーになったのだった。


2011年5月14日土曜日

連休、床屋、読書


急に蒸し暑くなって、しばらくは長袖のシャツでと思い、いくつかのシャツにアイロンをかけたら、もう半袖。南の方では台風1号発生とか。地震、雷、火事、おやじ。最後の範疇は存在感が薄くなったが、3つの怖いものに加えて津波、台風、そして原発も入るはずだ。今年の台風は日本列島を避けてほしいと望むだけだが・・・
連休もあっという間に終わってしまった。ほんとにだらだらした1週間だった。そんな風にしていると、やっぱり本を読みたくなったり文章を書いてみたくなる。気持ちを締めようと、1000円床屋で髪を切り、古本屋に行き、喫茶店で本を読む。こうしていると少しずつ締まってくるような気もする。まずは、1000円床屋がよかった。昔、何度か行ったことがあったのだが、近所にそのチェーン店がなく、ぼくにとっては非民主的な床屋(腕はいいのだが)で散髪していたのだ。なにせ、髪がないぼくのような人間にとって、床屋や美容院は何とも言えない感情をかき立てる場である。同じ値段で、隣で散髪するふさふさした髪の人は30分以上、ぼくは5分だ。それで同じ値段。民主的は悪くはないが、いろいろな民主的があって、悪いことも少なくないのだ。そのあたりの反省がないと、民主的は単なる「みんしゅてき」という考えなくてよい楽な、でも変に規制的な社会コードになってしまう。床屋から話が大きなものになってしまったが、散髪した髪で連休を過ごしたのある。
と、ここまで書いて、翌日続きをと思っていたら、ブロガーがメンテナンスのために使えなくなってしまった。何もない連休を柱に書くつもりだったのに、黄金週間の実感ははるか彼方になってしまった。数日間は蒸し暑くて、もう梅雨?と思っていたら、昨日今日は湿度が低くて、アイロンをかけた長袖のシャツを着ることに。また、洗濯だ。
でもやっぱり、連休中の本の話を書くことにする。よく行く銀閣寺の古本屋とみやこめっせの古本市で、12〜3冊は買ったか。それをカフェだらだら読んだのも連休だった(うん、連休らしい)。興奮したものはなかったが、『婦人公論大學ー結婚編』(100円)という昭和6年に中央公論社から出た本に、明治から大正、昭和の始めにかけて、日本は欧米をダントツに引き離しての離婚王国だったことが書かれていてびっくり。もちろん、離婚認定の制度の違いもあって、離婚率の一般的比較は難しいということなのだが、それにしても、男尊女卑だとはしても家長を中心とした家族が確立していたと思っていたのに、ちょっと違っていたのだった。ぼくが知らなかっただけかもしれないが。その離婚の原因の一番は「遺棄」。裁判所の広辞苑によると「民法上、夫婦や養子縁組の当事者間で扶養義務等を怠ること。裁判上の離婚・離縁の原因となる。」とある。要するに、養う方がお金を出さない(出せないこともあるだろう)ということで、女性からの訴えが圧倒的に多い。ついで、女性の原因では「生死不明」(夫が家を出てしまったということか)、「虐待侮辱」、「受刑」と続き、男性では「姦通」、「生死不明」と続く。啓蒙書なので、細かなことは書かれていないが、日本近代初期の結婚の問題はなかなか興味深い。これまで、この時代の「少女」について調べてはいたのだが、その少女たちが成人し結婚すると離婚という問題が待っていたのだ。現在とほとんど変わらない。ともかく、100円でこんなに考えてしまったのだから安かった!
本を読むリズムが出てくると、外国のものにも身が入ってくる。前に引用するためだけに飛ばし読みしていた本を改めて読んでみるとこれがなかなか。美術の記憶に関する貴重で有益な著作だった。ちなみに、Jean-Claude Chirollet, Les mémoires de l'art, PUF,1998.という本で、このブログで何回が触れた哲学者のダゴニェが序文を書いている。などなど、本のことを書くと長くなってしまうので、やっと本リズム回復の5月になったことの報告(誰に?)。このリズムはアーセナルのふがいのなさと、CLのマンネリ化と無関係ではない。
この8月からのパリ滞在のための準備も初めている。
ビザ申請、アパート探し、受け入れ機関との交渉、飛行機のチケット探し等々、手続きが苦手なのに、けっこうすることが多い。



2011年4月26日火曜日

元気、村上隆、アルチュセール


京都は静か。少し前の、哲学の道の混雑ぶりも、例年ほどではなかったという。ぼくは同じようなものだと感じたが、どうやら人出は少なかったらしい。先週、横浜に行ったら、エスカレーターが使えなかったり、電気を消して薄暗い地下鉄や駅があって、京都とは違うな、これが例の電力不足なのかと感じたものだが、ぼくにはちょうどよい暗さだったし、運動にもなった。自粛というのか、これでは元気にならないという意見も多いようにみえるが、何を称して「元気」というのかは考えないと、と考えて階段を上った。もし、この大災害が、人間の心も含めたこれまでのライフスタイルを変えてみるということであれば、そこでの「元気」とはどんなありようなのかを具体的に考えている人はあまりいなさそうだ。行き過ぎた資本主義の欲望を抑える生活という、原発の裏返しを考えても、新しい「元気」像は浮かんでこない、もう少し何かをと考えているが、想像力がない。ひょっとして、想像力という啓蒙主義の怪物をこれまで信用しすぎてきたのではないかとも思う。
こんなことを瞬間に考えて、横浜の美学会が主催するシンポジウム「美学者VS現代アート」を聞きにいった。村上隆をじかに見たことがないので、行ってみたのだ。昔のサッカー界の「世界の中田」を言説的に過激にしたような人だった。彼にVSする美学者の西村清和と吉岡洋の話はわかりやすく面白かった。村上隆の話しと合うことはなかったとしても、そもそも批評や理論はいつも現場からうさんくさく見られている。理屈嫌いの日本の文化的土壌では、その「うさんくささ」の度合いは海外よりも一段上かもしれない。といっても、それほどの差はないが。にもかかわらず、理屈―美学や批評というレバルだけでなく、政治や経済的理屈も含めて―は、現代アート界でますます力を得てきていると、感じる。そんなことは話合われなかったが、村上隆は「美学会」という小さな制度に馴染んでくれないことは間違いなさそうだ。かなり幅広く考える人がいると思うのだが。だが、これも内輪の人間の戯言だと村上隆に切り捨てられるのだろうが。
授業が始まり、やっと1週間のリズムが少しは出てきた。何に刺激されたのかわからないが、今日は久しぶりに読書しながら本格的(?)に料理をつくった。我が家は、長いこと、豚肉の共同購入をやっていたので、肉料理のメインは豚肉料理だったのだが、久しぶりに牛肉をと思って、シチューにした。グラシュ(正確に日本語で何と書くのか知らないが)というハンガリーのシチューの物まね。それも完全に田舎風に。うまくできた!3時間近く煮込んでいる間、アルチュセールの『哲学について』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。ぼくはマルクス主義についてあまり知らないし、アルチュセールは日本語で『マルクスのために』というのを読んだ経験しかないのだが、面白かった。哲学的に思弁するということの意味がよくわかった。考えることをダラダラやっていることが改めて恥ずかしくなった。考えていなかったのだ。こうした反省はいつものことだが、そのたびに刺激になる。5月は本を読もう。少しだけ韓流ドラマを控えよう。などと、美味しいシチューを食べながら、殊勝なことを考えたのだった。

2011年3月31日木曜日

遅い桜

そろそろブログ更新を、と考えていたら大災害。その日は東京の森ビル49階にいて揺れに酔ってしまったが、刻々と流されてくる映像に比べればどうってことはない。エレベーターが動きだし、1時間30分ほど歩いてホテルまで。JR東海が運行していたので翌日、京都に戻った。静かだった。あとは、テレビばかり見ていた。ネットもチェックした。出張でソウルに行ったが、カフェに入って英字新聞を熟読していた。外国の友人からお見舞いのメールもきた。そんな風にしているうちに3月も終わる。普段は、桜のことなんかを気にするのに、この春はほとんど気にならない。今日、哲学の道の桜を始めて見たら、まだ蕾だった。今年の京都の桜は遅い。
3月は年度末だったので、書類や報告がけっこう多かった。でも、今回は、その客観的な報告書きは気持ちを落ち着かせた。不思議だ。現実味のない報告という報告、形式にそった文言や数値。その現実味のなさに、普通、あきあきしていて適当にやっているのだが、その形式のための形式は、この災禍を前にしてみると、形式としてのリアリティーがあるように感じたのだ。3月11日から溢れ出している膨大な言葉と映像。それらはもちろん、現実を伝えようとしたり、起こったことの何かを伝えようとしているのだが、リアリティーがない。リアリティーと言っているのは、物事が物事そのままに表象されていると幻想させる力の度合いのことだが、映像にのる津波は、原発は、また被災地は、そのような力をもっていないと感じてしまうのだ。情報社会と言いながら、ぼくたちは、ヴァーチャルという言葉を使いながら、実に暢気な情報社会を生きてきたものだと思う。物事を物事として伝える技法を真剣に考えてこなかったということだろう。変に安らいでしまった報告書のような、形式のための形式の技術だけを磨いてきたようにも思う。ぼくもそのひとりである。つくづく知的怠慢だと思う。明日からは4月だ。

2011年3月9日水曜日

携帯電話

携帯が故障してしまった。ズボンのお尻のポケットに入れていたのが失敗だったらしい(でも、これまでもしていたことなのに・・・)。朝起きて携帯を手にとると「しばらくお待ち下さい」のメッセージが間断的に点滅するだけで、ウントモスントモ。結局、データは完全消失し新しいものに取り替えることに。それからが大変。電話番号の記憶を携帯に頼っているので、身内の携帯の番号さえわからない。実はメモリーカードも入れてなかったのだ。いっときの情報孤独。長い時間ではなかったが、不思議な気分だった。ともかく、パソコンで通信したことのある人には連絡し、携帯だけの人には、知り合いに聞いてもらっているが、連絡したい人の番号とアドレスがわからない人もいる。かかってくるのを待っているだけである。そんな私的携帯問題があった数日後、例の携帯カンニング問題。言いたいことはいっぱいあるが、カンニングした受験生を悪質な犯罪者のように追い込んでいくことには違和感が強い。こんな感じをもっている人も少なくないのではないか。
携帯をもって何年になるのか忘れてしまったが、いろいろ機種は変えてきた。でも進化した携帯機能をフル活用しているわけではない。むしろ、電話とメール(大半はパソコンだが)に限定されている使い方で―といっても通話回数はきわめて少ない―、ガラパゴス化した日本携帯の恩恵はまったく受けてない。ネットもゲームも音楽もしない。というのも、ケチなせいか、携帯でネットにアクセスしてお金を払うのがいやなのだ。でも、何の不都合もない。レストランを探すのだって、レストランだから当然誰かと一緒なので、かならず検索してくれる人がいるからだ。携帯での情報取りは他人任せ。その方が楽しい。この携帯情報音痴(?)は、携帯を駆使する人にとって、「期待の地平」(携帯達人であることを理解してほしいという)を実現してくれる人になる。ゲットした情報を「すごい!」と感心すると、何故か喜んでくれるのだ。無能が喜ばれるという逆説?
携帯といえば、韓流ドラマで面白い働きをしている。携帯電話やメールが話しの展開を運ぶ役割を担っているのだ。とにかく、携帯の場面が頻繁に登場する。愛情の確認、愛の終りの電源切り、返信なしの場合の愛への不安、秘密の共有等々、携帯がドラマを運ぶのである。ナレーターである。その上、ドラマで見るかぎり、韓国の人は人の携帯に出る、あるいは見る。メールなんかだと内容を読んでしまうことも少なくない。これは日本でも、浮気の確認に使われるシーンとしてあるが、韓国の方がずっと多い気がする。ともかく、
携帯よって物語は複雑さを増し、愛情は絡み合っていく。あたかも、愛情の複雑を象徴するかのように。これは恋愛ドラマの場合。他のジャンルでも使われているのだろう。こうなると携帯は単純にコミュニケーション・ツールなどと言ってられないことになる。物語性の重要なパートを担っているのだ。携帯社会というのはこうしたことなのだろうか。
携帯について書いてみると、いろいろなことがヤマほどあることに気がつく。前任校(女子大だった)で1分間で100文字打つ学生がいると噂があり、すごいということになっていたが、ひょっとしたら今では常識なのかもしれない。とすると、親指の働きがすごく進化しているということに違いない。そうなると、他の指はどうなのだろう。パソコンをしているので指の運動機能はすごく進化しているのだろう。つまり、携帯やパソコンの発達は指という末端の身体を変えているということだ。そのうち、キーボードに適応する手と指になっていくのだろうが、どのような形か見てみたい。テクノロジーは身体を疎外するといった言説を聞くことがあるが、その逆のこともあると、携帯のことを考えていると思う。昔は鉛筆ダコというのがあったが、若い人たちは携帯ダコがあるのだろうか?
さて、今日はチャンピオンズ・リーグのアーセナルとバルサの第2レグ。現在スカパーを中断しているので、見るのは数日後。なんとかアーセナルにとは思うが・・・それからこの10日にハン・ヒョジュが「トンイ」のNHKでの宣伝のために来日するとのこと。これもチェックしなくてはならない。
去年の11月から有料で見てきた「トンイ」が今週終わる。1週間の気持ちのいいリズムをつくっていたので終わると寂しい。それからメディア芸術オープントークと大正イマジュリィの全国大会。来週はソウルにも行く。3月らしからぬ3月を過ごしているような。


2011年2月21日月曜日

ピザ、3D、洋画

このブログを読んでいるという珍しい人からメールがきて、だんだんグダグダになっているという。「グダグダ」というのが更新をしないということか、内容が文字通りそうなのか、わからないが、ともかく、自分のペースと文体で続けるので、たまにのぞいて下さいと言うしかない。前回、少し時間ができてきたなんて書いたと思ったら、ほんの数日だった。
この2月のヒットは、東京へ行った折に食べたピザである。ピザ好きのことは何回か書いたが、その中目黒にあるピザ屋(名前は忘れてしまった、とにかく行列ができるほどだから有名店なのだろう)のことも触れたことがあると思うが、そのピザをまた食べにいったのだ。そのピザは、記憶では、日本で食べたピザのなかで最高位だろうと思う。味についてのグルメ的表現はできないが、昔フェラーラの駅前で食べたピザ、あるいはナポリのそれなどに近いということなのだ。ただし、フェラーラのピザをそのまま日本で食べると、おそらくそんなには感激しないのは、現地で(とくに外国)感激した食べ物を持ち帰った時に味わう軽い失望のことを思い出せばわかる。中目黒のピザ屋のピザは、フェラーラに似ているというのではなく、フェラーラのピザと等価なピザを日本でつくっているということだろう。だから、そのピザをイタリアで食べたらとは想像はしない。
中目黒のピザを食べた週は、東京でメディア芸術の国際シンポジウムに出て、その翌日、六本木でメディア芸術祭を、そのまえに東京都写真美術館で「3Dヴィジョンズ」。芸術祭はちょっと不思議な展覧会だった。ゲームショーとも違うし、近代的な展覧会とも印象が違う。といって現代アートのビエンナーレの感じでもない。展示されるもののと展示することにズレがある、そのために、うまい言葉が見つからない、あるいはどのような態度をとってよいのかわからない、そんな感じ。もうひとつの「3D」では、現代のITが人間の記憶法に新しい方法で関与できることと、そのリアリティーについて、藤幡さんの作品から学んだ。近代的3Dへの欲望との切断は確実にある。現在の3Dブームは依然として近代的だ。そこが面白くない。それが何なのか?その問題について考えている人はそんなに多くはないのではないか。こんなことを学んでいるのは、これまた前に書いた、フランスの哲学者フランソワ・ダゴニェからである。なかなかページが進んでいかないのだが。
そういえば、2月は大学の業制作展の時期なので、自分の大学のものはやっぱり見にいく。この形式もけっこう不思議なものなのだが、教師としては、知り合いの学生の作品に眼がいく。あの学生がこんなものを!と感じるとうれしくなる。そのついでに京都近代美術館で麻生三郎展も。日本の洋画は文字通り泣ける。日本近代の涙ぐましさと屈折感に思わず涙が出るのだ。韓流のドラマの涙とは違って乾きが遅いのでやっかいである。
現在急速に「洋」のつくもの、洋画、洋食、洋楽等々、その感じが失われていく。洋画もそのうち消えていくだろう。それは健全なことではあるのだろうし、文化・芸術のレベではいいことだろう。でも、無くなってほしくもないとも思う。ぼくの世代の心性である。洋画(遅れて日本画も同じことになるだろう)はペインティングに、洋食はフレンチ、イタリアン等々に分けられ、音楽はもっと細かな分類体系をつくりあげている。分類はインターナショナルな基準に従うようになる。でも、洋画という近代日本の西洋風の絵が消えていくのは寂しいのだ。あの西洋絵画に近づこうとするけなげな精神は、そんなに馬鹿にしたものでもない。そこにちょっとした創意さえあったなら、ちがった絵画が生まれてもいたのにと思う。芸術とか文化という観念に多くの画家が負けてしまったせいかもしれない。それに比べれば、料理の方はたくましい。トマトケチャップとたこウインナーでナポリタン・スパゲッティをつくりあげる近代洋食の自由さを少しでももっていたら、いま、洋画の前で湿った涙をながすこともなかったのにと思う。
日差しが春らしくなってきた。家のまわりの猫たちが騒がしい。猫の恋カマンベールに少し黴。

2011年2月2日水曜日

読書とWonder Girls

寒い寒いと言っていたらもう2月になってしまった。1月は、ほんとにわさわさしていた。こんな感じは嫌いではないが、ただ、じっくりと本を読むことができない。実際、1月は読まなかった。中断しているもの、読まなくてはいけないものもあるのに。まあ、学年末、メディア芸術オープントーク、大学院での長谷川さんのワークショップなどなど、いろいろ楽しかったこともあったのでよしとするが、でも、1ヶ月も本を読んでいないと読みたくなってはくる。映画も映画館で見てないし、こちらも。2月はマイホビー的にちょっと活動的にと思い、一昨日からちょっとした気分の仕切り直しをした。まずは、本だ。
銀閣寺の古本屋「善行堂」はときどき行く古本屋である。本の質が高いし行けば何かある。そこでまず3冊買って、近くのユニバースというカフェで全体をパラパラ読み始め、あとは家で。じっくりというのではないが、2日間でだいたい読んだ。ひとつは新古書というのか『バロン・サツマと呼ばれた男』(村上紀史郎著、藤原書店)。薩摩治郎八という希代の放蕩息子のことは少し気になっていたので、この本をチェックはしていた。新刊より1300円安かったので思わず買ってしまったのだ。薩摩の記録的側面はずいぶん補充されていたし、周辺の情報も加わっていたてそれなりに面白く読んだが、ただ、ああした人物を産みだした近代日本と人間についてのつっこみが少ないのがもうひとつ。あと2冊は、森銃三・芝田青曲の『書物』(白揚社)と
河上徹太郎の『戦後の虚実』(文學界社)とで文字通りの古書。それぞれ昭和19年と昭和22年。スランス文学者河上の本はちょっと腹が立った。日本の典型的なリベラルな知識人の戦争直後の苦渋告白に、日本近代のヒューマニズムの貧しさ見せられてしまったというか。こうしたメンタルをどうやって薄くしていったらよいのか、ぼくにとってのずいぶん前からの課題だ。その点で薩摩は参考になる。といっても、こっちはお金持ちではないのが・・・。『書物』は面白かった。19年という戦時なのに、その影もなく、淡々と本について書いているところが面白いし、言い回しにユーモアある。装幀もぼくには奇麗に見える。これも戦時の小さな情景なのだろう。
マイホビー的熱がでてくると、他のことも気になって、本と読む時間との格闘が始まるのが悩ましいところである。上の3冊を読む間をぬって、Wonder Girl'sの「Nobody」を繰り返し聞きYouTubeで映像を見るというような読書だった。学生からのレポートにK-POPのことが書いてあって、それで、数年前に「Tell Me」に感激した
Wonder Girl'sを思い出したのだった。その曲にもまして「Nobody」は名曲だったのだ。思わず、i-storeで曲を買ってしまった。また、これは初めて見たのだが、アメリカ・デビューのMVが素晴らしい。河上徹太郎風の人間たちに聞かせてあげたい。3月にソウルに行く予定なので韓国版のCDやMVを買ってこよう。


2011年1月18日火曜日

境界のこと


今年は冬らしい冬だ。寒く雪も積もる。そういえば去年の夏は夏らしかった。こうした「らしさ」というのはかなり好きで気持ちはいいが、少し喉風邪をひいてしまった。ここ数日、夜中にゴホゴホやっていて睡眠不足。
メディア芸術オープントークで沖縄から京都と温度差17度を移動したためか、寒さと雪のためか。でもこれも悪くない。たまには風邪くらいひかなくては。ちょっとギアチェンジができる。何の?気分かな。何回ものうがいと何粒もの喉飴は気分を変えてくれる。どんな風に?気分なのでうまく説明できないけど、下に載せる文章のことを思い出させるようなことも、そうなのかもしれない。何年か前に、学生たちのグループ展のチラシ用に書いた「境界を超えて」という文章のことを強く思い出したのである。そうなったのは先週の週末の長谷川祐子さんの大学院プログラムでのワークショップとゲストのスプツニ子!さんの「タカシ」くんのことも関係しているかもしれない。少し変更しているが、ぼくの記録としても、このブログに残しておこうと思って、採録することにした。

「境界のむこうとこちら」
フランソワ・ダゴニェという哲学者の分類学に関する本が海外のネット書店から届いた日のことだ。海外から郵送されてくるものを受け取った日は、なぜか気持ちがいい。いくら睡眠不足でも、その日は少し高揚する。港や空港、大陸の鉄道駅にいるときも、似たような気持ちになる。どうしてなのか、と、長い間考えてきた。そんなこと考えなくてもよいのにそうしてしまうのは、その気持ちがぼくにとって大切なことだからだろうし、考えることで、気持ちが心の奥の方に入っていく感じもするからだ。それは、そこでぼくが境界に立っているからだろうと思う。結局は、郵便も、空港や駅も境界ということに関わっているのだ。あまりにもあたりまえすぎて、気づかなかったのか、というより、その境界に立つことの意味を実感するために長い年月がかかったということなのか。
境界は、こちらとあちらを分ける単なる地理学的な分類概念ではない。その場に立つものにとって、境界は向こうを見渡せる、あるいは渡っていけるという未来への欲望を生じさせる場であると同時に、こちら側を振り向く場ともなる。つまり、歴史を自覚する場ともなる。大袈裟に言えば、境界は「私」を時間と空間の交差点に置く場である。といっても、年を重ねると、境界を渡ってしまうことはけっこうきつい。できるのは、向こう側を眺めながら、後ろを振り向く、前後の繰り返し視覚運動くらいだ。「ノスタルジー」が生じる場でもあるのだが、このことに触れることはやめておこう。
ただし、境界という交差点は、一般には、制度として理解される。国と国、男と女、学校と社会等々、極論すれば、境界は世界という制度をつくりあげているものだ。というより、世界を制度という意味で考えれば、それは境界によって腑分けされた地図ともいえるのだ。
その意味では、アートもそうした境界のひとつである。しかし、アートは別の種類の境界ともなる。そこが面白いと思っている。制度的に固定された境界とは違って、新しく境界をつくる営為としても存在するからだ。その作品が世界に新しい線を引くのだ。そして、新しい、こちらとあちらをそこに打ち立てる。ときどき、その二つの界が人に混乱を起こすこともある。新しい境界はいつでも混乱したものだからだ。そうして、人はアート作品の向こうに新しい何かを見たくなる。そうした境界は気持ちのよいものだ。そうした境界をひくのに、現在はすごくよい時代であるように思っている。


2011年1月4日火曜日

謹賀新年


去年の12月はなんか忙しくて、ブログをひらく時間もなく年を越してしまった。この暮れの京都は大晦日に雪。その風景でつく法然院の除夜の鐘はなかなかの風情で、身についた1年の垢が落ちる感じがした。我が家の毎年の暮れの行事は大掃除。網戸、窓ガラス、掃除等々、軽いヘルニアをもつ腰にはけっこうつらいが、これをしないと正月が来ないという気持ちなので、3〜4日かけてしまう。加えて、下水管がつまったので、その掃除。大変だった。身体がぎしぎし、手のいたるところに傷。そんな身体で大晦日を迎え正月となる。あとはただ食って寝る。その間に年賀状を書き、新年会などもあって、お腹がずーっと満腹状態という、典型的な寝正月。そのうえ、この正月は韓流ドラマ「エデンの東」にはまってしまったので、さらに大変(大変というのは楽しいということも含んでいる)。韓流はとにかく長いので身体にくるのだ。眼のチカチカと睡眠時間。
そんなわけで三が日は終り、明後日は授業開始。1月はけっこう予定がつまっている。メディア芸術オープントークのために9日沖縄、10日京都。京都はマンガミュージアムで2時から。次の週の15、16は長谷川祐子さんのディレクションによる大学院授業の展覧会、ワークショップ。16日にオープニングを兼ねたショー。ゲストが最近話題のスプツニ子さん。楽しみだ。誰でも参加できるので来て下さい。場所は精華のギャラリー・フロール。それから期末試験や発表会、23日には金沢でオープントーク。このトークは、メディア芸術という領域、あるいはメディアとともある芸術(表現)って何だ、ってなことを考える対話会のようなものなので、けっこうレイドバック(死語かもしれない)な雰囲気です。興味ある人は参加してください。詳細はネットで検索して下さい。それから29日にはソーシャルキッチンで「美術史の美術史」をテーマにした3回目のレクチャー。美術関係の古書も超割安価格で販売します。
と、1月の告知版になってしまったが、このブログの情報性の薄さを考えると、これはぼく自身のためのメモかもしれないなとも思うけど、でも、こんな情報は日記なら書かないので、やっぱり誰かに向けて書いているんだとも思い、宛先は誰なのか、特定の宛先のないこうした文章の文体についても考える。ブログの文体についてはかなり面白い問題になると思っているが、今日は、脳と身体にたまり出した脂肪がじゃまして考えることがじゃまされている。明日あたりから脂肪をとっていかなくては。
このブログを見ていただいているみなさん、今年もよろしくお願いします。