2012年7月7日土曜日

私的アーカイブ2ー叔母と鴨居羊子さん

ユーロ2012が終わった。面白くて興奮したが、この歳になると、さすがヨーロッパの時間差を暮らすのは疲れる。ドリンク「眠眠打破」をよく飲んだ。変なドリンクだ。終わると、どっぷりな梅雨。東アジア的湿気が身体にまとわりついて(発見されたヒッグス粒子みたいだが、こんな比喩は許されるのだろうか?)、4月以降のおフランスな気分も解けていく。
このプラウザがBloggerでサポートされなくなったと、表示されている。そのうちぼくのブログは自然消滅していくのか?湿気よりも粘っこい感じで、ネット世界が透明でないことに不思議な気持ちが・・・。ともかく、更新しておかなくてはと、義務感のようなものがあるが、なかなかアイデアが湧いてこない。そこで前々回の祖母の話がよかったという人がいたので、似たような話をまた再録してみる。再録というのは、前に書いた文章をここに再録することだが(少し直して)、今度は叔母の話。祖母の次女、ぼくの母親の妹だ。以前、鴨居羊子さんの展覧会のカタログに書いたものである。ブログは個人的な備忘録だが、もうひとつアーカイブだとも思うようになってきたこともある。これまでの文章を載せておくのも悪くはないなと感じ始めているのだ。


叔母と鴨居羊子さん
昭和52年の7月31日だったそうだ。ぼくの母の妹、清水左都子が亡くなったのは。少しあとのことかと思っていたが、もうひとりの叔母に聞いたら、その年だったという。そういえば、ぼくが大学院生の頃だった。その日、大阪の千里山の自宅で葬式が行われた。ひどく暑い日だった。そのことと、もうひとつのことを鮮明に覚えている。棺の前でうなだれ座り続けている女性の姿だ。その人が鴨居羊子さんだった。叔母からもよく名前を聞いていたが、見るのは始めてだった。もちろん、挨拶はできなかった。
叔母佐都子と鴨居羊子さんは大阪の女子専門学校(女専)での同級生だった。日本が緊迫した戦時になっていく時代である。この二人ともうひとりの仲良しがいて、あわせて女専の三奇人と言われていた、と祖母から聞いた。そのハイライトが、水のない冬のプールで裸に近い格好で踊った事件だったそうだが、ともかく、戦時中なのに、けっこうトンデいたのだ。鴨居さんのエッセイを読むと、少女の頃から少し変わっていたようだが、叔母も女学校のころから札付きだったという。そんな二人が女専で出会ったのだから、気が合うことになったのだろうと想像する。卒業後の二人の交流についてほとんど知らない。「ようこさんが」とか「かもいさんは」と話す叔母の声が耳の奥にいまでも響いているだけである。
戦後、鴨居さんは大阪で夕刊紙の記者となり、それから読売へ、そしてデザイナーとして自立していったが、叔母の方も出版の仕事にはいっていった。京都にあった全国書房という出版社に勤め、そこで組合をやって首切りにあい、続いて大阪の繊維の業界紙に勤めた。そこもあわなかったらしく、しばらくして、昭和30年代の中頃のことだろうか、スポーツウエア社という、メンズファッションの業界雑誌を発行する会社をたちあげた。メンズという言葉が定着し始める時代である。ただし、すごく苦労していたことを覚えている。独身の女性が一人で会社を仕切っていくは大変だったのだろう。ぼくの大学生のころに一度倒産したが、もう一度メンズファションの業界雑誌を立ち上げた。その数年後、最初に書いた、7月31日の光景となるのだ。
独身でパワフルに仕事をしていた叔母だが、会社が大変になるまでは短歌も熱心に詠んでいた。ぼくの祖母で、叔母の母親の影響である。ここらは鴨居さんとその父親との関係に似ていると、この文章を書いていて感じている。その祖母清水千代はアララギに影響をうけた歌人で、昭和11年に「どうだん」という歌誌を創刊し、同名の結社もつくった。ちなみに、その初期の表紙絵は祖母の奈良女高師の後輩の小倉遊亀さんの手になるものだった(前々回のブログに書いたこと)。その後、朝倉摂さんにも描いてもらったりと、小結社の歌誌にすれば豪華な表紙だった。
その誌上で、女専時代から短歌を詠み始めた叔母は、戦後、前衛短歌へと突き進んでいく。いま思えば、叔母は戦後の左翼文化の気分に包まれていたのである。そんな人に従来の伝統短歌があわなかったのは当然かもしれない。寺山修司が歌人として登場してきた頃でもあり、前衛が美しく生きていた時代である。ただ、叔母の前衛性は、単に観念的なものではなかったはずだ。一人で会社を経営していく女性にとって、文化的前衛はおそらくリアルな生きる血となっていたのだと思う。
鴨居さんは寡黙な人だったというが、叔母は割合と話し好きで、酒が入ると情熱的に文学論などを話す人だった。短歌だけでなく、映画、文学、音楽にもかなり詳しく、何も知らない田舎の高校生にいろいろなことを聞かせてくれた。そうした話しは、ぼくの深いところで何かを動かしてきたとも思う。
ぼくの頭のなかでは、叔母と鴨居さんとが重なる部分がある。ひとりは著名な下着デザイナー、もうひとりは無名の編集者だが、大正末期に生まれた女性のアバンギャルドな生き方にイメージが重なるのである。それは単に個人像のことだけでなく、戦後の働く女性のひとつの風景としても、なのだ。叔母はいつも前を向いて、何かをつくりたいと思っていた女性である。戦後の日本の風土は、そうした気持ちを大勢の女性たちに与えたのではないか。でも、それを実現できる人はきわめて少なかっただろうとも思う。鴨居さんの展覧会の背後には、そうした女性の戦後文化風景が広がっているはずなのだ。叔母に関して言えば、結局、自分の望みを十全にかなえられず亡くなってしまったように思うが、でも、それはそれだ。棺の前にうなだれていた鴨居さんも、そんな風に思っていたのではないか。最後に、ぼくの好きな叔母の歌をしるしておきたい。昭和34年のものである。
透きとほる鋼鉄にならむ雪よりも優しきものを葬らむときに





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