2012年5月21日月曜日

祖母と小倉遊亀さんのこと

1ヶ月に2回更新と決めたのに、この4月から、文章を書く気力が薄く、何度も書いてみたが、面白くなく削除ばかりした。そんな折り、ふと亡くなった祖母のことを思い出した。10年ぶりの中学のクラス会があり、昔を思い出す想像力に火がついたためか、それとも、これも1年ぶりに弟夫妻と父と母の墓参りにいったためか。はっきりしないが、祖母のことを強く思い出したのだ。それでブログに書いておこうと思ったが、そういえば、ずいぶん昔、小さな冊子に書いた祖母についての文章があることを思い出して、ちょっとだけ手直しをして、再録風にペーストすることにした。


これもずいぶん昔のことになるが、同僚だった山田俊幸さんが関西のサンケイ新聞夕刊に画家・版画家の装丁本についての連載をしていたことがある。そのとき祖母の歌集の装丁を日本画家の小倉遊亀さんが行った話をした。そうしたら、山田さんが、その歌集を連載で取り上げてくれた。すごく嬉しかったことを思い出す。その記事を見たとき亡くなった祖母がまだ生きているような気持ちになり、また、昔のお弟子さんに話すとずいぶん喜んでもくれたこともあった。個人的なことで恐縮だが、ぼくは祖母にずいぶん影響を受けて育ったのだ。
 祖母は清水千代といい、明治二十六年に四国の丸亀に生まれ昭和六十一年に大阪で亡くなった、関西では少しは知られた女流歌人だった。歌をこころざしたのは奈良女高師(奈良女子大の前身)のころだそうだが、アララギの古泉千樫や島木赤彦に傾倒したものの特別な先生にはつかず、独学で自分の道を開いていった人だった。昭和十一年に結社「どうだん」を起こし、同名の同人誌に亡くなるまで情熱を傾けていた。歌づくりの姿勢は、見えたこと、あるいは見えることに忠実な、いい意味でも悪い意味でも日本近代の「写実」で、それを律儀に実践した人だった。
 その祖母の女高師時代の二年下に小倉遊亀(当時は溝上)がいて、祖母をずいぶん慕っていたと伝え聞いている。小倉が祖母と一緒に歌を詠んでいたことは歌集『白木蓮』のあとがきに書かれているが、歌に熱を入れることになったのはおそらく女高師での祖母との出会いによってではなかったかと想像したりする。こんな文章を書くことになるのだったら、いろんなことを聞いておけばよかったと後悔するが、ともかく、小倉の手になる祖母の歌集の装丁からも小倉遊亀と祖母清水千代の友情のかたちが伝わってくる感じがする。祖母は小倉のことを「ゆきさん」と言っていたが、名前を口にするときのやさしい物言いからも二人の関係が想像できるのだった。
 その「ゆきさん」は押しも押されぬ日本画の大家となり、祖母より15年以上長く生きて人生をまっとうした。ぼくは画家小倉遊亀の熱心なファンというのではないが、その絵を見るといつもそこにいくばくかの祖母を見てしまう。小倉の絵のもつハイカラさに祖母の生活スタイルや短歌のモティーフを重ねてしまうのだ。
 たとえば、入浴後の三人の女性の様態を描いた「浴女」(昭和十四年作、東京国立近代美術館)のもつ日本的なモダン感覚。それは洋画からの影響といったレベルのことだけでなく、明治から大正時代に高等教育を受けた女性たちのライフスタイルにも関係することだと思う。彼女たちは西洋をひとつの触媒として伝統と現実を新しく解釈しようとしていたはずで、その意志は生のさまざまな局面に乱反射しているだろう。ぼくたちの二つ上の世代の女性たちの創造の新鮮さは、そんなところからきているのではないか。
 そういえば祖母はいつも同じメニューの朝食を自分でつくり、それをかたくなに守っていた。雪印のバターを薄くぬったトースト、乱切りにした茹でじゃがいもをあっさりとマヨネーズであえたポテトサラダ、そしてリプトンの青缶の紅茶。こんな生活の小断片にも、祖母の世代の女性たちの新しい生のかたちへの希求を感じることができるのだ。小倉遊亀の朝食はしらないが、少なくとも画中の女性たちは誰もがリプトンの青缶が似合うそんな感じがするのだ。