2012年12月9日日曜日

美術、美術、そして池垣さん

前回書いた韓国小旅行に刺激されたからか、11月は美術館や画廊に少し足が向いた。フェルメール。確かにターバンの女性は綺麗だけど、あんなに持ち上げることにちょっと。グレコ、うんうん、専門家以外なら、数点見ればいいんじゃないの、宮永愛子さん、綺麗に昼寝できそうとか、エルミタージュ、ロシアの美術館も苦しそうだな〜とか、そうそう昔から知り合いのMarieさんの凝った版画、そのモダニズムへの転向はどこまで行くんだろうとか、10月に京都に来たジェニーの写真、フランス人だな〜?、家内の書、ガンコだな〜、とか、また、何かの折り、ボルタンスキーのことを考えて、一度会ってみたいな〜とか、まあ、見たり聞いたりすると、刺激はある。学生のつくったものを見ても同じ。アール・ブリュットな感じがあるのが面白いことも。無鉄砲ということだが、少しずつ、それが消えていくことも少なくない。こんなことを手帳を見ながら、やけに寒い12月に思い出していた。
そんな11月でもあったのだが、1ヶ月以上も前のことなのだ。さすが、慌ただしい。手帳にはいろいろな行事が書きつけられている。日程表が真っ白なのは寂しいが、黒くなるとため息。中庸というのはなかなかない。やっぱり年末?まあ、この季節は忙しい方がいいけど。そんな季節、町には選挙カーが走り、日本政治のワイドショー的光景が繰り広げられている。政治に興味はあるが、何もかもピンとこない。日本の右を向いていく流れも、ただ、言葉に力のない政治家の自尊心の勘違いか、あるいは有名病のため?それを論評する批評家や研究者にもリアリティーがない。誰もかもが日本を強くするって力むけど、その強い日本ていうのが何なのか誰もわかってない気がする。考えてないのだ。ぼくは日本が強くなって欲しくないので、こうした言説に一番違和感があるが、それも言葉のリアリティーが何かを考えてないためだし、それを言葉にすることへの無自覚もあるだろう。この前ちょっと聞いたメディア批評をしていた若い人もそうだった。メディアや新しい文化について話しても、話し方が普通、伝統的語法なので新しくはない。こんなことを書いていくと疲れるので、別の話題にしよう。
このブログを、ぼくにとっての備忘録のひとつにしようかと思ったのは少し前からだが、それは、書いたものを残したいということではなく、年齢とともに記憶能力が退化してきたことを自覚しようと思ってのことである。パソコンの中に前に書いたものや、書いたけど印刷されなかったものなんかもあって、普通読まないのだが、読むと、ああこんなこんな感じで書いてていたのだと、自分が書いたのに、人が書いたような気になることもある。それが面白いこともある。そこで、今回、ネタがなかなか見つからないことがあって、池垣さんという、昔から知り合いで現在同僚の作家のことを、何かに載せるというので書いたことがあったが、活字にならないので、ここに転写張り付けすることにした。彼がバルセロナに滞在していたときの話。2009年夏のことだ。寒いので、夏の暑いバルセロナを思い出したこともある。読んでみると結構硬い。ウ〜ン。入れるとこれまで最長の字数になって、また、「ブログ、長過ぎる〜」と数少ない読者(見者?)に言われるけど、そこは・・・。では!
 池垣タダヒコ、あるいはバルサのドローイング
池垣タダヒコを初めて見たのはいつごろ、どこで、だったのか。画廊だったのか、美術館だったのか。ピカピカに光る銅製のオブジェの向こうでもじもじしていたのが池垣だと知ったのは、もう少しあとになってのことである。京都で発行されていた『A&C』という展覧会時評を中心とした美術雑誌に少しだけ関わっていた、1980年代後半から90年代始めの頃だと思う。
その雑誌は、いま振り返れば、なかなかのものだった。美術の地域性を、中央主義的視点の裏返しとしてみるのではない、そんな視点を育もうとしていたからだ。そうした雑誌が出たことと、当時の京都の若いアーティストたちの熱気とは無縁でなかっただろう。その熱がどういうものであったのかは、これから検証される必要があるだろうが、池垣もその熱圏のなかにいた。そして、ぼくはその熱で身体を温めていたのである。それから20年あまり、長尾浩幸の紹介で個人的にも知ることとなり、同じ大学で教えることにもなった。でも、髪が白くなったとしても(もともと白かった?)、池垣タダヒコは変わっていない。その話し方も、ものへの姿勢も。
池垣タダヒコについて書くことになって、こんなことを思い出していたのだが、書きたいのはこうした交友録的なことではない。前から気になっていた池垣のドローイングのことである。その現場を初めてみたと感じた4日間のことである。場所はバルセロナ。
バルセロナ
2009年8月。パリからの飛行機がカタルーニャの乾燥した風景のなかに吸い込まれてから半時間後、プラット空港のターミナルに池垣がにこにこしながら手をふっていた。40年ぶりのバルセロナだった。夏休みをとって、在外研修中の池垣を訪ねたのである。
ぼくにとって、この都市はひとつの憧れである。それはガウディではなく、「バルサ」(FCバルセロナ)とスペイン内戦がかきたてた夢のためである。なのに、どうしてこんなに長く訪れることがなかったのか。記憶のなかに漂っていた街はもちろん近代化されていた。フランスの建築家ジャン・ヌーベルのトーレ・アグバルの存在感がバルセロナを不確実な未来の夢へと妖しく誘い、そして、バルサの本拠地カンプ・ノウもきれいになっていた。
その一方で、記憶のバルセロナもしっかり存在していた。歴史を重みとして持続させる西洋の美徳だ。池垣はその美徳といっしょに暮らしていた。アパートはとびっきりのバルセロナ、夜に活気づく飲食街と歴史的記念建築物が混在するゴシック歴史地区にあった。その一角で、前からの住人のように暮らしていたのだ。
ドローイング
遅い朝を起きると、シャッシャッサッーといった感じの音がかすかに耳に入る。キッチンの隣の部屋で池垣がドローイングをしているのだ。「ブエノス・ディアス」と正式な「おはよう」を言いその部屋に入ると、大きなテーブルの上に、線と色で覆われたA4ほどのデッサン紙が何枚も重ねられている。タンクトップのシャツと半ズボン、頭には手ぬぐいを巻いていたかは覚えがないが、昔からここで描いていたように、描き続けている。「何か食べる?」と聞きながら手を動かしている。
池垣にはいつも何かを描いている印象がある。京都でもそうした姿を時々目にする。会議、コーヒータイム(彼はあまり飲まないが)、雑談のとき、おそらく一人でいるときもそうなのだろう。それをドローイングと言ったが、ほんとはちょっと違うことなのだとも思う。
ドローイングはフランス語ではデッサンである。日本ではどちらも使われているが、二つはいくぶんニュアンスを異にするようだ。ドローイングの方が自由でデッサンが目的をもった態度といったような。この違いは、日本の美術を考えるとき面白い問題になるのだろうが、どちらとも美術作品の基礎になるものであることはいまでも変わらない。しかし、池垣タダヒコのそれは、基礎とか何かのためにといった、美術としてのドローイングというのとは少し違うのだ。この意味合いを説明するのは難しい。ドローイングのためのドローイング?それは描線や形象表現の訓練ともなるが、池垣のものはそうとはいえない。落書き?線をひくことの原初的な意味でならば、そうかもしれない。そうした落書きのように、池垣のドローイングは「生きる」ことと関係しているような描くことだと思っている。
人間は誰もが線をひく、あるいは色をぬる。赤子が母親の白い胸を生えたての爪でこするように、もう少し歳がいけば、紙や板や壁に鉛筆やクレヨンで何かを書きなぐってしまうように、さらに大人なっても、意味なく紙に線や形象を描いてしまうように。人間は生まれてから死ぬまで線をひいたり形を書いたりしている。それは人間が何かとつながるための、あるいは何かへと自分を解放しようとする、つまり世界と私のつながりを求め確認する行為のように思う。池垣のものも、そうしたたぐいのものではないのか。ただし、アーティストとしての意識が、少しだけ作品化させる。ドローイングの前のプレ・ドローイング。でも作品よりも、「つながり」の感覚が強い。そうしたものを毎日、バルセロナで行っていたのだ。
バルサ
ドローイングがそうしたものであれば、土地(人間関係も含めて)という意味は小さくはない。バルセロナでのドローイングは、池垣とバルセロナとの生きる関係を綴るだろう。ぼくが見たのはそうしたドローイングの現場だった。そして、そこに痕跡された入り組んだ線描は、ぼくのなかで、その都市バルセロナのある事柄につながってしまった。
カンプ・ノウのバルサ、それもメッシとイニエスタを中心とする特別なパス回し。もちろん、バルサのパスはゴールへと向かう論理によって組み立てられているが、それだけではない。メッシはピッチの上で池垣について言った意味でのドローイングを楽しんでいるはずだ。それはフットボーラーとしてのメッシが生きることでもあるだろう。もちろん、そこからゴールが生まれればいうことはない。そのとき、ボールによる見えないドローイングは資本主義経済に組み込まれ巨大な利益を生むドリブルとなる。でも、それは結果だ。ぼくたちフットボールのファンが楽しむのは、パス回しそのものなのだ。
池垣とぼくはもちろんカンプ・ノウに行った。そして、メッシはそのようなドリブルを何度もしかけた。スタジアムの上の方からみていると(安い席だったので)、バルサのパス回しがますます池垣の線に重なった。池垣もハイになって、カメラでピッチを追っていた。翌朝、バルサなドローイングをすることになるだろう。
バルセロナの夏の、それもバルサを見たような場合の高揚感はなかなかさめない。こんなときは冷たいカタルーニャのスープ、ガスパッチョが一番なのだが深夜の食べ物ではない。結局、ゴシック地区の池垣の行きつけのバールでセルヴェーサ(ビール)。若い頃のメキシコ経験が京都人池垣に何を植えつけたのか。そんな話しを聞きたいと思ってもいたが、バルサのあとのバールではあまり意味はない。冷えたセルヴェーサを飲むだけだ。
そして翌朝、池垣タダヒコは同じようにシャッシャッサッーとやっていた。昨夜のバルサのせいか、前の日よりも手の動きが速いような気がした。やっぱり!

                     



2012年11月7日水曜日

久しぶりの韓国、いろいろと・・・

これを書き出したのは、KTXという韓国の新幹線の中。光州ビエンナーレを見て、その翌日ソウルに帰るところだった。と、ここまで書いて、ブログのネタにと、10月の記録をチェックしようと、システム手帳をバックパックから取り出そうとしたら、これが、ない!ない!ない!鞄の方も探すけど、同様。そうだ、これは前夜のホテルに忘れてきたに違いないと、そこからアタフタ劇。パスポートが入っているのだ!
ホテルに電話をするが、フロントは韓国語しかわからない(もっと早くから韓国語を勉強しておくんだった)。結局、車掌さん(KTXの車掌は英語ができる)に頼んで電話をしてもらうと、あった!とのこと。そこで、途中のイクサンという駅から再度、光州に戻ることに。青い革表紙のシステム手帳は、ぼくにとっての必要不可欠物、これがないと何事も始まらないというものだ。パスポート以外にも大切な物や記録がぎっしり。その日、6時にソウルで精華のマンガを卒業した韓国の学生と、彼の女友達と約束をしているので、こちらも変更の電話。7時半にしようと。そして、再びこのブログを光州行きのKTXの中で書き始めたのだ。Wi-Fiが無料。完璧だ。ここで光州到着。次は日本に帰ってからの文章。
ただ、そのあとも大変だった。光州のホテルへのタクシーが道に迷うは(5分のところが40分近くかかってしまった)、光州からソウルに戻る列車も少ない。ソウルに予定時間に到着できないことがわかる。日本の新幹線の常識は外国では通用しないのだ。地下鉄のように到着・発車する新幹線は、すごいのか、ヘンなのか?というわけで、急遽、飛行機便に変更。何とか間に合いそうなソウル便があった!80000ウォン。韓国国内便は始めての経験である。もちろん、どうってことことはないが。結局、かなり遅れてソウルのホテルに着いたが、ジェオンくんとユジンさんはやさしく待っていてくれた。1日の走行距離はかなりのもので、その上、早足で歩いたので疲れたが、こうした経験も、旅行好きとしては楽しかった。
ともかく、2年ぶりに韓国にやってきたのだった。光州ビエンナーレを見ることが一応の目的。1年に1回くらいは、大きな現代アート・フェスを見ておこうと、観光ついでに来たのだった。前回(7〜8年前)の印象がよかったので、来ようという気になったのだ。前回よりパワーが薄い感じだったが、こうしたフェスは出展者が多いので、気に入ったものはかならずある。今回は、台湾とインドネシアの作家の物が気に入った。台湾のTu Wei-chengの動画前史を物理的に可視化した作品である。前史を造形することに意識的で、書かれたテクストよりずっと楽しめた。あとは、インドネシアのAgung KurniawanのThe Shoes Daiaryという作品。アディダスの靴に個人史を重ねたところが秀逸。ぼくがアディダス好きだからなのか。他にもまあまあのものがあった。こうしたフェスでいつも思うのは、数多い映像作品にどう対処したらよいのかである。コマーシャル映像のように30秒(もう少し短いか)に1回ほどは、刺激的な「ツカミ」があれば暗い空間に留まるのに、アート系には、そうした感覚は薄い。なので、自然、部屋に入ったときに「おおお!」と思わない限り、退出してしまうのだ。といっても、「ツカミ」とか、おしゃれといった事態を超えた映像作品はあるし、何度も経験した。光州にはなかったが。メイン会場を歩いたあと、同じ敷地にある美術館でリー・ウーハンの回顧的展覧会もやっていて、懐かしい!感じにちょっと浸った。このモダンな世界は現在の現代アートにどうのように繰り込まれているのか、ノスタルジーとともにそんなことを感じながら会場を散歩したのだった。
現代アートの世界はますますテーマを広げていっている。哲学、文化論、政治・経済学、科学、メタ・アート論などなど。といっても、言葉によるものはまれだから、イメージの表象力に頼ることになる。イメージ信仰。フランソワ・ダゴニェの言う「イメージのエクリチュール」が生み出す意味を読み取ることを要求するアート。ただし、このエクリチュールによって世界の何を掴み、何を理解しようというのだろうか。これは重要な批評的問題だ。このことについて誰かちゃんと書いている人はいないのだろうか。アートはほんとうに批評性を持っているのだろうか。何を言いたいのかはわかることも多いし、面白いものも少なくはないが、それがアートの外に流通する他の文化的言説とどこが違っているのか、そんなことをしっかり書いている人はいるのだろうか。そもそも、真面目にこんなことを考える必要があるのだろうかとも考える。
ビエンナーレあるいはトリエンナーレといった現代アートの祭典も、このところ形式化されてきたようにも思う。様式化。見る方も安心。作る方も見せ方を心得ている。こうした調和的な関係がはっきりしてきた感じもする。造形的な質は高いが(見せる、ということだが)、その「美的質」が何なのかが意識されていることはあまりない。そうしたアートの深い問題(?)に答える前に、この現代アート・フェスの様式化は、新しい観光資源としてますます発展していることは確かなのだ。そうした視点でのフェスも世界中で多い。アヴァン・ギャルドが終わってしまったいま、現代アートは、そうした文化消費の先端を担うことになっているのか。アート・ツーリズムが新しい旅行形式だとしたら、現代アートは文化のアバンギャルドということにもなる。芸術のアバンギャルドが文化のアバンギャルドへと変身している。その文化のことは何回か書いたので、といってもまとまっていないが、ここでは書かないが、アートが文化へとスライドしているとすれば、もっと面白い文化領域はある。そこでアートはそれほどの文化ではない。このあたりのことを一度はしっかり書きたいとは思うのだが・・・。
そんなことを考えながら光州ビエンナーレを半日近く見て回ったのだが、今回は、これまでしてみたいと思っていたことがいくつかできて、かなり楽しい旅行になった。ビエンナーレも素直に、この旅行的楽しさのひとつとしておくのがよいのかもしれない。楽しめたのは韓国の卒業生たちのおかげである。
まずは、インディーズ系のバンドを見ることができた。初日、ちょうど夕食を食べたホンデ界隈でロックフェスをやっていて、シン・ジヨンさんとキム・スヨンさんが予約をしておいてくれたのだ。彼女たちのお気に入りバンド、クライング・ナット(Crying Nut)。長いキャリアがあるというだけになかなかのパフォーマンス。ともかくノリがいい。アコーデオンが入っているのも気に入った。もうひとつハックルベリー・フィン(Huckleberry Finn、時間の関係で2曲しか聞かなかったのだが)もストリングスの入った編成がしゃれていた。まあ、そんなわけで、ホンデ地区の人気ピザ店でピザを食べ、そのあとライブ。最高の夜だった。韓国でピザの定点観測をやっているが、人気店の人気の理由はわからなかった。ぼくのランキングでは味はB+。ランキングは最高がAA、次にA+、A、そしてB+、Bと続く。これまでのAAはまだ2店だけ。だから。普通のピザだったのだ。何年もソウルでピザを食べていると韓国のピザのレベルはかなり上がってきたのはわかる。ただし、グラスワインのバラエティーが少なすぎるのはなんとかしてもらいたい。韓国はボトル主義らしい。
光州では、これまた精華のマンガの卒業生で現在は大学で教えているイー君とイホ君が、光州名物の豚料理のレストランに。これは美味しかった。そして、よもやま話。翌日(パスポートを忘れた日)は、昼に駅の食堂で、長い間食べたいと思っていたラーミョン(ラーメンのことだが、韓国ではインスタント・ラーメン)を注文。黄色のアルミ製の一人鍋に入ったラーミョンは、チープがチープであることを恥じらいもなく主張する、そのいさぎのよさが感動ものだった。味?そうしたことを言わないのがチープであるということだ。
そのチープの反対、おしゃれで高級なワインバーにも入った。ソウルのインサドンの北側の地区。現代アートのギャラリーやおしゃれなカフェがある、グローバルおしゃれ感覚の店がある界隈。以前入った庶民的なワインバーとは違い、こちらはセレブが来てもよさそうな、あるいは韓流スターが来てもおかしくないような雰囲気である。まあ、ユジンさんがいたから入れたとも言えるが。そのワインバーでは、ボルドーやブルゴーニュなんかは高くて(前日のラーミョンのことが残っていたためかもしれない)とても頼めない。結局、チリワインに。悪くない選択だった。ここでも、マルゲリータをつまみとして注文(B+)。そのおしゃれなワインバーで、ぼくとジェオンくんは日本語で、ユジンさんとはフランス語で。彼女は5年以上もフランスのアヌシーの美大で映像を勉強して帰ってきたばかりなのだ。すごく感じのいい人だし、作品もなかなか。
そして最終日に感動の2時間が。韓国で始めて映画館に入る。チョンロ3路のロッテシネマ。イ・ビョンホン主演、助演が何とハン・ヒョジュという理想の映画。ユジンさんも推奨だった。記録的な観客動員になっているとか。タイトルは「光海、王になった男」。字幕はないが楽しめた。ハン・ヒョジュの出番は少なかったし、「トンイ」のときの方がよかったが、悪くはなかった。調べてみると、この映画はこの秋、パリで行われている、これまでに類のない「韓国映画フェスティバル」のオープニングを飾っているとか。ハン・ヒョジュはこれまで映画に恵まれなかったが、やっといい映画にでることができたと、素直にうれしい。でも、ますます人気がでてきて、長年のファンからすれば、やっぱりちょっとね。イ・ビョンホンはさすが。これで、チャン・ドンゴンを超えた。
世界は広い。韓国も行くたびに新しいことがある。

2012年10月13日土曜日

本のことをだらだらと・・・

あっという間に10月になってしまった。ブログの更新が遅くなっているのは、外と繋がろうとする意欲が少し薄いためで、気分的に「こもった」状態なのだ。といって、元気がないとか、そんなことではなく、物事に対して、とくに「文化的」なことに対して反応が鈍くなっているというか、ワクワクすることが少ないといったらいいか。前に、このブログでも触れたジャン・クレールというフランスの評論家が言う『文化の冬』を実感しているのだ。だから、会う人ごとに、何か面白いことはない?と聞くけど、そんなのに答えられないよね〜と、なる。当然だけど。
ブログのタイトルが「フランスの図書館」とうたっているのに、このところ本のことを書いていないのも、そうした気分のためかもしれない。実は、本をあまり読んでないのだ。ただし、本を「見る」ことは多い。いまやっている仕事が美術関係の本を書誌的に見ていくことなので、見てばかりいる。読まないのは、自己弁護をしておけば、前回も書いたように、本が訴えようとしている解釈や意味にあまり反応できなくなっているからだ。もちろん、本といってもいろいろあるが、物事に対してこちらが考えている以上の意味を引き出している本はなかなかないものだ。世界について、ほとんど言われてしまっているような気持ちにもなっている。結局は、歳を取って脳が働かないということに尽きるのだが。
こんな書き出しをしたのに、少し本のことを書いてみる。だらだらと。秋なのかもしれない。このところ本を買うのは新幹線や飛行機の移動中の読書のためが多いのだが、飛行機の場合は、ほとんど日本のベタな推理小説と決まっていて、好みの作家のものを数冊持ち込むことにしている。ずいぶん昔からの習慣でもある。日本発の場合は、空港の書店で話題の推理ものを買う。といっても、前回は何を買ったのか忘れているのだが。この手の小説が、意味を抱え込まないところが好きなのだ。その上、パターンも決まっていて安心できる。長いフライトにはうってつけ。海外出張の会社員によくあるパターンだと思う。となると、テレビのサスペンス劇場に材料を提供しているような作家のものが候補にあがる。
たとえば、内田康夫。ここ数年は飽きてきたが、そのサビの部分のパターンに耐久性があって長いこと飛行機や新幹線で読んでいた。テレビの水戸黄門で「これが見えぬか!」と印籠が出される箇所の魅力?内田康夫では、田舎の刑事が主人公浅見光彦を警視庁長官の弟と知る場面。小さなカタルシスである。あとは歴史や社会や人間へのすごく常識的な見方も、この手の小説では必須である。もうひとつ、いろいろなプチ知識もちりばめられている。ただし、この内田的推理物に少し飽きてきて、このところ話題の評論書なども買う。とくに新書判は週刊誌的言説なので、1時間半ほどで読めてしまい、京都から東京までにぴったりである。「無駄だった!」と週刊誌の倍以上の値段に憤慨はするものの、現在の日本社会の常識を教えてくれるので、勉強になると、思うようにはしている。
飛行機の長いフライトの場合は松本清張だ。何故か飽きない。話を忘れていることもあるので、前に読んだものを買うことも少なくない。小説の後半部分になって読んだことを思い出すこともよくある。内田康夫や、今の売れっ子作家のように、決まった主人公によるシリーズ物はないが、1冊1冊がそれなりに読ませる。小説全体を、「社会派」と言われた、その「社会」―戦後の日本社会の何とも言えない気分が覆っている―を「地」(じ)として、ルサンチマンな人間模様が繰り広げられる清張物。個人的なノスタルジーもあるのだが、同時に、清張物のベースになっている反権力というスタンスも、ぼくの世代には悪くはない。話の作り方もしっかりしている。名作と言われる清張作品は多いが、ぼくにとってはと考えると、いくつもあって思いつかないのだ。それよりも、戦後日本社会がリアルな感覚で表象されているところが面白い。リアルといっても、「現実」そのものということではもちろんない。推理小説という舞台での「現実的」な戦後社会が表象しているとしか言いようがない。その社会は犯罪や権力欲望が個人の肉体に張り付いているという感覚を作り出すのにぴったりである。松本清張は、そのことをよくわかっている。
最初は、こんなことを書こうとは思っておらず、最近、珍しく家や喫茶店で読んだ3冊の本について書くつもりだったのだ。「本についてだらだら」の巻なので、全体に長くなるが紹介してみる。読書の秋だ。
1冊はマイケル・ボーダッシュというアメリカの日本学者の綴る戦後日本ポップミュージック論『さよならアメリカ、さよならニッポン』(白夜書房、2012)。笠置シズ子、服部良一、美空ひばり、ロカビリー、GS、そしてはっぴいえんど、ユーミン、YMOと、1990年代までの、ある流れを歴史-文化的に分析したものだ。もろ、ぼくが経験してきた音楽世界である。加えて、戦後大衆音楽史から抽出した歌手やグループが、美空ひばりとYMOを除いて、ぼくの好みだったことも一気に読んでしまった原因である。だから、面白かった?と聞かれれば、「ウイ」である。音楽そのものの構造にも触れながら、それぞれのミュージシャンの置かれた政治-文化的分析、さらに、著者の日本のポップス(J−ポップを生み出したものと考えられている)への愛情も織り交ぜられている。もちろん、アメリカのポップミュージックも絶えず言及されるし、資料的にもかなり突っ込んでいる。内容の厚みはなかなかのものだ。ただし、論考の中心となる、はっぴいえんどの日本語のロックが文化の否定の否定という、究極のパラダイム崩しの話は、もうひとつ落ち着かない。というより、全体の論述でも言えるのだが、記述の中心をなすカルチュラル・スタディーズ的な相対論的概念装置が、ぼくには普通というか、それほど新鮮ではないと感じるためである。単純にいちファンの綴る戦後日本ポップミュージック論とするには、日本研究者という矜持があるのだろう。この論にしなくてはならないというイデオロギーを相対化してもらいたいと思うのだが。
次はテッサ・モーリス-スズキというオーストラリアの日本史研究者の綴る『北朝鮮で考えたこと』(集英社新書)。面白かった!これまで読んだ旅行記の中でも上位に入る。ぼくがちょっとした北朝鮮ウォチャーということもあるが、始めて出会うまともな「北朝鮮もの」でもある。それも単に見たことを綴るだけではなく、現在の旅のテキストが過去の旅のテキストと重ねられることで、北東アジアと朝鮮半島の歴史が、温かな人類的眼差しのもとに浮かび上がってくるのである。ぼくもこうした旅行記を書きたいものだ。日本で出版される、あるいは映像化される多くの「北朝鮮もの」のいかがわしさに、いつもへきへきしているが(といっても買うのだが)、この本を読むと、そうした本は何て想像力がないのだろうと怒りさえ感じる。同時期にブックオフで買った『北朝鮮報道』(川上和久、光文社文庫、2004)も、そうした一冊だった。メディア論研究者が告発する日本の新聞の北朝鮮報道の偏向ということなのだが、そのメディア・リテラシーのお粗末さに、最後は笑うしかなかった。
『北朝鮮で考えたこと』は、1910年に北東アジアを旅したイギリス女性の旅行記をもうひとつのテキストとしているのだが、その年は韓国併合と大逆事件という近代日本史にとって大きな出来事があった年なのである。少し前に、こちらも新書の『文学者たちの大逆事件と韓国併合』(高澤秀次、平凡社、2010)を読んだばかりだったので、『北朝鮮で考えたこと』を読みすすめながら、読書の偶然性に少し驚いた。これは偶然買ったのだ。まあ、こちらは先のメディア・リテラシーよりはずっと上質だが、論理が単純で硬い。国民国家というフィクションと文学はどのように関わっているのかということを、1910年を起点に作家を通して読み直そうと意欲的なのだが(知らないことも多かったので、その点はよかったのだが)、文学を固定しすぎて、その文学の扱いがこれまでと同じように、いかにも文学文学しすぎてしまっている。それこそ国民国家の文体ではないのか。そのところが何とも物足りない。
他にも何冊か新書を読んだのだが、何を読んだのか忘れてしまって、もう一度手にしたが、それについて書く気はなくなった。でも、これからも、こんな風に本を買い読み(見て)、そしてその記憶の多くは消えていくのだろうが、そうした中にも、『北朝鮮で考えたこと』のような本がある。やっぱり、本はあなどれない。

2012年9月23日日曜日

解釈と意味・自分にご褒美・スパゲッティー・ナポリタン

9月に入って、横浜の都市文化ラボで精華枠の授業に参加し、次の週は、東京でのシャルダン・シンポジウムに参加。久しぶりに、フランス18世紀絵画の雰囲気に浸る。そもそも、この業界(美学美術史とかいったことだが)に入ったのがフランス18世紀美術というレッテルで、大学院以来20年近く、オーソドックスな美術史をやっていたのだ。シャルダンはすごく気に入った画家だった。そんな狭い世界にいたのだが、別のことも考えたり発表したりもしていた。でも、外から見れば、オーソックスな18世紀美術史研究者だということになる。業界入りのレッテルはなかなか取れないのだ。オーソドックスというのは、ある画家や美術現象にポイントを絞って研究する、具体的には資料を集め分析し、そこから新しい問題点を抽出して、何らかの解釈を与える(与えようとする)ことだが、その「解釈」のためには、何らかのイデオロギーがいる。イデオロギーといっても、昔のマルクス主義のようなガチガチの思想のことではなく、解釈のベースとなる思考のことだ。そうした解釈に何か身が入らなくなって、10数年前から、少しずつ距離を置くようになった。解釈の窮屈さ。年齢(怠惰)と時代が関係しているのだとも思う。でも、身体が軽くなる感じはする。
ある物事を理解するとき、ほとんどが、そこに意味(言葉)を与えることで理解できると思っている。その「意味」というのは、一般に物事という現象の奥にある意味を支える思想や観念に結ばれたものであることが多い。でも、20世紀の後半に、それまで支えてきた思想や概念の効力が弱くなってしまった。マルクス主義が典型だが、そうした支配的な思想がなくなってきた時代、意味を与えることはものすごく難しいことなのに、意外とそのことについて意識されていない。
物事に意味を見つけることが無駄だとは言わないが、評論家、思想家、研究者と言われる人たちの、解釈構造と、ワイドショーのコメンテイターや政治家の意見を発する構造が、ほとんど同じようなことになってきてしまっているのも、「奥」にあった基盤(思想)が弱くなってきた結果、解釈が平板なものにもなってきたためだろう。ぼくに関心があるのは、物事の意味を生み出す解釈のプロセスの構造といったものなのだが、実際は、どのように考えたらいいのかわからない。
少しややこしい(ぼく自身も)話になってしまったが、言いたいのは、ある物事の「奥」に、何らかの意味を考えることがつまらないと思えてきたということだ。となると、当然、目の前の具体的なひとつひとつの物事に接触することに傾いていく。悪くいえば、刹那的ということかもしれないが、これがなかなか楽しいし、楽でもある。たとえば、サッカーのボールと選手の動きを追う。そうして、最後のゴール。そこには、もちろんテレビでの観戦なのでヴァーチャルだが、快楽といった感覚がある。これがいいのだ。でも、そこで「日本的サッカー」とか戦略の話を持ち出して、ゲームの意味を解釈しようとすると、つまらなくなってしまう。もちろん、解釈には面白いところもあるが、それは意味が見つかるからではなく、解釈する言葉(パロール)の彩(あや)が面白いということのような気もする。でも、物事に意味を与えないことは不安でもある。意味が「私」や「世界」をつくってきたからだろう。
こんなことを書くのは、ひょっとしたら物事に、昔のように「本当の意味」(真実)をぼくが求めているのかもしれないが、それが難しいとわかっているのに、「意味を求めること」をやめられないからかもしれない。矛盾したことだが、意味という「奥」と、現象という「前」。今は「前」が面白いということなのだが、そこには感覚的なことが大きく関与しているので「楽しい」。といっても、ただ、「楽しそうにしている」だけかもしれない。何か年寄り話になってきたので、ここらで止めることにして、もうひとつだけ9月雑感を書いてみる。
先週の授業で、女子学生が「自分にご褒美」ということを言った。その語調のためか、何かすごく面白くて、最近よく目にする「自分にご褒美」ということを考え学生たちに適当なことを話した。いつ頃から、この言葉を耳にするようになったのか。最近のことではないだろうか。「褒美」というのは、基本的に他者にあげるものなのに、それを自分にあげる。となると、その「あげる」主体はだれなのか。もちろん「私」なのだが、「私にご褒美」とはあまり言わない。「自分」にだ。となると、この「自分」は、あげる「私」とどういう関係にあるのか。そのことが面白くて考えたのだ。
もちろん、素直に考えれば、このところ仕事を頑張ったので、ゆったりしようと思いちょっと豪華な夕食をするとか、普通とは違うことをする、ということなのだろう。そうしたことは、ぼくなんか毎日のようにやっている。これを書いている日、屋根の掃除をしたのだが、それだけで、夕飯を豪華にしたいと思ってしまう。屋根掃除で「ご褒美」はないだろうがー単純に肉体的なことに「ご褒美」はない感じがするー、そうした自分の頑張りのような経験を「自分にご褒美」という表現で表すところが面白いのだ。ここでは、私がもうひとりの私=自分を想定する。自我の二重化?あるいは、無意識の前景化?もうひとつ興味があるのは、「自分にご褒美」を使うのは主に女の人、それも年齢に関係ないと見える。男が使うのはあまり聞いたことがない。
ちょっと否定的に考えると、「私」の小さな自己完結物語を作っているとも見える。「頑張る」のは、あるいは「頑張った」のは、「私」だけで成立するものではないのに(私は他者との関係で成立しているから)、すべてが「私」の、それももう一人の「私」の行いとなっている。こんな風に考えていくと、すごく哲学的問題になっていく。でも、その意味をあまり探っても意味はないだろう。ただ、現在、「私」がすごく揺らいでいることは間違いないのではないだろうか?そして、「私」が狭い領域に閉じ込められようとしていることも。理論にならないことをだらだらと書いたが、ひょっとしたら、これが9月の心象風景かもしれない。この風景を心に設定するのも「私」と関係するのだが。ともかく、近代社会は「私」というややこしいものをつくったものだ。
こんな文章はうっとうしいなと、自分でも思いながらも、ブログ更新のために書いてしまったのだが、アップするその日、久しぶりに日本近代料理の代表的一品「スパゲッティー・ナポリタン」をつくった。休日の昼間、昔の火曜サスペンスドラマを見ながら、妙に食べたくなったのだ。ただし、正統「ナポリタン」ではなく、変調。タコ・ウインナーのかわりに美味しい浜松のベーコンをたっぷり。いためる油はサラダ油のかわりにオリーヴ油。スパゲッティーも「オーマイスパ」ではなくイタリアもの。ただし、野菜は定番のタマネギ、ピーマン、人参。もちろん、このスパのポイント、ケチャップはカゴメ、それもたっぷり。チープな味は少し失われたが、味はなかなか。口のまわりに油を含んだケチャップがべったりついて、ここは正統スパゲッティー・ナポリタン。そうして食べ終えると、サスペンス劇場のフィナーレ。あの竹内マリアの「シングルアゲイン」。これがスパゲッティー・ナポリタンの食後にぴったり!ノスタルジー?
解釈、自分にご褒美、スパゲッティー・ナポリタン。妙な3題ブログになってしまった。


2012年9月5日水曜日

夏休みパリ日記1

8月後半からパリ。昨日帰ってきた。3月までの長期滞在は別として、こうした一人での短期滞在のとき、いつも、何しているの?と、聞かれるので、実録日記でもと思い・・・
8月22日:夕刻に飛行場に着いて、一晩世話になるハイジマさんのアトリエに直行。パリに40年近く住む画家で、オペラ座通りのアパートにアトリエをもっているのだ。結局(何が「結局」なのかは長くなるので省略)、トンカツを食べに。
8月23日:午後、借りることになったバスティーユ広場の裏手、ラップ通りのワンルーム・アパートに入る。エージェントのHPの写真で見るよりは、ちょっと冴えない。まあ、値段からいって仕方ないか。荷物を整理して、まずは買物。近くのmonopというスーパー・モノプリ(monoprix)のアンテナショップへ。コーヒー、卵、ハム、スパゲッティー、人参(毎朝のジュース用)などを買う。部屋に帰って、即、パソコンを開いて原稿。シャルダンのシンポジウムでの発表の原稿を持ってきてしまったのだ。締め切りまで、あと5日。フー!涼しいけどまあまあはかどる。夜はこちらに旅行できている太田夫妻と夕食を食べにサンジェルマン・デ・プレに。時々行くヴェトナム料理を目指したが夏休み改装中。それで、フレンチに変更。マビヨンのシンプルなレストランに入る。値段の割に味は悪くなかった。ワインをけっこう飲んで、帰ったら疲れていたのか、爆睡。
8月24日:この日は何も用事がなかったので、部屋で昼前からパソコンに向かう。原稿のストーリーがやっと見つかってきて、何とか出来上がるだろうという感じになってきた。昼はスパゲッティー・ボロネーゼ。たくさん茹ですぎて満腹。出来合いのソースだが、日本のものより甘さがないので、たくさん食べれたのだ。1664ビールの小瓶を飲んだためか、睡魔が。ちょっと昼寝。8月なのに掛け布団を首までかけて寝れるのがうれしい。起きてからまた原稿。シャルダンが、昔のように身近かになってくる。夕食は、部屋で安いステーキと簡単なサラダ、そしてワイン。もちろん、赤。フランスの安いカフェと同程度の味だが、モノプの食材なので格段に安い。夕食後も原稿。何してるんだろうとも感じたが、仕方ない。夜は「la peteite venese」(小さなヴェネツィアの女)というイタリアの映画を見に行く。タイトルは主人公の片方、ヴェネツィアのバールで違法労働をする中国の女性のこと。その彼女と晩年を迎えるイタリアの漁師との心の交流を描いた、海の風景画すごく綺麗な映画だった。
8月25日:昼間は部屋で原稿。終わるのが楽しみで書いている。弟夫婦がパリに来ていたので、夕方は一緒に食事。弟と外国でこんな風に会うのは初めて。オペラ座(ガルニエの方)に付属するおしゃれな風なレストランへ。味、サービスは中の上。トイレ・デザインがなかなか。それからcafe de la paixというオペラ座の前にあるところで、ワイン。ジェーン・バーキンもよく来るという噂だが、当然この日はいなかった。
8月26日。精華の洋画の学生が2人、フランスに来ていて、ルーヴルを案内。ぼくの西洋美術史という授業で、8月の終りのある日、ルーヴル集合して絵を見ようと受講生に声をかけているのだが、これまで一度も来たことはなかったのに、今年は偶然2人もいて、「先生、ルーヴルしましょう!」となったのだ。ちょっとした解説をしながら、広いルーヴルの中を散歩。ぼく自身も久しぶりに名画を見て、やっぱり、歴史に耐えてきた絵はいい!となってしまった。その後、セーブル通り(左岸の画廊街)のLa paletteという古くからある画学生カフェでお茶。ルーブル、あるいはオルセイ、はたまたボザールを見学してから、このカフェというコースは気に入っている。夜は、また別の約束。昔からの知り合いレジスとカトリーヌと一緒にル・ロスタンというカフェで食事。リュクサンブール公園の横にあるシックなカフェである。ここは、ほんとパリっぽい。店構えに比べて料理は高くなく、味もいい。映画やサッカーの話をしながら、小エビとアボガドのサラダを食べる。
*今回は、日本での知り合いがパリに旅行や研修で来ていて、ご飯を食べる機会が多かった。珍しいことなのだが、乾燥して爽やかな夏の終りのパリで、久しぶりと言いながら日本の知り合いとカフェでビールやワインを飲むのも楽しかった。
8月27日:バスティーユ広場の近くで、おいしいピザ屋を発見!ボーマルシェ大通りにあるgrazieと名前で、店作りはけっこうおしゃれ。パリのピザはまずいというのが定評で、実際、いろんな店に入ってきたが、満足感は、いつもイマイチだった。この店は、その「パリ・ピザ」を完全に裏切るピザ屋だったのだ!アンチョビのはいったピザが食べたかったので注文。一番高く20ユーロ!アンチョビは缶詰ものではなく、手作り(メニューには誰がつくったのかも書いてあったが、忘れてしまった)。こんなマイルドなのは初めて。それとトマトソーズのピザで、チーズはないのだが、ほんと美味しかった! この日以後、2回来て他のピザも食べたが、どれもレベルが高かった。昼のピザを食べてから、トロムという、これも20数年つきあっているアーティストの見舞いにバニョレという町の病院に。背中の骨を折ってしまって入院。3ヶ月目に入っていたが、手術もせずに治ったとのことで、一安心。フランスの病院の規律のなさに怒りまくっている超左翼的思想の現代アーティストである。精華にも来たことがあるが、ぼくの尊敬するアーティストの一人である。2000年に入ってから、現代アート世界に背を向けてしまった、現代アーティストである。アートとは何をするものなのかを教えられたのも彼からだった。パリに来て、もう1週間近くたってしまったのだった。

2012年8月14日火曜日

オリンピックを見ていたらお盆になってしまった

もう、お盆。お墓に行って先祖参り。暑いけど、夏の朝の線香の香りは気持ちがいい。すごく規則的な生活をおくっている。といっても、遅寝、遅起で、起きると身体に汗がびっしょり。昼ご飯を食べて、銀閣寺のSECOND HOUSEというケーキ屋カフェで仕事。空間がゆったりしていて、店員もやさしくて、居心地がいいのだ。つい長居をしてしまうが、仕事がはかどる。そして、夕食前に家に。少し間があって、テレビの前に。そんな生活が3週間近く。もちろん、オリンピックのテレビ観戦のせいだった。「せいだった」と人のせいにしている書き方だが、夏休みのこともあって、ついつい、見てしまうのだ。6月のユーロ(ヨーロッパ・フットボール選手権)ではしゃいでしまって、リズムが狂ったので、ロンドンはほどほどにと考えていたのに、結局、かなり見ることになってしまった。スポーツ観戦趣味の人間には、オリンピックは、すべてをまとめて、それもレベルの高いものを見れるので、ほんと楽しい。そんなわけで、あっと言う間に8月半ば。お盆になっていたのだ。
そのオリンピックについて書くこと(言いたいこと)は山ほどあるが(誰もが同じだろう)、ごく簡単に、そして、ごく私的に感動したゲーム3つ(いまのところ)だけをあげておく。3番:日本男子サッカーの3位決定戦と決勝戦。フットボールという残酷さを見せてくれたという意味で。どちらもオリンピック・ゲームの清潔イメージを少し裏切ってくれた。でも、こんなのもあっていいではないか。韓国は言うまでもなし(韓国語習っているので読めた、変にうれしかった)。ブラジルの方は、ラファエロ(マンUの)と4番(名前忘れた)とのピッチ上での口論。互いにかばい合わないスピリットだった。2番:男子陸上800メートル。マサイ族出身というケニアのルディシャ選手の走りのすごさ。長いストライド、凛々しい顔。ああ〜、アフリカの草原をああいう風に走るんだと、空想を膨らませてくれた。世界新記録だったが、そんな物差しを超えた走りだった。1番!:男子フェンシング準決勝。見慣れていないので、ああいった最後のヒトツキみたいなことがよくあるのかどうか知らないが、ともかく、最後の最後、数秒のドラマをつくった太田選手の迫力。これが意識的なものだったら、どうしよう。目の中に焼き付いてしまった。
近代オリンピックは国民国家化された世界の政治的枠組みの中での国威発揚の場と言われる。戦争の近代を裏返しにした、平和と世界協調を旨とする祭典。暴力なしで、国を意識しながらも世界が協調することは素晴らしいことだ。近代コスモポリタニズムの具現化である。だから、オリンピックは政治を排除する、しようとしている。おそらく、ナチスのベルリン・オリンピックの反省もあったのだろう。もちろん、政治排除をうたわなかったら、たいへんなことになってしまうだろう。これほど、プロパガンダとして有効な場はないからだ。話題の、3番にあげた試合の韓国の選手がその手のものと考えるかもしれないが、あれは政治的といっても日韓の政治ローカリズム。オリンピックの巨大な政治性システムがわかってない子供の内向けのパーフォマンス。
政治排除に代わって、今は商業主義である。グローバル経済に支配される。コカコーラが復活しているのは(個人的な印象だが、これはぜひ調べてみたい問題である)、オリンピックと無関係でないような気がする。オリンピックのグローバル経済化。それを国の意識というローカリズムが支える。ただし、このローカリズムを宣伝することは、経済的にも当然禁止だ。金を払わないで宣伝するなというわけだ。だから、女子レスリングの吉田選手の所属する会社ALSOKの応援団のほほえましさが印象的だった。ほんとうは、会社ののぼりや垂れ幕を掲げたいのだろうが、10人近くの応援団の面々は、「総合警備保障」と書かれた青いハッピを着ていただけなのだ(でも、けっこう目立った)。だから、ローカリズムは、日本でいえば団結力という国民的特性や、とりわけ、個人の問題、選手と支えた人たちの「人間的絆」を強調する。これは日本だけのことではないが。こうして、オリンピックは、一方でヒューマン・ドラマの大劇場ともなる。思わず、涙が出てくることもある。テレビ向きだ。放送権で成立しているオリンピックは、こうした劇場化をますます進めることになるだろう。実際の競技の劇場化(映像の取り方、インタビューのあり方、放送時間等々)も進んでいる。次のリオでは、ちょっと違ったオリンピックを見てみたくなる。あのラテンな気質丸出しの。
と、こんなことを考えながら、オリンピック観戦していたのだ。そしてお盆になり、明後日は大文字。秋だ。
来週から10日ほどパリに。いつもの図書館に行き、いつもの資料をチェックする予定にしている。昔から頭にあったテーマで原稿を書き出したのだが、そうすると調べなくてはならない項目がますます増えてくるのだ。まあ、テーマの時間的スパンが長いということもあるのだが、あるテーマを追うということはこういうことだ。完全に資料を揃えてなどと考えると、これは先がない。どこかで区切りをつけないといけないのだが、それがなかなかふんぎれない。気持ちを区切るためにパリの図書館に行くということなのかもしれない。短い期間だが、映画やイベントも見たくなるし、知り合いにも会いたいし、イブラヒモビッチやチアゴが入ったPSGの試合も見てみたいと、好奇心が増してくる。チケットが取れるかどうか。そういえば、今週末からはプレミアも始まる。なんか、スポーツイベントと暮らしているような気もする。

2012年7月26日木曜日

動物園、夏休み

 6月にユーロ2012漬けになって、その間、韓流系をほとんど見なかった。こんなに長く韓流ドラマを見なかったことはなかった。そのせいか、不思議に積極的に見る気持ちが薄れてきた。ただし、ハン・ヒョジュとイ・ジソプの新作映画(「ただ君だけ」)は、もちろん見にいった。予告をYouTubeで見ていて、イメージが膨らまなかったのであまり期待はしてなかったが、やっぱりダメ。シナリオ、映像、二人の俳優の使い方も平凡。ハン・ヒョジュのよさがぜんぜん出ていない。韓国映画のパワーはダウンしているのかもしれない。この映画のこともあって、このところ韓流ドラマを積極的に見る気持ちになれないのだ。寝る前の楽しみが減っている。ただし、ハン・ヒョジュは現在二つの映画を撮っているとのこと。そろそろ、「アリバイ・ナイト」(映画自体は大したことないないのだが、彼女がすごく光っていのだった)以上の映画を見たい。
この7月は東京で唐ゼミの新作公演を見たり(トクさんがよかった)、松山での仕事のついでに、近郊にある「とべ動物園」や大正の町並みが残る内子町というところに行ったりと、久しぶりに少し遠くに出かけることになった。やっぱり、何かをすれば、何かにぶつかる。松山の場合は動物園と「象」だった。一緒に仕事をした相手の奥さんが象ファンで、有名な象の写真を撮ってきて、と頼まれたらしい。それに同行。動物園なんか、ほんとに久しぶり。何十年も行っていない。松山のとべ動物園は象とその飼育がよく知られているらしく、その象たちをお目当てに多くの人がやって来るとのこと。その動物園に、前日の仕事関係者(大人4人)で猛暑の中の動物園に行ったのだ。ぼくの頭にある昔の動物園と違って、サービスがすごく進んでいた。いい意味では生態がよく見える、ということだが、小さな施設で生態を見るって、それは見せ方がエンターテイメント化しているということだろう。動物園も、文化化という現在の消費文化世界の潮流を受けているのかと、複雑な気持ち。もう昔の動物園が持っていたいかがわしさはない。楽しげな感じ。逆に、残酷さが深まっている。
もうひとつ考えてしまったのは、動物たちの出自についてである。アフリカ象、アフリカのカバ、サイ等々、動物の檻や柵には種としての動物の出身地が書かれているのだが、その詳細を見ると、多くの動物は「日本生まれ」なのだった。帰ってから女房に、そのことを言ったら「そんなこと知らなかったの!」とバッサリ。でも、ぼくの頭の中では、アフリカ像はアフリカから連れて来られた動物だとばかり思っていた。それが、ほとんどの動物が日本の動物園で生まれた、あるいは日本の他の動物園から移された動物たちだったのだ。種ということを考えなければ、これは日本産の象である。それも、動物園という特殊な環境で生まれ育てられた動物たちが、現在の日本の動物園の動物たちなのである。この現象を何と言ったらよいのだろうか。
動物のことをあまりにも知らないので、少しウィキで調べてみたが、野生の動物は危機的のようだ。
近代西洋に誕生した(18世紀末というのが一般的)動物園は、現在世界に2000園、訪問者数は年3億5000万人とフランスのウィキに報告されている。そうなると、世界の動物園の「野生」動物の数と、アフリカ始め世界に生息する動物の数はどちらが多いのかと考えてしまう。もちろん、現在は野生の象の方が多いのだろうが、いつの日か、動物園の方が多くなってしまうこともあるのではないか。この200年で、人間は野生動物を捕獲し飼いならしてきたことは間違いないのだ。動物の過度のペット化である。野生動物も犬や猫のように人間をなぐさめるペットになる日も来るのだろうか。ただし、ペットはかならず人間に復讐するようになるのではないか。ペットという人間の心のはけ口にされた動物が怒らないわけはない。「猿の惑星」のモティーフだ。加えて、象牙のためのアフリカ象の殺戮。夏なのに、ほんと、寒くなってくる。
7月を、こんな風に過ごしていたら夏休みに入ってしまった。秋になると、しなくてはならないことが多くなる。書き始めているものもあるし、シャルダンのシンポの準備もしなくてはならない。夏休みはありがたい。
シャルダンのシンポは、9月に東京の三菱1号館美術館で行われる、日本初のシャルダン展を記念して。この18世紀フランスの画家には思い入れがある。昔、研究していたことがあるだけでなく、身の回りをモティーフとした絵が、文字通り「身の回りのこと」と思わせるような絵画的映像を創り出した、平凡の平凡ということを可視化した画家だからだ。それから、愛(め)でたくなるようなマテリアル。お気に入りのアーティストなのだ。何年も前から、いわゆる「美術」ということがめんどくさくなってはいるが、シャルダンは別。もちろん、他に何人もいるのだが。そうした画家も、実は、このところあまり見にいかない。去年も結局ルーヴルに行かなかった。美術史の専門家ということですぐに入場できるという特権もいやだが、美術が文化的になっていることも、ちょっとなのだ。上でも触れた消費社会における物事の「文化化」(観光化ともつながる)に馴染めないのかもしれない。差異を消そうとするシステムに違和感があるのだ。動物園もそうだった。ルーヴルのシャルダンも実はそうした面がある。ここには修復という問題も関わっている。これについては、ここで一度書くことにしよう。


2012年7月7日土曜日

私的アーカイブ2ー叔母と鴨居羊子さん

ユーロ2012が終わった。面白くて興奮したが、この歳になると、さすがヨーロッパの時間差を暮らすのは疲れる。ドリンク「眠眠打破」をよく飲んだ。変なドリンクだ。終わると、どっぷりな梅雨。東アジア的湿気が身体にまとわりついて(発見されたヒッグス粒子みたいだが、こんな比喩は許されるのだろうか?)、4月以降のおフランスな気分も解けていく。
このプラウザがBloggerでサポートされなくなったと、表示されている。そのうちぼくのブログは自然消滅していくのか?湿気よりも粘っこい感じで、ネット世界が透明でないことに不思議な気持ちが・・・。ともかく、更新しておかなくてはと、義務感のようなものがあるが、なかなかアイデアが湧いてこない。そこで前々回の祖母の話がよかったという人がいたので、似たような話をまた再録してみる。再録というのは、前に書いた文章をここに再録することだが(少し直して)、今度は叔母の話。祖母の次女、ぼくの母親の妹だ。以前、鴨居羊子さんの展覧会のカタログに書いたものである。ブログは個人的な備忘録だが、もうひとつアーカイブだとも思うようになってきたこともある。これまでの文章を載せておくのも悪くはないなと感じ始めているのだ。


叔母と鴨居羊子さん
昭和52年の7月31日だったそうだ。ぼくの母の妹、清水左都子が亡くなったのは。少しあとのことかと思っていたが、もうひとりの叔母に聞いたら、その年だったという。そういえば、ぼくが大学院生の頃だった。その日、大阪の千里山の自宅で葬式が行われた。ひどく暑い日だった。そのことと、もうひとつのことを鮮明に覚えている。棺の前でうなだれ座り続けている女性の姿だ。その人が鴨居羊子さんだった。叔母からもよく名前を聞いていたが、見るのは始めてだった。もちろん、挨拶はできなかった。
叔母佐都子と鴨居羊子さんは大阪の女子専門学校(女専)での同級生だった。日本が緊迫した戦時になっていく時代である。この二人ともうひとりの仲良しがいて、あわせて女専の三奇人と言われていた、と祖母から聞いた。そのハイライトが、水のない冬のプールで裸に近い格好で踊った事件だったそうだが、ともかく、戦時中なのに、けっこうトンデいたのだ。鴨居さんのエッセイを読むと、少女の頃から少し変わっていたようだが、叔母も女学校のころから札付きだったという。そんな二人が女専で出会ったのだから、気が合うことになったのだろうと想像する。卒業後の二人の交流についてほとんど知らない。「ようこさんが」とか「かもいさんは」と話す叔母の声が耳の奥にいまでも響いているだけである。
戦後、鴨居さんは大阪で夕刊紙の記者となり、それから読売へ、そしてデザイナーとして自立していったが、叔母の方も出版の仕事にはいっていった。京都にあった全国書房という出版社に勤め、そこで組合をやって首切りにあい、続いて大阪の繊維の業界紙に勤めた。そこもあわなかったらしく、しばらくして、昭和30年代の中頃のことだろうか、スポーツウエア社という、メンズファッションの業界雑誌を発行する会社をたちあげた。メンズという言葉が定着し始める時代である。ただし、すごく苦労していたことを覚えている。独身の女性が一人で会社を仕切っていくは大変だったのだろう。ぼくの大学生のころに一度倒産したが、もう一度メンズファションの業界雑誌を立ち上げた。その数年後、最初に書いた、7月31日の光景となるのだ。
独身でパワフルに仕事をしていた叔母だが、会社が大変になるまでは短歌も熱心に詠んでいた。ぼくの祖母で、叔母の母親の影響である。ここらは鴨居さんとその父親との関係に似ていると、この文章を書いていて感じている。その祖母清水千代はアララギに影響をうけた歌人で、昭和11年に「どうだん」という歌誌を創刊し、同名の結社もつくった。ちなみに、その初期の表紙絵は祖母の奈良女高師の後輩の小倉遊亀さんの手になるものだった(前々回のブログに書いたこと)。その後、朝倉摂さんにも描いてもらったりと、小結社の歌誌にすれば豪華な表紙だった。
その誌上で、女専時代から短歌を詠み始めた叔母は、戦後、前衛短歌へと突き進んでいく。いま思えば、叔母は戦後の左翼文化の気分に包まれていたのである。そんな人に従来の伝統短歌があわなかったのは当然かもしれない。寺山修司が歌人として登場してきた頃でもあり、前衛が美しく生きていた時代である。ただ、叔母の前衛性は、単に観念的なものではなかったはずだ。一人で会社を経営していく女性にとって、文化的前衛はおそらくリアルな生きる血となっていたのだと思う。
鴨居さんは寡黙な人だったというが、叔母は割合と話し好きで、酒が入ると情熱的に文学論などを話す人だった。短歌だけでなく、映画、文学、音楽にもかなり詳しく、何も知らない田舎の高校生にいろいろなことを聞かせてくれた。そうした話しは、ぼくの深いところで何かを動かしてきたとも思う。
ぼくの頭のなかでは、叔母と鴨居さんとが重なる部分がある。ひとりは著名な下着デザイナー、もうひとりは無名の編集者だが、大正末期に生まれた女性のアバンギャルドな生き方にイメージが重なるのである。それは単に個人像のことだけでなく、戦後の働く女性のひとつの風景としても、なのだ。叔母はいつも前を向いて、何かをつくりたいと思っていた女性である。戦後の日本の風土は、そうした気持ちを大勢の女性たちに与えたのではないか。でも、それを実現できる人はきわめて少なかっただろうとも思う。鴨居さんの展覧会の背後には、そうした女性の戦後文化風景が広がっているはずなのだ。叔母に関して言えば、結局、自分の望みを十全にかなえられず亡くなってしまったように思うが、でも、それはそれだ。棺の前にうなだれていた鴨居さんも、そんな風に思っていたのではないか。最後に、ぼくの好きな叔母の歌をしるしておきたい。昭和34年のものである。
透きとほる鋼鉄にならむ雪よりも優しきものを葬らむときに





2012年6月23日土曜日

描写とレジメーユーロ1012を見ながら

目をつぶっていたら6月が始まっていた。<中旬も過ぎてしまった。書き始めたのが2週間以上も前なのだ。この時差は文章の季節感に違和感を与えるかもしれないが、始めから書き直すのは疲れる。そんなわけで、今回は書きついできたブログである。ご苦労さん?誰に。途中で今日、明日に書いていることを赤字で挟んでおこう。文章の時間制をリアルにしたいと思ってのことだが、おそらく、複雑になって読みにくくなるだろうとも思うが。ひとつの実験?>
家の近くの哲学の道の蛍も増えてきた<終息し始めている>。先週からユーロ2012が始まった。<決勝最終ラウンドまで進んだ>。WOWOWにも加入し、万全の体制で生中継をできるだけ見ている。ヨーロッパ時間的生活は大変だが、これは避け難い。W杯以上の面白さ!ただし、当然授業はするし、自分の勉強もしなくてはいけない。大変なのだ。大変という漢字では、大変さの楽しさはあまり伝わらない(伝える方法がないものか)。加えて、ネットでのニュースも追うので時間が必要となる。ブックマークには、フランス、イギリス、イタリアの3つの新聞とネット系のサッカー情報サイトが入っていて、大きな大会ではチェックしている。<このところギリシャとフランスの選挙も追ってしまったので、これも大変だった。左翼がどうなるのかに興味があるのだ。日本では左翼も右翼も死んでいて、その言葉さえも死語になりつつあるが。そのこと自体はいいことだと思うのだが、でも、芸能界的やわなマーケッテイング社会になっていて、やっぱりこの選択はないだろうと思う。つまらないのだ。いっそ、マーケッティング社会そのものになればと思うのだが。>さて、ネットのニュースのことだがを読むのが大変なのだ。情報量の多さということだけではない。ヨーロッパの記事は日本とは違って量が多いからだ。これはサッカーに関してだけでなく、あらゆる分野に共通している。
デリダという、一部では有名なフランスの哲学者が、どこかで「日本はレジメの国だ」ということを書いていたと思う。さすが!といってもデリダはあまり好きではないが(観念論的なところが)。
そのデリダが言うように、日本の記事は短かくて読みやすい。ヨーロッパ(フランスがベースになっている)と日本の大きな違いは、物事に対して言葉をどのように発していくかのスタイルの違いでもある。文化というより文明的な差異だろうと思っている。
たとえば、サッカーの場合、試合翌日のスポーツ欄には、当然試合のことが書かれているのだが、日本のような、写真と簡単な試合の経過報告、簡単な戦術分析ではないのだ。試合の様子が詳しく細かく書かれるのが通例だ。といっても、試合だけの戦略分析というだけでなく、ピッチや選手の様子まで含めた、言ってみれば、試合のすべてが、言葉で記述・説明されるのだ。少し大げさだとはしても、日本と比べた場合、そんな風に感じる。ネットにも、試合速報というのが必ずあって、そこでは、映像ではなく(権利問題で放映できないので)言葉で1分ごとにピッチ上の様子が記述されていく。だから、必然、速報は長くなる。読むのに時間がかかる。もちろん、言葉の問題があるのだが、フランス語を日本語と同じように操ることができたとしても、新聞を読むのに日本より2〜3倍はかかるだろう。語学がぼくのように半分以下の能力だと、サッカーの記事だけですごく時間がかかってしまう。さすが、プルーストの国だ。
どうして、こんなことになっているのか。それは文化といったような曖昧なものの違いではなく、というより、文化だとすれば、それを支えている言葉の問題なのだと思っている。おそらく、ここを考えていないと、西洋と日本、西洋と東洋といった図式は、たいして意味のないものになるだろう。言葉の、あるいは世界と言葉との関係への態度の問題なのだ。Facebookで「いいね!」と書く、Twitterでつぶやくといったスタイルが、西洋でも爆発的に広がってきた今、記述スタイルは単純化していくのかもしれないが、でも、現実を言葉で表していこうという西洋のスタイルは、まだまだ大きく変わらない感じがする。ユーロ2012の話が大げさになってきた。でも、続けよう。
つまり、西洋には「描写」という記述の伝統があるのだ。現実のある場面を、写真のように言葉で表してしまうのが「描写」という記述の手法である。専門的に言うと、古代ギリシャでの「エクフラシス」という言葉の手法の伝統を引くものだが、この「描写」が19世紀の自然主義の時代に入って、ますます精密化したのである。いわば、「言葉で遠近法絵画を描く」。そうしたイメージだろうか。写真では時間はかからないがーしかし、写真に映し出されたものを、写真のように見るためにはすごく時間がかかるのだが、写真は「一瞥の」映像と考えられているー、言葉は時間がかかる。しかし、西洋では、この時間がかかることを今でもやっている。これはどういったことなのだろうか。説明するためには、覚悟を決めなくてはならないので、ここではやめておくが、基本的には私が世界とどのように取り結ぼうとするのかの態度の問題だろうと思う。
ところが、日本には、この「描写」の意識がきわめて薄い。デリダの言うようにレジメの国である。日本の曖昧さのひとつは、ここにも由来しているだろう。言葉に信頼を置いていないためか?普通、そんな風に感じる。小さな社会から政治・経済まで、言葉は「本当のこと」ではなく、何かの暗示にすぎない。「こうした理由で反対です」と言ったところで、それは文字通りのものではない。そんなことは身の回りにもうんざりするぐらいある。でも、それは言葉を信頼していないためなのだろうか?ぼくには、その逆だと思える。実は、けっこう言葉を信じているはずなのだ。ただ、その信じ方が、言葉そのものの意味に対してではなくーたとえば、リンゴといったらリンゴそのものだけではなく、リンゴと私の歴史や記憶といったものも含めたリンゴという言葉といったらよいかー、そうした言葉には信頼を置いているはずなのだ。
長い間、和歌が思想を決定してきた国である。そして江戸時代からは、俳句も出てきた。そうした短い、とりわけ俳句のようなイメージ性の強い言葉による詩によって、現実が捉えられてきたのだ。それは日常にも深く根ざしているだろう。17文字で世界を理解する(識る)なんて、「描写」をベースとする西洋において、考えることすらできなかったのではないか。だから、ある言葉、文章、話、何でももいい、それらを理解するためには、文字通りの言語的意味というより、感情や個人的な事柄等々、言葉に凝縮された発話者の歴史を「感じる」必要があるのだ。そして、その「感じる」ためには長々とした描写はいらない。こうした意味での言葉を日本人は信じているのではないか?
と、こんなことを、ユーロ2012を見ている間、そして呼んでいる間、考えたのである。この言葉とイメージのことは、長い間、真面目に考えたいと思ってきたことでもある。しかし、なななか進まない。哲学をしっかりやってこなかったためか?あるいは、ぼくの思考法がやはり「レジメ」のためか。ただし、「レジメ」は、感情を含むだけ、疲れる。まあ、そのことを気にすればの話だが。
<ついに、決勝ラウンド>。ヨーロッパ時間での生活も少し馴れてきた。試合が終わると朝。テレビの画面が映し出すポーランドやウクライナは夜。どちらも綺麗だ。向こうではパブかなんかでビールをぐいぐいやりながら、各国のサッカーファンが楽しくしていると思うと、一度、ユーロに行かなくてはと思う。まだ、一度も行ったことはない。6月は教師にとって休めない季節なのだ。そんなわけで、ポルトガルの優勝を願って、7月1日まで二つの時間を過ごすことにしよう。

2012年5月21日月曜日

祖母と小倉遊亀さんのこと

1ヶ月に2回更新と決めたのに、この4月から、文章を書く気力が薄く、何度も書いてみたが、面白くなく削除ばかりした。そんな折り、ふと亡くなった祖母のことを思い出した。10年ぶりの中学のクラス会があり、昔を思い出す想像力に火がついたためか、それとも、これも1年ぶりに弟夫妻と父と母の墓参りにいったためか。はっきりしないが、祖母のことを強く思い出したのだ。それでブログに書いておこうと思ったが、そういえば、ずいぶん昔、小さな冊子に書いた祖母についての文章があることを思い出して、ちょっとだけ手直しをして、再録風にペーストすることにした。


これもずいぶん昔のことになるが、同僚だった山田俊幸さんが関西のサンケイ新聞夕刊に画家・版画家の装丁本についての連載をしていたことがある。そのとき祖母の歌集の装丁を日本画家の小倉遊亀さんが行った話をした。そうしたら、山田さんが、その歌集を連載で取り上げてくれた。すごく嬉しかったことを思い出す。その記事を見たとき亡くなった祖母がまだ生きているような気持ちになり、また、昔のお弟子さんに話すとずいぶん喜んでもくれたこともあった。個人的なことで恐縮だが、ぼくは祖母にずいぶん影響を受けて育ったのだ。
 祖母は清水千代といい、明治二十六年に四国の丸亀に生まれ昭和六十一年に大阪で亡くなった、関西では少しは知られた女流歌人だった。歌をこころざしたのは奈良女高師(奈良女子大の前身)のころだそうだが、アララギの古泉千樫や島木赤彦に傾倒したものの特別な先生にはつかず、独学で自分の道を開いていった人だった。昭和十一年に結社「どうだん」を起こし、同名の同人誌に亡くなるまで情熱を傾けていた。歌づくりの姿勢は、見えたこと、あるいは見えることに忠実な、いい意味でも悪い意味でも日本近代の「写実」で、それを律儀に実践した人だった。
 その祖母の女高師時代の二年下に小倉遊亀(当時は溝上)がいて、祖母をずいぶん慕っていたと伝え聞いている。小倉が祖母と一緒に歌を詠んでいたことは歌集『白木蓮』のあとがきに書かれているが、歌に熱を入れることになったのはおそらく女高師での祖母との出会いによってではなかったかと想像したりする。こんな文章を書くことになるのだったら、いろんなことを聞いておけばよかったと後悔するが、ともかく、小倉の手になる祖母の歌集の装丁からも小倉遊亀と祖母清水千代の友情のかたちが伝わってくる感じがする。祖母は小倉のことを「ゆきさん」と言っていたが、名前を口にするときのやさしい物言いからも二人の関係が想像できるのだった。
 その「ゆきさん」は押しも押されぬ日本画の大家となり、祖母より15年以上長く生きて人生をまっとうした。ぼくは画家小倉遊亀の熱心なファンというのではないが、その絵を見るといつもそこにいくばくかの祖母を見てしまう。小倉の絵のもつハイカラさに祖母の生活スタイルや短歌のモティーフを重ねてしまうのだ。
 たとえば、入浴後の三人の女性の様態を描いた「浴女」(昭和十四年作、東京国立近代美術館)のもつ日本的なモダン感覚。それは洋画からの影響といったレベルのことだけでなく、明治から大正時代に高等教育を受けた女性たちのライフスタイルにも関係することだと思う。彼女たちは西洋をひとつの触媒として伝統と現実を新しく解釈しようとしていたはずで、その意志は生のさまざまな局面に乱反射しているだろう。ぼくたちの二つ上の世代の女性たちの創造の新鮮さは、そんなところからきているのではないか。
 そういえば祖母はいつも同じメニューの朝食を自分でつくり、それをかたくなに守っていた。雪印のバターを薄くぬったトースト、乱切りにした茹でじゃがいもをあっさりとマヨネーズであえたポテトサラダ、そしてリプトンの青缶の紅茶。こんな生活の小断片にも、祖母の世代の女性たちの新しい生のかたちへの希求を感じることができるのだ。小倉遊亀の朝食はしらないが、少なくとも画中の女性たちは誰もがリプトンの青缶が似合うそんな感じがするのだ。

2012年4月24日火曜日

新縄文食、現代アートって?

時差の克服と口実をつけてだらだらしていたら、講義も始まり、桜も散り、これは少ししっかりしないといけない、と、少し身体と気持ちを締めるために、まずはベルトを一穴分絞り、8ヶ月中断していた新縄文食再開に向けて準備。新縄文食というのは、エネルギー供給を体内の糖質からではなく脂質から行うという、ローカーボ・ダイエットの一種だが、江部康二さんという医者のネーミングが面白かったのと、続けていると体重がうまい具合に減っていくので、長く続けてきた食事法である。糖尿病の食事法から考えついたとかで、なるべく炭水化物系を食べないというだけの簡単なもの。ぼくは循環器系の病気になるのがいやなので、この食事法をやっているのだが、コレステロールや中性脂肪の値は確実に落ちる。朝と夜は体内で糖分になる米、小麦類胃、ビール、当然お菓子などは食べない、ライトな新縄文食だが、これまで数回行ってきた摂取カロリーを制限する一般的なダイエットよりは、ずっとストレスがない。それに、蒸留酒、肉等々はまったく問題ないからだ。もう7年近く続けている。この食事法については江部康二さんが『やせる食べ方』という本を書いていたと思う。
ダイエットという病については、一度まとめて書きたいが、今回は、現代アートというシステムのことを考えてみる。授業が始まって、そんな話をすることになったこともあるし、このブログでも折に触れて書いてきたので、そのまとめというか。といっても、書いていくと複雑すぎて、なかなか考えがまとまらなく、何回も書き直しているうちに10日以上が過ぎてしまった。その上、あんまり面白くもない。でも、整理ノートとしてはいいかと思い、ブログにあげることにした。
パリという都市で8ヶ月物事を観察していると、世界のいろんなものが見えてくる。やはり、いまだ世界の中心のひとつだ。そこで驚いたことのひとつに、現代アートの一種のブームがある。これはフランスだけのことではないだろう。現代アートというシステムが、これほど大きく成長したことは、ぼくには意外だった。その昔、といっても1990年代のことだが、フランスで現代アートをめぐる大論争があった。内輪の論争ではなく、新聞、雑誌、ラジオ等々、さまざまなメディアを舞台として、批評家、ジャーナリスト、キュレーター、研究者たち、だけでなく一般の人も巻き込んで、「現代アートとは何か」、「現代アートの価値とは」等々についてを何年にも渡って論争したのだ。ぼくの印象では、全体として現代アートに否定的な論調が多かったように思うが、その濃厚な(論争のない国から見ると)論争については、哲学者・批評家のイヴ・ミショー(Yves Michaud)が、報告記のような本も書いてもいる(『現代アートの危機』La crise de l'art contemporain, PUF, 1997)。非常勤でしていた大学での講読に参加していた学生たちと翻訳出版しようと思っていたが、ぼくの怠慢と出版のタイミングを失ってしまい、幻の翻訳に終わってしまった(みなさんご免なさい)。その本は単にジャーナリスティックな報告記ではなく、現代アートについて重みのある内容も書かれてもいるので、現代アートが華やかな現象になった現在でも、十分に読み応えのある本ではある。フランスでは多くの版を重ねているし、論争は、いまでも現代アートを考える上でのひとつのレフェランスになってもいる。
論争があった90年代には、現代アートは、今から見れば、まだ小さな世界だったと思う。その世界の規模をどのように測定したらよいのかわからないが、文化領域という枠で囲ってみても、社会での認知度はそれほど高くなかったはずだ。アートと言えば古典的な、あるいは近代アートのことであり、業界的には話題になっていたビエンナーレといったアートの祭典やスターたちも社会的認知度はそれほど高くなかったと思う。その現代アートが、文化の大きな領域として認知されてきたようなのだ。
たとえば、こんな話を友人に聞いた。フランス最大の美術史の学部をもつパリ1・パンテオンの何千人と言う規模を持つ美術史学部の70%以上の学生は、現代アートへの興味から入学してくるという。少し前まで、現代アートは、まともな研究対象ではないと思われてきた。それが、いまや!なのである。それに合わせてなのか、現代アートについての本の出版も盛んだ。フランスの最大書店フナック(FNAC)の棚には、毎年、その点数が増えていっている。
現代アートに人が集まる、ブーム、という現象は至る所で見ることができる。パリのアートフェアー(FIAC)に入るためには2時間以上列に並ばなければならなかったらしい。と、聞いたので、やめた。代わりに行ったチョコレート・フェアーは1時間。規模もそれほど変わらない。チョコレート以上?現代アートの画廊のオープニングもけっこうな人だ。また、現代アートの美術館と現代アートセンターがぞくぞく誕生している。1997年のスペインのビルバオ・グッゲンハイムにならってか、フランスにはメッスという田舎町に現代美術館。「建物はすごい」とのことだ。他の都市でも計画が進行中だという。
さらにさらに、ビエンナーレ、トリエンナーレという現代アート祭が世界にやたら増え、そこにやってくる人も格段に増えたと想像できる。去年、ぼくはリヨンしか行かなかったが、それでも6〜7年前に比べれば、規模が大きくなった感じがした。ちなみに、その報告記をネットで見ると、今年の入場者数は20万人とちょっと。この10年で倍増した。また、世界のビエンナーレの数は、現在、150を超える。それなりの規模をもっているものの件数だが、ローカルなものを入れれば、実際には、ずっと多いはずだ。こうした現代アートの祭典を社会現象として分析するだけでも、一冊の本が書けてしまうだろう。おそらく書かれているだろう。まだ読んではないが。もちろん、名所案内ならぬ現代アート(展覧会からビエンナーレまで)の観光ガイドブックもある。現代アートは、アカデミズムにも観光にも足場を置いているのだ。
リヨンもそうだが、ビエンナーレ、トリエンナーレは都市あるいは地域で行われるオリンピック型のイベントだ。ビエンナーレの起源ヴェネツィア(1895年)のそれが、19世紀の万博や大型の展覧会から想を得ていることは知られているが、その発想は近代オリンピック(1896年)にも通じる。つまり、近代的な都市イベントなのだ。ちなみに、初期のオリンピックでは芸術も競技種目だった。こうした近代のイベントが、観光という産業を成長させる大きな要因だったことも頭に入れておきたい。実際、世界的な観光代理店トーマス・クック社の基盤は万博ツアーの成功によるものだった。ビエンナーレ・ツアーはますます盛んになってきている。
ビエンナーレは、始めから観光に接続したのだ。といっても、本格的な観光イベントとなってくるのは、おそらく90年代後半のことではないだろうか。それまでは数も少なかった。ヴェネツィア・ビエンナーレの場合、ぼくの経験からだと(ヴェネツィア好きなので、80年代から行っているのだが)、このところ、「ヴェネツィアへ行くついでにビエンアーレから、ビエンナーレに行くためにヴェネツィアに行く」というような観光客も増えてきたように感じる。観光を目的としてビエンナーレを開催する都市が増えてくるのもわかる。アートツーリズムという言葉も生まれている。日本語だと「町おこし」ということになるのか。アートを見せたいからビエンナーレではなく、観光のためにアートを見せる。それは、アートの変質も生む。
現代アートの世界的活況と、その社会浸透の余波(?)は日本にも来ているようだ。愛知や横浜、ツマリや瀬戸内のフェスティバルも、想像以上の人数を集めたと聞いている。今日の新聞を見ると京都でもビエンナーレが計画されているという。出遅れている。それからアートフェアーのような催しも増えてきた。こちらは現代アートと経済の関係を表象する場である。そこでは巨大なお金が動いている(らしい)。ただし、現代アートというシステムは、いろんなものを含み込んでいるので、マーケットという視点からだけを切り取ってみても仕方がないが。ただし、現代アートのある部分が、画廊を媒介にして世界の金融市場に接続していることも間違いなく、そうした意味では、世界の投機機関、あるいは中国を始めとする新興国やアラブのオイルマネーも流れ込んでいる。教育、観光、経済などなど、さまざまな現実がモザイクのように組み合わさっているのが、現代アートというシステムなのだ思っている。
もうひとつの大きなモザイク・パートをあげておけば、アートの歴史に関わる部分である。ここでの結論を言ってしまえば、あるひとつの問いをたてることで(あるいは、たてさせたことで)、現代アートはモダンアートの歴史を引き継いだということである。「アートの価値」「アートの義務」「作品の自律性」「作品の思想性」といった、モダンアートが問いかけてきた(これもフィクションかもしれないが)問題意識を棚に上げ、「アートとは何か」という問いだけを引き継いだということだ。したがって、この問いに始めから答えはないし、答えることを強いることもない。ただし、この問いを抱えていることは間違いなく、そのことでモダンアートの継承権を獲得したのである。この権利が現代アートのひとつの価値を支えている。だから、現代アートは作品の価値とはあまり関係がない。その価値は金銭的数値、あるいはシステムへの参加の度合いだけで計られているからだ。ちょうどオリンピック出場歴の価値と同じように。
こうした価値問題を生産するのは、つまり現代アートとは何かという問いを発するのは、批評家、キューレーター、あるいは現代アートを研究者たちである。もちろん、直接、そんな問いなどをしないが、その作品評やアーティスト評のスタイルが、相変わらずモダニズムのそれなので、あまりピンとこない。そのピンとこないということも重要なのだ。「現代アートとは何か」という問いへとつながることになるからだ。90年代のフランスでの論争は、その典型だし、と考えれば、「危機」と命名された現象は、実は、モダンアート継承の一種の儀式であったのかもしれない。
自分でもまとまらないことを書いてきてしまったが、 現代アートのシステムを構成するパートはまだまだあるし、考えなくてはならない問題も多い。また、このシステムの外にあるアートはあるのだろうかとか(あるのだが)、となると、システムは外部をもつということになり、とすれば、この外部でアートという命名権は何を根拠にしているのだろうとか、そんなことも考える必要があるだろう。実は、ここまで書いてきて、矛盾も多くなり頭も働かなくなった。新縄文食は糖分を減らすので、脳の働きが悪くなるのかもしれない。脳は糖分によって発達してきたと言われているからだ。ともかく、現代アートについては、もう一度続きを書こうかと思っている。少し甘いものを食べて。

2012年4月5日木曜日

ワインとコーラの国


帰ってきた京都の桜は遅く、そして少し寒かった。パリが夏ような春だったこともある。そして、いつもの時差ボケ。歳とともに、これが長引くし、けっこうつらい。そして、やっぱりカルチャーショック。向こうが素晴らしくて、こちらが冴えないということではない。2つの文化の違いへの戸惑いだ。それほど長くはない滞在なのに、そんなことになるのは、パリ滞在にやはり馴染んでいたということだろう(「やはり」というのは、前のブログで同じことを書いたので)。でも、日本の日常(ぼくのだけど)にやっぱり早く馴染まないと、仕事もできないな、と思って、さっそく韓国映画を借りてきた。韓流ドラマではないのは、何を見たらいいのかわからなかったので、まずは映画からという気持ちになったのだ。そして、日本芸能界の典型、バラエティー(子供が録画しているので見さされる)やワイドショーをまったりと見る。NHKのニュースも芸能界バラエティー風だ。ニュースというのは新しい情報伝達ということだが、それが伝達以上に事件・出来事の説明・解説になっている。説明のために、あるストーリーが必要となる。その物語が平凡だ。事実の伝達という意識がフランスと違うように思う。いいとか悪いとかではない。それぞれの文化の問題である。それから、馴染みの喫茶店やレストランに行き、職場に行き、近くのコンビにと、去年の8月までの習慣を再履修しているのだ。これも楽しい。来週からは授業も始まる。8ヶ月の記憶は、少しずつ後退していき、いつもの「いつも」が始まるのだろう。
こんな1週間を過ごしつつ、パリ滞在記のようになった8ヶ月間のブログで書き忘れていたこともあるな〜と思って、その余録を書いてみることにした。
パリはどうでしたか、と会う人ごとに聞かれる。一種の挨拶だが、こうした経験を人に伝えるのは難しい。すべてが何となく自慢話になって、聞く人をうんざりさせてしまうことが少なくない。そういうことでは、ブログがあってよかったとも思う。この私的「的」な現代の日記は、なかなかいいと最近思い始めた。
パリのラーメンのことは書いたが、フランスといえば、グルメ、ワイン、ファッションというのが定番。ラーメンや日本食のことは書いたが、おフランス・グルメについてはほとんど書いてこなかった。ファッションは別にして、フランスにいれば誰でもグルメに挑戦ということになるので、ぼくもそれなりに観察・実践をしてきた。
とくにワインは必須なので、何とかワイン通になろうと最初の頃は気を入れた。といっても、フランス高級ワインはうるさい人も情報も多いので、チープなワインの通になろうと思い、5ユーロ(550円くらい)までのワインの通になろうと思ったのだ。これは挫折した。結局、そうしたワインでは、そんなに差がないという、当たり前のことがわかっただけだった。そうしたワインは「味わう」という感覚も薄い。評判のチープワインを友人が持ってきてくれたが、美味しいが、含みはもうひとつ。それから、少しレベルを上げ、6〜10ユーロ前後までのワインへと上昇。やっぱり、こっちの方がうまかった。「うまかった」というのは「飲む」という動詞に接続していて、「味わう」ということではない。もちろん、辛口甘口、ぶどうの種類、重たいもの軽いもの等々のバラエティーには富んでいるように思えた。このクラスはやっぱり「味わう」という感覚のちょっと手前。グラスを回し香りを嗅ぎなんてことをしても、ひどくは変わらない。やっぱり、15ユーロ(1600円)は出さないと、グルメ的ワインにはぶつからないというのが結論だ。何か、すごくつまらない話になってしまった。これも時差ぼけ?
こんなこと書いてみたけど、実は、ワインについてあまりわからなかったのだ。ただし、ひとつわかったことは、フランス人もワインに詳しくないということである。ぼくはここを勘違いしていた、そのことがわかったのだ。彼(彼女)たちとワインを飲むと、けっこう講釈をしてくれる。この地方のここのワイナリーは、とか、このぶどう種云々等々。その講釈に戸惑わさせられていたのだ。でも、それは話だけの場合が多いということらしい。ワイン屋の店員が教えてくれた。ほとんどが口だけだよ、と言うのだ。ほんとうに味を知っている奴なんか、ちょっとしかいないよ。安心して!と、本当に安心させてくれた。ワインのフランス的呪縛から解かれたのだった。
もうひとつ驚いたのは、コカコーラを飲む人の多さだ。ファンタやオランジーナといったソフト飲料をはるかに超えている。それも、この10年近くでかなり増えてきたような印象。ガキから熟年まで。カフェでレストランで、コカを飲んでいる人を見ないことはない。ちょっとしゃれた料理にもコカ。日本よりはるかに多い。え〜、コカコーラでご飯?と、何人かに聞いてみたが、理由はよくわからない。身体にいいと言う人もいたが、どうもこじつけ。フランスの人はこのことにあまり気づいていないようだ。ワインの国フランスはコカコーラの国でもある。おフランスになりたい人は、コカを常飲することだ。ぼくには何か変だが、これも多様性との共生という現フランス社会の理念の、無意識的実践なのか。ワインとコカの共存を見ていると、フランスが美食の国とは思えなくなってくる。もちろん、何回か行った1つ星以上の高級レストランでコカを飲んでいる人は見たことはないが。ソムリエとのワイン談義で始まる、そうしたレストランも、多様性のひとつということかもしれない。

2012年3月26日月曜日

Coming Home、フランスのジプシー


Coming Home。一度、この言葉をタイトルに使ってみたかった。もちろん、ベトナム戦争を内側から描いたジェーン・フォンダ主演のアメリカの大名画のタイトルである。確か日本語では「帰郷」だったはず。ジェーン・フォンダのファンだったので2度ほど見たか。彼女の映画では2番目に好きな映画だ。ちなみに、一番は「They shoot Horses, Don't They?」。本も訳されていて、そのタイトルは「廃馬を撃て」、だったと思う。それが映画の日本語タイトルは「ひとりぼっちの青春」。何とロマンチックな!ぼくの中で青春映画ベスト3のひとつである。
「ひとりぼっちの青春」は当然泣いたが、「帰郷」でも泣いた。シチュエーションは違うが、どちらも美しく残酷な映画である。そのComing Home的気分を、久しぶりに味わっている。「久しぶり」は、前回の長めの滞在が25年くらい前だから、それ以来ということだが、最初のこうした気分は学生時代、69年から70年にかけて、ヨーロッパからインドまで旅行したときのことだ。最初の外国旅行ということもあって、このときの旅の終りはすごくComing Homeな気持ちだった。そして、日本に帰る前のインドでの、何とも言えない切ない気持ち。そして、帰ってからのすごいカルチャーショック。そんな昔に比べれば、やっぱり歳をとったのだろう、これまでほどの感傷はないが、それでも・・・。
去年の8月からのパリ滞在も終わる。映画とは違って何のドラマもないが、といっても、滞在した土地を離れるのはやっぱり寂しい。今回は、この社会にすぐに馴染め、昔からここで暮らしてきたような気持ちにもなっていたこともあって、すごく長くいた感じもする。でも、去年の夏が昨日のような、すごく短い感覚も同時にあるのだが。フランス語にもあまり違和感がなく、といっても相変わらずヒアリングが下手でボキャブラリーも少ないが、それでも、こちらの人と話すときにすごく余裕があった。それから、多くの人と知り合った。ぼくの業界アカデミズムな人たちとの出会いは少なかったが、版画工房の元主宰者、映画監督、BD作家、先史考古学者、アルゼンチンの画廊主や批評家などなど。もちろん、昔からの知り合いとも、当然、ぐっと親密になった。それから、こちらの日本人。留学やワーホリで来ている若い人から何十年とこちらにいる人まで。いつも感じるのは、とにかく世界は広く多様だといということだ。そして、日本人もちじこまっているのではなく、広いところに目を向けている人も少なくないことも。この広さの感覚が好きなのだ。当たり前だが、日本ではなかなか得ることのできない感覚である。
こんな風に滞在を振り返っていたところ(感傷的?)、近所の名画座(旧サン・ランベール)で、フランスのジプシーの現実を撮ったドキュメンタリーと監督を交えた討論会をやるというので出かけた。ぼくたちの住む15区のアムネスティー人権委員会のジプシー支援グループの主催とのこと。帰国ということの感傷が、ジプシーの放浪感覚に接続したのかもしれない。
もともと、ジプシーにはすごく興味があった。セルビアの監督エミール・クリストリッツァの名画「ジタンの時間」や「白猫・黒猫」を始め、ジプシーを扱った映画をできるだけ見てきた。また、ジプシーキングなどのポップ・ジプシーミュージックなどもよく聴く。一般にジプシーの名を知らしめているのは、ヨーロッパの観光地での旅行者を狙うガキ集団。パリはとくに多い印象がある。物や金銭を盗られた人も多いはずだ。だから、世界中で評判が悪い。でも、このところパリではあまり目立たなくなってきたような気もするが。後で書く追い出し政策のためだろうか。
この、ぼくたちがジプシーと言っている民族の呼称はかなり複雑で、最近では「ロマ」という呼ばれ方をすることが多い。もともとインドからヨーロッパに入ってきた放浪の民である。そして、現在でもヨーロッパを放浪しているグループも多いという。そして、行く先々で迫害を受けてもいる。そのジプシーのフランスでの現実をフランスのベルナール・クランディーンストという無名のドキュメンタリー作家が撮った。タイトルは「ロマ、失われた道」。フランスにはジタンという言葉もあるが、ロマを使っている
のも、現在の呼称の趨勢だろう。他に同じようなドキュメンタリーがあるのかもしれないが、ぼくには初めてのジプシー・ドキュメンタリーである。パリ近郊に仮住まいをする集団のあまりにもひどい環境、にもかかわらず、もともといたルーマニアから移動せざるをえない現実。排斥する者と援助するもの。そんな生のジプシーを淡々と撮ったドキュメンタリーだ。
移動生活というスタイルのために近代国家に馴染めず、また、ジプシー自身、全体での民族アイデンティティーを確立しようとする運動が弱いため、集団は根無し草的になる。ナチ、それから社会主義国家での虐殺、迫害はユダヤ人などと同じだし、現在でも差別は根強いのに、人類史の負の歴史として大きな問題になったことは、ユダヤ人などに比べれば、それほど多くはない。ジプシーの民族的複雑さと、移動生活というスタイルが深く関わっているのだと思う。彼らを少数民族として認定し、国内に定住させる国もあれば、そうでない国もある。フランスでは、数年前から、サルコジ右翼政権の移民抑制政策のためだろう、ジプシーの国外退去政策が行われ、その故国ルーマニアへと送り返そうとしている。そのルーマニアでの差別がかなりひどいのでフランスにやってきたのだが。ドキュメンタリーは、そんなフランスのジプシーたちの日常を描いたものなのだ。討論会が終わったあと、作家と話す機会があり、彼からそのビデオを譲ってもらった。こんな世界の現実を目にできる機会が多いのも、パリという都市である。
そのフィルムの中にも、やっぱり音楽と踊りが出てくる。彼らはいつも歌い踊る。パリ郊外の、おそらく異臭の漂うだろう工場跡に仮住まいしていても、歌い踊る。世界の残酷さに対抗するような陽気な、でもうら悲しい音楽と踊り。フィルムにもしっかり写されていた。日本に帰れば、ジプシーにリアリティーはなくなるだろうが、記憶には刻まれた。

2012年3月20日火曜日

選挙とロック、パリのサロン・デュ・リーヴル


今年、フランス一番のイベントは大統領選挙である。昨年の社会党の候補者選出選挙で開始された2012大統領選は今年に入って現大統領ニコラ・サルコジがエンジンをかけ始め、大きな社会現象となってきた。この表現はちょっと違うな、というよりメディア化してきた、あるいはスペクタクル化してきたと言った方がいいか。現代の社会現象とはメディア(広い意味で)がつくるスペクタクルとしての現象でもある。だから、ほんとうはたいしたことないと思えばたいしたことないのだが、それがたいしたことになるところに今の社会の病理があると思っている。といって、病理を分析することも病理に浸ることもしたくないとなると、あとは、少なくともぼくの場合(このブログの場合だが)、このブログが社会の窪みになると考えて、現代の病理を引き受けてみようと考えるのだが、その言葉は難しい。「窪み」というのは、前にノルマンディーの田舎でのロックフェスのことを書いているときにふと思いついた言葉だが、何か気に入って、現代の病理を前向きに治療するひとつのキーワードにしたいと思ってきた。でも、なかなかどうしたキーワードなのかはいまだ説明できないのだが。
フランスの大統領選は、一応、政策論争である。一応というのは、そうした態を取っているとメディア的に見えるということだが、実のところ、実際に何が決定的なのかはわからないのではないか。若者たちは、日本と同じように政治に冷淡だとも言われている。何よりも、この国の昔から変わらない、右か左かという二者択一的思考がうっとうしいと思っているらしい。当然だが、といって若い世代が右/左という思考方法に変わる思考を提出してはいない。でも、フランスの選挙は日本のような無差別な芸能界的選挙ではない。少し前からの日本社会の芸能界化(テレビ的人気者が勝ち組といった感じの)は、ある意味で、近代イデオロギーを相対化するが、といって現実を前向きに変えることはまったくないだろう。思考の枠組みについての反省がまったくなく、日本という業界の仕組みと言葉にだけに依存しているからだ。大阪の市長が大阪復活を主張しても実現することはないだろう。その思考が、政治社会では新鮮だとしてもーというのも旧来の政治志向に芸能界の業界思考をもちこんだだけだからだがー日本という政治も含む芸能界社会のなかでは平凡なものにすぎず、そのことに気づいていない。まあ、その無知もすごいが。ただし、そうした思考法への反省のないことが、日本のナショナリズムなヒステリーをつくりだしている。ぼくは気持ち悪い。
フランスは、と言えばーそれほどフランスのことを知っているわけではないので、「と言えば」という言い方は、単純に、日本を基準とした対立的言い回しに過ぎないー政治世界に日本的芸能界の雰囲気は薄い。むしろ、近代イデオロギーが形式として生きている。その嘘くさいところが、若者の選挙離れを起こしているという。
そんなことを考えたロックバンドが8つ集まって、「ロックで選挙」というコンサートを行った。若い世代に選挙に関心を持ってもらうという意図だとか。そこに贔屓のテット・レド(このブログでも何度か書いている)が出演すると知って、さらに会場がラ・シガールという18区の旧劇場をコンサート会場にしたかっこういいホールということで、チケットを買った。テット・レド本来の音楽は聴けないだろうとは思っていたが、やっぱりその通り。かなり混乱したコンサートになった。といって、政治集会の雰囲気はなく、ちょっとした乱痴気ロックフェス。ロックが社会への「アンチ」ということを今でも信じているような雰囲気。立ち席の観客の奇妙な熱狂に少ししらけてしまった。
政治に参加するのは難しい、というより、政治のつまらなさに、どうして関わればよいのかわからないのだ。ぼくだけのことではないだろう。オルタナーティブということがいろんなジャンルで言われ実践されるが、いまだ政治に対してオルタナーティブな方法論を持つことができないというのが実際ではないのか。でも、少しはやっていかなくてはと思う。
そんなことを考えさせてくれた「ロックで選挙」コンサートから1週間ほどのち、ヨーロッパでもかなり大きなブック・フェアー(書籍見本市)に、友人のBD作家ジャン・クロードが萩尾望都さんと対談するというので、どうして?という感じで出かけた。アパートからバスで10分ほどのポルト・デ・ヴェルサイユにある見本市会場は、これまでにも何回か日曜散歩気分で出かけていて、行くたびに疲れて帰ってくるというパターンを繰り返したところである。国際都市パリが国際都市としての文化的、経済的イベントを発信する会場で、毎週、何か大きな見本市を行っている。この3月の目玉のひとつがブック・フェアー。フランス語でサロン・デュ・リーヴル。今年は、福島1周年もあって、日本は特別招待国。作家から漫画家まで20数人が招待されていて、日本のスタンドでは4日間さまざまなトークショーが行われる。基本的には、福島以後、日本の作家は何ができるのかという問題意識でのトークであったようだ。「あったようだ」なのは、萩尾さんの対談しか聞いおらず、あとは情報を見たに過ぎないからだが、たぶんそうだったと思う。ぼくは、こうしたいかにも作家がこれまで何かやってきたような意識をもつ問題設定が、気に入らない。萩尾さんみたいに、何も知らなかったので、これからしたいというならいいが、文学を書く人はちょっと考え違いをしているとぼくには見える。それは現代アートでも似たようなものだろう。
結局、感激したのは、アルゼンチンのスタンドで行われていたホセ・ムニョスというBD作家(世界的です)の対談と、そのあと、購入したムニョスのBD、近代タンゴの創始者カルロス・ガルデス物語に、デディカスとフランス語でいうイラスト入りサインをもらったことだった。上の写真は、そのデディカス。自慢したいのでのせることにしてしまった。一筆描きの人物がガルデス。そのBD作家ムニョスの、アルゼンチン近代の抑圧的政治と文化の関係を能弁に、ただし、超スペイン語的発音のフランス語で熱く語る対談での知性に感激。西洋の二元論と少し違った思考であったのがさすが。
でも、ブック・フェアーはやっぱり疲れた。今回は会場で家内とはぐれ歩きに歩いてしまったからだが、ともかく、文化は疲れるということだ。ただし、疲れていたら文化はできないということもある。その文化に疲れさせてくれるパリもあと10日ほど。帰ったら少し頑張ってみようと思うようにもなってきた。

2012年3月16日金曜日

メビウスの死


前回のブログでメビウス(ジャン・ジロー)のことを書いたあと、悲しい知らせが入ってきた。こんなに早くとは。こちらの新聞、テレビ、ネットは、メビウスへのオマージュであふれた。そのお葬式が15日に行われ参列してきた。フランスのお葬式は初めてだったが、やっぱりキリスト教を感じる。死者がもうひとつの生を生きるための儀式でもあった。最初に創世記の一節が読み上げられ、そのあと、いくつかの聖書の一節、そして近親者や友人たちの言葉、パイプオルガンの荘重な演奏等々。仏教では参列者はお線香だが、聖なる水というのか、棺に水をかけ死者を弔うのだった。
2009年に、京都に来たメビウス夫妻の姿を思い出していた。その後、パリやアングレームでも会ったが、いつも「京都はほんとに楽しい旅だった」と言ってくれた。最後の日本になってしまったのだ。出席者がメビウスに別れを告げるとき、奥さんのイザベルと少し話することもできた。彼女もすごく喜んでくれて、お互いに、A bientot!(ア・ビアントー)(また!)。「また会おうね」ということだが、ぼくはメビウスにもア・ビアントー!と言った。歳をとってくると、こうしたことも想像するようになる。
メビウスを知ったのは、大学で講演会をしようと思った頃だから、まだ4年前くらいか。名前は知っていたが、実際に作品を読んだことはなかった。フランスによく来ていたのにBD(バンド・デッシネ=フランスのマンガ)を手に取らなかったのは、日本のマンガに馴染みすぎて、その重厚な、それも文学的な雰囲気に(そんな感じをもっていたにすぎないが)近づけなかったのだ。でも、マンガミュージアムでのBDの展覧会、メビウスの来京、アングレームのフェスティバル等々、BDと接触するうちに、その面白さが少しずつわかってきた。そして、ぼくの頭の中にあったBDイメージが、あまりにも狭いこともわかった。もちろん、物語文学的なものもある。ただし、そうした作品以上に、映画に近い感覚があることがわかってくる。SF、ウエスタン、冒険もの、歴史物等々、映画が展開してきたレパートリーと重なる。そして、何よりも、絵を描く作家の力量がすごい。絵画とは違う、線でのデッサン(グラフィックといっても良いが)の力。その多様さも面白い。そんなBDの中で、メビウスはやはり群を抜いていたと思う。少ししか読んでないので偉そうなことは言えないが、BDというものが、こういう人にかかると、絵画と同等、というより、ある意味で絵画以上に普遍的な広がりをもったアートになってしまうんだな〜ということを感じてきたのだ。
そのメビウスは帰ってこないが、彼の残した作品は膨大にある。少しずつ、読んでいこうと思っている。そうすれば、今度会ったときに、もっと話ができるだろうと、そんな想像もする。葬式の日、パリの7区の教会にも春の花が咲いていた。

2012年3月8日木曜日

BD巨匠のイラスト図版、映画、風邪のことも


風邪をひいてしまった。インフルじゃないの、と言われたが、高い熱が出ないので、風邪という自己診断。それも、けっこう長引き、やっと治ってきた。気がつけば春だ。桜も咲いている。2月に日本への弾丸帰国のあと、数日後から喉がおかしくなり、身体もだるく、1週間たっても完全に治らなかった。まあ、治りかけのときに、カフェで遅くまでワインを飲んでしまい、ぶり返したこともある。風邪をひかないことに妙な自信があったのだが、もろくもくずれさった。風邪ってこんな感じなのかと、変なことを発見。でも、発見は発見。微熱と咳で、室内にごろごろしているのも悪くなかったが。
そんな風邪が治りかけのころ、久しぶりに、BDの作家メジエール(ジャン=クロード)とBD原作者で作家でもあるクリスタン(ピエール)に会った。もう、一昨年になるのか、大学にゲストとして来てもらったBDのSF大作「ヴァレリアンとロールリーヌ」で知られた巨匠である。そのいくつかのシーンを「スターウォーズ」がパクったということはよく知られている。お互いパリで会おうと言っていたのに時間が合わず、やっと帰国近くになってしまった。
まずは、パリのゴブラン地区のメジエールのアトリエで長く話をしてから、クリスタンのところでご飯。その彼が最高のボルドーをごちそうすると、日本で言ったことを覚えていて、そのとおり最上級のボルドーを出してくれた。great!長くボルドー大学の先生をしていたことはある。ぼくはまったくワイン通ではないが、それでもさすが、ということはわかった。これが風邪から回復のきっかけとなったのだが。
それはそうとして、メジエールが若い頃に携わった本のイラストの話が面白かった。1960年代始めにHachette社という大手の出版社が刊行した、一種の全集の挿絵の仕事の話である。「文明の歴史」という5巻からなるシリーズで、世界の文明がイラスト付きで解説されている啓蒙書だが、そのイラストの仕事にメジエールだけでなくメビウスも携わっていたというのである。本のページをめくりながら、「これはぼく」「これはジロー」(メビウスのこと)、「そしてこれは名前は忘れたがイタリアの作家」などなど。写真図版はなく、写真のような文明遺跡や美術品の図版も、彼らのグワッシュによるイラストなのだ。「ぼくはまだ下手だったけど、ジローはほんと上手だよね」とか何とか。二人は子供のときからの知り合いなのだ。
美術書の研究者としては、この図版のあり方も興味深いのだが、メビウスやメジエールといったBDの大巨匠の若き日の仕事と、とくに若き日にすでにすでに卓越していたメビウスのデッサン技量が見られるイラストなんて、これこそレアものである。この5巻からなる全集をなんとかして手に入れねばとネットの古書検索をしてみたら、なんとあっさり見つかり、それも巻あたり2300円くらい。全集なんて売れない時代なのである。もちろん、クレジットにメジエールやメビウスの名前はまったくないので、話を聞かなければ誰もわからない。聞いておいてよかった!ただ、そのメビウスが病気だということもメジエールから聞いた。何となく噂で知っていたのだが、かなり重病だとのこと。日本に来たとき、そしてパリで合ったときの元気な姿が思い出される。
滞在が少なくなると、何か心にひっかかることはないかと、少し考えてしまうのだが、もちろんありすぎる!本を読んでなかった!とか!韓国語を勉強できなかったとかもあるが、でも、これは帰ってからの楽しみとしてとっておけるので、どうってことはないが、映画をあまり見てなかったのが、少し気になって、そうそう、これまで見たかったものを見ておこうと、駆け足で映画館に行こうと思い立つ。いくら2番館で新作を長く上映するといっても、旬ということがある。そんなことで、見逃していた映画を2本やっと見た。よかった。淡々としたカメラ、少し心が温まるストーリー、落ち着いた画像等々、スペクタクルなところはないが、これも新しい傾向に違いない。ひとつはフィンランドのアキ・カウリマスキの「ル・アーヴル」。おそらくフランスで撮った初めての映画ではないだろうか。ノルマンディーの港町を舞台に、人間の漂流の過去と現在が、暖かく交差する。この人の映画はほんと落ち着いて見れる。もうひとつは、アルゼンチンのパオロ・ヒオヘッリ(と発音するのか?)という監督の「アカシア」。パラグアイのアスンシオンからブエノス・アイレスまでを木材運搬するトラック運転手と、しぶしぶ同乗させることになった母親と赤ん坊の、ロードムービー。何も起こらない。ただ、大きなトラックがブエノス・アイレスへと走ることを撮っただけの話だ。もちろん、この見知らぬ男女と子供の気持ちが少しずつほぐれていくという話だ。話といっても、物語とまでいかない、3人の表情、トラックから見える風景、運転席の情景の微妙な変化が、そうした気持ちの変化を告げていくだけである。昔見た、おそらく、1年前ほどのこのブログに書いた「リヴァプール」という同じアルゼンチンの映画と同じように、寡黙な映画である。アルゼンチンに行ったので、親近感も湧いたし、喧噪の裏側にある寡黙さもわかるようになった。ともかく、映画と映像が、奇をてらわず、見る者を惹き付ける、そんな手腕のある監督がアルゼンチンにいるのだと教えてくれたのである。

2012年2月29日水曜日

ポンピドーと偏見、そして映画「The Artist」


エ〜!2月で初めてのブログとは!まったく気づかなかった。ともかく忙しかった。日本から何人も知り合いが来たり、京都への2泊での弾丸帰国(疲れた!)、また、いろいろな人に食事に招かれたり等々。ほんと、移動して、食べて飲んだ。パリ滞在が終わるというのはこうしたことか。でも、うれしいことだった。先史考古学者、リトグラフ工房を経営していた人、デビューしたての映画監督などなど、これまで知らなかった領域の人会い、話するのは楽しい。何て、ものを知らなかったのだろうという、感慨にふける、そんな喜びとも言える感覚があるのだ(おかしな言い方だが、それが実感)。そんなかんやで、数日風邪気味でダウン。歳を考えろと、自分に言ってるのだが、なかなかうまくいかない。
その慌ただしい最中、あのポンピドー・センターで「マンガ・プラネット」という3ヶ月以上にわたるイベントが始まった(個人的な忙しさとは関係ないけど)。展覧会というより、10代の人たちに、日本のマンガを中心にアジアのマンガの魅力を伝えようとするイベントである。盛りだくさんのプログラム3月の3日には大学の竹宮さんも講演にやってくる。まだ少ししか見てないが、内容はけっこう面白そうだ。マンガ・アニメのそれとしての面白さだけでなく、文化的多面性を体験してもらうというコンセプトもはっきりしている。それを近・現代美術の殿堂のポンピドーでというのだから、そのことだけを聞いた人は驚くに違いないが、ただし、イベントのスペースはメイン会場ではなく、地下1階につくられた、若い人への啓蒙を目的としたイベント・スペース(あとアニメの上映が館内シネマである)。それは別にいいとして、このイベントの扱い方に少し腹がたつ。逆に、ポンピドーの体質が現われていると思えば、現代アートという業界の保守性が見えてきて、これも面白いことだ。
ポンピドーの普通の展覧会に比べて、予算はひどく少ないという。だから、建物正面に、「マティス展」「アルパース展」という近代美術の巨匠展の大きな看板(矩形の布製)はあっても、「マンガ・プラネット」のものはない。別にバナーがなくてもいいけど、こっちの方が面白そうだし先鋭的でもある(ポンピドーという場にとっては)。アバンギャルド的遠近法から先鋭的といっているのではない。創設以来、ポンピドーはたえず文化の新しい側面に光を当ててこようとしたのではないか。確かに、現代アートの実験的試みはやっている。でも、それは旧来のアート概念の枠内でのことだ。そういったものでない文化が押し寄せてきて、それに答えられなくなっているという印象だ。マンガはするけど、でも少し脇でね、というところか。でも、誇り高きポンピドーのキューレーターは、現代のマス文化について語るとき、「ウチはマンガもきちっとやっているよ」って胸を張るのだろうなとも思う。ともかく、「マンガ・プラネット」のポンピドーでの扱いは、ああ、この殿堂はアートをアートの枠内で再生産するしかない施設なんだ〜、と、ちょっとしたため息をつかせるのだ。
1ヶ月ぶりなので書くことはやまほどあるのだが、このブログは長すぎるという人がほとんど。だから読まないのよ、と言っているわけなので、この間の書きたいことを書いたら、どうなるのか、そんなことも考えてしまって、話題はあとひとつに。アカデミー賞のこと。WOWOWでも中継があるし、日本での注目度は1番なので、わざわざ書くこともないのだが、フランス映画「The Artist」がアカデミー賞の5部門をとったことで、メディアは大騒ぎ。映画好きとしては少し騒ぎたい気持ちになり(1人で。騒げないから気持ちの中で)、テレビ、ネット、新聞でニュースを追いかけた。普段は嫌米気分に満ちているのに、フランスの映画が史上初の作品賞、主演男優賞などを取ると、こうなるのかと可笑しかったこともある。アカデミー賞の威光は、フランス人にもあったのだということにも驚いた。ぼくのような映画インテリ派は、カンヌとかヴェネツィアなんかの方がといいと思ってしまうのだが、あの派手派手なセレモニーを始め、ハリウッドが創り出した映画という業界のスペクタクル性は、ヨーロッパにも浸透しているのだ!でも、個人的にあれにはついていけないのだ。このスペクタクル性が、現代世界のキーワードであることは、ここにも書いたことがあるが、今回、ニュースを追いかけてみて、それが何なのかの一端を少し見れた感じがする。ただ、アメリカのスペクタクルに何となく陰りが見え始めたことを前から感じていたが、今回のレッドカーペットで、少し納得。その裏を付いたのが、「The Artist」という映画なのかもしれない。
無声映画であることが、裏というだけではない。ヒーローがいて、映像が動くことに、観客、それもみんな着飾って、わくわくしながら銀幕(死語になった)を見ている最初のシーンが象徴しているのかもしれない。それと何といっても、主演のジャン・デュダルジャン。これまで知らなかったフランスの俳優だが、懐かしいような美男子度と、その笑顔の魅力は、ぼくの好みでは、ジョージ・クルーニーよりずっと上。ひとり見たい俳優が増えた。映画はやっぱり俳優だ。日本でもう一度見てみよう。

2012年1月28日土曜日

マンガという現象、パリのK-POP


そろそろブログを更新しようと思っていたら、寒波がやってきて、頭と指がちじこまり、そのうえ、仕事ともろもろのことが重なり、気がついたら前回のブログは3週間も前。この半年近くは、自分の備忘録としても1週間に1回は更新しようと思っていたのだが。ブログを更新していくのはほんとエネルギーがいる。アルゼンチンではしゃいでしまって、少し精神的エネルギーがダウンしているのかもしれない。まあ、長めのブログということもあるが。
先週1週間ほどは、マンガのことでフランスの人たちと会ったので、そのことを書こうかと思ったのだが、なかなか考えがまとまらなかった。日本のマンガ(アニメやゲームも含めて)が大人気なのは、日本でもよく知られているが、この現象がどういったものなのかを説明するとなると、けっこう難しい。人気があるのは確かだ。数日前、アパートから10分で行ける展示場で行われた「パリ・マンガ」という大きなマンガとゲームのフェスティバルに行ったが、やっぱりかなりの人。コスプレとアニソンと参加型ゲームで会場は盛り上がっていたが、ただし、日本の雰囲気はそれほどない。いつも書いているけど、フランスの若い人が解釈する日本のマンガ文化である。それは20万人を集めるようになったという「ジャパン・エクスポ」でも同じだ。日本の新しい文化を独自に解釈する西洋。この現象は文化論的にすごく面白い。といって、現象をはっきりさせようとすれば、文化論というものの胡散臭さを超えた視点と論理が必要だ。そうした批評をあまり見たことがない。
マンガが大人気といっても、実は、今年などはマンガ現象に陰りが見えてきたというのが何人かのマンガ通の話である。実際、世界的な国際BD(フランスのマンガ)祭で知られるアングレームでは、これまでの日本を意識した「マンガ館」の名前をつけた展示場がなくなりーつまり、マンガ=日本という意識が薄くなっているということだがー、代わって「マンガジー」(アジア・マンガ)という、より広くアジア(といっても韓国、中国、台湾だが)地域のなかでマンガ的表現と現象を見ていこうというものに変わってきたのかもしれない。今年は台湾が独自の展示場をつくっていたが、来年は韓国が大々的にフィーチャーされるようだ。
マンガだけでなく、この1〜2年のフランスでの韓国の存在感は急激に上昇している。このブログでも韓国映画祭のことを書いたことがあるが、韓国の経済パワーに押されて文化面でも急上昇である。といっても、韓国パワーは、バルル期の日本の感じとは少し違っているとみえる。ブランド品を買い尽くすようなかっての日本人観光客の熱気ではない。そうした観光的熱気は、いまは中国人観光客が担っていて、ああ、日本もパリでこんな時代があったな〜と、懐かしくさえなるのだが、韓国はなにかちょっと違う。統計も調査もしてなく個人的見聞からの想像だけだが、経済と文化が一体になってフランスという国での自国浸透を考えているという感じなのだ。
たとえば、サムソンの大々的広告がシテ島の裁判所の壁に現われる。歴史的文化遺産としての裁判所の建物の改装に資金を提供しているからである。他の場所にもあったかと思う。LGもある。もちろん、ソニーやトヨタも同じような活動をしてきただろうし、いまもやっているだろう。しかし、そのことが日本の文化活動と一体化していたわけではなかったように思う。でも、韓国は政治、経済、文化が一体となっていると感じる。そのことに日本ではヒステリー的差別言説があるが、馬鹿げている。フランスでは韓国のこうした浸透に自然体である。まあ、歴史の違いと言えばそれまでなのだが、グローバル化する世界で、極東の過去を、昔のイデオロギーで考えても意味ないことなのだ。
そんな中、数日前にパリのベルシー(大阪城ホールのような場所)であった、Music Bank-K-POPフェスティバルを見に行った。KBSの人気番組パリ版である。少女時代、2PM、4Minutes、T-ARA、Beast、SHinee(あと数組)といった人気グルーップの、昔風に言うなら、顔見せ興行である。家内は行かないというので一人で。それも大寒波の中を。日本ならためらうところだが、フランスには年齢関係なし的雰囲気があるのでチケットを買ったのだ。それも日本なら数時間で売り切れだろうが、2週間前でも手に入ったのだった。ウイーク・デイのためらしいが、実際にはほぼ満員(1万人くらいか)。ぼくの席は一番安い席。そしたら何とまわりはフランスの女子高校生ばかり。でも、やっぱりサンパ(カジュアルで気さくというフランス語)。違和感は全然持たれなかった(と思う?)。ボンジュールと言って席につくやいなや、ねーねー、誰が好きなのと聞いてくる(少女時代と答えておいた)。当然ぼくも、おじさん評論家的に質問。彼女たちはラ・ロッシェルというパリから2時間半ほどの港町から来ているという。遠いね、というと、何言ってるのよ〜!あそこを見て、あのイタリアの国旗。向こうににオランダの国旗。あの子たちは私たちよりもっと遠いでしょう!わかった、わかった。どのグループが好きなの?2PM、ワッワッワッ!といった話をしている間に開演。もう嬌声とダンスで大変。やっぱりミーハー、追っかけが集まる場は独特の熱気がある。
こんなこと書いていると、何ページあっても足りないが、ともかく、初めて見たK-POPスターたちの公演はすごく面白かった。客席の熱狂といい、それぞれのグループの独自のパターンが面白かったし、やっぱりかなりのスペクタクル度だった。少女時代はちょっと生彩を欠いていたと感じたが、もう完全に大物になったということか。ぼくは2PMと4Minutesのステージが気に入った。隣のフランス女子高校生にそのことを告げて「オヴォワール!」と言うと、またね!外に出ると、マイナス7度。

2012年1月21日土曜日

旅の終り、盲目のストリート・シンガー

本当に旅行をしたという感じだ。ヨーロッパやアジアを旅行するのとは違った、違和感といってもいいが、どこかゴツゴツするものを感じる、そんな旅行だった。もちろん、これはアルゼンチン、あるいは南米という風土と関係しているのだろう。その感覚は、リナレスのそれでもあった。そして、トゥックマンを離れる日、リナレスが長く勤めたトゥックマン大学の美術学部(昔は美大)を訪ねてみた。夏休みで入れないとは思っていたが、やっぱり。守衛のような人に「入れて」と言ったがもちろん断られてた。でも、こんな校舎で教えていたんだなということがわかり、またまた想像(幻想?)が刺激された。その一角に、新校舎建設の看板が。昔の記憶がひとつなくなることになる。その前でよかった。
リナレスづくしのマルコの町だったが、最後にもうひとつちょっとした驚きが待っていた。
リナレスの絵を見た興奮を、メンドーサ(有名なワインの産地)のワインで気分をまろやかにし(これは言葉のあやで、ワインもちょっとゴツゴツしている)、小さな繁華街をほろ酔い加減で歩いていた。すると、キレイな歌声が聞こえてきた。普通、ストリート・シンガーに足を止めることはほとんどないが、透き通った高い声(平凡な形容でいやになるが)、メランコリーなメロディーに引き寄せられて、聴いてみようと足を止めた。これが驚いた。盲目の若者が、ギターだけで、アルゼンチン、あるいは南米?わからないが、泣けるようなフォルクローレ(広い意味で)な歌を歌っているのだ。30人あまりの人が聴いていた。1曲終わると心からの拍手とブラボー。ぼくも思わず叫んでしまった。そして、置かれた空き缶に次々とお金を入れていく。歌を聴いていた全員が、空き缶にお金を入れた。こんなことは普通ないように思う。もちろん、ぼくも1曲終わるごとに入れた。隣でビデオカメラを回しながら聴いていたアイスランド人夫婦(不思議なカップルだった)も感動して、フェイスブックの「いいね」というのとは、まったく違う「いい〜」を連発していた。この夜、ここにいて幸せだった。偶然の幸せというのは、ときどきある。そのひとつだった。
付き添いなのか、横に座っていた美男子くんに聞くと、若者は少し知られているミュージシャンで、ブエノス在住とのこと。何でこんな所まで来て路上で歌っているのか不思議だったが、Youtubeでも見てくれという。その夜、もちろんチェックしてみた。彼はNahuel Pennisiという歌手で、コンサートにもテレビにも出演していた。テレビや大きなコンサートの音は、聴いたばかりの路上ライブには及ばなかった(実際はわからないが)。すごく路上が似合う歌手だったとも思う。ブエノスのおしゃれなランブハウスで聴いた、ポップスグループとは雲泥の差。アルゼンチンで、それもリナレスのトゥックマンで新しい音楽経験ができたのも収穫だった(チープなカメラビデオで撮った動画をアップロードしようとしたら、失敗。何とか聴いてもらいたいので、また試みます)。ますます、アルゼンチンが好きになっていく。
音楽のことでいえば、ブエノスでタンゴを聴きに行くつもりでいたのだが、結局やめた。観光地区のストリート・タンゴで何となくいいや、という気持ちになったからだ。これは正解だったのかもしれない。パリに帰ってボルヘスの対談集(80年代前半の対談)を読んでいたら、この奇想の詩人は「タンゴは終わっているよ。今はロックでしょ。」と断言していて、やっぱりね、と独り合点。それより、ペニッジ君だったのだ。
こうして、帰る日が来てしまった。最後にルッキー食堂でピザを食べようと思ったら夏休み。伴内くんと女将さんにアディオスを言えなかった。また、帰る日にブエノスの「ボルヘス文化センター」を訪ね、知り合いから紹介されたカロリーナさんとマリア・デル・カルメン・カルビ(すごい名前)さんと会ってアルゼンチンの現代アートのことなどのことを聞く。すごくダイナッミックなセンターだった。やっぱりボルヘス?
ともかく、すごく気持ちのいい旅だった。暑さで疲れたが、それもあって、最高にサービスの悪いアルゼンチン航空も苦にならなかった。サービスという概念がないのだ。日本はちょっと過剰だが。そして、パリへ。何か懐かしく、それもやけに落ち着いていて、気持ちが悪いくらい。地下鉄に貼られたコンサート、展覧会、映画、芝居、見本市などなどのポスター。ここでも書いた「文化の狂乱」の情報都市が落ち着いて見えるほど、アルゼンチン(二つの都市だけの印象だが)は、今もなおいい加減な人間の熱気が充満していたということなのかもしれない。本屋でいくつかのアルゼンチンとラテンアメリカの本を買って、もう一度、気分を思い出している。もう1月も下旬。滞在も残り少なくなってきた。

2012年1月16日月曜日

トゥックマン/リナレスへの旅2


ブエノスアイレスでリナレスの絵には会えなかったが、美術館巡りをしたおかげで、この国の近・現代美術の歴史が少しわかってきた。前回、ここの美術史は捩じれていると書いたが、その捻れがどのようなものかが。スペイン語を勉強して知識をつけないといけないが、基本的には、ヨーロッパ近代との関係が軸だ。日本と同じだが、しかし、アルゼンチンはヨーロッパ移民の国である。その文化への愛憎は、日本とはまったく別物だろう。この話は、勉強してからのことにして、リナレスを追いかけてトゥックマン(普通はトゥクマンと書くようだが、ぼくの耳に入った発音からこう表記しているのだが)、正確にはサン・ミゲル・トゥックマンという北部の町に出かけた。ブエノスから1200キロ以上。さすが、ここは飛行機。
フランスの有名なガイドブックには(「地球の歩き方」には紹介されていない)、外国からの旅行者には見る所のない町で、よくて中継地とある。ただ、アルゼンチン独立の記念の地だそうで国内の訪問者はけっこういるとのことだが、ともかく、観光には適していない町と書かれてある。実際、町を歩いている観光客らしき人はほとんどいなかった。
しかし、しかし、ある世代の日本人にはすごく有名な町なのだ。うっかりしていたが、トゥックマンは、あの「母を訪ねて三千里」のマルコ少年が母アンナと感動の再会を果たし町なのだ。滞在の最後に思い出したのがくやしい。早くから準備しておけばストーリーを現場で追うことができたのに!知っている人は言わずもがなだが、多くのイタリア人が出稼ぎに来たアルゼンチン。マルコの母アンナはその典型だったのである。かっては、豊かな町だったらしい。しかし、主産業の砂糖精製が下火になってから、町は活力を失ったということだ。実際に行ってみるとそんなことはないのだが。マルコを思い出してから、ちょっとだけ、リナレスへの旅がマルコと重なった。となると、リナレスはぼくの母親?精神分析学的にはありえるかもしれない。
さて、朝早くブエノスを発って、着いたのが雨のトゥックマン。ホテルに着いてすぐに、作品があると聞いていたナヴァッロ美術館に行く。2010年のブエノスでのリナレス回顧展に所蔵品を出品していたので、何かあるだろうと思ったのだが、この美術館はどうやら常設するところというより、展覧会場に近い。その会場ではトゥックマンのサロン、京都の京展のようなものが行われていた。昔、リナレスは出品したのだろうか。そんなことも含めて、誰かに聞きたいと思ったが、スペイン語しか通じない。受付の人に英語のできる人がいないかと受付に聞くと、ひとりの女性を連れてきてくれた。ただし、英語はできないがフランス語は少しできるというので、やっと会話成立。これが幸運だった。親切な人で、現在ここでは見れないので、リナレスの奥さんに連絡して、そこで見せてもらったらと言って(自宅に作品が保管されているらしい)電話をしてくれたのだ。そうしたら、奥さんは現在は会わないと言っている、そのかわり作品を預けている画廊に行ってほしいとのこと。奥さんに会いたかったけど仕方がない。でも、やっとリナレスに接続。
ともかく、夏休みにきてしまったので学芸員がヴァカンスでまったくつかまらない。彼(彼女)らと話ができれば、多くのことを知ることができたのにと後悔したが、パリの研究所の冬休みがこの期間なので仕方がない。ともかく、お礼を言って市中にある、その画廊、El Taller(エル・タジェールと言うのか)へ行くことにした。そして、美術館を出ようとして入り口を振り返ったら、リナレスの作風に似ている肖像画が架かっているではないか。近付いてみるとやっぱりリナレス。実際の絵との最初の出会いである。やっぱり感激した。美術館の名前にもなっているナヴァッロという画家の肖像だった。向かい合わせにこの画家の絵も架かっていたが次元が違う。ナヴァッロはトゥックマンで歴代もっとも有名な画家のひとりらしいが、やっぱり地方の画家を出ない。リナレスが「地方の一画家」でないことがわかる。
ますます、期待が高まり、早足で雨の中、画廊へ。あ〜った!入り口の壁に、代表的なモティーフのデッサン。その横には抽象時代のタブロー、そして、事務机の後ろの壁には大きな静物画。初めて静物画を見たが、すごくいい。そして、マリアンナさんという画廊のオーナーにいろんなことを話す。どうして来たのか、リナレスとの出会い等々。彼女の英語能力は片言なので、コミュニケーションはそんなに楽ではない。でも、快く画廊で預かっている作品を見せてくれる。すごく無造作に。感激したとき気持ちを言葉にするのは難しいが、「間違ってなかった!」という気持ちが強かった。油彩のタブローは7点くらいだったが、デッサンがかなりあって、1点1点じっくり見た。
こんなにしっかり絵を見るのは久しぶりだ。こういう言い方をすると誤解を受けるかもしれないが、絵を見る人は少ない。構図や色使いといった造形面を見るということではなく、絵が訴えてくる世界を受け止めるという意味だが、普通そうしたことはしない。専門家でも同じだ。造形を見るか、主題を見るか、あるいは歴史的なことを考えるかである。いわば、技術的か、あるいは情報として絵を見るのだ。ぼくたち美術史をやっている者は、普通、歴史情報である。絵心がある人は造形を、観光客は名所として見る(印象派を見るのはその典型)。ぼくも、同じようなことをすることも多いので、そうした見方がいけないとはまったく思わない。でも、普通の見方を超えさせられることが絵画にはあるのだ。ただし、その機会に出会えるのは、そんなに多くはない。ほんと幸運である。
ここでリナレスの絵画について、形容詞とともに語るのは止めておこう。ひとつだけ言うとしたら、絵画は力があるということである。力というのは、世界の構造を見せる力だ。そうした力は南米に強いようにも感じる(これまでの小さな経験では)。小説家マルケスの世界が現実を描きながら、リアリズムとは違う、世界を成り立たせている構造を、それも南米という世界の構造を通して普遍の物語を描き出したように。話がちょっとややこしくなってきた。
前回も書いたように、リナレスのモティーフは5つほどある。権力者を換喩的に扱うもの、サーカスのアクロバティックな芸人、タンゴ、静物、そしてフィクションとしての肖像と実際の肖像である。とくに、権力者のモティーフが重要ではなかったのかとも思う。アルゼンチンは複雑な権力闘争を経てきた国だからだ。権力と美術が結びつくということに違和感をもつ人は、ほとんど美術というものをわかっていないと思っている。美術は美しいだけでなく、現実に深く関わっているからだ。
こうしたことはあとで考えたことで、その画廊では、ただ見ていた。そのあと、マリアンナさんがリナレスの生徒だったということも知った。これも幸運。そして、彼女にどんな人だったか話してもらった。印象的だったのは、リナレスが哲学的な人間で、素晴らしい先生でもあったということだ。細かなことはスペイン語で話してもらい録音した。だんだんと、リナレスのイメージが出来上がってくる。カタログに残された生前のリナレスの風貌は、なかなかイカシテいる。美術史をやっていてよかったという不思議な気持ちも湧いてきた。ヨーロッパや日本で、そんな気持ちをあまり持たないのに。こうしてリナレスの旅はトゥックマンで旅になったのだった。

2012年1月13日金曜日

アルゼンチン/リナレスへの旅1


アルゼンチンにやって来たのは、エゼキエル・リナレス(Ezequiel Linares1927-2001)という画家の足跡を追い、その作品を見るためである。ここでも何度か触れてきた。そのリナレスの作品にやっと会えた。アルゼンチンの北部のトゥックマン(Tucman)という町で、である。ともかく、ここまで来てしまったのだ。
どうして、こんなにも惹かれるのかは簡単には説明できない。美的経験を説明しがたいというのではない。リナレスの絵画の持つ力が感覚を動かしている。その感覚は、ある意味で、経験の総体とも言えるものなので、その魅力を語ることは自分を語ってしまうことになる。長い時間がかかるだろう。ここに書くのは、そのほんの一部。
リナレスの作品に初めて会ったのは、10年以上前に幕張で行われた国際美学会議でのことである。そこでトゥックマン大学美術学部の女性教授が「現代アルゼンチン絵画におけるバロック性」、確かそんなタイトルで何人かの画家をスライドを交え紹介したのである。その一人にリナレスがいたのだ。スライドを通しての絵に、ただただ驚いた。いままでに見たことのない絵画だった。そして、発表終了後に、その教授に話を聞きに行った。「誰なのか」と。そうしたら彼女がリナレスの小さな個展のカタログをくれた。
そのとき、リナレスの旅をしようと思ったのだった。
昔からアルゼンチンという国も気になっていたことも重なる。大昔、初めて仲良くなった外国人がアルゼンチン人の男二人連れ。そのフォルクスワーゲンで数日スイスを旅行をした。タンゴも昔から好きだった。でも、それはパリ経由のコンチネンタル・タンゴ。そして、もちろんゲバラ。それから70年代から80年代は南米文学とマラドーナ。文学についてはえらそうなことは言えないが、サッカー選手を通してアルゼンチンを感じてきた。
リナレスの絵にはガルシア・マルケスの「百年の孤独」と似たような感覚があると感じる。マルケスはコロンビアの文学者だが、生まれは1928年。そして、リナレスは1927年。そして、ゲバラも1928年。ある時代の南米の世代的共通性というのがあるのかもしれない。ただし、それまでアルゼンチンの美術についてはほとんど知らなかった。情報もないし、スペイン語もほとんどできない。何よりも、日本でアルゼンチンの美術について書かれた本を見たことがない(あるのかもしれないが)。フランスには少し紹介されていたが、リナレスについての情報はない。現在では少しずつアルゼンチンの現代作家が世界に登場するようになっている(感じがする)が、長い間、何人かの作家を除いて、その美術は知られていなかったのは間違いない。
そんな国に、リナレスのような画家がいたことも驚きだった。長い間、美術史という領域で仕事をしてきたが、これはかなりショックだった。そして、少しずつわかってきたのだが、アルゼンチンの近代美術史は、日本と同じようにかなり捩じれていた。意味合いはかなり違うが。ただし、リナレスはそうした捻れの中で語ることのできない画家だとも思った。彼の絵画的想像力を刺激しているのは、アルゼンチンの美術界ではない、あるいは美術という領域でもない、それよりずっと大きなもの、そんな感じを強く持つ。そして、絵画にそのような力があることも。
エゼキレル・リナレスはブエノス・アイレスに生まれている。そして、そこの国立の美大(Escuela Superior de Bellas Artes)で学んだあと、アルゼンチンの新しい美術運動「スール」(Sur)というグループの結成(57年)に参加する。ヨーロッパの動向に追随しがちなアルゼンチンの美術が自意識に目覚めた運動のひとつだったという。今から見ると、といっても最近わかったのだが、その傾向はフランスのアンフォルメル、アメリカの抽象表現主義、そのあたりと共通する抽象だ。その時代の作品も今回見ることができた。その後のリナレスとはまったく違う、近代絵画そのもの、つまり色と塗りによる、絵画性を求める表現。
このアルゼンチンでの抽象の流れは、実は、日本人も関係していた。酒井和也という日系画家だ。日本でどのくらい知られているかわからないが、ブエノスの国立美術館にも作品があるくらいだ。この画家のことについても調べたいが、それはリナレスを追いかけることとは別の意味合いになるだろう。ともかく、リナレスは注目されたのだ。そして、国の外でも活躍する(ラテンアメリカとスペイン語圏だが)。そのリナレスが1960年代の前半から突然変わる。ブエノスを去り、北部のトゥックマンという町に移ってからである。そこで美大の絵画教師になり、その地で一生をまっとうする。
あんなすごい絵を描くのだから、国内ではかなり知られた画家だろうと思い、最初にブエノスの美術館でリナレス巡りをしようとしたのだが、これがまったく見つけられない。2010年にシヴォリという小さな美術館で回顧展があったが、大きな注目を集めたとまではいかなかったそうだ。ラウラさんという美術批評家に聞くと、ブエノスで常時展示している美術館はないし、所蔵している場所も彼女は知らないという。つまり、首都では知られていないのだ。いわゆる地方の画家ということなのだろう。典型的な芸術家のパターン。若い時期、中央で名を知られたが、その後田舎に引っ込み次第に中央から忘れられていく。なじみの近代画家物語のひとつである。しかし、この物語で決定的に忘れられているのは、そのことが創造と関わることが稀にあるということだ。再発見の物語のことを言っているわけではない。再発見とは、時代の趣味やマーケットの問題である。リナレスは、そうした物語とも違っている。作品を前にしてそう感じる。
リナレスは、トゥックマンで変わる。それもドラスティックに。それまでの抽象を止め、アルゼンチンの現実を描き始める。ほぼ2年間で完全に作風が変わったという。そして、独裁者、サーカス、タンゴといったモティーフが、濃厚なエロティシズムを伴い絵画という表面に定着するようになる。知り合いに絵を見せると、フランシス・ベーコンに似ているという。実際、こちらで知り合ったリナレスの学生だったギャラリストは、リナレスはよくベーコンのことを話していたという。もちろん、影響ということはあるだろう。80年代にマドリッドとパリに滞在してもいる。しかし、その絵はベーコンとは別だ。見ているところが違うと言ったらいいか。南米という土地固有の現実。エロティシズムは、そこでの「生」の象徴なのだと、絵を見ていると感じる。アルゼンチンに来て、その現実を少しだけ感じることができた。そして、ブエノスを離れトゥックマンに行くことになったのである。リナレスへの旅の最終目的地。

2012年1月10日火曜日

ブエノスアイレス2、ルッキー食堂の松尾伴内


ますます暑くなってきた。昨日と今日は37度。来た当初は、木陰が涼しいという感じだったが、この両日はそれどころではない。日本の夏と同じ。でも、濃厚さは、圧倒的にブエノスアイレスに軍配があがるので、暑さは倍増。くらくらしながら、町を歩く。ホステルの部屋にはクーラーはなく、通りに面しているので夜の騒音もはなはだしい。でも、不思議といらいらしないし、寝れてしまうのだ。このホステルの雰囲気と近くにあるlucky食堂のおかげかもしれない。Luckyと書いて正確に何と発音するのか知らないが、たぶん「ルッキー」。そう言うと答えてくれるので、そんなに違わないとは思う。
前回、カフェのことを書いたが、この食堂は、まさしくブエノスアイレスの質のいい大衆食堂。安くて美味しく、給仕が素晴らしい。常連が多く、彼らが食べる物を見ながら注文もできる。こうした場所が見つかると、その土地がいっそう楽しくなる。そこで給仕をするのはアルゼンチンの松尾伴内くん。インディオ系なのだろうか、あのチープな味が秀逸なタレントに似ている。でも、その給仕の仕方は本格的だ。この町のカフェのウエイターたちがしっかりしていることは前回書いたが、松尾伴内くんは、そのなかでもトップクラス。そのフォーマルな給仕の仕方が、食べ物を美味しくする。豪華風にするのではない。食べ物はきちっと食べよう、と言っているのだ。こうした風習はしだいに日本でもなくなってきた。
一度、インターナショナルな豪華ホテルのカフェでランチを食べたが、そのウエイターはカジュアルで今風。そんなの、もうおしゃれじゃないよ、という感じがするのに、世界中でこうしたカジュアル化が進行中である。ぼくもそうなので何とも言えないが、パリでも、昔風のギャルソンは減った。もちろん高級店はそうなのだが、どこかマニュアル化している。給仕はスタイルの問題ではなく、食べ物飲み物を客に楽しんでもらう気持ちの作法である。高級店はそのことを忘れている。
グローバリゼイションは作法のカジュアル化をもたらしている。ぼくも基本的にはカジュアル的なので、あんまり言えないが、カジュアルという概念はフォーマルに対応してのことである。一方がなくなり、カジュアルだけになってくると、バランスが悪い。こうなってきたのは、何が原因なのだろうか。60年後半を経験した世代のスタイルの問題だとも思う。イギリスのケンブリッジのインテリ団塊世代は、わざとネクタイなんか締めないラフな服装をしたらしいが(ケンブリッジ風と言うらしい)、日本でも同じことか。いまさらながら、ぼくの世代の無思想性を感じる。そうした意味では、ブエノスアイレスの松尾くんは思想がある。乱雑な大都市、ブエノスアイレスなのに、しっかりしたことはしっかりしているのだ。ここが魅力でもある。
そのルッキー食堂で、ぼくにとって一番なのは、アルゼンチン風(?)タルエニーリ。イタリア移民の多い、この国にはそのレストランとカフェが多い。しかし、移民によって文化は変容する。ガイドブックでは、ここのパスタは評判がよくない。でも、でも、トマトソースに
骨付き肉を絡めたソーズを、名古屋のきしめんっぽいタルエリーニにかけたパスタは、かなりのものだった。いろんな文化に味付けされて変容する食べ物。パリのラーメンのように、ルッキー食堂のタルエニーリは、ブエノスアイレスの、おそらく歴史も凝縮されているはずだ。もう1品。トルティージャ(オムレツ)。これもスペインのものとは酸くし違う。
ともかく、ルッキー食堂を発見してから大カロリーオバーである。長く食生活のベースにしてきた新縄文食を守ることはできない。郷に入れば・・・。おそらく、パリに帰るころには腹がブヨブヨになるだろう。ブエノスアイレスは、おしゃれ地区を除いて、肉付きのよい(よすぎる)男女がすごく多いので驚くが、それを気にしている風もない。ダイエットは中流あたりまでの人には無縁のようにみえる。ただし、おしゃれ地区は違う。スリムな人も多い。この対比は、健康志向そのものがグローバリズムのイデオロギーであることを語っている。どっちがいいのか。健康志向に取り憑かれること。食べる欲望に身を任せること。考えてしまう。アルゼンチンは考えることは多い。

2012年1月8日日曜日

ブエノスアイレス1、モザイク都市



正月休み(クリスマス休み)を機会に、アルゼンチンに来ている。昔から一番来たかった国のひとつだ。そのことに加えて、10年前に、エゼキエル・リナレスという画家を知ってからは、ともかく、その作品を見ることも大きな動機になった。サッカーのためでしょう、と言われるがそうではない。アルゼンチンの選手は好きだが、この国のサッカーリーグにはそれほど興味はない。でも、大観光地ボカ地区でマラドーラ人形と写真はとってしまったが。
ともかく、ブエノスアイレスは、ほんと気に入った。まず、カフェの町だった。通りが交差するほとんどの角に、昔からと思えるカフェ(バールでもある)があり、広くてくつろげる。もちろん、おしゃれ地区には、世界の大都市のどこにでもあるしゃれたデザイン・カフェがあるのだが、それよりブエノス市中のカフェだ。コンクリートやタイルの三和土に木製テーブル・椅子、そしてきちっとしたギャルソンのいる、一見変哲もないカフェである。スペインやポルトガルにもあったが、ここのカフェの方が昔風だ。そこで、たいていはキルメスというビールを飲み、ギャルソンと一言二言。お腹がすいたら、ピザかなんかを頼む。イタリア移民が多いとかで、ピザはこの国の常食のようだ。でも、とりたてて美味しくはない(3件くらいの印象)。でも、ギャルソンがピザの1ポーションを、大きな鉄製のコテのようなものでとりわけて皿によそってくれる、その感じがいい。昔のイタリアの伝統なのか?わからないが、そんな長く続いている習慣が残っている。
そんなカフェの中で、宿Chillhouse(バックパッカー御用達の評判のホステルで、その高級部屋を予約したのだ)近くに、最高のカフェを見つけた。Cafe Bar ROMA。ローマ・カフェ。19世紀か20世紀初頭の雰囲気である。80歳近くの夫婦がやっている、すごくさびれたカフェ。昔は、立派なカフェだったんだろうという気分は、壁の上部を埋め尽くす古い酒瓶や看板からも想像できる。客は老人だけ。ぼくもそうだから気にならない。そうした老人たちが、コーラやスプライトをテーブルに置き、何をするともなく座っている。近代アルゼンチンが固定している感覚がある。
ブエノスアイレスは近代が色濃く漂う町である。カフェの雰囲気以上に、カフェの入る建物が魅力的だ。近代コロニアル(植民地)スタイルの建物がすごく多い。ちゃんと勉強していたらと残念でしょうがないが、そうした建物は、ヨーロッパ各国、そして時代を反映しているのだろう。スペイン風、イタリア風、フランス風といった「風な」建物はアルゼンチンの歴史を語っているに違いない。植民がもたらしたモザイク性。それに加えて、いわゆるモダンな近代建築、そして、ここ数十年のポストモダン建築。この3つからなるモザイク。これが現在のブエノスアイレスという都市を建築的につくっているとみえる。近代建築史が重層的に顕在化しているとみえる。
その都市を無数のバスがやたらとスピードをあげて走りまくっている。ロンドンのように節度はなく、運転は荒く(だからよく転けそうになる)、そのうえ、旅行者に便利なカードなどはないので、毎回、小銭を料金箱に入れなくてはならない。ポケットがいつも小銭でガチャガチャすることになるのだ。市内は1回24円と驚くほど安い。地下鉄も同じ。大都市の割には路線が少なく、いつも満員。クーラーはなし。いまは真夏で、1回乗ると汗がドドーと出るので、バス利用に切り替えた。車両も改札システムもまだ近代のまま。写真や映画で見た1930年代あたりの地下鉄の感じ。こうした公共輸送の安さが食べ物とかに反映しているわけではない。物価はけっこう高い(タバコは安い)。ピザもほぼ日本と同じ値段。
いろんな物や事が、ある一定の基準であるというのではないような。こちらの人はそうなんだろうけど、旅行者からすれば、なんかチグハグな感じを受ける。ほんとモザイクの魅力。こんな印象をもちながら、バスに乗りカフェでキルメスを飲んでいるのだ。天気は素晴らしくいい。真夏の空の下にクリスマスツリーやサンタ人形が飾ってあるというのも初めての経験。そう、南半球なのだ。

2012年1月2日月曜日

謹賀新年


明けましておめでとうございます。
キリスト教国はクリスマスがメインなので、正月はほとんどなし。前日大晦日は朝までパーティー(若い人は)。それで新年は終り。拍子抜けするけど、こちらはこちら。ぼくもロンドン弾丸旅行で少々疲れ、31日の夜、友人宅でシャンパンを飲む頃には眠たい!となってしまった。パリに戻ったのが2時間前だったので仕方がない。とにかく、3日の20時間あまりの(乗り換えも含めてだけど)長旅のために体力を回復しておかないとと、正月は残り物を食べながら体力温存。ほんとの寝正月。
さて、前回書いたロンドンのナショナル・ギャラリーの「レオナルド展」(副題がミラノ宮廷の画家)。2つの「岩窟の聖母」を、それぞれどのように位置づけるかということの手法が、けっこう昔からの手口で、そのことが興味深かった。やっぱり、ルーヴルの「岩窟の聖母」だ。でも、この美意識は歴史的なものなのか?少し調べたい気もするが、今の所無理。それとは別に数時間散歩したロンドンの街がよかった。パリとまったく違って、何か、「これがブリティッシュか!」と初めて感じたのだった。もっともサウス・ケンジントンでの散歩のせいかもしれない。あるいは、ドーバー海峡を自動車を載せる収容所行き列車のような電車で通ってきたためか?バス、列車、トンネルと3重に密閉され、加えて、おそらく水圧もかかるドーバーの通り方は、ちょっと尋常ではない。35分と短いが、その嫌な感じをロンドンの朝は吹き飛ばしてくれたのだ。
ともかく、皆さんにとって幸せな年でありますように。