2012年1月28日土曜日

マンガという現象、パリのK-POP


そろそろブログを更新しようと思っていたら、寒波がやってきて、頭と指がちじこまり、そのうえ、仕事ともろもろのことが重なり、気がついたら前回のブログは3週間も前。この半年近くは、自分の備忘録としても1週間に1回は更新しようと思っていたのだが。ブログを更新していくのはほんとエネルギーがいる。アルゼンチンではしゃいでしまって、少し精神的エネルギーがダウンしているのかもしれない。まあ、長めのブログということもあるが。
先週1週間ほどは、マンガのことでフランスの人たちと会ったので、そのことを書こうかと思ったのだが、なかなか考えがまとまらなかった。日本のマンガ(アニメやゲームも含めて)が大人気なのは、日本でもよく知られているが、この現象がどういったものなのかを説明するとなると、けっこう難しい。人気があるのは確かだ。数日前、アパートから10分で行ける展示場で行われた「パリ・マンガ」という大きなマンガとゲームのフェスティバルに行ったが、やっぱりかなりの人。コスプレとアニソンと参加型ゲームで会場は盛り上がっていたが、ただし、日本の雰囲気はそれほどない。いつも書いているけど、フランスの若い人が解釈する日本のマンガ文化である。それは20万人を集めるようになったという「ジャパン・エクスポ」でも同じだ。日本の新しい文化を独自に解釈する西洋。この現象は文化論的にすごく面白い。といって、現象をはっきりさせようとすれば、文化論というものの胡散臭さを超えた視点と論理が必要だ。そうした批評をあまり見たことがない。
マンガが大人気といっても、実は、今年などはマンガ現象に陰りが見えてきたというのが何人かのマンガ通の話である。実際、世界的な国際BD(フランスのマンガ)祭で知られるアングレームでは、これまでの日本を意識した「マンガ館」の名前をつけた展示場がなくなりーつまり、マンガ=日本という意識が薄くなっているということだがー、代わって「マンガジー」(アジア・マンガ)という、より広くアジア(といっても韓国、中国、台湾だが)地域のなかでマンガ的表現と現象を見ていこうというものに変わってきたのかもしれない。今年は台湾が独自の展示場をつくっていたが、来年は韓国が大々的にフィーチャーされるようだ。
マンガだけでなく、この1〜2年のフランスでの韓国の存在感は急激に上昇している。このブログでも韓国映画祭のことを書いたことがあるが、韓国の経済パワーに押されて文化面でも急上昇である。といっても、韓国パワーは、バルル期の日本の感じとは少し違っているとみえる。ブランド品を買い尽くすようなかっての日本人観光客の熱気ではない。そうした観光的熱気は、いまは中国人観光客が担っていて、ああ、日本もパリでこんな時代があったな〜と、懐かしくさえなるのだが、韓国はなにかちょっと違う。統計も調査もしてなく個人的見聞からの想像だけだが、経済と文化が一体になってフランスという国での自国浸透を考えているという感じなのだ。
たとえば、サムソンの大々的広告がシテ島の裁判所の壁に現われる。歴史的文化遺産としての裁判所の建物の改装に資金を提供しているからである。他の場所にもあったかと思う。LGもある。もちろん、ソニーやトヨタも同じような活動をしてきただろうし、いまもやっているだろう。しかし、そのことが日本の文化活動と一体化していたわけではなかったように思う。でも、韓国は政治、経済、文化が一体となっていると感じる。そのことに日本ではヒステリー的差別言説があるが、馬鹿げている。フランスでは韓国のこうした浸透に自然体である。まあ、歴史の違いと言えばそれまでなのだが、グローバル化する世界で、極東の過去を、昔のイデオロギーで考えても意味ないことなのだ。
そんな中、数日前にパリのベルシー(大阪城ホールのような場所)であった、Music Bank-K-POPフェスティバルを見に行った。KBSの人気番組パリ版である。少女時代、2PM、4Minutes、T-ARA、Beast、SHinee(あと数組)といった人気グルーップの、昔風に言うなら、顔見せ興行である。家内は行かないというので一人で。それも大寒波の中を。日本ならためらうところだが、フランスには年齢関係なし的雰囲気があるのでチケットを買ったのだ。それも日本なら数時間で売り切れだろうが、2週間前でも手に入ったのだった。ウイーク・デイのためらしいが、実際にはほぼ満員(1万人くらいか)。ぼくの席は一番安い席。そしたら何とまわりはフランスの女子高校生ばかり。でも、やっぱりサンパ(カジュアルで気さくというフランス語)。違和感は全然持たれなかった(と思う?)。ボンジュールと言って席につくやいなや、ねーねー、誰が好きなのと聞いてくる(少女時代と答えておいた)。当然ぼくも、おじさん評論家的に質問。彼女たちはラ・ロッシェルというパリから2時間半ほどの港町から来ているという。遠いね、というと、何言ってるのよ〜!あそこを見て、あのイタリアの国旗。向こうににオランダの国旗。あの子たちは私たちよりもっと遠いでしょう!わかった、わかった。どのグループが好きなの?2PM、ワッワッワッ!といった話をしている間に開演。もう嬌声とダンスで大変。やっぱりミーハー、追っかけが集まる場は独特の熱気がある。
こんなこと書いていると、何ページあっても足りないが、ともかく、初めて見たK-POPスターたちの公演はすごく面白かった。客席の熱狂といい、それぞれのグループの独自のパターンが面白かったし、やっぱりかなりのスペクタクル度だった。少女時代はちょっと生彩を欠いていたと感じたが、もう完全に大物になったということか。ぼくは2PMと4Minutesのステージが気に入った。隣のフランス女子高校生にそのことを告げて「オヴォワール!」と言うと、またね!外に出ると、マイナス7度。

2012年1月21日土曜日

旅の終り、盲目のストリート・シンガー

本当に旅行をしたという感じだ。ヨーロッパやアジアを旅行するのとは違った、違和感といってもいいが、どこかゴツゴツするものを感じる、そんな旅行だった。もちろん、これはアルゼンチン、あるいは南米という風土と関係しているのだろう。その感覚は、リナレスのそれでもあった。そして、トゥックマンを離れる日、リナレスが長く勤めたトゥックマン大学の美術学部(昔は美大)を訪ねてみた。夏休みで入れないとは思っていたが、やっぱり。守衛のような人に「入れて」と言ったがもちろん断られてた。でも、こんな校舎で教えていたんだなということがわかり、またまた想像(幻想?)が刺激された。その一角に、新校舎建設の看板が。昔の記憶がひとつなくなることになる。その前でよかった。
リナレスづくしのマルコの町だったが、最後にもうひとつちょっとした驚きが待っていた。
リナレスの絵を見た興奮を、メンドーサ(有名なワインの産地)のワインで気分をまろやかにし(これは言葉のあやで、ワインもちょっとゴツゴツしている)、小さな繁華街をほろ酔い加減で歩いていた。すると、キレイな歌声が聞こえてきた。普通、ストリート・シンガーに足を止めることはほとんどないが、透き通った高い声(平凡な形容でいやになるが)、メランコリーなメロディーに引き寄せられて、聴いてみようと足を止めた。これが驚いた。盲目の若者が、ギターだけで、アルゼンチン、あるいは南米?わからないが、泣けるようなフォルクローレ(広い意味で)な歌を歌っているのだ。30人あまりの人が聴いていた。1曲終わると心からの拍手とブラボー。ぼくも思わず叫んでしまった。そして、置かれた空き缶に次々とお金を入れていく。歌を聴いていた全員が、空き缶にお金を入れた。こんなことは普通ないように思う。もちろん、ぼくも1曲終わるごとに入れた。隣でビデオカメラを回しながら聴いていたアイスランド人夫婦(不思議なカップルだった)も感動して、フェイスブックの「いいね」というのとは、まったく違う「いい〜」を連発していた。この夜、ここにいて幸せだった。偶然の幸せというのは、ときどきある。そのひとつだった。
付き添いなのか、横に座っていた美男子くんに聞くと、若者は少し知られているミュージシャンで、ブエノス在住とのこと。何でこんな所まで来て路上で歌っているのか不思議だったが、Youtubeでも見てくれという。その夜、もちろんチェックしてみた。彼はNahuel Pennisiという歌手で、コンサートにもテレビにも出演していた。テレビや大きなコンサートの音は、聴いたばかりの路上ライブには及ばなかった(実際はわからないが)。すごく路上が似合う歌手だったとも思う。ブエノスのおしゃれなランブハウスで聴いた、ポップスグループとは雲泥の差。アルゼンチンで、それもリナレスのトゥックマンで新しい音楽経験ができたのも収穫だった(チープなカメラビデオで撮った動画をアップロードしようとしたら、失敗。何とか聴いてもらいたいので、また試みます)。ますます、アルゼンチンが好きになっていく。
音楽のことでいえば、ブエノスでタンゴを聴きに行くつもりでいたのだが、結局やめた。観光地区のストリート・タンゴで何となくいいや、という気持ちになったからだ。これは正解だったのかもしれない。パリに帰ってボルヘスの対談集(80年代前半の対談)を読んでいたら、この奇想の詩人は「タンゴは終わっているよ。今はロックでしょ。」と断言していて、やっぱりね、と独り合点。それより、ペニッジ君だったのだ。
こうして、帰る日が来てしまった。最後にルッキー食堂でピザを食べようと思ったら夏休み。伴内くんと女将さんにアディオスを言えなかった。また、帰る日にブエノスの「ボルヘス文化センター」を訪ね、知り合いから紹介されたカロリーナさんとマリア・デル・カルメン・カルビ(すごい名前)さんと会ってアルゼンチンの現代アートのことなどのことを聞く。すごくダイナッミックなセンターだった。やっぱりボルヘス?
ともかく、すごく気持ちのいい旅だった。暑さで疲れたが、それもあって、最高にサービスの悪いアルゼンチン航空も苦にならなかった。サービスという概念がないのだ。日本はちょっと過剰だが。そして、パリへ。何か懐かしく、それもやけに落ち着いていて、気持ちが悪いくらい。地下鉄に貼られたコンサート、展覧会、映画、芝居、見本市などなどのポスター。ここでも書いた「文化の狂乱」の情報都市が落ち着いて見えるほど、アルゼンチン(二つの都市だけの印象だが)は、今もなおいい加減な人間の熱気が充満していたということなのかもしれない。本屋でいくつかのアルゼンチンとラテンアメリカの本を買って、もう一度、気分を思い出している。もう1月も下旬。滞在も残り少なくなってきた。

2012年1月16日月曜日

トゥックマン/リナレスへの旅2


ブエノスアイレスでリナレスの絵には会えなかったが、美術館巡りをしたおかげで、この国の近・現代美術の歴史が少しわかってきた。前回、ここの美術史は捩じれていると書いたが、その捻れがどのようなものかが。スペイン語を勉強して知識をつけないといけないが、基本的には、ヨーロッパ近代との関係が軸だ。日本と同じだが、しかし、アルゼンチンはヨーロッパ移民の国である。その文化への愛憎は、日本とはまったく別物だろう。この話は、勉強してからのことにして、リナレスを追いかけてトゥックマン(普通はトゥクマンと書くようだが、ぼくの耳に入った発音からこう表記しているのだが)、正確にはサン・ミゲル・トゥックマンという北部の町に出かけた。ブエノスから1200キロ以上。さすが、ここは飛行機。
フランスの有名なガイドブックには(「地球の歩き方」には紹介されていない)、外国からの旅行者には見る所のない町で、よくて中継地とある。ただ、アルゼンチン独立の記念の地だそうで国内の訪問者はけっこういるとのことだが、ともかく、観光には適していない町と書かれてある。実際、町を歩いている観光客らしき人はほとんどいなかった。
しかし、しかし、ある世代の日本人にはすごく有名な町なのだ。うっかりしていたが、トゥックマンは、あの「母を訪ねて三千里」のマルコ少年が母アンナと感動の再会を果たし町なのだ。滞在の最後に思い出したのがくやしい。早くから準備しておけばストーリーを現場で追うことができたのに!知っている人は言わずもがなだが、多くのイタリア人が出稼ぎに来たアルゼンチン。マルコの母アンナはその典型だったのである。かっては、豊かな町だったらしい。しかし、主産業の砂糖精製が下火になってから、町は活力を失ったということだ。実際に行ってみるとそんなことはないのだが。マルコを思い出してから、ちょっとだけ、リナレスへの旅がマルコと重なった。となると、リナレスはぼくの母親?精神分析学的にはありえるかもしれない。
さて、朝早くブエノスを発って、着いたのが雨のトゥックマン。ホテルに着いてすぐに、作品があると聞いていたナヴァッロ美術館に行く。2010年のブエノスでのリナレス回顧展に所蔵品を出品していたので、何かあるだろうと思ったのだが、この美術館はどうやら常設するところというより、展覧会場に近い。その会場ではトゥックマンのサロン、京都の京展のようなものが行われていた。昔、リナレスは出品したのだろうか。そんなことも含めて、誰かに聞きたいと思ったが、スペイン語しか通じない。受付の人に英語のできる人がいないかと受付に聞くと、ひとりの女性を連れてきてくれた。ただし、英語はできないがフランス語は少しできるというので、やっと会話成立。これが幸運だった。親切な人で、現在ここでは見れないので、リナレスの奥さんに連絡して、そこで見せてもらったらと言って(自宅に作品が保管されているらしい)電話をしてくれたのだ。そうしたら、奥さんは現在は会わないと言っている、そのかわり作品を預けている画廊に行ってほしいとのこと。奥さんに会いたかったけど仕方がない。でも、やっとリナレスに接続。
ともかく、夏休みにきてしまったので学芸員がヴァカンスでまったくつかまらない。彼(彼女)らと話ができれば、多くのことを知ることができたのにと後悔したが、パリの研究所の冬休みがこの期間なので仕方がない。ともかく、お礼を言って市中にある、その画廊、El Taller(エル・タジェールと言うのか)へ行くことにした。そして、美術館を出ようとして入り口を振り返ったら、リナレスの作風に似ている肖像画が架かっているではないか。近付いてみるとやっぱりリナレス。実際の絵との最初の出会いである。やっぱり感激した。美術館の名前にもなっているナヴァッロという画家の肖像だった。向かい合わせにこの画家の絵も架かっていたが次元が違う。ナヴァッロはトゥックマンで歴代もっとも有名な画家のひとりらしいが、やっぱり地方の画家を出ない。リナレスが「地方の一画家」でないことがわかる。
ますます、期待が高まり、早足で雨の中、画廊へ。あ〜った!入り口の壁に、代表的なモティーフのデッサン。その横には抽象時代のタブロー、そして、事務机の後ろの壁には大きな静物画。初めて静物画を見たが、すごくいい。そして、マリアンナさんという画廊のオーナーにいろんなことを話す。どうして来たのか、リナレスとの出会い等々。彼女の英語能力は片言なので、コミュニケーションはそんなに楽ではない。でも、快く画廊で預かっている作品を見せてくれる。すごく無造作に。感激したとき気持ちを言葉にするのは難しいが、「間違ってなかった!」という気持ちが強かった。油彩のタブローは7点くらいだったが、デッサンがかなりあって、1点1点じっくり見た。
こんなにしっかり絵を見るのは久しぶりだ。こういう言い方をすると誤解を受けるかもしれないが、絵を見る人は少ない。構図や色使いといった造形面を見るということではなく、絵が訴えてくる世界を受け止めるという意味だが、普通そうしたことはしない。専門家でも同じだ。造形を見るか、主題を見るか、あるいは歴史的なことを考えるかである。いわば、技術的か、あるいは情報として絵を見るのだ。ぼくたち美術史をやっている者は、普通、歴史情報である。絵心がある人は造形を、観光客は名所として見る(印象派を見るのはその典型)。ぼくも、同じようなことをすることも多いので、そうした見方がいけないとはまったく思わない。でも、普通の見方を超えさせられることが絵画にはあるのだ。ただし、その機会に出会えるのは、そんなに多くはない。ほんと幸運である。
ここでリナレスの絵画について、形容詞とともに語るのは止めておこう。ひとつだけ言うとしたら、絵画は力があるということである。力というのは、世界の構造を見せる力だ。そうした力は南米に強いようにも感じる(これまでの小さな経験では)。小説家マルケスの世界が現実を描きながら、リアリズムとは違う、世界を成り立たせている構造を、それも南米という世界の構造を通して普遍の物語を描き出したように。話がちょっとややこしくなってきた。
前回も書いたように、リナレスのモティーフは5つほどある。権力者を換喩的に扱うもの、サーカスのアクロバティックな芸人、タンゴ、静物、そしてフィクションとしての肖像と実際の肖像である。とくに、権力者のモティーフが重要ではなかったのかとも思う。アルゼンチンは複雑な権力闘争を経てきた国だからだ。権力と美術が結びつくということに違和感をもつ人は、ほとんど美術というものをわかっていないと思っている。美術は美しいだけでなく、現実に深く関わっているからだ。
こうしたことはあとで考えたことで、その画廊では、ただ見ていた。そのあと、マリアンナさんがリナレスの生徒だったということも知った。これも幸運。そして、彼女にどんな人だったか話してもらった。印象的だったのは、リナレスが哲学的な人間で、素晴らしい先生でもあったということだ。細かなことはスペイン語で話してもらい録音した。だんだんと、リナレスのイメージが出来上がってくる。カタログに残された生前のリナレスの風貌は、なかなかイカシテいる。美術史をやっていてよかったという不思議な気持ちも湧いてきた。ヨーロッパや日本で、そんな気持ちをあまり持たないのに。こうしてリナレスの旅はトゥックマンで旅になったのだった。

2012年1月13日金曜日

アルゼンチン/リナレスへの旅1


アルゼンチンにやって来たのは、エゼキエル・リナレス(Ezequiel Linares1927-2001)という画家の足跡を追い、その作品を見るためである。ここでも何度か触れてきた。そのリナレスの作品にやっと会えた。アルゼンチンの北部のトゥックマン(Tucman)という町で、である。ともかく、ここまで来てしまったのだ。
どうして、こんなにも惹かれるのかは簡単には説明できない。美的経験を説明しがたいというのではない。リナレスの絵画の持つ力が感覚を動かしている。その感覚は、ある意味で、経験の総体とも言えるものなので、その魅力を語ることは自分を語ってしまうことになる。長い時間がかかるだろう。ここに書くのは、そのほんの一部。
リナレスの作品に初めて会ったのは、10年以上前に幕張で行われた国際美学会議でのことである。そこでトゥックマン大学美術学部の女性教授が「現代アルゼンチン絵画におけるバロック性」、確かそんなタイトルで何人かの画家をスライドを交え紹介したのである。その一人にリナレスがいたのだ。スライドを通しての絵に、ただただ驚いた。いままでに見たことのない絵画だった。そして、発表終了後に、その教授に話を聞きに行った。「誰なのか」と。そうしたら彼女がリナレスの小さな個展のカタログをくれた。
そのとき、リナレスの旅をしようと思ったのだった。
昔からアルゼンチンという国も気になっていたことも重なる。大昔、初めて仲良くなった外国人がアルゼンチン人の男二人連れ。そのフォルクスワーゲンで数日スイスを旅行をした。タンゴも昔から好きだった。でも、それはパリ経由のコンチネンタル・タンゴ。そして、もちろんゲバラ。それから70年代から80年代は南米文学とマラドーナ。文学についてはえらそうなことは言えないが、サッカー選手を通してアルゼンチンを感じてきた。
リナレスの絵にはガルシア・マルケスの「百年の孤独」と似たような感覚があると感じる。マルケスはコロンビアの文学者だが、生まれは1928年。そして、リナレスは1927年。そして、ゲバラも1928年。ある時代の南米の世代的共通性というのがあるのかもしれない。ただし、それまでアルゼンチンの美術についてはほとんど知らなかった。情報もないし、スペイン語もほとんどできない。何よりも、日本でアルゼンチンの美術について書かれた本を見たことがない(あるのかもしれないが)。フランスには少し紹介されていたが、リナレスについての情報はない。現在では少しずつアルゼンチンの現代作家が世界に登場するようになっている(感じがする)が、長い間、何人かの作家を除いて、その美術は知られていなかったのは間違いない。
そんな国に、リナレスのような画家がいたことも驚きだった。長い間、美術史という領域で仕事をしてきたが、これはかなりショックだった。そして、少しずつわかってきたのだが、アルゼンチンの近代美術史は、日本と同じようにかなり捩じれていた。意味合いはかなり違うが。ただし、リナレスはそうした捻れの中で語ることのできない画家だとも思った。彼の絵画的想像力を刺激しているのは、アルゼンチンの美術界ではない、あるいは美術という領域でもない、それよりずっと大きなもの、そんな感じを強く持つ。そして、絵画にそのような力があることも。
エゼキレル・リナレスはブエノス・アイレスに生まれている。そして、そこの国立の美大(Escuela Superior de Bellas Artes)で学んだあと、アルゼンチンの新しい美術運動「スール」(Sur)というグループの結成(57年)に参加する。ヨーロッパの動向に追随しがちなアルゼンチンの美術が自意識に目覚めた運動のひとつだったという。今から見ると、といっても最近わかったのだが、その傾向はフランスのアンフォルメル、アメリカの抽象表現主義、そのあたりと共通する抽象だ。その時代の作品も今回見ることができた。その後のリナレスとはまったく違う、近代絵画そのもの、つまり色と塗りによる、絵画性を求める表現。
このアルゼンチンでの抽象の流れは、実は、日本人も関係していた。酒井和也という日系画家だ。日本でどのくらい知られているかわからないが、ブエノスの国立美術館にも作品があるくらいだ。この画家のことについても調べたいが、それはリナレスを追いかけることとは別の意味合いになるだろう。ともかく、リナレスは注目されたのだ。そして、国の外でも活躍する(ラテンアメリカとスペイン語圏だが)。そのリナレスが1960年代の前半から突然変わる。ブエノスを去り、北部のトゥックマンという町に移ってからである。そこで美大の絵画教師になり、その地で一生をまっとうする。
あんなすごい絵を描くのだから、国内ではかなり知られた画家だろうと思い、最初にブエノスの美術館でリナレス巡りをしようとしたのだが、これがまったく見つけられない。2010年にシヴォリという小さな美術館で回顧展があったが、大きな注目を集めたとまではいかなかったそうだ。ラウラさんという美術批評家に聞くと、ブエノスで常時展示している美術館はないし、所蔵している場所も彼女は知らないという。つまり、首都では知られていないのだ。いわゆる地方の画家ということなのだろう。典型的な芸術家のパターン。若い時期、中央で名を知られたが、その後田舎に引っ込み次第に中央から忘れられていく。なじみの近代画家物語のひとつである。しかし、この物語で決定的に忘れられているのは、そのことが創造と関わることが稀にあるということだ。再発見の物語のことを言っているわけではない。再発見とは、時代の趣味やマーケットの問題である。リナレスは、そうした物語とも違っている。作品を前にしてそう感じる。
リナレスは、トゥックマンで変わる。それもドラスティックに。それまでの抽象を止め、アルゼンチンの現実を描き始める。ほぼ2年間で完全に作風が変わったという。そして、独裁者、サーカス、タンゴといったモティーフが、濃厚なエロティシズムを伴い絵画という表面に定着するようになる。知り合いに絵を見せると、フランシス・ベーコンに似ているという。実際、こちらで知り合ったリナレスの学生だったギャラリストは、リナレスはよくベーコンのことを話していたという。もちろん、影響ということはあるだろう。80年代にマドリッドとパリに滞在してもいる。しかし、その絵はベーコンとは別だ。見ているところが違うと言ったらいいか。南米という土地固有の現実。エロティシズムは、そこでの「生」の象徴なのだと、絵を見ていると感じる。アルゼンチンに来て、その現実を少しだけ感じることができた。そして、ブエノスを離れトゥックマンに行くことになったのである。リナレスへの旅の最終目的地。

2012年1月10日火曜日

ブエノスアイレス2、ルッキー食堂の松尾伴内


ますます暑くなってきた。昨日と今日は37度。来た当初は、木陰が涼しいという感じだったが、この両日はそれどころではない。日本の夏と同じ。でも、濃厚さは、圧倒的にブエノスアイレスに軍配があがるので、暑さは倍増。くらくらしながら、町を歩く。ホステルの部屋にはクーラーはなく、通りに面しているので夜の騒音もはなはだしい。でも、不思議といらいらしないし、寝れてしまうのだ。このホステルの雰囲気と近くにあるlucky食堂のおかげかもしれない。Luckyと書いて正確に何と発音するのか知らないが、たぶん「ルッキー」。そう言うと答えてくれるので、そんなに違わないとは思う。
前回、カフェのことを書いたが、この食堂は、まさしくブエノスアイレスの質のいい大衆食堂。安くて美味しく、給仕が素晴らしい。常連が多く、彼らが食べる物を見ながら注文もできる。こうした場所が見つかると、その土地がいっそう楽しくなる。そこで給仕をするのはアルゼンチンの松尾伴内くん。インディオ系なのだろうか、あのチープな味が秀逸なタレントに似ている。でも、その給仕の仕方は本格的だ。この町のカフェのウエイターたちがしっかりしていることは前回書いたが、松尾伴内くんは、そのなかでもトップクラス。そのフォーマルな給仕の仕方が、食べ物を美味しくする。豪華風にするのではない。食べ物はきちっと食べよう、と言っているのだ。こうした風習はしだいに日本でもなくなってきた。
一度、インターナショナルな豪華ホテルのカフェでランチを食べたが、そのウエイターはカジュアルで今風。そんなの、もうおしゃれじゃないよ、という感じがするのに、世界中でこうしたカジュアル化が進行中である。ぼくもそうなので何とも言えないが、パリでも、昔風のギャルソンは減った。もちろん高級店はそうなのだが、どこかマニュアル化している。給仕はスタイルの問題ではなく、食べ物飲み物を客に楽しんでもらう気持ちの作法である。高級店はそのことを忘れている。
グローバリゼイションは作法のカジュアル化をもたらしている。ぼくも基本的にはカジュアル的なので、あんまり言えないが、カジュアルという概念はフォーマルに対応してのことである。一方がなくなり、カジュアルだけになってくると、バランスが悪い。こうなってきたのは、何が原因なのだろうか。60年後半を経験した世代のスタイルの問題だとも思う。イギリスのケンブリッジのインテリ団塊世代は、わざとネクタイなんか締めないラフな服装をしたらしいが(ケンブリッジ風と言うらしい)、日本でも同じことか。いまさらながら、ぼくの世代の無思想性を感じる。そうした意味では、ブエノスアイレスの松尾くんは思想がある。乱雑な大都市、ブエノスアイレスなのに、しっかりしたことはしっかりしているのだ。ここが魅力でもある。
そのルッキー食堂で、ぼくにとって一番なのは、アルゼンチン風(?)タルエニーリ。イタリア移民の多い、この国にはそのレストランとカフェが多い。しかし、移民によって文化は変容する。ガイドブックでは、ここのパスタは評判がよくない。でも、でも、トマトソースに
骨付き肉を絡めたソーズを、名古屋のきしめんっぽいタルエリーニにかけたパスタは、かなりのものだった。いろんな文化に味付けされて変容する食べ物。パリのラーメンのように、ルッキー食堂のタルエニーリは、ブエノスアイレスの、おそらく歴史も凝縮されているはずだ。もう1品。トルティージャ(オムレツ)。これもスペインのものとは酸くし違う。
ともかく、ルッキー食堂を発見してから大カロリーオバーである。長く食生活のベースにしてきた新縄文食を守ることはできない。郷に入れば・・・。おそらく、パリに帰るころには腹がブヨブヨになるだろう。ブエノスアイレスは、おしゃれ地区を除いて、肉付きのよい(よすぎる)男女がすごく多いので驚くが、それを気にしている風もない。ダイエットは中流あたりまでの人には無縁のようにみえる。ただし、おしゃれ地区は違う。スリムな人も多い。この対比は、健康志向そのものがグローバリズムのイデオロギーであることを語っている。どっちがいいのか。健康志向に取り憑かれること。食べる欲望に身を任せること。考えてしまう。アルゼンチンは考えることは多い。

2012年1月8日日曜日

ブエノスアイレス1、モザイク都市



正月休み(クリスマス休み)を機会に、アルゼンチンに来ている。昔から一番来たかった国のひとつだ。そのことに加えて、10年前に、エゼキエル・リナレスという画家を知ってからは、ともかく、その作品を見ることも大きな動機になった。サッカーのためでしょう、と言われるがそうではない。アルゼンチンの選手は好きだが、この国のサッカーリーグにはそれほど興味はない。でも、大観光地ボカ地区でマラドーラ人形と写真はとってしまったが。
ともかく、ブエノスアイレスは、ほんと気に入った。まず、カフェの町だった。通りが交差するほとんどの角に、昔からと思えるカフェ(バールでもある)があり、広くてくつろげる。もちろん、おしゃれ地区には、世界の大都市のどこにでもあるしゃれたデザイン・カフェがあるのだが、それよりブエノス市中のカフェだ。コンクリートやタイルの三和土に木製テーブル・椅子、そしてきちっとしたギャルソンのいる、一見変哲もないカフェである。スペインやポルトガルにもあったが、ここのカフェの方が昔風だ。そこで、たいていはキルメスというビールを飲み、ギャルソンと一言二言。お腹がすいたら、ピザかなんかを頼む。イタリア移民が多いとかで、ピザはこの国の常食のようだ。でも、とりたてて美味しくはない(3件くらいの印象)。でも、ギャルソンがピザの1ポーションを、大きな鉄製のコテのようなものでとりわけて皿によそってくれる、その感じがいい。昔のイタリアの伝統なのか?わからないが、そんな長く続いている習慣が残っている。
そんなカフェの中で、宿Chillhouse(バックパッカー御用達の評判のホステルで、その高級部屋を予約したのだ)近くに、最高のカフェを見つけた。Cafe Bar ROMA。ローマ・カフェ。19世紀か20世紀初頭の雰囲気である。80歳近くの夫婦がやっている、すごくさびれたカフェ。昔は、立派なカフェだったんだろうという気分は、壁の上部を埋め尽くす古い酒瓶や看板からも想像できる。客は老人だけ。ぼくもそうだから気にならない。そうした老人たちが、コーラやスプライトをテーブルに置き、何をするともなく座っている。近代アルゼンチンが固定している感覚がある。
ブエノスアイレスは近代が色濃く漂う町である。カフェの雰囲気以上に、カフェの入る建物が魅力的だ。近代コロニアル(植民地)スタイルの建物がすごく多い。ちゃんと勉強していたらと残念でしょうがないが、そうした建物は、ヨーロッパ各国、そして時代を反映しているのだろう。スペイン風、イタリア風、フランス風といった「風な」建物はアルゼンチンの歴史を語っているに違いない。植民がもたらしたモザイク性。それに加えて、いわゆるモダンな近代建築、そして、ここ数十年のポストモダン建築。この3つからなるモザイク。これが現在のブエノスアイレスという都市を建築的につくっているとみえる。近代建築史が重層的に顕在化しているとみえる。
その都市を無数のバスがやたらとスピードをあげて走りまくっている。ロンドンのように節度はなく、運転は荒く(だからよく転けそうになる)、そのうえ、旅行者に便利なカードなどはないので、毎回、小銭を料金箱に入れなくてはならない。ポケットがいつも小銭でガチャガチャすることになるのだ。市内は1回24円と驚くほど安い。地下鉄も同じ。大都市の割には路線が少なく、いつも満員。クーラーはなし。いまは真夏で、1回乗ると汗がドドーと出るので、バス利用に切り替えた。車両も改札システムもまだ近代のまま。写真や映画で見た1930年代あたりの地下鉄の感じ。こうした公共輸送の安さが食べ物とかに反映しているわけではない。物価はけっこう高い(タバコは安い)。ピザもほぼ日本と同じ値段。
いろんな物や事が、ある一定の基準であるというのではないような。こちらの人はそうなんだろうけど、旅行者からすれば、なんかチグハグな感じを受ける。ほんとモザイクの魅力。こんな印象をもちながら、バスに乗りカフェでキルメスを飲んでいるのだ。天気は素晴らしくいい。真夏の空の下にクリスマスツリーやサンタ人形が飾ってあるというのも初めての経験。そう、南半球なのだ。

2012年1月2日月曜日

謹賀新年


明けましておめでとうございます。
キリスト教国はクリスマスがメインなので、正月はほとんどなし。前日大晦日は朝までパーティー(若い人は)。それで新年は終り。拍子抜けするけど、こちらはこちら。ぼくもロンドン弾丸旅行で少々疲れ、31日の夜、友人宅でシャンパンを飲む頃には眠たい!となってしまった。パリに戻ったのが2時間前だったので仕方がない。とにかく、3日の20時間あまりの(乗り換えも含めてだけど)長旅のために体力を回復しておかないとと、正月は残り物を食べながら体力温存。ほんとの寝正月。
さて、前回書いたロンドンのナショナル・ギャラリーの「レオナルド展」(副題がミラノ宮廷の画家)。2つの「岩窟の聖母」を、それぞれどのように位置づけるかということの手法が、けっこう昔からの手口で、そのことが興味深かった。やっぱり、ルーヴルの「岩窟の聖母」だ。でも、この美意識は歴史的なものなのか?少し調べたい気もするが、今の所無理。それとは別に数時間散歩したロンドンの街がよかった。パリとまったく違って、何か、「これがブリティッシュか!」と初めて感じたのだった。もっともサウス・ケンジントンでの散歩のせいかもしれない。あるいは、ドーバー海峡を自動車を載せる収容所行き列車のような電車で通ってきたためか?バス、列車、トンネルと3重に密閉され、加えて、おそらく水圧もかかるドーバーの通り方は、ちょっと尋常ではない。35分と短いが、その嫌な感じをロンドンの朝は吹き飛ばしてくれたのだ。
ともかく、皆さんにとって幸せな年でありますように。