2012年8月14日火曜日

オリンピックを見ていたらお盆になってしまった

もう、お盆。お墓に行って先祖参り。暑いけど、夏の朝の線香の香りは気持ちがいい。すごく規則的な生活をおくっている。といっても、遅寝、遅起で、起きると身体に汗がびっしょり。昼ご飯を食べて、銀閣寺のSECOND HOUSEというケーキ屋カフェで仕事。空間がゆったりしていて、店員もやさしくて、居心地がいいのだ。つい長居をしてしまうが、仕事がはかどる。そして、夕食前に家に。少し間があって、テレビの前に。そんな生活が3週間近く。もちろん、オリンピックのテレビ観戦のせいだった。「せいだった」と人のせいにしている書き方だが、夏休みのこともあって、ついつい、見てしまうのだ。6月のユーロ(ヨーロッパ・フットボール選手権)ではしゃいでしまって、リズムが狂ったので、ロンドンはほどほどにと考えていたのに、結局、かなり見ることになってしまった。スポーツ観戦趣味の人間には、オリンピックは、すべてをまとめて、それもレベルの高いものを見れるので、ほんと楽しい。そんなわけで、あっと言う間に8月半ば。お盆になっていたのだ。
そのオリンピックについて書くこと(言いたいこと)は山ほどあるが(誰もが同じだろう)、ごく簡単に、そして、ごく私的に感動したゲーム3つ(いまのところ)だけをあげておく。3番:日本男子サッカーの3位決定戦と決勝戦。フットボールという残酷さを見せてくれたという意味で。どちらもオリンピック・ゲームの清潔イメージを少し裏切ってくれた。でも、こんなのもあっていいではないか。韓国は言うまでもなし(韓国語習っているので読めた、変にうれしかった)。ブラジルの方は、ラファエロ(マンUの)と4番(名前忘れた)とのピッチ上での口論。互いにかばい合わないスピリットだった。2番:男子陸上800メートル。マサイ族出身というケニアのルディシャ選手の走りのすごさ。長いストライド、凛々しい顔。ああ〜、アフリカの草原をああいう風に走るんだと、空想を膨らませてくれた。世界新記録だったが、そんな物差しを超えた走りだった。1番!:男子フェンシング準決勝。見慣れていないので、ああいった最後のヒトツキみたいなことがよくあるのかどうか知らないが、ともかく、最後の最後、数秒のドラマをつくった太田選手の迫力。これが意識的なものだったら、どうしよう。目の中に焼き付いてしまった。
近代オリンピックは国民国家化された世界の政治的枠組みの中での国威発揚の場と言われる。戦争の近代を裏返しにした、平和と世界協調を旨とする祭典。暴力なしで、国を意識しながらも世界が協調することは素晴らしいことだ。近代コスモポリタニズムの具現化である。だから、オリンピックは政治を排除する、しようとしている。おそらく、ナチスのベルリン・オリンピックの反省もあったのだろう。もちろん、政治排除をうたわなかったら、たいへんなことになってしまうだろう。これほど、プロパガンダとして有効な場はないからだ。話題の、3番にあげた試合の韓国の選手がその手のものと考えるかもしれないが、あれは政治的といっても日韓の政治ローカリズム。オリンピックの巨大な政治性システムがわかってない子供の内向けのパーフォマンス。
政治排除に代わって、今は商業主義である。グローバル経済に支配される。コカコーラが復活しているのは(個人的な印象だが、これはぜひ調べてみたい問題である)、オリンピックと無関係でないような気がする。オリンピックのグローバル経済化。それを国の意識というローカリズムが支える。ただし、このローカリズムを宣伝することは、経済的にも当然禁止だ。金を払わないで宣伝するなというわけだ。だから、女子レスリングの吉田選手の所属する会社ALSOKの応援団のほほえましさが印象的だった。ほんとうは、会社ののぼりや垂れ幕を掲げたいのだろうが、10人近くの応援団の面々は、「総合警備保障」と書かれた青いハッピを着ていただけなのだ(でも、けっこう目立った)。だから、ローカリズムは、日本でいえば団結力という国民的特性や、とりわけ、個人の問題、選手と支えた人たちの「人間的絆」を強調する。これは日本だけのことではないが。こうして、オリンピックは、一方でヒューマン・ドラマの大劇場ともなる。思わず、涙が出てくることもある。テレビ向きだ。放送権で成立しているオリンピックは、こうした劇場化をますます進めることになるだろう。実際の競技の劇場化(映像の取り方、インタビューのあり方、放送時間等々)も進んでいる。次のリオでは、ちょっと違ったオリンピックを見てみたくなる。あのラテンな気質丸出しの。
と、こんなことを考えながら、オリンピック観戦していたのだ。そしてお盆になり、明後日は大文字。秋だ。
来週から10日ほどパリに。いつもの図書館に行き、いつもの資料をチェックする予定にしている。昔から頭にあったテーマで原稿を書き出したのだが、そうすると調べなくてはならない項目がますます増えてくるのだ。まあ、テーマの時間的スパンが長いということもあるのだが、あるテーマを追うということはこういうことだ。完全に資料を揃えてなどと考えると、これは先がない。どこかで区切りをつけないといけないのだが、それがなかなかふんぎれない。気持ちを区切るためにパリの図書館に行くということなのかもしれない。短い期間だが、映画やイベントも見たくなるし、知り合いにも会いたいし、イブラヒモビッチやチアゴが入ったPSGの試合も見てみたいと、好奇心が増してくる。チケットが取れるかどうか。そういえば、今週末からはプレミアも始まる。なんか、スポーツイベントと暮らしているような気もする。