2011年4月26日火曜日

元気、村上隆、アルチュセール


京都は静か。少し前の、哲学の道の混雑ぶりも、例年ほどではなかったという。ぼくは同じようなものだと感じたが、どうやら人出は少なかったらしい。先週、横浜に行ったら、エスカレーターが使えなかったり、電気を消して薄暗い地下鉄や駅があって、京都とは違うな、これが例の電力不足なのかと感じたものだが、ぼくにはちょうどよい暗さだったし、運動にもなった。自粛というのか、これでは元気にならないという意見も多いようにみえるが、何を称して「元気」というのかは考えないと、と考えて階段を上った。もし、この大災害が、人間の心も含めたこれまでのライフスタイルを変えてみるということであれば、そこでの「元気」とはどんなありようなのかを具体的に考えている人はあまりいなさそうだ。行き過ぎた資本主義の欲望を抑える生活という、原発の裏返しを考えても、新しい「元気」像は浮かんでこない、もう少し何かをと考えているが、想像力がない。ひょっとして、想像力という啓蒙主義の怪物をこれまで信用しすぎてきたのではないかとも思う。
こんなことを瞬間に考えて、横浜の美学会が主催するシンポジウム「美学者VS現代アート」を聞きにいった。村上隆をじかに見たことがないので、行ってみたのだ。昔のサッカー界の「世界の中田」を言説的に過激にしたような人だった。彼にVSする美学者の西村清和と吉岡洋の話はわかりやすく面白かった。村上隆の話しと合うことはなかったとしても、そもそも批評や理論はいつも現場からうさんくさく見られている。理屈嫌いの日本の文化的土壌では、その「うさんくささ」の度合いは海外よりも一段上かもしれない。といっても、それほどの差はないが。にもかかわらず、理屈―美学や批評というレバルだけでなく、政治や経済的理屈も含めて―は、現代アート界でますます力を得てきていると、感じる。そんなことは話合われなかったが、村上隆は「美学会」という小さな制度に馴染んでくれないことは間違いなさそうだ。かなり幅広く考える人がいると思うのだが。だが、これも内輪の人間の戯言だと村上隆に切り捨てられるのだろうが。
授業が始まり、やっと1週間のリズムが少しは出てきた。何に刺激されたのかわからないが、今日は久しぶりに読書しながら本格的(?)に料理をつくった。我が家は、長いこと、豚肉の共同購入をやっていたので、肉料理のメインは豚肉料理だったのだが、久しぶりに牛肉をと思って、シチューにした。グラシュ(正確に日本語で何と書くのか知らないが)というハンガリーのシチューの物まね。それも完全に田舎風に。うまくできた!3時間近く煮込んでいる間、アルチュセールの『哲学について』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。ぼくはマルクス主義についてあまり知らないし、アルチュセールは日本語で『マルクスのために』というのを読んだ経験しかないのだが、面白かった。哲学的に思弁するということの意味がよくわかった。考えることをダラダラやっていることが改めて恥ずかしくなった。考えていなかったのだ。こうした反省はいつものことだが、そのたびに刺激になる。5月は本を読もう。少しだけ韓流ドラマを控えよう。などと、美味しいシチューを食べながら、殊勝なことを考えたのだった。