2013年6月30日日曜日

ちくわと豊橋、テレビ、研究


6月もあわただしく過ぎていく。だらしない書き出しだ。こうした時候挨拶的な書き出しを何とか改めて、眼もさめるような書き出しがないかぐずぐずしているうちに、10日近くたってしまった。ブログを書くのも楽ではない。では、止(や)めれば?そんなことも思わないではないが、物事には止められなくなってしまうことやものも少なくない。ここでよく触れるサッカー、ピザ、韓流、ハン・ヒョジュ、自分の研究(書いたことあったかな?)、旅行などなどのことを止めれないのと同じように、このブログもそうなってきた。趣味ということなのか?それも自己目的的な。この年になって、新しい趣味を見つけたと思うことにしている。書くのは楽ではないが、グダグダと書いていくのは、他ではできないので、時間がかかるが楽しい経験なのである。最初は月3回程は更新と思っていたが、だんだん減ってきて、月1。会議や仕事が多くなってきて、これも怪しくなってきた。でも、頑張るぞ!って更新しているんです。
今回は、ブログという趣味について書くことが目的ではなく、ちくわ(竹輪)のことを書こうと思っていたのだ。なので、前書きからこのチクワへと話を運びたいと頭では考えていたのだが、どこで繋がらなくなったのか。「ブログを書くのも楽ではない」という文を入れてしまったためだろう。それが趣味のことを誘発し、ちくわから遠ざかってしまった。ブログという形式的に自由なエクリチュールの場の罠かもしれない。これでやっとちくわことが始められる。罠だと思ってしまえば、どこで段落替えしても、おかしくはないということになるからだ。
この6月に高校の同窓会があり、そこでヤマサのちくわをお土産にもらった。それを丸かじりしながら、そう言えば、ちくわのことをこれまで書いていなかったなと思い出した。では、一度ちくわ談義でもしてみようかと考えたのだ。高校まで住んだのは愛知県の豊橋という町で、ちくわが有名なのである。あとは菜飯田楽くらいしか知られていない非グルメ町だが、ちくわだけでなく練り物は何でも美味しいしレベルが高い。昔、「世界魚系練り物会議」というのを行ったくらいだ。会議の内容は知らないが、ちくわで世界会議をするなんて、すごいことである。そんな町だから、子供の頃からちくわはもっとも身近かな食べ物で日常的に食べていた。シンプルに生でわさび醤油で食べるか、おでんの具くらいだったが、おかずだけではなくおやつとしても食べていた。
その後、豊橋を離れてから(ずいぶん昔のことだが)、ちくわの食べ物としての懐の深さに気がついていったのだ。その間、ちくわのテンプラ(昔からの調理法ではない)が一般化し、つまみのチーズちくわもつくられた。子供の頃にはなかったちくわメニューである。そうした新しいちくわメニューにも刺激されたのだと思う。ちくわの秘められた力にしだいに気付くことになった。それだけでなく、炒めると別の力を発揮することもわかった。一緒に併せる素材を引き立たせ、さらに、ちくわ自体も新しい味をもつ。その代表はキャベツ。ちくわを薄く千切りにし、角形の切った新鮮なキャベツと炒める。さらに、紅ショウガとその付け汁を絡めると美味しさはますますパワーアップする。この一品はぼくがつくるものが一番美味しい。といっても、他で食べたことはないし、見たこともない。オリジナルと自慢しておこう。家内がいないときは5日に一回は食べていた。それからそれから・・・みそ汁に入れてもよいし、ひょっとしたらカレーにも合うのかもしれない(まだ試したことはない)。もちろん、穴の中にさまざまなものを詰め込めば、ほとんどのものは合う。ちくわの穴は製造過程から生まれたものだが、それが新しい味を展開させるものとなる。もちろん穴がないとちくわとは言わない。そこに特別な意味はないとしても、それによってちくわに新しい道が開かれる。ちくわの穴は含蓄がとても深い。
現在、非グルメ町豊橋は名前をあげようとしているのか、B級グルメブームにのって「豊橋カレーうどん」というのを売り出しているという。ちくわが使われていると思ったら、ちくわは除外され、ご飯、とろろ、カレーうどんを重ねた変な食べ物となっている。まだ食べたことはないので何とも言えないが、豊橋の友人たちに聞いてみたが、「うまい!」と絶賛する者は皆無。新名物をつくるなら、どうしてちくわをベースにしないのか?メディア受けしようと考えて、スベルっている。豊橋的発想? あまりにもちくわが日常的すぎて、その可能性が見えないのかもしれない。教訓である。
ちくわノスタルジーの6月だったのだが、コンフェデ杯、それからWOWOWの「震える牛」とか「ファントム」といったドラマも6月の生活を活性化させてくれている。サッカーの方は考えることも多かったが、ともかく日本の3連敗は順当なところだった。イタリア戦はイタリアが「なめた」としか言いようがない。ブラジル戦を視察すればそうなるのだろう。ただし、強豪国がなめてくれると十分にいける、そのくらいのレベルにはなってきたというこだ。サッカーであれ、他のことであれ、ヨーロッパがつくった近代のスポーツ・システムを取り込むには時間がかかる。 ぼくはこの取り込んでいるときの気持ちの捻れが好きなのだ。気持ちの複雑さといってもいい。他の文化を受容するということは、そうしたことではないのか。そこには自虐的ということもある。ただし、その自虐性には他者を尊敬する気持ちも強いのだ。
テレビはいろんなことを考えさせてくれるのだが、もう少しテレビ時間を減らして、原稿のスピードを上げなくてはならないと頭では思うのだが、これがなかなかうまくいかない。先日、久しぶりに藤原くんに会ったら、本を書いているので朝4時に起きているという。やっぱり、そうしたことをしなくてはとは考える。ただ、今書いているテーマが大きすぎて、調べることが多すぎるのと、能力の問題もあって歩みが遅くなってしまう。19世紀の後半から現在までのフランスと日本の美術全集(叢書)の歴史を精密にたどってみようとしているのだが、150年という時間はさすが長い。適当にはしょるればいいことも考えるのだが、150年という時間の重みのようなものを何とか文章に反映させたいと考えていると、調べることも多く、なかなか前に進まないのである。といっても、もう1年くらい細々と書き続けているので、フランスの1960年代まで来た。
その研究のことが頭にあって、いつでもパソコンを持ち歩き、時間があれば開き書き次ぐのだが、わからないこともでてくる。たとえば、こんな感じ。「フランスのチスネ出版の「文明の驚異」全集は・・・年まで続き」と書こうとして、「・・・年」の部分をちゃんと調べてなかったことがわかる。そこで、もう一度ネットで調べまくることになる。第一、美術全集の名前には似通ったものが多くてなかなか全体像が見えない。そこで書きながら調べる、そんなことを繰り返しているのである。フランスの3つの図書館の電子カタログ、世界の古書ネット、日本のCiNii、もちろん、ヤフーやグーグルの検索も。ただし、かなりの時間キーボードをたたいても、見つからないことも多い。実は、向こうの全集にはシリーズが終ったという切れ目がないことが多いので、全集が刊行された期間や全何巻を調べることが無駄な場合も少なくない。でも、ひょっとしたらと思い調べてしまうのだ。全集の刊行初年と終年がわかると、その全集の時代的意味がよりはっきりするからである。こんなことをしているのだが、とにかく、調べることに疲れてくるのだ。となって、今日はこのくらいにしてとなり、テレビを見たり本を読んだり、書きかけのブログを書き次ぐということになる。まあ、息抜きばかりしていても仕方ないが、ただし、誰もが感じていることだろうが息抜きほど楽しいこともないのだ。息抜きのために研究?そうかもしれない。でも、藤原くんに会ったのは何かの信号だろう。来年のワールドカップまでに本にしなくてはと、強く誓ったのだが。
結局、6月のブログは月が変わる前日に書き終えることができた。月に1回のベースは守った!