2011年6月20日月曜日

ダラダラと6月、アルゼンチン、同窓会も


近所の哲学の道に蛍が舞い出した、紫陽花はもう後半。夏野菜も美味しくなってきた。ムサカ(ナス、トマト、ひき肉、チーズを使ったギリシャ起源?の料理)の季節である。こう文章に書くと夏前のこの季節は風情があるのだが、やっぱり、雨の匂いばかりだと気は重たくなる。6月に入って、何かダラダラ過ごしている。8月からのパリでの在外研究の準備もしているが、8ヶ月間とはいえ、することが意外とある。やはり健康のこともきちっとしていかなくてはと思って病院に行ったり、そうそう歯も検査しておかなくては。保険がきかない!受入れ先の機関からの「受入れ協定書」もなかなか来ないのでビザを取りに行けない。フランスのお役所仕事は時間がかかるのだ。準備をしていると、どうも気持ちが落ち着かなくて、本を読んだり考えることが続かない(これはいつものことか)。
はまっていたいくつかの韓国ドラマが終了して、次の番組を待っているのだが、そんなおり、ハン・ヒョジュの百想芸術大賞女優演技賞受賞のニュース。「トンイ」の演技なのだろう、授賞式をテレビで見たが、ちょっとふっくらして、雰囲気が変わっていた。のんびりして太ったのか?服装のせいか?ともかく、大スターの道を歩いているみたいだ。まだ24歳なのに。よくある韓国の大スターと違っていたので、どうなるのだろうと思っていたが、こんなに早くトップに近い所まで来てしまうとは。新しいタイプということなのか?最初からのファンとしては少し寂しいような。
ダラダラしながらも、ネットでさまざまな情報検索を、やっと人並みに、することが日常化してきた。ダラダラするのも悪くない。それで長く気になっていた、アルゼンチンの画家エゼキエル・リナレス(Ezequiel Linares)もきちっと押さえた。これまで、ちょっとしか情報がないと思っていたら、ネット検索を理解してくると、けっこうある。1924年に生まれて2001年に亡くなっている。画像も多くあった。美術史的にいうと表現主義的なのだが、ヨーロッパのそれとは違って、抑圧的あるいは精神の奥といったうつうつしたものはなく、都市的な「生の力」が爆発している。現代文明がつくりあげた文化のシステムのなかの人間のシステムの空しいが、しかし力強いエネルギー。そんな感じだ。やはり、これはリナレルを追う旅をしなくてはと、再確認。少し前に、ブエノスアイレスで回顧展が開かれたようで、その様子がyoutubeに上がっていた。さすが。
こうなるとアルゼンチンが気になって、キーボードをたたく。数年前に観たアルゼンチン映画「カメラ・オブスクーラ」の監督ヴィクトリア・メニス・マリアのことも細かく知ることができた。その映画については、学長をやっていたときのブログに、他の映画の印象とともに触れたのだが、そのブログは消してもらったので、今はまぼろし。少し、その文章を再録してしまおう。この映画のことを日本のヤフーで検索したら、ぼくの文章しかヒットしてこなかった、そんな貴重な日本への紹介だったのだ。
「10数本見たなかで、女性監督マリア・ヴィクトリア・メネスの「カメラ・オブスクーラ」とリサンドロ・アロンソという監督の「リヴァプール」などアルゼンチン映画が印象に残った。20世紀初頭のアルゼンチンのユダヤ人移民家族を舞台として、カメラの視線によって解放されていく女性をテーマとしたのが前者だが、暗室として使われた小屋の小さな板隙間を通して映し出される主人公の映像がなんとも奇麗で、カメラという第二の眼が光とともにあることを改めて実感した。もうひとつの方は、ひとりの船乗りの帰郷を、センタメンタルな要素をすべて削って撮った一種のロードムービーで、DVDだったら絶対最後までは見ないようなタイプの退屈といえば退屈な映画なのに、ラストシーンが素晴らしく(そこではじめてタイトルの意味がわかる)、それですべてがひっくり返って感動してしまう映画だった。こんな映画に感動するのも映画都市のなせるわざか。」と夏の短いパリ滞在の報告としてだった。今年はアルゼンチン映画も多く観れそうだ。
こんな6月、前に勤めていた帝塚山学院大学の同窓会があった。93年あたりに入学した学生のゼミを中心としたの集まりである。結婚して 子供を連れてきた元学生も独身貴族(?)も元気だった。鹿児島からやってきた人もいて感激!同窓会はいろいろなものがあるが、ぼくは教えた学生たちとのそ れが一番楽しい。懐かしいという感情より、彼女たちがどのようになっていっているのか、アラサー前となったかっての女子学生の現在が面白いのだ。もちろん、にぎやかさも笑い声も 変わらない。

2011年6月2日木曜日

Facebook、ネット情報、回転寿司


Facebookに加入してしまった。知っている若い人たち6人からメールでの誘いがあって、「友達になる」をクリックしたのだ。「トモダチ」という言葉に妙なアレルギーがあるのに(子供のときの体験)入ってしまった。実際には、このブックが何をするところかわかってないのだが、去年から目覚めたネットという世界で、とりあえずいろんなことをやってみようと思ってのことだった、ような。それともクリックというボタンシステムのオートマチズムのせいか。使い方を大学院生に聞いて「明日はピザを食べる」と送ってみた。ほんとは明後日なのだが。2週間前に例の(このブログで書いたことがあるという意味で)シェーキーズでたらふく食べたのだが、とにかくピザを食べたい気持ちが、ここ数日続いている(何を書いているんだか)。
ネットに目覚めたというのは、この不可視の網目の爆発的情報量に気づいたからかもしれない。専門の領域でも、情報の充実ぶりはすごい。昔、苦労して注文した資料なども指先ひとつで入ってくる。無料のものも多い。やっと手に入れた、ぼくの専門領域の本が、中指のクリックで手に入ってしまうとは!これは研究そのもののやり方を変えていくかもしれないとも思う。コピーの時代に入った頃を思い出す。
必要な、でも手に入らない本や雑誌を手写していた時代がコピーになって、研究のための情報量は爆発的に増えた。ただし、貴重な資料をコピーしてしまうと、コピーした満足感だけに浸る場合も多く、反省したこともある。それから、コピーは本と雑誌そのものを切り取ったものなので、書かれた内容はわかるが、書かれたこと(écriture/エクリチュール)の手触りの感覚がない。雑誌の場合なら、雑誌全体が見えないので、コピーした論文が、どういった文脈に置かれていたのかがわからないのだ。だから必然的に、内容(意味)だけを読み取るだけになってしまう。本の場合だって似たようなことだ。書かれたことの内容だけを読み取る意味論的な、あるいは解釈的な読み。ぼくはこうした読みに違和感がある。過剰な意味や解釈への違和感かもしれない。そういった意味では、手写しは違っていたように思う。その「手触り」というのは、「もの的」な手触りではなく、書かれたことがどのように派生してきているのかのシステムを見ることといってもいよいか。このことを説明するためには、まだまだ考えないといけないが、少しずつヒントになるような本も見つけた。それは、ネットのエクリチュールとも関係するだろう。ややこしいことを書いたのは梅雨のせい、としておこう。
ネットのことを考えたら、話がなかなか前に進まず、5月後半にはアップしようと思ったブログが、6月になってしまった。あるものごとに出会って考えることがあると、これを書こうと思うのに、数日たつと「まあいいか」ということになる。小さな感激はなかなか持続しない。ただ、習慣化すると「感激」というフィクションができるのだが。回転寿司のこともそうだ。数日前に、久しぶりに全皿100円の「くら寿司」に行った。この回転寿司大手には思い出もある。最初に行ったところだからだ。前の大学に勤めていたときだから、ずいぶん前のことになる。学校帰り、小腹を満たすためにゼミの子たちとよくいった。「すごいね」と学生たちと感激したことを思い出す。寿司の概念を変えたというか、寿司であって寿司にあらず、「回転寿司」という独自の食べ物が生まれてきたことにである。そのときから比べれば、大幅に進化した。初期の回転寿司は、ネタが干涸びるくらいベルトコンベアーの上に乗っていた寿しもあったふが、そのせいで常連たちは、素早く確実に新しく握られた寿しをゲットし、なれない客は時間のたったものを口にするという、小さなプロフェッショナリズムがあった。それが一定の時間で破棄されるという、後期資本主義的民主主義のシステムになり、現在の回転寿司は、味はよくなったが平板なものにもなった。
ともかく、久しぶりのくら寿司でけっこう食べてしまった。久しぶりなのは、家の近くにないからだ。新聞の折り込みの宣伝を見て行きたいと思うが、ぼくの家からは車でしか行けないようなところにしかないのだ。ぼくは免許証がない。回転寿司は、概してそうしたロケーションにある。ファミレス・コンセプト。それが家族の同意を得て行くことができたのだ。味?悪くはない。美味しい?100円なら。ともかく、回転寿司は寿司ではない。「回転寿司」という寿司の進化した新しい食べ物、日本人の加工、あるいは創意能力を最大限生かした食べ物である。ちょうど、インスタントラーメンがある時期から、ほんもののラーメンを追求するのではなく、インスタントラーメン自体の論理を見いだしたように、回転寿司も独自の論理をめざしまだまだ進化するだろう。欲をいえば、エンターテイメント性を加えてほしいと思う。ぼくの理想は、回転のスピードを、時間帯によって変え、現在の3倍くらにする時間帯をつくってほしいということだ。となれば、食べたい皿をうまくとるための技術、スポーツ的技術必要となるだろう。こんな楽しい回転寿司を想像しながら、お腹かヘビーになったのだった。