2012年7月26日木曜日

動物園、夏休み

 6月にユーロ2012漬けになって、その間、韓流系をほとんど見なかった。こんなに長く韓流ドラマを見なかったことはなかった。そのせいか、不思議に積極的に見る気持ちが薄れてきた。ただし、ハン・ヒョジュとイ・ジソプの新作映画(「ただ君だけ」)は、もちろん見にいった。予告をYouTubeで見ていて、イメージが膨らまなかったのであまり期待はしてなかったが、やっぱりダメ。シナリオ、映像、二人の俳優の使い方も平凡。ハン・ヒョジュのよさがぜんぜん出ていない。韓国映画のパワーはダウンしているのかもしれない。この映画のこともあって、このところ韓流ドラマを積極的に見る気持ちになれないのだ。寝る前の楽しみが減っている。ただし、ハン・ヒョジュは現在二つの映画を撮っているとのこと。そろそろ、「アリバイ・ナイト」(映画自体は大したことないないのだが、彼女がすごく光っていのだった)以上の映画を見たい。
この7月は東京で唐ゼミの新作公演を見たり(トクさんがよかった)、松山での仕事のついでに、近郊にある「とべ動物園」や大正の町並みが残る内子町というところに行ったりと、久しぶりに少し遠くに出かけることになった。やっぱり、何かをすれば、何かにぶつかる。松山の場合は動物園と「象」だった。一緒に仕事をした相手の奥さんが象ファンで、有名な象の写真を撮ってきて、と頼まれたらしい。それに同行。動物園なんか、ほんとに久しぶり。何十年も行っていない。松山のとべ動物園は象とその飼育がよく知られているらしく、その象たちをお目当てに多くの人がやって来るとのこと。その動物園に、前日の仕事関係者(大人4人)で猛暑の中の動物園に行ったのだ。ぼくの頭にある昔の動物園と違って、サービスがすごく進んでいた。いい意味では生態がよく見える、ということだが、小さな施設で生態を見るって、それは見せ方がエンターテイメント化しているということだろう。動物園も、文化化という現在の消費文化世界の潮流を受けているのかと、複雑な気持ち。もう昔の動物園が持っていたいかがわしさはない。楽しげな感じ。逆に、残酷さが深まっている。
もうひとつ考えてしまったのは、動物たちの出自についてである。アフリカ象、アフリカのカバ、サイ等々、動物の檻や柵には種としての動物の出身地が書かれているのだが、その詳細を見ると、多くの動物は「日本生まれ」なのだった。帰ってから女房に、そのことを言ったら「そんなこと知らなかったの!」とバッサリ。でも、ぼくの頭の中では、アフリカ像はアフリカから連れて来られた動物だとばかり思っていた。それが、ほとんどの動物が日本の動物園で生まれた、あるいは日本の他の動物園から移された動物たちだったのだ。種ということを考えなければ、これは日本産の象である。それも、動物園という特殊な環境で生まれ育てられた動物たちが、現在の日本の動物園の動物たちなのである。この現象を何と言ったらよいのだろうか。
動物のことをあまりにも知らないので、少しウィキで調べてみたが、野生の動物は危機的のようだ。
近代西洋に誕生した(18世紀末というのが一般的)動物園は、現在世界に2000園、訪問者数は年3億5000万人とフランスのウィキに報告されている。そうなると、世界の動物園の「野生」動物の数と、アフリカ始め世界に生息する動物の数はどちらが多いのかと考えてしまう。もちろん、現在は野生の象の方が多いのだろうが、いつの日か、動物園の方が多くなってしまうこともあるのではないか。この200年で、人間は野生動物を捕獲し飼いならしてきたことは間違いないのだ。動物の過度のペット化である。野生動物も犬や猫のように人間をなぐさめるペットになる日も来るのだろうか。ただし、ペットはかならず人間に復讐するようになるのではないか。ペットという人間の心のはけ口にされた動物が怒らないわけはない。「猿の惑星」のモティーフだ。加えて、象牙のためのアフリカ象の殺戮。夏なのに、ほんと、寒くなってくる。
7月を、こんな風に過ごしていたら夏休みに入ってしまった。秋になると、しなくてはならないことが多くなる。書き始めているものもあるし、シャルダンのシンポの準備もしなくてはならない。夏休みはありがたい。
シャルダンのシンポは、9月に東京の三菱1号館美術館で行われる、日本初のシャルダン展を記念して。この18世紀フランスの画家には思い入れがある。昔、研究していたことがあるだけでなく、身の回りをモティーフとした絵が、文字通り「身の回りのこと」と思わせるような絵画的映像を創り出した、平凡の平凡ということを可視化した画家だからだ。それから、愛(め)でたくなるようなマテリアル。お気に入りのアーティストなのだ。何年も前から、いわゆる「美術」ということがめんどくさくなってはいるが、シャルダンは別。もちろん、他に何人もいるのだが。そうした画家も、実は、このところあまり見にいかない。去年も結局ルーヴルに行かなかった。美術史の専門家ということですぐに入場できるという特権もいやだが、美術が文化的になっていることも、ちょっとなのだ。上でも触れた消費社会における物事の「文化化」(観光化ともつながる)に馴染めないのかもしれない。差異を消そうとするシステムに違和感があるのだ。動物園もそうだった。ルーヴルのシャルダンも実はそうした面がある。ここには修復という問題も関わっている。これについては、ここで一度書くことにしよう。


2012年7月7日土曜日

私的アーカイブ2ー叔母と鴨居羊子さん

ユーロ2012が終わった。面白くて興奮したが、この歳になると、さすがヨーロッパの時間差を暮らすのは疲れる。ドリンク「眠眠打破」をよく飲んだ。変なドリンクだ。終わると、どっぷりな梅雨。東アジア的湿気が身体にまとわりついて(発見されたヒッグス粒子みたいだが、こんな比喩は許されるのだろうか?)、4月以降のおフランスな気分も解けていく。
このプラウザがBloggerでサポートされなくなったと、表示されている。そのうちぼくのブログは自然消滅していくのか?湿気よりも粘っこい感じで、ネット世界が透明でないことに不思議な気持ちが・・・。ともかく、更新しておかなくてはと、義務感のようなものがあるが、なかなかアイデアが湧いてこない。そこで前々回の祖母の話がよかったという人がいたので、似たような話をまた再録してみる。再録というのは、前に書いた文章をここに再録することだが(少し直して)、今度は叔母の話。祖母の次女、ぼくの母親の妹だ。以前、鴨居羊子さんの展覧会のカタログに書いたものである。ブログは個人的な備忘録だが、もうひとつアーカイブだとも思うようになってきたこともある。これまでの文章を載せておくのも悪くはないなと感じ始めているのだ。


叔母と鴨居羊子さん
昭和52年の7月31日だったそうだ。ぼくの母の妹、清水左都子が亡くなったのは。少しあとのことかと思っていたが、もうひとりの叔母に聞いたら、その年だったという。そういえば、ぼくが大学院生の頃だった。その日、大阪の千里山の自宅で葬式が行われた。ひどく暑い日だった。そのことと、もうひとつのことを鮮明に覚えている。棺の前でうなだれ座り続けている女性の姿だ。その人が鴨居羊子さんだった。叔母からもよく名前を聞いていたが、見るのは始めてだった。もちろん、挨拶はできなかった。
叔母佐都子と鴨居羊子さんは大阪の女子専門学校(女専)での同級生だった。日本が緊迫した戦時になっていく時代である。この二人ともうひとりの仲良しがいて、あわせて女専の三奇人と言われていた、と祖母から聞いた。そのハイライトが、水のない冬のプールで裸に近い格好で踊った事件だったそうだが、ともかく、戦時中なのに、けっこうトンデいたのだ。鴨居さんのエッセイを読むと、少女の頃から少し変わっていたようだが、叔母も女学校のころから札付きだったという。そんな二人が女専で出会ったのだから、気が合うことになったのだろうと想像する。卒業後の二人の交流についてほとんど知らない。「ようこさんが」とか「かもいさんは」と話す叔母の声が耳の奥にいまでも響いているだけである。
戦後、鴨居さんは大阪で夕刊紙の記者となり、それから読売へ、そしてデザイナーとして自立していったが、叔母の方も出版の仕事にはいっていった。京都にあった全国書房という出版社に勤め、そこで組合をやって首切りにあい、続いて大阪の繊維の業界紙に勤めた。そこもあわなかったらしく、しばらくして、昭和30年代の中頃のことだろうか、スポーツウエア社という、メンズファッションの業界雑誌を発行する会社をたちあげた。メンズという言葉が定着し始める時代である。ただし、すごく苦労していたことを覚えている。独身の女性が一人で会社を仕切っていくは大変だったのだろう。ぼくの大学生のころに一度倒産したが、もう一度メンズファションの業界雑誌を立ち上げた。その数年後、最初に書いた、7月31日の光景となるのだ。
独身でパワフルに仕事をしていた叔母だが、会社が大変になるまでは短歌も熱心に詠んでいた。ぼくの祖母で、叔母の母親の影響である。ここらは鴨居さんとその父親との関係に似ていると、この文章を書いていて感じている。その祖母清水千代はアララギに影響をうけた歌人で、昭和11年に「どうだん」という歌誌を創刊し、同名の結社もつくった。ちなみに、その初期の表紙絵は祖母の奈良女高師の後輩の小倉遊亀さんの手になるものだった(前々回のブログに書いたこと)。その後、朝倉摂さんにも描いてもらったりと、小結社の歌誌にすれば豪華な表紙だった。
その誌上で、女専時代から短歌を詠み始めた叔母は、戦後、前衛短歌へと突き進んでいく。いま思えば、叔母は戦後の左翼文化の気分に包まれていたのである。そんな人に従来の伝統短歌があわなかったのは当然かもしれない。寺山修司が歌人として登場してきた頃でもあり、前衛が美しく生きていた時代である。ただ、叔母の前衛性は、単に観念的なものではなかったはずだ。一人で会社を経営していく女性にとって、文化的前衛はおそらくリアルな生きる血となっていたのだと思う。
鴨居さんは寡黙な人だったというが、叔母は割合と話し好きで、酒が入ると情熱的に文学論などを話す人だった。短歌だけでなく、映画、文学、音楽にもかなり詳しく、何も知らない田舎の高校生にいろいろなことを聞かせてくれた。そうした話しは、ぼくの深いところで何かを動かしてきたとも思う。
ぼくの頭のなかでは、叔母と鴨居さんとが重なる部分がある。ひとりは著名な下着デザイナー、もうひとりは無名の編集者だが、大正末期に生まれた女性のアバンギャルドな生き方にイメージが重なるのである。それは単に個人像のことだけでなく、戦後の働く女性のひとつの風景としても、なのだ。叔母はいつも前を向いて、何かをつくりたいと思っていた女性である。戦後の日本の風土は、そうした気持ちを大勢の女性たちに与えたのではないか。でも、それを実現できる人はきわめて少なかっただろうとも思う。鴨居さんの展覧会の背後には、そうした女性の戦後文化風景が広がっているはずなのだ。叔母に関して言えば、結局、自分の望みを十全にかなえられず亡くなってしまったように思うが、でも、それはそれだ。棺の前にうなだれていた鴨居さんも、そんな風に思っていたのではないか。最後に、ぼくの好きな叔母の歌をしるしておきたい。昭和34年のものである。
透きとほる鋼鉄にならむ雪よりも優しきものを葬らむときに