2011年6月2日木曜日

Facebook、ネット情報、回転寿司


Facebookに加入してしまった。知っている若い人たち6人からメールでの誘いがあって、「友達になる」をクリックしたのだ。「トモダチ」という言葉に妙なアレルギーがあるのに(子供のときの体験)入ってしまった。実際には、このブックが何をするところかわかってないのだが、去年から目覚めたネットという世界で、とりあえずいろんなことをやってみようと思ってのことだった、ような。それともクリックというボタンシステムのオートマチズムのせいか。使い方を大学院生に聞いて「明日はピザを食べる」と送ってみた。ほんとは明後日なのだが。2週間前に例の(このブログで書いたことがあるという意味で)シェーキーズでたらふく食べたのだが、とにかくピザを食べたい気持ちが、ここ数日続いている(何を書いているんだか)。
ネットに目覚めたというのは、この不可視の網目の爆発的情報量に気づいたからかもしれない。専門の領域でも、情報の充実ぶりはすごい。昔、苦労して注文した資料なども指先ひとつで入ってくる。無料のものも多い。やっと手に入れた、ぼくの専門領域の本が、中指のクリックで手に入ってしまうとは!これは研究そのもののやり方を変えていくかもしれないとも思う。コピーの時代に入った頃を思い出す。
必要な、でも手に入らない本や雑誌を手写していた時代がコピーになって、研究のための情報量は爆発的に増えた。ただし、貴重な資料をコピーしてしまうと、コピーした満足感だけに浸る場合も多く、反省したこともある。それから、コピーは本と雑誌そのものを切り取ったものなので、書かれた内容はわかるが、書かれたこと(écriture/エクリチュール)の手触りの感覚がない。雑誌の場合なら、雑誌全体が見えないので、コピーした論文が、どういった文脈に置かれていたのかがわからないのだ。だから必然的に、内容(意味)だけを読み取るだけになってしまう。本の場合だって似たようなことだ。書かれたことの内容だけを読み取る意味論的な、あるいは解釈的な読み。ぼくはこうした読みに違和感がある。過剰な意味や解釈への違和感かもしれない。そういった意味では、手写しは違っていたように思う。その「手触り」というのは、「もの的」な手触りではなく、書かれたことがどのように派生してきているのかのシステムを見ることといってもいよいか。このことを説明するためには、まだまだ考えないといけないが、少しずつヒントになるような本も見つけた。それは、ネットのエクリチュールとも関係するだろう。ややこしいことを書いたのは梅雨のせい、としておこう。
ネットのことを考えたら、話がなかなか前に進まず、5月後半にはアップしようと思ったブログが、6月になってしまった。あるものごとに出会って考えることがあると、これを書こうと思うのに、数日たつと「まあいいか」ということになる。小さな感激はなかなか持続しない。ただ、習慣化すると「感激」というフィクションができるのだが。回転寿司のこともそうだ。数日前に、久しぶりに全皿100円の「くら寿司」に行った。この回転寿司大手には思い出もある。最初に行ったところだからだ。前の大学に勤めていたときだから、ずいぶん前のことになる。学校帰り、小腹を満たすためにゼミの子たちとよくいった。「すごいね」と学生たちと感激したことを思い出す。寿司の概念を変えたというか、寿司であって寿司にあらず、「回転寿司」という独自の食べ物が生まれてきたことにである。そのときから比べれば、大幅に進化した。初期の回転寿司は、ネタが干涸びるくらいベルトコンベアーの上に乗っていた寿しもあったふが、そのせいで常連たちは、素早く確実に新しく握られた寿しをゲットし、なれない客は時間のたったものを口にするという、小さなプロフェッショナリズムがあった。それが一定の時間で破棄されるという、後期資本主義的民主主義のシステムになり、現在の回転寿司は、味はよくなったが平板なものにもなった。
ともかく、久しぶりのくら寿司でけっこう食べてしまった。久しぶりなのは、家の近くにないからだ。新聞の折り込みの宣伝を見て行きたいと思うが、ぼくの家からは車でしか行けないようなところにしかないのだ。ぼくは免許証がない。回転寿司は、概してそうしたロケーションにある。ファミレス・コンセプト。それが家族の同意を得て行くことができたのだ。味?悪くはない。美味しい?100円なら。ともかく、回転寿司は寿司ではない。「回転寿司」という寿司の進化した新しい食べ物、日本人の加工、あるいは創意能力を最大限生かした食べ物である。ちょうど、インスタントラーメンがある時期から、ほんもののラーメンを追求するのではなく、インスタントラーメン自体の論理を見いだしたように、回転寿司も独自の論理をめざしまだまだ進化するだろう。欲をいえば、エンターテイメント性を加えてほしいと思う。ぼくの理想は、回転のスピードを、時間帯によって変え、現在の3倍くらにする時間帯をつくってほしいということだ。となれば、食べたい皿をうまくとるための技術、スポーツ的技術必要となるだろう。こんな楽しい回転寿司を想像しながら、お腹かヘビーになったのだった。


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