2013年12月9日月曜日

忘れていた時を求めてー本間千代子、石坂洋次郎、青春歌謡 etc.


気持ちが過去に向くときがある。どうしてかといろいろ考えてみると、歳のためだとか弟のことだとか、あるいは台風、はたまたシェーキーズだとか、原因はいっぱいある。何で台風やシェーキーズが過去を呼び覚ますの?っていうのは、あまりにも個人的にすぎてわからないだろうけど、ちょっと説明すれば、台風は1959年の伊勢湾台風を、シェーキーズは60年代のカルフォルニアという過去を呼び起こすのだ。この文章、ちょっと論理がおかしい?つまり、過去に向くという気持ちが先にあって、過去に向くのか、ある事象が過去のことを喚起するのか、はっきりしてないからである。もちろん、相互的関係なのだが。
訳のわからないことを書いているが、ともかく、この秋、昔のことが気になり、そのおかげで、すごくカンドー的(感動的と書くより、カタカナなのがいいでしょう?)な過去に会った、というか再発見したのである。忘れていたことを思い出したといったことである。まずは、そのことを書いてみる。そして、そのカンドーのために、この1ヶ月、頭の中には歌が鳴り響いてもいる。1960年から70年代の青春歌謡やムード歌謡と呼ばれたベタな歌ジャンルの歌のことを思い出したからである。直接のきっかけは、大阪テレビ(偉大な東京テレビ系)で、夕食を食べながら、ふと普段見ない「懐かしの歌謡曲」(正式な番組名は忘れた)といったたぐいの特番を見たことである。こうした「なつかし」番組は、過去と現在の時間の落差を喜びや残酷さとともに感じさせるので楽しいのだが、そのなかで、舟木一夫、和田 弘とマヒナスターズ、フランク永井、松尾和子、あるいはロスプリモスとか、とか、を、久しぶりに聴いたのだった。「なつかし」番組には、昔のスターの残酷な姿を見る喜びもあるが、スターたちが若かった昔の映像を流すことも少なくない。そんなことで、Youtubeで検索し、始めてフランク永井と松尾和子の「東京ナイトクラブ」を口ずさんだ。男女のデュエット曲である。以来、メロデイーと歌詞が頭から離れないので困るのだが、できたら一度カラオケでデュエットしたいな〜と本気で思い始めた。実は、何か恥ずかしくて、これまでカラオケでデュエット曲を歌ったことがないのだ。では、誰とデュエット?頭が痛い!
ともかく、歌謡曲についていえば、何故か忘れていた。21世紀に歌謡曲がないからかもしれない。テレビの数少ない音楽番組はポップス?かなにか、ヒットした曲だけが口パクで流れる。この手の番組も少なくなったし、ぼく自身ほとんど見ない。10年以上前に飽きている。音楽番組も20世紀で終ったのだ。歌謡曲が終ったからかもしれない。ほんとうは、ポップスも全部歌謡曲なんだが。演歌は?生きているのだろうけど、テレビなどではわからない。時たま地方都市の居酒屋なんかにはいると、ご当地ソングを歌う演歌歌手のポスターが貼ってあるでしょう。「え〜、こんなのあるの」と驚くが、おそらく演歌は局地的に今でも生きているのだろう。ともかく、歌謡曲を忘れていたのは、歌謡曲という言い方、イメージ、実際の歌、そうしたものが話題にならないからかもしれない。それが番組のせいで、突然、思い出したのだ(演歌的な歌も含んで)。
全部書ききれないが、まずは、舟木一夫。詰め襟の高校生ルック。「高校3年生」とか「「修学旅行」とか、学園物で一世を風靡したが、ぼくは学園物より青春物が好きだった。「懐かしの歌謡曲」を見てタイムスリップ。名曲「君たちがいて僕がいた」「花咲く乙女たち」「高原のお嬢さん」といった名曲がメロディーと歌詞とともに頭に降りてきたのだ。そして、ここもYouTubeで検索。やっぱり昔の舟木一夫はいいな〜と、郷愁に加えて楽曲の魅力も再発見。テレビの前で「いいね〜」と相づちを家内に求めると、「遅すぎ!私は昔からの舟木一夫ファンだった!再発見ということが間違っている!」と、ファンとは何か、再発見とは何かについて論争(大袈裟な!)。実は、ファンというのは、誰もが自分が最初の発見者と考えるものなのだ。のんびりした夕食時でしょ?東京テレビのおかげ。ともかく、舟木一夫再発見で、さらなるカンドーの再発見が。本間千代子を思い出したのだ。長い間忘れていた、というより名前を思い出すこともなかった。
若い頃、かなりのファンだった。1960年代の「青春」を代表するようなルックスと声。舟木一夫は、その本町千代子とコンビで映画を撮っていたのだ。代表作は「君たちがいて僕がいた」。舟木のヒット曲をモチーフにつくられたチープな高校生物である。こうした青春歌謡映画は、いつの頃までだろうか、かなり多かった。よく見たものだ。人気歌手のヒット曲をテーマに作られているので、主演はその人気歌手。「君たちがいて僕がいた」では、当然、舟木一夫。ヒット曲が中心なので、何かとメロディーが流れるし、実際に舟木が歌う場面もある。ここでいえば、舟木が「きーみたーちがいーて、ぼくがーいたー」と歌うのである(本間千代子と仲間も一緒に歌うが)。ヒット曲が歌われることが重要な映画である。そのために、筋書きや場面とは無関係にヒット曲が主人公によって歌われることしばしば。かなり跳んだシュールな映画でもあるのだ。シネマトグラフィーの原理と映画の内的論理も無視して、ヒット曲のメロディーが映画を統合しているといったらよいか。
その「君たちがいて僕がいた」の本間千代子。おしゃまできりっとした可愛らしい女子高校生。よく知られたところでは、1963年度版の映画「青い山脈」の新子役の吉永小百合が見せるような女子高校生像である。ぼくは「小百合」世代だしファンでもあったが、本町千代子の方が少しだけ好きだったのだ。このタイプの後継者は今もいる感じがする。映画の中ではなく、現実社会に。戦後の女子高生(あるいは女子)像の原型である。
こうして本間千代子から、再発見は戦後の青春イメージへと連なっていくのだ。夕食が楽しくならないわけはない!そこで思い出したのが、小説家、石坂洋次郎である。記憶は不連続に、ただし、何かの関連を持って連なっているのだが、ここも書き出すときりがなくなる。石坂洋次郎のもっとも知られている作品は「青い山脈」だろう。他にも多くの青春小説を書いた。戦後の青春像を作った小説家である。もちろん映画にもなった。「青い山脈」もそうだ。残念ながら本間千代子は石坂原作の映画には出演していない。所属が東映だったからで、石坂の小説を原作とする映画は日活の専売特許だったのではないか。ぼくが1番好きだったのは「青い山脈」ではなく、「陽のあたる坂道」。石原裕次郎と北原三枝の主演の「エデンの東」のような映画だった。ただし、最高だったのは裕次郎の妹役の芦川いずみ。彼女も戦後の理想の少女像なのだ。何度か日本の少女像について書いたこともあり、いまだに関心をもっているのだが、まとめる時間がない。ともかく、石坂洋次郎については復活させたいと思う。本間千代子を思い出して、ますますそう思ったし、もう一度読み返そうと思うようになった。本間千代子から話しがそれてきたが、芦川いずみに触れたかっただけなのだ。もちろん、これもYouTubeでチェック。
そんな戦後の映像での「青春」というのを思い出しながら、舟木と本間千代子の映画のDVDを買ってしまったり、YouTubeを何度も見たり、テレビで昔の映画を録画したりと、昔に忙しかった10月から11月だった。そうそう、「夢のハワイで盆踊り」という舟木/本間の映画は必見。本間千代子(映画では大学生だけど)の最高傑作であると同時に主題歌がなかなか。小津の映画で馴染みの笠智衆もいい。これまでまったく関心のなかったハワイに行こうかなという気持ちになってもしまった。
こうしたノスタルジーに惹かれるのは歳のせいなのだろうか。そのせいで大学生の頃からのアバンギャルド趣味が薄くなってきたようにも思う。もちろん、今でも「小難しい」と言われる映画や文学、そして美術は好きだが、それと同時に、ベタなものの快楽がこの上なくいごこちがよく感じられてきたのだ。確かに歳だ!現在で言えば、終了してしまった「水戸黄門」的な、あるいは2時間サスペンス的なわかりやすさといったらよいか。昔の歌謡曲の歌いやすさや歌詞の当たり前さと同じである。ともかく、解釈無用というところが気持ちよく、浸れるのだ。昔なら堕落!と感じたところだろう。でも、ぼくはアバンギャルドに無理をしてきたのではないかとも思う。といっても、無理をしたおかげで、面白いものをたくさん見つけたのだが。でも、と、考える。
映画を見始めた小学校の高学年の頃から高校生くらいまでは、「銀幕のスター」(これも懐かしい言葉ですね)に憧れて映画を見ていたような気がする。女優で言えば、「9月になればの」ジーナ・ロロブリジーダとサンドラ・ディー、「ピクニック」のキム・ノバク、「ファニー」のレスリー・キャロン、「芽ばえ」のジャックリーヌ・ササール、などなど(知らない女優が多いでしょう。どちらかというと好みはマイナーだった)。男優で言ったら誰だっただろう?以外と思い出さない。ともかく、この「銀幕のスター」的な映画への視線が徐々に失われていった。現在のアイドルを追いかけることと同じと思うかもしれないが、あくまで「銀幕」がぼくの映画の始まりなのだ。
こうした映画鑑賞方が、大学入学とともに崩れてくる。おそらく、映画論というものが鑑賞術の中に入り込んできたせいかもしれない。それは「銀幕のスター」を脇において、監督論、映像論等々、芸術となっていった。フランスのクリスチャン・メッツの映画記号論なんかを読んだ記憶もある。そんな話しをしないと、映画ファンではないような雰囲気があったような気がする。それなり勉強したから、そういった話しも面白く、ぼくもときどきミーハー的映画ファンを馬鹿にしていたこともあった。こんな話しをしていくと、いろいろ不思議なことを思い出す。今でこそ小津安二郎は大監督でファンも多く、ぼくも「小津の秋刀魚の味」はね〜とか何とか、けっこう好きなのだが、実は、映画を見始めた頃はつまらない映画だと思っていたのだ。華やかさがなく、だらだらしていて。しばらくして「小津映画」というカテゴリーが出来上がり、黒澤以上に評価が上がってきて、フランスではそれこそ小津発見の時代が来た。そんなことを見聞きしているうちに、ぼくもいい映画なような気がしてきた。こんな自分の映画史も書いてみたいテーマだが、そんなことで、ますます「銀幕のスター」は遠ざかったのだ。
何か、だらだらと書きすぎてきた。おそらく、誰にでもアバンギャルド趣味とベタ趣味が同居しているように思うし、その関係は年齢や生活環境などの変化で変わるものだろう。とりあえず、今回は、前回のものが短かったので長く書いてみようと思っていたのと、本間千代子と歌謡曲の再発見がうれしくてこんなブログになってしまった。
あと少しだけ、ここ1ヶ月半のエトセトラ。ここでも何度か紹介している京都三條のシェーキーズが内装を変えた。もちろん、行ってみたが、これまでの70年代的なのんびりした雰囲気がなくなくなり、ぼくとしてはちょっと物足りない。本店の指示によるのかな?ピザといえば、あるパーティーで京都の宅配ピザ屋「リトル・パーティー」の社長さんと知り合った。ピザに関心がある人間には感激である。ぼくのピザ論(大袈裟な)を話し話しているうちに無料券をいただいてしまった。そして、久しぶりに宅配ピザを。社長がいい人であることで、美味しさはぐっとアップ。
何やかんやで、10月から11月は慌ただしかった。人に会うことも多かったのだ。大学院の授業にフランスのBD作家を2人を招いたり、四国に行ったり、そうそうアルテ・ポヴェラのミケランジェロ・ピストレットにも授業の関係で。仕事での会議も少なくない。あっと言う間の2ヶ月で、12月に入ってしまったのだ。することがいっぱいある。プレミアリーグはアーセナルが久しぶりの夢を見させてくれそうで、毎週週末は時間調整が大変だ。その上、ブラジルワールドカップの抽選会。初戦のコートジヴォワールはとくに楽しみだ。ドログバが前回のW杯の練習試合で骨折させられたことをしっかり記憶しているだろうから、日本が勝つのは至難だ。来年の6月に向けて、日本もだんだんサッカーに燃え上がっていく。サッカー熱が4年に1度しか日本ではないのが寂しいが、「フットボール熱」ではなく「サッカー熱」なので仕方がない。中途半端な終り方だが、だらだら文章にもあきてきたのである。こうしたわがままができるのがブログの良さ。ともかく、年末までに更新しなかったら「よいお年を!」