2012年6月23日土曜日

描写とレジメーユーロ1012を見ながら

目をつぶっていたら6月が始まっていた。<中旬も過ぎてしまった。書き始めたのが2週間以上も前なのだ。この時差は文章の季節感に違和感を与えるかもしれないが、始めから書き直すのは疲れる。そんなわけで、今回は書きついできたブログである。ご苦労さん?誰に。途中で今日、明日に書いていることを赤字で挟んでおこう。文章の時間制をリアルにしたいと思ってのことだが、おそらく、複雑になって読みにくくなるだろうとも思うが。ひとつの実験?>
家の近くの哲学の道の蛍も増えてきた<終息し始めている>。先週からユーロ2012が始まった。<決勝最終ラウンドまで進んだ>。WOWOWにも加入し、万全の体制で生中継をできるだけ見ている。ヨーロッパ時間的生活は大変だが、これは避け難い。W杯以上の面白さ!ただし、当然授業はするし、自分の勉強もしなくてはいけない。大変なのだ。大変という漢字では、大変さの楽しさはあまり伝わらない(伝える方法がないものか)。加えて、ネットでのニュースも追うので時間が必要となる。ブックマークには、フランス、イギリス、イタリアの3つの新聞とネット系のサッカー情報サイトが入っていて、大きな大会ではチェックしている。<このところギリシャとフランスの選挙も追ってしまったので、これも大変だった。左翼がどうなるのかに興味があるのだ。日本では左翼も右翼も死んでいて、その言葉さえも死語になりつつあるが。そのこと自体はいいことだと思うのだが、でも、芸能界的やわなマーケッテイング社会になっていて、やっぱりこの選択はないだろうと思う。つまらないのだ。いっそ、マーケッティング社会そのものになればと思うのだが。>さて、ネットのニュースのことだがを読むのが大変なのだ。情報量の多さということだけではない。ヨーロッパの記事は日本とは違って量が多いからだ。これはサッカーに関してだけでなく、あらゆる分野に共通している。
デリダという、一部では有名なフランスの哲学者が、どこかで「日本はレジメの国だ」ということを書いていたと思う。さすが!といってもデリダはあまり好きではないが(観念論的なところが)。
そのデリダが言うように、日本の記事は短かくて読みやすい。ヨーロッパ(フランスがベースになっている)と日本の大きな違いは、物事に対して言葉をどのように発していくかのスタイルの違いでもある。文化というより文明的な差異だろうと思っている。
たとえば、サッカーの場合、試合翌日のスポーツ欄には、当然試合のことが書かれているのだが、日本のような、写真と簡単な試合の経過報告、簡単な戦術分析ではないのだ。試合の様子が詳しく細かく書かれるのが通例だ。といっても、試合だけの戦略分析というだけでなく、ピッチや選手の様子まで含めた、言ってみれば、試合のすべてが、言葉で記述・説明されるのだ。少し大げさだとはしても、日本と比べた場合、そんな風に感じる。ネットにも、試合速報というのが必ずあって、そこでは、映像ではなく(権利問題で放映できないので)言葉で1分ごとにピッチ上の様子が記述されていく。だから、必然、速報は長くなる。読むのに時間がかかる。もちろん、言葉の問題があるのだが、フランス語を日本語と同じように操ることができたとしても、新聞を読むのに日本より2〜3倍はかかるだろう。語学がぼくのように半分以下の能力だと、サッカーの記事だけですごく時間がかかってしまう。さすが、プルーストの国だ。
どうして、こんなことになっているのか。それは文化といったような曖昧なものの違いではなく、というより、文化だとすれば、それを支えている言葉の問題なのだと思っている。おそらく、ここを考えていないと、西洋と日本、西洋と東洋といった図式は、たいして意味のないものになるだろう。言葉の、あるいは世界と言葉との関係への態度の問題なのだ。Facebookで「いいね!」と書く、Twitterでつぶやくといったスタイルが、西洋でも爆発的に広がってきた今、記述スタイルは単純化していくのかもしれないが、でも、現実を言葉で表していこうという西洋のスタイルは、まだまだ大きく変わらない感じがする。ユーロ2012の話が大げさになってきた。でも、続けよう。
つまり、西洋には「描写」という記述の伝統があるのだ。現実のある場面を、写真のように言葉で表してしまうのが「描写」という記述の手法である。専門的に言うと、古代ギリシャでの「エクフラシス」という言葉の手法の伝統を引くものだが、この「描写」が19世紀の自然主義の時代に入って、ますます精密化したのである。いわば、「言葉で遠近法絵画を描く」。そうしたイメージだろうか。写真では時間はかからないがーしかし、写真に映し出されたものを、写真のように見るためにはすごく時間がかかるのだが、写真は「一瞥の」映像と考えられているー、言葉は時間がかかる。しかし、西洋では、この時間がかかることを今でもやっている。これはどういったことなのだろうか。説明するためには、覚悟を決めなくてはならないので、ここではやめておくが、基本的には私が世界とどのように取り結ぼうとするのかの態度の問題だろうと思う。
ところが、日本には、この「描写」の意識がきわめて薄い。デリダの言うようにレジメの国である。日本の曖昧さのひとつは、ここにも由来しているだろう。言葉に信頼を置いていないためか?普通、そんな風に感じる。小さな社会から政治・経済まで、言葉は「本当のこと」ではなく、何かの暗示にすぎない。「こうした理由で反対です」と言ったところで、それは文字通りのものではない。そんなことは身の回りにもうんざりするぐらいある。でも、それは言葉を信頼していないためなのだろうか?ぼくには、その逆だと思える。実は、けっこう言葉を信じているはずなのだ。ただ、その信じ方が、言葉そのものの意味に対してではなくーたとえば、リンゴといったらリンゴそのものだけではなく、リンゴと私の歴史や記憶といったものも含めたリンゴという言葉といったらよいかー、そうした言葉には信頼を置いているはずなのだ。
長い間、和歌が思想を決定してきた国である。そして江戸時代からは、俳句も出てきた。そうした短い、とりわけ俳句のようなイメージ性の強い言葉による詩によって、現実が捉えられてきたのだ。それは日常にも深く根ざしているだろう。17文字で世界を理解する(識る)なんて、「描写」をベースとする西洋において、考えることすらできなかったのではないか。だから、ある言葉、文章、話、何でももいい、それらを理解するためには、文字通りの言語的意味というより、感情や個人的な事柄等々、言葉に凝縮された発話者の歴史を「感じる」必要があるのだ。そして、その「感じる」ためには長々とした描写はいらない。こうした意味での言葉を日本人は信じているのではないか?
と、こんなことを、ユーロ2012を見ている間、そして呼んでいる間、考えたのである。この言葉とイメージのことは、長い間、真面目に考えたいと思ってきたことでもある。しかし、なななか進まない。哲学をしっかりやってこなかったためか?あるいは、ぼくの思考法がやはり「レジメ」のためか。ただし、「レジメ」は、感情を含むだけ、疲れる。まあ、そのことを気にすればの話だが。
<ついに、決勝ラウンド>。ヨーロッパ時間での生活も少し馴れてきた。試合が終わると朝。テレビの画面が映し出すポーランドやウクライナは夜。どちらも綺麗だ。向こうではパブかなんかでビールをぐいぐいやりながら、各国のサッカーファンが楽しくしていると思うと、一度、ユーロに行かなくてはと思う。まだ、一度も行ったことはない。6月は教師にとって休めない季節なのだ。そんなわけで、ポルトガルの優勝を願って、7月1日まで二つの時間を過ごすことにしよう。