2011年8月28日日曜日

研究と昼飯


早いものでこちらにきてもう1ヶ月近く。ヴァカンス王国フランスの夏も終わっていく。近所の閉まっていたカフェや店も開いてきて、平常の姿になりつつある。研究の方は(なんせ、在外研究で来ているので)少しずつ。ただし、研究のやり方が従来とかなり変わってしまった。ネットに開かれた膨大なアーカイブのおかげである。多くの資料(マニュスクリまで)がネット上で検索、そして閲覧できるようになって、ある意味で、研究はどこでも、いつでもできるようになってしまったからである。もちろん、手に取らなければならない資料もあるので、ここにいることが便利なのは言うまでもないが、昔のように、探すことからしてアナログなやり方は、基本的になくなりつつあるということだろう。
ただし、そうやって電子的なものだけでやっていると、現物の資料とともにわかってくる時代感覚というか、そんな能力を落とすような気もする。ピンポイントで検索でき、それだけを引き出してくるからだ。それもデジタル形式で。紙の手触り、奥付けの出版情報、本や雑誌の匂い、その雑誌であれば、そこに掲載された別の論文や記事といったものに接することはない。引き出された資料は、そこにあるテーマを論理的に説明・解釈する「意味」としてだけ現われる。学術的という論理の世界は、こうした意味の世界なので、悪いということはできないが、世界に論理的意味を与える言説が、知として特権化されることが学術ということであれば、ぼくは少し納得できない。世界は信じがたく多くのものを抱えているからだ。ぼくは美術史をやっているが、そうした歴史に関係するためには、資料の時代的手触りといったものは必要であるに違いない。こんなことを考えながら、研究所に行くのである。
まあ楽しみは、そこに付設されている食堂で昼ご飯を食べることである。フランス語でカンティンヌという学食や社食、あるいは給食のことなのだが、レストランの高いパリでは格別の安さで質も悪くはない。毎日、メインが4種類用意され2、5ユーロほど。当然、前菜とデザート(ぼくは取らないが)、そして飲み物という、日本で言うフルコースの昼食となる。トータル5〜6ユーロ。半分くらいの人はワインなどを飲んでいる。機内食で出てくるあれで、だいたい1€以下。ぼくは学食を始め、給食ものが好きなので、好奇心がうずうず。それに毎日ピザがメインにあって焼いたものを出してくれるのがうれしい。ピザがおいしくないパリでは、値段を考えれば格別のピザである。こんなところで、ぼくのピザ心が満足されるとは思わなかった。そうして満腹になると、机に戻ってウインドウズの画面に向かおうという気持ちが少し萎える。そんなことで、どうしたらうまく研究体制に入れるのか、まだ試行中なのである。
短期間で来るときには、まあ一人ということもあるが、毎日のように映画館に行くのに、今回はまだ3回だけ。アパートの近くに、少し前まで「サン・ランベール」(現在はチャップリン)と言っていた名物映画館があるのに、まだ一度も行っていない。一番落ちのいい映画がかかっているので、行きたいのだが、夕食を食べてしまうと、4階から下に降りるのがおっくうになる、それだけのことなのだが。「おっくう」って標準語なのだろうか?ともかく、常連になるつもりだ。とりあえず、来週にはパスなど買って、イラン映画「別れ」とかイタリア映画「静かな生活」などを見ようかと思っている。
あまり面白くない日記風の文章になってしまった。昨日は土曜日だったこともあって、ベルヴィルという界隈のタイ・レストランで、知り合った日本の人たちと、食べ過ぎ、飲み過ぎたせいかもしれない。それとも夏が終わっていくせいか。



2011年8月21日日曜日

緑の光線、ノルマンディー、ジェーン


「緑の光線」を見た。夕日が海岸線に沈む直前に、太陽が緑色の光を放つ、その光線のことだ。珍しい気象現象らしい。エリック・ロメールの映画のタイトルとなり、映画でもその光が映しだされていた。その光線を、下ノルマンディーのクタンヴィルという小さな避暑地の海岸で目撃したのだ。シャッターを押したが、映ってなかった。ぼくが見たのは、光線というより、太陽が緑色になったという感じで、「緑の太陽」あるいは「緑の夕日」といった感覚だが、初めてなので、見終わったあとの感動は、いうまでもがな。夕日が水平線にしだいに沈み始めていき(この光景も素晴らしい)、空が朱色と青色の光に覆われ、最後に、それも一瞬だけ緑の光が、太陽が・・・。
自分の感覚で太陽が緑と感じたら、そのように描けばいいと書いたのは、明治43年の高村光太郎だった。緑色の太陽は美術における反自然主義的な主張のキーワードだったのだが、こうして実際に目撃すると、自然は人間の想像力をはるかに超えることがわかる。反自然主義よりも自然主義のがずっと大きい考え方だとわかる。こんなことを書いていると、「緑の光線」の魅力が失われる。翌日は、雲が多くて見ることはできなかった。
週末を過ごしている、この海岸地帯は、これもロメールの「海辺のポリーヌ」という名作の撮影が行われたところで、いかにもフランスらしい海岸の避暑地(こちらの思う)。加えて、美味しい食べ物。最初の日の夕食は、ここの主人が釣ってきたサバの蒸しオーヴン焼き。次の昼はムール貝とフライド・ポテト、夜は牡蠣。このあたりの名産である。そして、それぞれの食べ物にピッタリのシードル、ワイン、そしてカルヴァドス。リンゴの産地でもあるノルマンディーはグルメ地方なのだ。こんな食事の間に何年かぶりの水泳。あ〜あヴァカンス。
そのついでに、この地方でも知られた教会、クタンスという町のノートルダム聖堂を、友人でアーティストのジェーン(昔はジェニーと言っていたのだが)のお母さんが案内してくれた。彼女はプロのガイドで、知識は半端ではなかった。前にはモン・サン・ミシェルのガイドもしていたそうだ。ここは、その観光の聖地に近いところなのだ。行こうと思ったが、夏は人が多すぎるので冬に行こうということになって、近くのクタンスという町へ。
ノルマンディーの教会建築のことはまったく知らなかったけど、もともとのローマン様式(古代ローマの建築に発するが、ヨーロッパ各地でさまざまな地域性をもつ)がフランス王の征服によってゴシックへと変わっていった痕跡がはっきりとわかり、すごく面白かった。というのも、お母さんの配慮で聖堂内部に入ることができ、建物の内部を見ることができたからである。概観は華麗なゴシックだが、内部は、その前のローマンを残しているところも多かった。ローマンといっても、ノルマンディーのそれはかなり重たい感じだ。それが華麗なゴシックに変わる。そのとき北ヨーロッパは真のカトリック王国を確立することになったのではないか、そんなことを想像させる。
あと、ちょっとだけジェーンのことを書こう。彼女のことは、この4月に精華の卒業生たちの展覧会のパンフレットに少しだけ書いた。京都の室町アートギャラリーで行われた「美しき町」というグループ展だ。少し前にジェーンから送られたフランスの田舎町でのワークショプと、「美しき町」のイメージがリンクしたこともあった。
彼女は7年前、1年ほど京都にいて親しくしていた。カーンという町の美大を卒業して、アーティストを目指していた。その彼女がちょっとした障害を克服し、2年前には母親となり、再びアーティストへの強い希望を持ち活動しているのである。そんな彼女の姿は、「アートとともに生きる」ことの意味を考えさせてくれたのである。日本で一度展覧会ができたらと思う。
そんわけで、短い週末のノルマンディーは終わった。フランスのヴァカンスはあと少し。

2011年8月11日木曜日

パリから2ー二つの界隈、再会、洋野菜


パリに来てやっと落ち着いた。来年の3月まで住むことになるアパートに入り、地域の雰囲気もそれなりにつかめ、生活のペースもできた。長い滞在が2度目なので、すんなりいくことはありがたい。ただし、滞在許可証の手続きが残っているのだが。住むのはパリの15区。地下鉄12号線のヴォージラールという駅近く。モンパルナス駅の裏の方。地図でいうと南。中流上の地区のようだ。だから、白人が主流で、ちょっと庶民的な「おフランス」の雰囲気である。。近くにも魅力的な地区(とくに、コメルス通り)もある。その通りのカフェで、今の季節、よく晴れた日、夕方に飲むビールは最高だ。日本では夕方にビールを飲まないが、こちらではそうもいかなくなる。
借りることになったヴォージラールの日本の友人のアパートは、前回の滞在時に出会い、その後何年も親しくしていたロシア・フランスのカップルが住んでいた同じ建物だった。こんな偶然って、ないよね。ともかく、驚愕!その夫婦とは10年以上連絡することができなかったのだが(北米に行ってしまったため)、偶然の魅惑の力は二人を発見させてくれた。ネット時代ということもあるが、連絡がついた!10数年という年月は、いろいろなことが起こると、いまさがながらしんみりする。再び巡り会ったこのカップルとは終生つきあっていくだろう。2年前にフランスに戻り、リヨンに住んでいるという。ダンナの方はすっかりえらい研究者になっているようで、これもうれしかった。
今のアパートに入るまで、1週間だけ、ヴァカンスで留守になった友人のアパートにいた。こちらは、ヴォージラール界隈とはまったく違った雰囲気。アフリカ、アラブ、そしてアジアからの人が多い。お世辞にも「おフランス」と言えるところではない。民族が混在する、今のフランスの現実を映し出す界隈なのだ。こんな街にいると、ぼくもどこから来たのかわからなくなる感じがする。そのことが気分いいと思うこともある。コスモポリタン(世界人)とかノマド(流浪の民)ということを感じ、うれしくなるのだ。近代のひとつの果たせぬ夢の生き方だった。もちろん、日本の特殊性、そんなものは通用しない。ただ、ひとりの人間という感じなのだ。だから、気軽でもある。まあ、つらく厳しい現実を経験せず、わがまま放題に暮らしてきた人間が、コスモポリタンとかノマドと言ったところで、知識人の頭でっかちにすぎないし、そんなことが実際できるわけもない。でも、その界隈には、国を離れ異国でぎりぎりの生活をおくる、あるいは、世界を難民しながらやっとパリにたどり着いた人もいるだろう。そんなことを考えると、コスモポリタンなどと思い出したことが恥ずかしくもなる。
妙に話になってしまったが、こんなことをずっと考えていたわけではない。いつも考えているのは、ご飯のことである。何を食べようか。短い期間でも住むとなると、やはり家飯となる。ぼくは米を食べたいと思わないので苦労はない。ともかく、毎日サラダを食べている(もちろん肉や魚も)。何といっても、こっちはオリーヴ・オイルにあう野菜がふんだんにある。日本では値のはるアンディブ(チコリ)、アーティチョークは安いし、もちろんズッキーニ(クルジェットという)も。キノコ類も豊富だ。秋に入るとそのバリエーションはさらに増える。パリの外飯は、基本的には高いし、値段に見合っていない。もちろん、美味しいものはあるに決まっているし、美味しいが,
―といってB級グルメ派のせいかフランスで星のついたレストランに入ったのは、長く来ているのに1回しかない―コスパフォーマンスにちょっと納得がいかない。そんなこともあって、久しぶりに夫婦でスーパーやマルシェ(路上市)で買い物をしていた最初の10日間だった。

2011年8月2日火曜日

おパリ、大韓航空、そしてオリーブパン


昨日パリに着いた。インチョンからの大韓航空はがらあき。あんな少ない乗客の国際便に乗ったことはない。どうしてだろう?と、ちょっと、漠然とした不安に。アテンダントたちがすごく感じがよかったし、全体に前に比べて、すごく進化していたのに。パリに日2便という問題か、それともアシアナ航空とサービスを競っているせいなのか?そんなことも親切で綺麗なアテンダントに聞きたかったが、もちろんできず、音楽を聴いていた。というのも、機内ミュージックのSeo In-Young(誰だとは識別できないのだが)の「セス」(?)というバラードが最高で、繰り返しイヤフォンで聴いていたのだった。眼の方は関空で買った松本清張の『網』。軍隊の記憶を引きずる人間たちの欲望と憎悪、そして捩じれた愛情が戦後の政治と絡まるという筋書きなのだが、途中から、一度読んだことのある小説だとわかってきた。そういえば、松本清張は短編を除いてほとんど読んでいるので、再読になるのは仕方がないか。というより、歳をとってくると再読、再視聴ということは少なくないのだ。その上、そのことを後半になって思い出すのである。まあ、パリとはまったく関係がないが、到着までの機内は、韓流ムードの中での日本戦後史の気分だったのだ。
飛行機は夜の9時にシャルル・ド・ゴール空港に着き、乗客が少ないのであっという間に荷物が出てきて入国。夏時間のせいもあるが、まだ明るい。いつも思うことだが、やっぱりパリだ。この言葉の感じを伝えるのはひどく難しいが、都市の個性という平凡な言葉を使うしかない。もちろん、パリの個性を伝えるのも難しい。ただし、気持ちのいい乾燥度については、そのまま。湿った夏の日本から来るとなおさらだ。そして、世界の天気でチェックした7月のパリよりは暑かったが、それでも快適。かけ布団を首までかけて、冷房なしで寝れるなんて、これ最高でしょう?(誰に尋ねているのか?)。
知り合いの15区のアパートに入るまで6日あるので、それまで別の友人の19区のアパートに。ここの夫婦は1週間のヴァカンスで太平洋沿岸の町に。その空きアパートに10時到着。やっと夜の暗さになったころ、眠たくなって、時差の関係か、今日の朝は6時前に起きてしまった。それではと、家内と、18世紀のルドウーの名建築、ロトンドのあるラヴィレット運河の周辺を散歩。こんなの初めて。「こんなの」というのは、朝早く家内と散歩するということだが、何か老夫婦になった感じもして、少し戸惑う気分も。ヴァカンスの季節なのに、カフェやパン屋は開いていて、そこでオリーヴ・パンとハムとグルイエール・チーズのサラダを買って朝食。これがまた「パリ!」。繰り返すと嫌みになるのがわかっていても、パリだ。ともかく、この都市で2回目の長め滞在をする。このブログもこれからは、その滞在記のようなものに。