2015年6月4日木曜日

海街Diary、サイン、少しの本のこと

 ブログの更新を、と4月から5月の身辺雑記をたくさん書いたのだが、面白くなくて、書き直し。ブログは時間がかかる。といっても、記憶能力の後退もあり備忘録としてのブログも必要なので、ごく簡単に、この春の雑記を。
浦和、深谷、高知。今まで行ったことのない町に行ってきた。レッズの浦和。うなぎが名物と初めて知った。でも、有名なうなぎ屋は7時閉店!食べれなかった。そうしたら、テレビで埼玉の小川町もうなぎが名産だとか。埼玉とうなぎってまったく想像してなかったのでちょっとした驚き。調べなくては。ただ、うなぎと言えば浜松だよね。その隣町の磐田(家内の故郷です)にもおいしいうなぎ屋があったのに、久しぶりに行ったら消えていた。美味しいうなぎ屋が減っているように思う。浜松でさえうなぎは餃子に押されてる。B級グルメの時代なのか。ぼくもB級グルメ派だけど、もう一方に伝統派も健在でいてほしい。次の、「ふかやネギ」で知られる深谷は、駅舎が立派な町だが普通の田舎町。そうした町はサビレ感があるけど、妙なことに、深谷にはそれがなかった。普通の田舎町が、普通のままでいるのは難しいのに、深谷は立派というのか。そして高知。繁華街の飲み客の元気なこと。南国的ということ?そして初カツオ。美味しかったけどね・・・。あまりにもはまりすぎていて、感動!とまではいかなかった。
さて、さて、ここからは、「海街Diary」のこと。フランスの新聞「リベラシオン」のサイトでカンヌ映画祭の特集を連日やっているので見ていたら、「4人姉妹」という日本映画の監督出演者のレッドカーペット中継とインタビューライブをやっていた。そこではじめて原作が吉田秋生の『海街Diary』であることを知った。映画情報にまったく疎くなっている。これでは、人に「映画が好き」などとは言えなくなるな〜、と反省。それはともかく、ぼくは吉田秋生のマンガの大ファンである。だから、もちろん『海街Diary』は読んでいる。ここ数年マンガを読まなくなったが、吉田秋生は別。『海街Diary』も気に入っていた。それが映画化されたとは。
文学や映画には「青春もの」というジャンルがある。映画で思い出せばきりがない。ナタリー・ウッドの『草原の輝き』ジェーン・フォンダの『ひとりぼっちの青春』レスリー・キャロンの『ファニー』などなど、心に刻まれた青春ムービーである。小説も当然。でも、映画のことを考えていたら青春小説がなかなか頭に出てこない。『三四郎』のような成長啓蒙小説ではない小説。プルーストの『失われた時をもとめて』も青春小説と思ってはいるが。う〜〜ん。文学と映画はそうした膨大な青春ものを生み出してきた。ある意味、文学や映画は青春という言葉を造り出すものだとも言える。もちろん音楽も。とくにポップスは全編、これ青春ものとは思うけど、何かパターン化しすぎていて・・・。水戸黄門のようにはまってはしまうが。そして、マンガ。もちろん、ここも「青春もの」にあふれている。でも、そうしたマンガの「青春もの」と吉田秋生はまったく違っているのだ。『夢見る頃をすぎても』『河よりも長くゆるやかに』が最高峰だが、マンガという表現ジャンルにしかできない、というより、マンガこそが青春を語りえる、そんなことを教えてくれたのだった。それは青春のスカスカな空気感ー言葉を探しているのに見つからず、見つからないこと自体を自己目的化するために生まれる虚弱感とでも言っておこうかー、そんな空気を吉田秋生のペンは生みだすのだ。その吉田秋生先生から間接的にイラスト入りの色紙をいただいている(個人的に知らないが人を通じてもらったのだ)。ちょっと自慢しておこう。『海街Diary』のような4人姉妹のイラストが描かれたもの。家宝!ともかく、もうすぐ映画も上映されそうなので楽しみにしている。でも、綾瀬と広末がな〜。カンヌのオフィシャル・インタビューでの素人感はなんとかしてほしかった。
吉田秋生先生の色紙を久しぶりに取り出して見ていたら、昔から有名人のサインをもらうのが好きだったことを思い出した。最初は大学時代のアダモ。あの「サン・トワ・マミー」や「雪が降る」の。京都会館(この名前は少し前に消えてしまったが)のコンサート後の出演者出口で長い時間並んでもらったものだ。以降、量的には多くはないが、ブラジルのドゥンガ、「ゴルゴ」のさいとうたかおさん、伝説的なF1マンガ『F』の六田登さん(ここには酔っぱらったぼくの姿も描き入れてくれた)、そして、フランスBDの最高峰モエビュスさん、そういえば、三男と行った欧州サッカー旅行でも有名選手にサインをもらったetc。まあ、勤め先での役得というのもある。理由はわからないがサインというのは妙に心をそそる。まだ何人かもらいたい人がいる。歳を忘れて頑張ろう。
話は変わって、このところ、原稿のために読書をしてなかったことも思い出した。原稿を書いているのに本を読んでないって不思議だと思うでしょう?本を見ているのである。本は読むものだけでなく「手にとり見るものでもある」。ぼくは愛書家ではないが、このところやってきた研究?で、本の多様な魅力を知った。こうした導線からも、本を読むファイトもでてくるのだ。
この2週間ほどの面白かったものを2冊。何といっても「フレンチライブラリー」である。ひとつは、脱構築派の理論家ポール・ド・マンの『美学イデオロギー』。1970〜80年代のスター理論家だった。ぼくの敬愛した文学研究者がよく口にしていた批評家だ。要約するのは難しいが、ぼくが理解した、というよりも、そのように読んだと言うことなのだが(読書は基本的に誤読である)、「美的」ということはいかれたイデオロギーだということだ。そのイデオロギーとは、「あるがままのもの」を崩してしまうということ。たとえば、映画を見て何かしらの感動があったとする。そのことを言葉で、それも感覚的言葉を差し込みながら映画を理屈化(意味化)していくと、映画と感動は別のものにすり替わり、映画は「見た」ようなものでなくなってしまう。そうした経験は誰にでもある。「美的イデオロギー」というのは、この「感覚的表現を使って感動を理屈化(意味化)していく」ことなのだと、理解した。長い間、意味を、とくに「ほんとうの意味」を見つけようとすることがうっとうしくなっているという、ぼく自身の考えも反映している。意味をもとめずテクストの上で言葉とイメージが躍動することの感動。ド・マンの世代に教えられたはずなのに、いまや、再び「意味」というイデオロギーが闊歩している。そして、日本では、この意味はほとんど人生論的になる。哲学も文学も映画もマンガも。ただ、吉田秋生はそうしたイデオロギーから少し身を引いている。
もう1冊。銀閣寺の古本屋で買った浜野修という人の『酒・煙草・革命・接吻・賭博』(出版東京)という昭和27年のエッセイ。というより浜野という人の翻訳本。変なエピソードがいっぱい書いてある。すべてが表題に関わる話題である。人間の基本的欲望にまつわる「奇譚」である。不思議な本だがユーモアがあって笑える。こうしたわけのわからない本は昔あったような気もする。巻末には出版案内があり長田幹彦『幽霊インタビュー』とか洋画家東郷青児の『ロマンス・シート』など誘われるものもある。出版社のことは調べたがわからない。そう言えば、昔は奇譚、艶笑ものなどがかなりあったような気がする。「気がする」のは、ぼくが牧逸馬の「怪奇実話」シリーズの愛読者だったからかもしれない。
本名は長谷川海太郎だが、谷譲治、林不忘、牧逸馬の3つのペンネームでハチャメチャ旅行物、時代物、怪奇物を雑誌「新青年」を中心に書きまくった、明治後半から昭和の「大」大衆作家である。今では忘れられてきたが、ぼくには最高の作家である。『めりけんじゃっぷ商売往来』、『踊る地平線』、『浴槽の花嫁 世界怪奇実話1』などは傑作だった。文学的にも。もっとも知られたのは林不忘での『丹下左膳』。35歳の若さで亡くなってしまった。山田風太郎もこの系譜である。かなりのものは青空文庫で読むことができきます。一度、どうぞ。
と、いつものようにだらだらと書いてきたが、もう梅雨入りだとか。そうそう、写真にあげたのは、フランスから送ってもらったエリー・フォールという美術評論家の『美術史』の第1巻『古代美術』。1909年刊行。実は、この有名な初版が日本の大学図書館には入ってない。その昔、「美術史はフォール」と云われたぐらいの本なのに大学にないとはね。けっこう安かった。