2012年10月13日土曜日

本のことをだらだらと・・・

あっという間に10月になってしまった。ブログの更新が遅くなっているのは、外と繋がろうとする意欲が少し薄いためで、気分的に「こもった」状態なのだ。といって、元気がないとか、そんなことではなく、物事に対して、とくに「文化的」なことに対して反応が鈍くなっているというか、ワクワクすることが少ないといったらいいか。前に、このブログでも触れたジャン・クレールというフランスの評論家が言う『文化の冬』を実感しているのだ。だから、会う人ごとに、何か面白いことはない?と聞くけど、そんなのに答えられないよね〜と、なる。当然だけど。
ブログのタイトルが「フランスの図書館」とうたっているのに、このところ本のことを書いていないのも、そうした気分のためかもしれない。実は、本をあまり読んでないのだ。ただし、本を「見る」ことは多い。いまやっている仕事が美術関係の本を書誌的に見ていくことなので、見てばかりいる。読まないのは、自己弁護をしておけば、前回も書いたように、本が訴えようとしている解釈や意味にあまり反応できなくなっているからだ。もちろん、本といってもいろいろあるが、物事に対してこちらが考えている以上の意味を引き出している本はなかなかないものだ。世界について、ほとんど言われてしまっているような気持ちにもなっている。結局は、歳を取って脳が働かないということに尽きるのだが。
こんな書き出しをしたのに、少し本のことを書いてみる。だらだらと。秋なのかもしれない。このところ本を買うのは新幹線や飛行機の移動中の読書のためが多いのだが、飛行機の場合は、ほとんど日本のベタな推理小説と決まっていて、好みの作家のものを数冊持ち込むことにしている。ずいぶん昔からの習慣でもある。日本発の場合は、空港の書店で話題の推理ものを買う。といっても、前回は何を買ったのか忘れているのだが。この手の小説が、意味を抱え込まないところが好きなのだ。その上、パターンも決まっていて安心できる。長いフライトにはうってつけ。海外出張の会社員によくあるパターンだと思う。となると、テレビのサスペンス劇場に材料を提供しているような作家のものが候補にあがる。
たとえば、内田康夫。ここ数年は飽きてきたが、そのサビの部分のパターンに耐久性があって長いこと飛行機や新幹線で読んでいた。テレビの水戸黄門で「これが見えぬか!」と印籠が出される箇所の魅力?内田康夫では、田舎の刑事が主人公浅見光彦を警視庁長官の弟と知る場面。小さなカタルシスである。あとは歴史や社会や人間へのすごく常識的な見方も、この手の小説では必須である。もうひとつ、いろいろなプチ知識もちりばめられている。ただし、この内田的推理物に少し飽きてきて、このところ話題の評論書なども買う。とくに新書判は週刊誌的言説なので、1時間半ほどで読めてしまい、京都から東京までにぴったりである。「無駄だった!」と週刊誌の倍以上の値段に憤慨はするものの、現在の日本社会の常識を教えてくれるので、勉強になると、思うようにはしている。
飛行機の長いフライトの場合は松本清張だ。何故か飽きない。話を忘れていることもあるので、前に読んだものを買うことも少なくない。小説の後半部分になって読んだことを思い出すこともよくある。内田康夫や、今の売れっ子作家のように、決まった主人公によるシリーズ物はないが、1冊1冊がそれなりに読ませる。小説全体を、「社会派」と言われた、その「社会」―戦後の日本社会の何とも言えない気分が覆っている―を「地」(じ)として、ルサンチマンな人間模様が繰り広げられる清張物。個人的なノスタルジーもあるのだが、同時に、清張物のベースになっている反権力というスタンスも、ぼくの世代には悪くはない。話の作り方もしっかりしている。名作と言われる清張作品は多いが、ぼくにとってはと考えると、いくつもあって思いつかないのだ。それよりも、戦後日本社会がリアルな感覚で表象されているところが面白い。リアルといっても、「現実」そのものということではもちろんない。推理小説という舞台での「現実的」な戦後社会が表象しているとしか言いようがない。その社会は犯罪や権力欲望が個人の肉体に張り付いているという感覚を作り出すのにぴったりである。松本清張は、そのことをよくわかっている。
最初は、こんなことを書こうとは思っておらず、最近、珍しく家や喫茶店で読んだ3冊の本について書くつもりだったのだ。「本についてだらだら」の巻なので、全体に長くなるが紹介してみる。読書の秋だ。
1冊はマイケル・ボーダッシュというアメリカの日本学者の綴る戦後日本ポップミュージック論『さよならアメリカ、さよならニッポン』(白夜書房、2012)。笠置シズ子、服部良一、美空ひばり、ロカビリー、GS、そしてはっぴいえんど、ユーミン、YMOと、1990年代までの、ある流れを歴史-文化的に分析したものだ。もろ、ぼくが経験してきた音楽世界である。加えて、戦後大衆音楽史から抽出した歌手やグループが、美空ひばりとYMOを除いて、ぼくの好みだったことも一気に読んでしまった原因である。だから、面白かった?と聞かれれば、「ウイ」である。音楽そのものの構造にも触れながら、それぞれのミュージシャンの置かれた政治-文化的分析、さらに、著者の日本のポップス(J−ポップを生み出したものと考えられている)への愛情も織り交ぜられている。もちろん、アメリカのポップミュージックも絶えず言及されるし、資料的にもかなり突っ込んでいる。内容の厚みはなかなかのものだ。ただし、論考の中心となる、はっぴいえんどの日本語のロックが文化の否定の否定という、究極のパラダイム崩しの話は、もうひとつ落ち着かない。というより、全体の論述でも言えるのだが、記述の中心をなすカルチュラル・スタディーズ的な相対論的概念装置が、ぼくには普通というか、それほど新鮮ではないと感じるためである。単純にいちファンの綴る戦後日本ポップミュージック論とするには、日本研究者という矜持があるのだろう。この論にしなくてはならないというイデオロギーを相対化してもらいたいと思うのだが。
次はテッサ・モーリス-スズキというオーストラリアの日本史研究者の綴る『北朝鮮で考えたこと』(集英社新書)。面白かった!これまで読んだ旅行記の中でも上位に入る。ぼくがちょっとした北朝鮮ウォチャーということもあるが、始めて出会うまともな「北朝鮮もの」でもある。それも単に見たことを綴るだけではなく、現在の旅のテキストが過去の旅のテキストと重ねられることで、北東アジアと朝鮮半島の歴史が、温かな人類的眼差しのもとに浮かび上がってくるのである。ぼくもこうした旅行記を書きたいものだ。日本で出版される、あるいは映像化される多くの「北朝鮮もの」のいかがわしさに、いつもへきへきしているが(といっても買うのだが)、この本を読むと、そうした本は何て想像力がないのだろうと怒りさえ感じる。同時期にブックオフで買った『北朝鮮報道』(川上和久、光文社文庫、2004)も、そうした一冊だった。メディア論研究者が告発する日本の新聞の北朝鮮報道の偏向ということなのだが、そのメディア・リテラシーのお粗末さに、最後は笑うしかなかった。
『北朝鮮で考えたこと』は、1910年に北東アジアを旅したイギリス女性の旅行記をもうひとつのテキストとしているのだが、その年は韓国併合と大逆事件という近代日本史にとって大きな出来事があった年なのである。少し前に、こちらも新書の『文学者たちの大逆事件と韓国併合』(高澤秀次、平凡社、2010)を読んだばかりだったので、『北朝鮮で考えたこと』を読みすすめながら、読書の偶然性に少し驚いた。これは偶然買ったのだ。まあ、こちらは先のメディア・リテラシーよりはずっと上質だが、論理が単純で硬い。国民国家というフィクションと文学はどのように関わっているのかということを、1910年を起点に作家を通して読み直そうと意欲的なのだが(知らないことも多かったので、その点はよかったのだが)、文学を固定しすぎて、その文学の扱いがこれまでと同じように、いかにも文学文学しすぎてしまっている。それこそ国民国家の文体ではないのか。そのところが何とも物足りない。
他にも何冊か新書を読んだのだが、何を読んだのか忘れてしまって、もう一度手にしたが、それについて書く気はなくなった。でも、これからも、こんな風に本を買い読み(見て)、そしてその記憶の多くは消えていくのだろうが、そうした中にも、『北朝鮮で考えたこと』のような本がある。やっぱり、本はあなどれない。