2012年12月9日日曜日

美術、美術、そして池垣さん

前回書いた韓国小旅行に刺激されたからか、11月は美術館や画廊に少し足が向いた。フェルメール。確かにターバンの女性は綺麗だけど、あんなに持ち上げることにちょっと。グレコ、うんうん、専門家以外なら、数点見ればいいんじゃないの、宮永愛子さん、綺麗に昼寝できそうとか、エルミタージュ、ロシアの美術館も苦しそうだな〜とか、そうそう昔から知り合いのMarieさんの凝った版画、そのモダニズムへの転向はどこまで行くんだろうとか、10月に京都に来たジェニーの写真、フランス人だな〜?、家内の書、ガンコだな〜、とか、また、何かの折り、ボルタンスキーのことを考えて、一度会ってみたいな〜とか、まあ、見たり聞いたりすると、刺激はある。学生のつくったものを見ても同じ。アール・ブリュットな感じがあるのが面白いことも。無鉄砲ということだが、少しずつ、それが消えていくことも少なくない。こんなことを手帳を見ながら、やけに寒い12月に思い出していた。
そんな11月でもあったのだが、1ヶ月以上も前のことなのだ。さすが、慌ただしい。手帳にはいろいろな行事が書きつけられている。日程表が真っ白なのは寂しいが、黒くなるとため息。中庸というのはなかなかない。やっぱり年末?まあ、この季節は忙しい方がいいけど。そんな季節、町には選挙カーが走り、日本政治のワイドショー的光景が繰り広げられている。政治に興味はあるが、何もかもピンとこない。日本の右を向いていく流れも、ただ、言葉に力のない政治家の自尊心の勘違いか、あるいは有名病のため?それを論評する批評家や研究者にもリアリティーがない。誰もかもが日本を強くするって力むけど、その強い日本ていうのが何なのか誰もわかってない気がする。考えてないのだ。ぼくは日本が強くなって欲しくないので、こうした言説に一番違和感があるが、それも言葉のリアリティーが何かを考えてないためだし、それを言葉にすることへの無自覚もあるだろう。この前ちょっと聞いたメディア批評をしていた若い人もそうだった。メディアや新しい文化について話しても、話し方が普通、伝統的語法なので新しくはない。こんなことを書いていくと疲れるので、別の話題にしよう。
このブログを、ぼくにとっての備忘録のひとつにしようかと思ったのは少し前からだが、それは、書いたものを残したいということではなく、年齢とともに記憶能力が退化してきたことを自覚しようと思ってのことである。パソコンの中に前に書いたものや、書いたけど印刷されなかったものなんかもあって、普通読まないのだが、読むと、ああこんなこんな感じで書いてていたのだと、自分が書いたのに、人が書いたような気になることもある。それが面白いこともある。そこで、今回、ネタがなかなか見つからないことがあって、池垣さんという、昔から知り合いで現在同僚の作家のことを、何かに載せるというので書いたことがあったが、活字にならないので、ここに転写張り付けすることにした。彼がバルセロナに滞在していたときの話。2009年夏のことだ。寒いので、夏の暑いバルセロナを思い出したこともある。読んでみると結構硬い。ウ〜ン。入れるとこれまで最長の字数になって、また、「ブログ、長過ぎる〜」と数少ない読者(見者?)に言われるけど、そこは・・・。では!
 池垣タダヒコ、あるいはバルサのドローイング
池垣タダヒコを初めて見たのはいつごろ、どこで、だったのか。画廊だったのか、美術館だったのか。ピカピカに光る銅製のオブジェの向こうでもじもじしていたのが池垣だと知ったのは、もう少しあとになってのことである。京都で発行されていた『A&C』という展覧会時評を中心とした美術雑誌に少しだけ関わっていた、1980年代後半から90年代始めの頃だと思う。
その雑誌は、いま振り返れば、なかなかのものだった。美術の地域性を、中央主義的視点の裏返しとしてみるのではない、そんな視点を育もうとしていたからだ。そうした雑誌が出たことと、当時の京都の若いアーティストたちの熱気とは無縁でなかっただろう。その熱がどういうものであったのかは、これから検証される必要があるだろうが、池垣もその熱圏のなかにいた。そして、ぼくはその熱で身体を温めていたのである。それから20年あまり、長尾浩幸の紹介で個人的にも知ることとなり、同じ大学で教えることにもなった。でも、髪が白くなったとしても(もともと白かった?)、池垣タダヒコは変わっていない。その話し方も、ものへの姿勢も。
池垣タダヒコについて書くことになって、こんなことを思い出していたのだが、書きたいのはこうした交友録的なことではない。前から気になっていた池垣のドローイングのことである。その現場を初めてみたと感じた4日間のことである。場所はバルセロナ。
バルセロナ
2009年8月。パリからの飛行機がカタルーニャの乾燥した風景のなかに吸い込まれてから半時間後、プラット空港のターミナルに池垣がにこにこしながら手をふっていた。40年ぶりのバルセロナだった。夏休みをとって、在外研修中の池垣を訪ねたのである。
ぼくにとって、この都市はひとつの憧れである。それはガウディではなく、「バルサ」(FCバルセロナ)とスペイン内戦がかきたてた夢のためである。なのに、どうしてこんなに長く訪れることがなかったのか。記憶のなかに漂っていた街はもちろん近代化されていた。フランスの建築家ジャン・ヌーベルのトーレ・アグバルの存在感がバルセロナを不確実な未来の夢へと妖しく誘い、そして、バルサの本拠地カンプ・ノウもきれいになっていた。
その一方で、記憶のバルセロナもしっかり存在していた。歴史を重みとして持続させる西洋の美徳だ。池垣はその美徳といっしょに暮らしていた。アパートはとびっきりのバルセロナ、夜に活気づく飲食街と歴史的記念建築物が混在するゴシック歴史地区にあった。その一角で、前からの住人のように暮らしていたのだ。
ドローイング
遅い朝を起きると、シャッシャッサッーといった感じの音がかすかに耳に入る。キッチンの隣の部屋で池垣がドローイングをしているのだ。「ブエノス・ディアス」と正式な「おはよう」を言いその部屋に入ると、大きなテーブルの上に、線と色で覆われたA4ほどのデッサン紙が何枚も重ねられている。タンクトップのシャツと半ズボン、頭には手ぬぐいを巻いていたかは覚えがないが、昔からここで描いていたように、描き続けている。「何か食べる?」と聞きながら手を動かしている。
池垣にはいつも何かを描いている印象がある。京都でもそうした姿を時々目にする。会議、コーヒータイム(彼はあまり飲まないが)、雑談のとき、おそらく一人でいるときもそうなのだろう。それをドローイングと言ったが、ほんとはちょっと違うことなのだとも思う。
ドローイングはフランス語ではデッサンである。日本ではどちらも使われているが、二つはいくぶんニュアンスを異にするようだ。ドローイングの方が自由でデッサンが目的をもった態度といったような。この違いは、日本の美術を考えるとき面白い問題になるのだろうが、どちらとも美術作品の基礎になるものであることはいまでも変わらない。しかし、池垣タダヒコのそれは、基礎とか何かのためにといった、美術としてのドローイングというのとは少し違うのだ。この意味合いを説明するのは難しい。ドローイングのためのドローイング?それは描線や形象表現の訓練ともなるが、池垣のものはそうとはいえない。落書き?線をひくことの原初的な意味でならば、そうかもしれない。そうした落書きのように、池垣のドローイングは「生きる」ことと関係しているような描くことだと思っている。
人間は誰もが線をひく、あるいは色をぬる。赤子が母親の白い胸を生えたての爪でこするように、もう少し歳がいけば、紙や板や壁に鉛筆やクレヨンで何かを書きなぐってしまうように、さらに大人なっても、意味なく紙に線や形象を描いてしまうように。人間は生まれてから死ぬまで線をひいたり形を書いたりしている。それは人間が何かとつながるための、あるいは何かへと自分を解放しようとする、つまり世界と私のつながりを求め確認する行為のように思う。池垣のものも、そうしたたぐいのものではないのか。ただし、アーティストとしての意識が、少しだけ作品化させる。ドローイングの前のプレ・ドローイング。でも作品よりも、「つながり」の感覚が強い。そうしたものを毎日、バルセロナで行っていたのだ。
バルサ
ドローイングがそうしたものであれば、土地(人間関係も含めて)という意味は小さくはない。バルセロナでのドローイングは、池垣とバルセロナとの生きる関係を綴るだろう。ぼくが見たのはそうしたドローイングの現場だった。そして、そこに痕跡された入り組んだ線描は、ぼくのなかで、その都市バルセロナのある事柄につながってしまった。
カンプ・ノウのバルサ、それもメッシとイニエスタを中心とする特別なパス回し。もちろん、バルサのパスはゴールへと向かう論理によって組み立てられているが、それだけではない。メッシはピッチの上で池垣について言った意味でのドローイングを楽しんでいるはずだ。それはフットボーラーとしてのメッシが生きることでもあるだろう。もちろん、そこからゴールが生まれればいうことはない。そのとき、ボールによる見えないドローイングは資本主義経済に組み込まれ巨大な利益を生むドリブルとなる。でも、それは結果だ。ぼくたちフットボールのファンが楽しむのは、パス回しそのものなのだ。
池垣とぼくはもちろんカンプ・ノウに行った。そして、メッシはそのようなドリブルを何度もしかけた。スタジアムの上の方からみていると(安い席だったので)、バルサのパス回しがますます池垣の線に重なった。池垣もハイになって、カメラでピッチを追っていた。翌朝、バルサなドローイングをすることになるだろう。
バルセロナの夏の、それもバルサを見たような場合の高揚感はなかなかさめない。こんなときは冷たいカタルーニャのスープ、ガスパッチョが一番なのだが深夜の食べ物ではない。結局、ゴシック地区の池垣の行きつけのバールでセルヴェーサ(ビール)。若い頃のメキシコ経験が京都人池垣に何を植えつけたのか。そんな話しを聞きたいと思ってもいたが、バルサのあとのバールではあまり意味はない。冷えたセルヴェーサを飲むだけだ。
そして翌朝、池垣タダヒコは同じようにシャッシャッサッーとやっていた。昨夜のバルサのせいか、前の日よりも手の動きが速いような気がした。やっぱり!