2011年2月21日月曜日

ピザ、3D、洋画

このブログを読んでいるという珍しい人からメールがきて、だんだんグダグダになっているという。「グダグダ」というのが更新をしないということか、内容が文字通りそうなのか、わからないが、ともかく、自分のペースと文体で続けるので、たまにのぞいて下さいと言うしかない。前回、少し時間ができてきたなんて書いたと思ったら、ほんの数日だった。
この2月のヒットは、東京へ行った折に食べたピザである。ピザ好きのことは何回か書いたが、その中目黒にあるピザ屋(名前は忘れてしまった、とにかく行列ができるほどだから有名店なのだろう)のことも触れたことがあると思うが、そのピザをまた食べにいったのだ。そのピザは、記憶では、日本で食べたピザのなかで最高位だろうと思う。味についてのグルメ的表現はできないが、昔フェラーラの駅前で食べたピザ、あるいはナポリのそれなどに近いということなのだ。ただし、フェラーラのピザをそのまま日本で食べると、おそらくそんなには感激しないのは、現地で(とくに外国)感激した食べ物を持ち帰った時に味わう軽い失望のことを思い出せばわかる。中目黒のピザ屋のピザは、フェラーラに似ているというのではなく、フェラーラのピザと等価なピザを日本でつくっているということだろう。だから、そのピザをイタリアで食べたらとは想像はしない。
中目黒のピザを食べた週は、東京でメディア芸術の国際シンポジウムに出て、その翌日、六本木でメディア芸術祭を、そのまえに東京都写真美術館で「3Dヴィジョンズ」。芸術祭はちょっと不思議な展覧会だった。ゲームショーとも違うし、近代的な展覧会とも印象が違う。といって現代アートのビエンナーレの感じでもない。展示されるもののと展示することにズレがある、そのために、うまい言葉が見つからない、あるいはどのような態度をとってよいのかわからない、そんな感じ。もうひとつの「3D」では、現代のITが人間の記憶法に新しい方法で関与できることと、そのリアリティーについて、藤幡さんの作品から学んだ。近代的3Dへの欲望との切断は確実にある。現在の3Dブームは依然として近代的だ。そこが面白くない。それが何なのか?その問題について考えている人はそんなに多くはないのではないか。こんなことを学んでいるのは、これまた前に書いた、フランスの哲学者フランソワ・ダゴニェからである。なかなかページが進んでいかないのだが。
そういえば、2月は大学の業制作展の時期なので、自分の大学のものはやっぱり見にいく。この形式もけっこう不思議なものなのだが、教師としては、知り合いの学生の作品に眼がいく。あの学生がこんなものを!と感じるとうれしくなる。そのついでに京都近代美術館で麻生三郎展も。日本の洋画は文字通り泣ける。日本近代の涙ぐましさと屈折感に思わず涙が出るのだ。韓流のドラマの涙とは違って乾きが遅いのでやっかいである。
現在急速に「洋」のつくもの、洋画、洋食、洋楽等々、その感じが失われていく。洋画もそのうち消えていくだろう。それは健全なことではあるのだろうし、文化・芸術のレベではいいことだろう。でも、無くなってほしくもないとも思う。ぼくの世代の心性である。洋画(遅れて日本画も同じことになるだろう)はペインティングに、洋食はフレンチ、イタリアン等々に分けられ、音楽はもっと細かな分類体系をつくりあげている。分類はインターナショナルな基準に従うようになる。でも、洋画という近代日本の西洋風の絵が消えていくのは寂しいのだ。あの西洋絵画に近づこうとするけなげな精神は、そんなに馬鹿にしたものでもない。そこにちょっとした創意さえあったなら、ちがった絵画が生まれてもいたのにと思う。芸術とか文化という観念に多くの画家が負けてしまったせいかもしれない。それに比べれば、料理の方はたくましい。トマトケチャップとたこウインナーでナポリタン・スパゲッティをつくりあげる近代洋食の自由さを少しでももっていたら、いま、洋画の前で湿った涙をながすこともなかったのにと思う。
日差しが春らしくなってきた。家のまわりの猫たちが騒がしい。猫の恋カマンベールに少し黴。

2011年2月2日水曜日

読書とWonder Girls

寒い寒いと言っていたらもう2月になってしまった。1月は、ほんとにわさわさしていた。こんな感じは嫌いではないが、ただ、じっくりと本を読むことができない。実際、1月は読まなかった。中断しているもの、読まなくてはいけないものもあるのに。まあ、学年末、メディア芸術オープントーク、大学院での長谷川さんのワークショップなどなど、いろいろ楽しかったこともあったのでよしとするが、でも、1ヶ月も本を読んでいないと読みたくなってはくる。映画も映画館で見てないし、こちらも。2月はマイホビー的にちょっと活動的にと思い、一昨日からちょっとした気分の仕切り直しをした。まずは、本だ。
銀閣寺の古本屋「善行堂」はときどき行く古本屋である。本の質が高いし行けば何かある。そこでまず3冊買って、近くのユニバースというカフェで全体をパラパラ読み始め、あとは家で。じっくりというのではないが、2日間でだいたい読んだ。ひとつは新古書というのか『バロン・サツマと呼ばれた男』(村上紀史郎著、藤原書店)。薩摩治郎八という希代の放蕩息子のことは少し気になっていたので、この本をチェックはしていた。新刊より1300円安かったので思わず買ってしまったのだ。薩摩の記録的側面はずいぶん補充されていたし、周辺の情報も加わっていたてそれなりに面白く読んだが、ただ、ああした人物を産みだした近代日本と人間についてのつっこみが少ないのがもうひとつ。あと2冊は、森銃三・芝田青曲の『書物』(白揚社)と
河上徹太郎の『戦後の虚実』(文學界社)とで文字通りの古書。それぞれ昭和19年と昭和22年。スランス文学者河上の本はちょっと腹が立った。日本の典型的なリベラルな知識人の戦争直後の苦渋告白に、日本近代のヒューマニズムの貧しさ見せられてしまったというか。こうしたメンタルをどうやって薄くしていったらよいのか、ぼくにとってのずいぶん前からの課題だ。その点で薩摩は参考になる。といっても、こっちはお金持ちではないのが・・・。『書物』は面白かった。19年という戦時なのに、その影もなく、淡々と本について書いているところが面白いし、言い回しにユーモアある。装幀もぼくには奇麗に見える。これも戦時の小さな情景なのだろう。
マイホビー的熱がでてくると、他のことも気になって、本と読む時間との格闘が始まるのが悩ましいところである。上の3冊を読む間をぬって、Wonder Girl'sの「Nobody」を繰り返し聞きYouTubeで映像を見るというような読書だった。学生からのレポートにK-POPのことが書いてあって、それで、数年前に「Tell Me」に感激した
Wonder Girl'sを思い出したのだった。その曲にもまして「Nobody」は名曲だったのだ。思わず、i-storeで曲を買ってしまった。また、これは初めて見たのだが、アメリカ・デビューのMVが素晴らしい。河上徹太郎風の人間たちに聞かせてあげたい。3月にソウルに行く予定なので韓国版のCDやMVを買ってこよう。