2015年9月4日金曜日

パリ、ヴェネチア 2015年夏


夏休みを利用して2年ぶりの夏のヨーロッパ、パリとヴェネチアだ。パリに着いて翌日ヴェネネチアに。旅行に出るとブログを書きたくなる。原稿の最終段階のためブログを書く気持ちが薄くなり、3ヶ月もほっておいた。でも、旅行をすると書きたくなってくる。時間もあるのだが。そんなわけで、仕事も一段落し、2年ぶりの夏のヨーロッパとなったのである。
ヴェネチアはビエンナーレ。我が塩田千春がどうなっているのかを見たいと思って来たのだが、いつものことで熱心に見るわけではない。暑くて疲れるのだ。でも、これまでと比べればけっこう時間はかけた。気に入ったのはアルメニアの展示。作品そのものというより、現代アートが本格的に歴史と絡み合う、その迫力に感動したのだ。まあ、アルメニアに思い入れがあるからかもしれないが。そのアルメニアは、大昔初めて海外に行ったときにトルコ側から見た雪のアララト山に感激し、あそこにアルメニアがあるんだと思った経験もあるし、アルメニア出身のアメリカ作家サローヤンの小説に惹かれたこともある。心のどこかにアルメニアがあったのだ。今回のヴェネチアでもう一度火がついた。
そのアルメニアの展示は、サン・ラザーロ島のアルメニア修道院で行われている。何度もヴェネチアに行っているのに、この島を知らなかった。サン・ラザーロはアルメニア教会の修道院があるだけの島だった。18世紀からの長い歴史もつアルメニア教会の大きなベースである。その歴史を書いた本も買ったので、細かな知識も得ることができたが、書けばきりがない。ともかく、島はアルメニアという土地と人間の長く深い記憶がぎっしり詰まった場だったのである。その修道院を使っての現代アート祭への参加。「ズルイ」と思う人もいるだろう。アートは歴史にかなわないからである。美術館でいくら歴史的作品を構築しようが、何世紀にもわたって民族の記憶とその実践を行ってきた場所にかなうはずはない。そこに現代のアルメニア出身のアーティストが加わる。当然スケールが大きくなる。修道院のブックショップのおばさんは、こうしたことは初めてで、おそらく最後のことになるかもしれない、と言っていた。唯一の出来事を見ることができたのだ。感激しないわけにはいかない。そこに展示した世界中のアルメニア系の作家たち(アルメニア人は一種の流浪の民でもある)もうれしかったのではないか。現代アート祭は、一方に商業主義をかかえながら、こうしたこともできるのだ。今夏、ヴェネチアに、というよりサン・ラザーロ島に行けて、ほんとによかった。そのあと、僕の好きな島サン・ジョルジョ・マッジョーレで、ティントレットの『最後の晩餐』を見て教会横のカフェでモレッティ(ビール)の小瓶。目の前に青い海。何とも言えませんでした。もちろん、この島にもビエンナーレの作品が展示されていたので見てみたが、やっぱり、テントレットとモレッティのコンビには負けてしまう。
今回のヴェネチアでは、もうひとつ新しいことに挑戦してみた。宿泊を隣町メストレにしたのだ。初めてのことである。格安のツアー旅行だと、ここに宿を取ることが多いらしいが、ヴェネチアのイメージは皆無。一般には何もない町となっているようだ。実は、そのことを狙ってメストレにしたのである。ぼくも少し前までは、メストレ〜って、馬鹿にしていたのだが、旅行術も老獪になってくるとこうしたところを選びたくなってもくる。それも今回は一人。連れがいたら泊まらないけど、ひとつの楽しみとして宿泊したのだった。だが、メストレ選択は成功。駅前の趣味の悪い近代建築群を列車から見てきて印象が悪かったのだが、町自体はそうではなかった。といっても観光と言えるものは皆無。海の方には工場地帯もあるようだが、駅のちょっと先からは普通の住宅街で、何の特色もなく、ヴェネチア観光のためのホテルだけが点在する町。だから観光客は少なくない。でも、こうした何もないところで、小さな何かを見つけるのが旅行の醍醐味である。そして、見つけたのだった。
レストランである。Santi Mestorini。キノコのサラダ、Tボーンステーキのカツレツとか、スパゲッティの一回り太めのパスタ等々、なかなかだった。「孤独なグルメ」のノリである。ヴェネチア本島を3日間、毎日2万歩以上歩いて疲れた身体をほっこりさせてくれた町がメストレだった。2度と行くことはないだろうが、旅行術体現者には小さな勲章である。
パリーヴェネチアは前にも使った格安のRyanair。今回は格安飛行を完全攻略。2年前の失敗から学び、格安が格安であることと実践できた。前回乗ったときとは違って、機内広告がなくなっていた。あまりにも商売商売で規制がかかったのか。乗務員も愛想がよくなっていた。もちろん、リクライニングはなく背筋を伸ばしての1時間半。この時間なら年寄りにも大丈夫。といっても、ヴェネチアだ!といったわくわくする気持ちにさせてくれない飛行機会社ではある。安いとはそういうことなのかもしれない。そろそろ、このあたりを卒業したいと思っているのだが、若いころの海外旅行トラウマ(?)を払拭できない。つい、格安へと目が行ってしまう。悲しいサガである。
そして、パリ。着いた日から2日間ほどは暑かったのに、突然、秋が訪れた。気持ちいい。といっても観光をするわけではないので、だらだらすることになる。パリでなくてもいいが、ある場所に滞在するときの最初のポイントは行きつけのカフェを見つけることだ。そのために最初、宿泊する地区のカフェ巡りをし、気に入ったところを探すのである。これが意外と難しい。パリのようにカフェが異様に多い大都市だとなおさらだ。最初に入ったときは感じよかったのに、次は、ギャルソンが代わっていて感じ悪いことも少なくない。もちろん、食べ物が美味しいかどうか。基準はサンドイッチかサラダの値段と味。ここがリーズナブルであるかが目安となる。そして込み具合。あんまり混んでいても落ち着かないし、少なくては不安になる。こうして、今回は借りたアパートから5分ほどの、現在人気の界隈と言われるシャロンヌ通り(バスティーユ寄り)のカフェ「画家のビストロ」(Le Bistrot du Peintre)に落ち着いた。どんなギャルソンでも感じがいいし、客層もいい。やはり感じのいいマダム(午前中から昼過ぎまでいるので経営者だと思う)のしつけのせいだろう。毎日ほぼ2回入った。店に入るときにギャルソンがボンジュールと声をかけられ握手を求められる。常連として街に馴染んでいる気分になる。
パリは少し知り合いがいるので、結局、一緒に夕飯を食べることが多くなる。フランス語のいい勉強でもある。その一人、ジミー(愛称)という画家の絵を見に行く。ぼくは基本的に絵画が好きなので、本当に絵を描いている人に憧れている。といっても、最近はほとんどいなくなってしまったが。そんな中でもジミーは本当の画家だ。「自然に倣う」(d'après nature)というフランス語があるが、それを律儀にやっている画家である。その「自然に倣う」ことのすごさが現代も生きていることがすごいのだ。絵画(油彩画)という西洋で生まれた西洋ローカルな表現が、いまだに力を持っていることを、ジミーの絵を見ていると感じる。アルゼンチンのリナレスもそうだった。絵画は依然として力を持ち、現代にも強いメッセージを持っていると感じる、ぼくにとっては稀な機会だ。ジミーの新作を見ることができただけで、今回、パリに来てよかった。
あとはだらだらとした生活が1週間ほど続いている。興味ある画廊はあるが夏休み。9月の中旬以降にならないと開かない。映画は、今、カンヌで賞をとった作品が上映中。一つしか見ていない。ジャック・オディアールの『ディーパン』。スリランカの内戦での反政府
組織からパリに逃れてきた元戦士と偽家族がフランスの底辺社会で生きる話。何故、パルム・ドールだったのかと騒がしかったが、悪くはなかった。日本ではこんな映画は撮れないだろう。そんなことで、短い夏休みももうすぐ終わり。

2015年6月4日木曜日

海街Diary、サイン、少しの本のこと

 ブログの更新を、と4月から5月の身辺雑記をたくさん書いたのだが、面白くなくて、書き直し。ブログは時間がかかる。といっても、記憶能力の後退もあり備忘録としてのブログも必要なので、ごく簡単に、この春の雑記を。
浦和、深谷、高知。今まで行ったことのない町に行ってきた。レッズの浦和。うなぎが名物と初めて知った。でも、有名なうなぎ屋は7時閉店!食べれなかった。そうしたら、テレビで埼玉の小川町もうなぎが名産だとか。埼玉とうなぎってまったく想像してなかったのでちょっとした驚き。調べなくては。ただ、うなぎと言えば浜松だよね。その隣町の磐田(家内の故郷です)にもおいしいうなぎ屋があったのに、久しぶりに行ったら消えていた。美味しいうなぎ屋が減っているように思う。浜松でさえうなぎは餃子に押されてる。B級グルメの時代なのか。ぼくもB級グルメ派だけど、もう一方に伝統派も健在でいてほしい。次の、「ふかやネギ」で知られる深谷は、駅舎が立派な町だが普通の田舎町。そうした町はサビレ感があるけど、妙なことに、深谷にはそれがなかった。普通の田舎町が、普通のままでいるのは難しいのに、深谷は立派というのか。そして高知。繁華街の飲み客の元気なこと。南国的ということ?そして初カツオ。美味しかったけどね・・・。あまりにもはまりすぎていて、感動!とまではいかなかった。
さて、さて、ここからは、「海街Diary」のこと。フランスの新聞「リベラシオン」のサイトでカンヌ映画祭の特集を連日やっているので見ていたら、「4人姉妹」という日本映画の監督出演者のレッドカーペット中継とインタビューライブをやっていた。そこではじめて原作が吉田秋生の『海街Diary』であることを知った。映画情報にまったく疎くなっている。これでは、人に「映画が好き」などとは言えなくなるな〜、と反省。それはともかく、ぼくは吉田秋生のマンガの大ファンである。だから、もちろん『海街Diary』は読んでいる。ここ数年マンガを読まなくなったが、吉田秋生は別。『海街Diary』も気に入っていた。それが映画化されたとは。
文学や映画には「青春もの」というジャンルがある。映画で思い出せばきりがない。ナタリー・ウッドの『草原の輝き』ジェーン・フォンダの『ひとりぼっちの青春』レスリー・キャロンの『ファニー』などなど、心に刻まれた青春ムービーである。小説も当然。でも、映画のことを考えていたら青春小説がなかなか頭に出てこない。『三四郎』のような成長啓蒙小説ではない小説。プルーストの『失われた時をもとめて』も青春小説と思ってはいるが。う〜〜ん。文学と映画はそうした膨大な青春ものを生み出してきた。ある意味、文学や映画は青春という言葉を造り出すものだとも言える。もちろん音楽も。とくにポップスは全編、これ青春ものとは思うけど、何かパターン化しすぎていて・・・。水戸黄門のようにはまってはしまうが。そして、マンガ。もちろん、ここも「青春もの」にあふれている。でも、そうしたマンガの「青春もの」と吉田秋生はまったく違っているのだ。『夢見る頃をすぎても』『河よりも長くゆるやかに』が最高峰だが、マンガという表現ジャンルにしかできない、というより、マンガこそが青春を語りえる、そんなことを教えてくれたのだった。それは青春のスカスカな空気感ー言葉を探しているのに見つからず、見つからないこと自体を自己目的化するために生まれる虚弱感とでも言っておこうかー、そんな空気を吉田秋生のペンは生みだすのだ。その吉田秋生先生から間接的にイラスト入りの色紙をいただいている(個人的に知らないが人を通じてもらったのだ)。ちょっと自慢しておこう。『海街Diary』のような4人姉妹のイラストが描かれたもの。家宝!ともかく、もうすぐ映画も上映されそうなので楽しみにしている。でも、綾瀬と広末がな〜。カンヌのオフィシャル・インタビューでの素人感はなんとかしてほしかった。
吉田秋生先生の色紙を久しぶりに取り出して見ていたら、昔から有名人のサインをもらうのが好きだったことを思い出した。最初は大学時代のアダモ。あの「サン・トワ・マミー」や「雪が降る」の。京都会館(この名前は少し前に消えてしまったが)のコンサート後の出演者出口で長い時間並んでもらったものだ。以降、量的には多くはないが、ブラジルのドゥンガ、「ゴルゴ」のさいとうたかおさん、伝説的なF1マンガ『F』の六田登さん(ここには酔っぱらったぼくの姿も描き入れてくれた)、そして、フランスBDの最高峰モエビュスさん、そういえば、三男と行った欧州サッカー旅行でも有名選手にサインをもらったetc。まあ、勤め先での役得というのもある。理由はわからないがサインというのは妙に心をそそる。まだ何人かもらいたい人がいる。歳を忘れて頑張ろう。
話は変わって、このところ、原稿のために読書をしてなかったことも思い出した。原稿を書いているのに本を読んでないって不思議だと思うでしょう?本を見ているのである。本は読むものだけでなく「手にとり見るものでもある」。ぼくは愛書家ではないが、このところやってきた研究?で、本の多様な魅力を知った。こうした導線からも、本を読むファイトもでてくるのだ。
この2週間ほどの面白かったものを2冊。何といっても「フレンチライブラリー」である。ひとつは、脱構築派の理論家ポール・ド・マンの『美学イデオロギー』。1970〜80年代のスター理論家だった。ぼくの敬愛した文学研究者がよく口にしていた批評家だ。要約するのは難しいが、ぼくが理解した、というよりも、そのように読んだと言うことなのだが(読書は基本的に誤読である)、「美的」ということはいかれたイデオロギーだということだ。そのイデオロギーとは、「あるがままのもの」を崩してしまうということ。たとえば、映画を見て何かしらの感動があったとする。そのことを言葉で、それも感覚的言葉を差し込みながら映画を理屈化(意味化)していくと、映画と感動は別のものにすり替わり、映画は「見た」ようなものでなくなってしまう。そうした経験は誰にでもある。「美的イデオロギー」というのは、この「感覚的表現を使って感動を理屈化(意味化)していく」ことなのだと、理解した。長い間、意味を、とくに「ほんとうの意味」を見つけようとすることがうっとうしくなっているという、ぼく自身の考えも反映している。意味をもとめずテクストの上で言葉とイメージが躍動することの感動。ド・マンの世代に教えられたはずなのに、いまや、再び「意味」というイデオロギーが闊歩している。そして、日本では、この意味はほとんど人生論的になる。哲学も文学も映画もマンガも。ただ、吉田秋生はそうしたイデオロギーから少し身を引いている。
もう1冊。銀閣寺の古本屋で買った浜野修という人の『酒・煙草・革命・接吻・賭博』(出版東京)という昭和27年のエッセイ。というより浜野という人の翻訳本。変なエピソードがいっぱい書いてある。すべてが表題に関わる話題である。人間の基本的欲望にまつわる「奇譚」である。不思議な本だがユーモアがあって笑える。こうしたわけのわからない本は昔あったような気もする。巻末には出版案内があり長田幹彦『幽霊インタビュー』とか洋画家東郷青児の『ロマンス・シート』など誘われるものもある。出版社のことは調べたがわからない。そう言えば、昔は奇譚、艶笑ものなどがかなりあったような気がする。「気がする」のは、ぼくが牧逸馬の「怪奇実話」シリーズの愛読者だったからかもしれない。
本名は長谷川海太郎だが、谷譲治、林不忘、牧逸馬の3つのペンネームでハチャメチャ旅行物、時代物、怪奇物を雑誌「新青年」を中心に書きまくった、明治後半から昭和の「大」大衆作家である。今では忘れられてきたが、ぼくには最高の作家である。『めりけんじゃっぷ商売往来』、『踊る地平線』、『浴槽の花嫁 世界怪奇実話1』などは傑作だった。文学的にも。もっとも知られたのは林不忘での『丹下左膳』。35歳の若さで亡くなってしまった。山田風太郎もこの系譜である。かなりのものは青空文庫で読むことができきます。一度、どうぞ。
と、いつものようにだらだらと書いてきたが、もう梅雨入りだとか。そうそう、写真にあげたのは、フランスから送ってもらったエリー・フォールという美術評論家の『美術史』の第1巻『古代美術』。1909年刊行。実は、この有名な初版が日本の大学図書館には入ってない。その昔、「美術史はフォール」と云われたぐらいの本なのに大学にないとはね。けっこう安かった。

2015年4月6日月曜日

ブログ・再・再開ーパリ、カメムシ、サッポロ一番塩ラーメン

やぁ〜っと原稿がいち段落した。長かった!!!去年の夏には終わると思って「再開」を宣言したのだが、暑い夏、旅行にも行かずパソコンに向かってネットで情報を追いながら原稿を書いたのだが終わらなかった。甘く見ていたのだ。ともかく、去夏から半年以上ものびてやっといち段落。と言っても、最初の計画からすれば4年以上は遅れてたのだが。まだ少しは残っている部分もあるが、気持ちは楽になった。やっとブログを書く気持ちが出てきたのである。春ということもあるかもしれない。といっても、長いこと休んでいたので何を書こうかと迷うのだが。ブログを書かなかったこの8ヶ月あまり、何をしていたのかと思い出そうとするけど、なかなか思い出せない。面白いことはいっぱいあったのに。
まずは、今年に入ってからの思い出すことをアトランダムに。
1月のパリでのシャルリー・エブドへのテロ。 フランスのネットを見まくった。意見はあるが書くのには時間がいる。そのパリへ2月末から1週間。学生の研修旅行。何と1年ぶりである。こんなに間を空けたことは今までなかったのだが、これも原稿のせい。自分の仕事だから仕方がないが、少し損をした気持ちになる。テロのことで不安がる学生もいたし、ぼくもいつもより少し不安だったので、ネットで危険情報をかなりチェックした。でも、行ってみたらパリはパリだった。普通のパリ。現実とはそんなものだろう。もちろん、危機に遭遇すれば、普通のパリではなくなる。これも当然だ。そうしたことは、大昔、1年近くのヨーロッパ、中近東、インド、ネパールの旅行で学んだ。その旅行でほんとに危険と感じたのは、ヨルダンの首都アンマンで、4人ほどの兵士に機関銃を突きつけられたときくらいだが。ホテルの2階から通りを写真で撮影したのが原因だった。フィルムを抜かれただけで解放されたが、第3次中東戦争後の政治・軍事的緊張のために厳重な警戒をしていたことをあとで知った。その昔より、はるかに(おそらく)危険は突然にやってくる状況になった。この突然の危機にどう対処するのか。情報をチェックするだけでは十分ではないし、外に出ないことでもない。危機に対処する個人の身体的技法が必要なはずだ。具体的にどうすればいいのかわからないが。
そのパリではよく歩いた。スマホに変えたので、一日の歩いた歩数を知らせてくれる。スマホは情報過多なところがうっとうしいが、これは悪くない。何と、2万3000歩も歩いた日があったのだ。腰も痛くならずに。そうそう、一度はと思っていた「農業博覧会」(サロン・ダグリクルチュール)に行くことができた。サロン大国(博覧会や品評会等々)のフランスでも1番規模の大きな博覧会だそうで、フランス農業の見本市。もちろん、ワイン、チーズ、ハム、肉などなど、試食品も少なくない。想像以上の規模で、ゆったり楽しむことができなかったが、農業と食べ物が「おフランス」な文化を支えていることは実感。一緒に行った学生たちも満足そうだった。
歳とともに、時差ボケがひどくなってくる。とくにヨーロッパから帰ってきたときがひどい。今回は、ほぼ1週間。4時間くらいしか寝れないので、1日に2回の4時間睡眠。3月は睡眠に悩まされそうと思っていたら、やっぱり。でも、意外なことがことが原因で。時差ボケが取れたある夜、寝床にカメムシが忍び込んだのだ。臭気のためにはきそうになったが、どこにいるかわからない。これもひとつの危機。翌日の昼頃起きたら(結構寝てしまったのだ、睡魔はカメムシに勝つ?)、身体はカメムシ臭。何と枕の下でまだ這っていた。寝れなかった憎しみを厚い紙に託し退治。着ているもの、シーツなどすべてを洗濯に出し身体も洗った。石鹸はアレッポ石鹸。でも、2日目にもカメムシ臭は取れない。カメムシ人間になるのではないかという不安が襲ったが、杞憂。3日目にはほとんど消えていた。ぼくは、ごきぶり、蜂、あぶ、蛾など虫類はまったく怖くないし、カメムシだって怖くはない。ただし、その臭いだけはね。誰もがそうだろうが。あれは何の臭いなのだろうかと、ウィキをチェックしたら「腹面にある臭腺からトランス-2-ヘキセナールなどを主成分とした[1]悪臭を分泌する。」とある。その上、1匹のカメムシが臭いを放つと、群れている他のカメムシは退散するというほどの臭いだという。なのに「カメムシ学者の中には、臭いでカメムシの種類をかぎ分ける者もいる。」なんて書いてある。毎日、臭いをかいでいるのだろうか。一度カメムシ学者に会ってみたくなる。危機と生きると危機ではなくなるのということである。ともかく、カメムシ学者を知っていたら紹介してください。
最後に、痕跡を消すということについて書いておこう。このところ、痕跡を消すことに関心が向かっている。痕跡を消すこと。現代ではどちらかと言えば支持されていない。やましいことは隠そうとする(犯罪者がその代表である)場合など、イメージは悪い。痕跡消去は、現在の文化では分が悪いのだ。時代は、といっても19世紀以降のことだが、痕跡は「私」の生きる証として重要なものとなってきた。でも、と考える。痕跡を消すことは、ほんとうにマイナスなのか。大昔の絵、たとえば、17世紀のオランダ絵画を見ていると、それが画家の塗り痕を隠す絵であることがわかる。筆で描いているのに、筆の筆触を隠したのだ。理屈はいろいろ考えられるが、それは別として、そのことが楽しかったに違いない。こんなことを考えていた矢先、ぼく自身が、痕跡を消すことの快楽を味わってしまったのである。
ジーンとくるような快楽は、ある深夜、サッポロ一番塩ラーメンをつくったときのことだった。実は、ぼくの基本的食事法は、朝と夜には炭水化物を摂らない、ローカーボダイエットの改編版。江部康二さんという医者(最近は本が売れて世間的にも知られてきた)の用語では「新縄文食」(関心ある人はネットで調べて下さい)。糖尿病のための食事法として始めたものである。その食事法を、かなり前からやっているのだ。病気をしたためだが、なので、深夜にインスタントとはいえ、ラーメンなど言語道断。自己規制もあるが、厳しい家内の目。といっても、普通には夜に炭水化物類(ごはん、麺類等々)をほしいと思うことはほとんどない。しかし、その夜は違った。テレビ番組のせいか?はたまた、数日前の昼のラーメンのうまさの記憶がよみがえったのか?、深夜に味わう美味しいワインのせいか?ともかく、インスタントラーメンが食べたくなったのである。
食料室には、昼食用のサッポロ一番塩ラーメンが。それほどの好みではないのだが、その深夜は猛烈に食べたくなったのだった。ただし、我が家の台所は、家内の寝る部屋の続きにある。もし、睡眠が浅い場合は、小さな音でも起きてしまい、ラーメンを深夜に食べたことがばれてしまう。こうなると、翌日が厄介である。インスタントラーメンのせいでもめるのは馬鹿らしいでしょう?そういうわけで、ラーメン作りは慎重に慎重を重ねることになった。つまり、作り、食べた痕跡を完全に消してしまうことが必要だからだ。そのために、まず水道水のの流れを最小限に、ガス着火の音を出さないように、そして、火の音も最小限に。鍋の水が湯になるのに結構時間がかかった。やっと湧いたお湯に麺を入れても火が小さいのでなかなか柔らかくならない、普通よる2倍の時間がかかった。もうひとつ、ラーメンには卵。ぼくの定番である。爪で卵を割り(音を出さないため)、鍋に落とす。葱は、これも小さく手でちぎる。こうして、無限とも言える時間が経ち、サッポロ一番塩ラーメンは出来上がった。部屋からは起きたようなシグナルはない。時間をかけたために柔らかくなりすぎた。でも、インスタントはグニャグニャな麺の方がインスタントの分にあっている。そして、居間に運びゆっくりと食べる。「うまかった〜!!!」抑圧の中でのラーメンがこんなに美味しいとは。しかし、片付けが待っている。卵の殻は生ゴミ箱の奥に隠し、少量の水で器と鍋を洗う。お湯を使うと給湯装置が音が出るからである。やっかいだったのは、鍋の底にこびりついてしまった卵。普通のスポンジでは取れないので、鉄タワシと爪で、ゆっくりと。もちろん、鍋、食器、箸は元の場所に。翌朝に臭いが残らないように台所の窓も開けた。こうして、深夜のサッポロ一番塩ラーメンとの一夜は、完全犯罪となったのだった。痕跡を消すことの快楽である。
こんな感じでブログの再・再開!最低、1ヶ月に1回は更新するつもりである。アクセスしてくれたごく少数の読者のみなさん、よろしく。つまらないこと、だらだらしていることが面白いということもある、そんなブログを目指して。