2013年12月9日月曜日

忘れていた時を求めてー本間千代子、石坂洋次郎、青春歌謡 etc.


気持ちが過去に向くときがある。どうしてかといろいろ考えてみると、歳のためだとか弟のことだとか、あるいは台風、はたまたシェーキーズだとか、原因はいっぱいある。何で台風やシェーキーズが過去を呼び覚ますの?っていうのは、あまりにも個人的にすぎてわからないだろうけど、ちょっと説明すれば、台風は1959年の伊勢湾台風を、シェーキーズは60年代のカルフォルニアという過去を呼び起こすのだ。この文章、ちょっと論理がおかしい?つまり、過去に向くという気持ちが先にあって、過去に向くのか、ある事象が過去のことを喚起するのか、はっきりしてないからである。もちろん、相互的関係なのだが。
訳のわからないことを書いているが、ともかく、この秋、昔のことが気になり、そのおかげで、すごくカンドー的(感動的と書くより、カタカナなのがいいでしょう?)な過去に会った、というか再発見したのである。忘れていたことを思い出したといったことである。まずは、そのことを書いてみる。そして、そのカンドーのために、この1ヶ月、頭の中には歌が鳴り響いてもいる。1960年から70年代の青春歌謡やムード歌謡と呼ばれたベタな歌ジャンルの歌のことを思い出したからである。直接のきっかけは、大阪テレビ(偉大な東京テレビ系)で、夕食を食べながら、ふと普段見ない「懐かしの歌謡曲」(正式な番組名は忘れた)といったたぐいの特番を見たことである。こうした「なつかし」番組は、過去と現在の時間の落差を喜びや残酷さとともに感じさせるので楽しいのだが、そのなかで、舟木一夫、和田 弘とマヒナスターズ、フランク永井、松尾和子、あるいはロスプリモスとか、とか、を、久しぶりに聴いたのだった。「なつかし」番組には、昔のスターの残酷な姿を見る喜びもあるが、スターたちが若かった昔の映像を流すことも少なくない。そんなことで、Youtubeで検索し、始めてフランク永井と松尾和子の「東京ナイトクラブ」を口ずさんだ。男女のデュエット曲である。以来、メロデイーと歌詞が頭から離れないので困るのだが、できたら一度カラオケでデュエットしたいな〜と本気で思い始めた。実は、何か恥ずかしくて、これまでカラオケでデュエット曲を歌ったことがないのだ。では、誰とデュエット?頭が痛い!
ともかく、歌謡曲についていえば、何故か忘れていた。21世紀に歌謡曲がないからかもしれない。テレビの数少ない音楽番組はポップス?かなにか、ヒットした曲だけが口パクで流れる。この手の番組も少なくなったし、ぼく自身ほとんど見ない。10年以上前に飽きている。音楽番組も20世紀で終ったのだ。歌謡曲が終ったからかもしれない。ほんとうは、ポップスも全部歌謡曲なんだが。演歌は?生きているのだろうけど、テレビなどではわからない。時たま地方都市の居酒屋なんかにはいると、ご当地ソングを歌う演歌歌手のポスターが貼ってあるでしょう。「え〜、こんなのあるの」と驚くが、おそらく演歌は局地的に今でも生きているのだろう。ともかく、歌謡曲を忘れていたのは、歌謡曲という言い方、イメージ、実際の歌、そうしたものが話題にならないからかもしれない。それが番組のせいで、突然、思い出したのだ(演歌的な歌も含んで)。
全部書ききれないが、まずは、舟木一夫。詰め襟の高校生ルック。「高校3年生」とか「「修学旅行」とか、学園物で一世を風靡したが、ぼくは学園物より青春物が好きだった。「懐かしの歌謡曲」を見てタイムスリップ。名曲「君たちがいて僕がいた」「花咲く乙女たち」「高原のお嬢さん」といった名曲がメロディーと歌詞とともに頭に降りてきたのだ。そして、ここもYouTubeで検索。やっぱり昔の舟木一夫はいいな〜と、郷愁に加えて楽曲の魅力も再発見。テレビの前で「いいね〜」と相づちを家内に求めると、「遅すぎ!私は昔からの舟木一夫ファンだった!再発見ということが間違っている!」と、ファンとは何か、再発見とは何かについて論争(大袈裟な!)。実は、ファンというのは、誰もが自分が最初の発見者と考えるものなのだ。のんびりした夕食時でしょ?東京テレビのおかげ。ともかく、舟木一夫再発見で、さらなるカンドーの再発見が。本間千代子を思い出したのだ。長い間忘れていた、というより名前を思い出すこともなかった。
若い頃、かなりのファンだった。1960年代の「青春」を代表するようなルックスと声。舟木一夫は、その本町千代子とコンビで映画を撮っていたのだ。代表作は「君たちがいて僕がいた」。舟木のヒット曲をモチーフにつくられたチープな高校生物である。こうした青春歌謡映画は、いつの頃までだろうか、かなり多かった。よく見たものだ。人気歌手のヒット曲をテーマに作られているので、主演はその人気歌手。「君たちがいて僕がいた」では、当然、舟木一夫。ヒット曲が中心なので、何かとメロディーが流れるし、実際に舟木が歌う場面もある。ここでいえば、舟木が「きーみたーちがいーて、ぼくがーいたー」と歌うのである(本間千代子と仲間も一緒に歌うが)。ヒット曲が歌われることが重要な映画である。そのために、筋書きや場面とは無関係にヒット曲が主人公によって歌われることしばしば。かなり跳んだシュールな映画でもあるのだ。シネマトグラフィーの原理と映画の内的論理も無視して、ヒット曲のメロディーが映画を統合しているといったらよいか。
その「君たちがいて僕がいた」の本間千代子。おしゃまできりっとした可愛らしい女子高校生。よく知られたところでは、1963年度版の映画「青い山脈」の新子役の吉永小百合が見せるような女子高校生像である。ぼくは「小百合」世代だしファンでもあったが、本町千代子の方が少しだけ好きだったのだ。このタイプの後継者は今もいる感じがする。映画の中ではなく、現実社会に。戦後の女子高生(あるいは女子)像の原型である。
こうして本間千代子から、再発見は戦後の青春イメージへと連なっていくのだ。夕食が楽しくならないわけはない!そこで思い出したのが、小説家、石坂洋次郎である。記憶は不連続に、ただし、何かの関連を持って連なっているのだが、ここも書き出すときりがなくなる。石坂洋次郎のもっとも知られている作品は「青い山脈」だろう。他にも多くの青春小説を書いた。戦後の青春像を作った小説家である。もちろん映画にもなった。「青い山脈」もそうだ。残念ながら本間千代子は石坂原作の映画には出演していない。所属が東映だったからで、石坂の小説を原作とする映画は日活の専売特許だったのではないか。ぼくが1番好きだったのは「青い山脈」ではなく、「陽のあたる坂道」。石原裕次郎と北原三枝の主演の「エデンの東」のような映画だった。ただし、最高だったのは裕次郎の妹役の芦川いずみ。彼女も戦後の理想の少女像なのだ。何度か日本の少女像について書いたこともあり、いまだに関心をもっているのだが、まとめる時間がない。ともかく、石坂洋次郎については復活させたいと思う。本間千代子を思い出して、ますますそう思ったし、もう一度読み返そうと思うようになった。本間千代子から話しがそれてきたが、芦川いずみに触れたかっただけなのだ。もちろん、これもYouTubeでチェック。
そんな戦後の映像での「青春」というのを思い出しながら、舟木と本間千代子の映画のDVDを買ってしまったり、YouTubeを何度も見たり、テレビで昔の映画を録画したりと、昔に忙しかった10月から11月だった。そうそう、「夢のハワイで盆踊り」という舟木/本間の映画は必見。本間千代子(映画では大学生だけど)の最高傑作であると同時に主題歌がなかなか。小津の映画で馴染みの笠智衆もいい。これまでまったく関心のなかったハワイに行こうかなという気持ちになってもしまった。
こうしたノスタルジーに惹かれるのは歳のせいなのだろうか。そのせいで大学生の頃からのアバンギャルド趣味が薄くなってきたようにも思う。もちろん、今でも「小難しい」と言われる映画や文学、そして美術は好きだが、それと同時に、ベタなものの快楽がこの上なくいごこちがよく感じられてきたのだ。確かに歳だ!現在で言えば、終了してしまった「水戸黄門」的な、あるいは2時間サスペンス的なわかりやすさといったらよいか。昔の歌謡曲の歌いやすさや歌詞の当たり前さと同じである。ともかく、解釈無用というところが気持ちよく、浸れるのだ。昔なら堕落!と感じたところだろう。でも、ぼくはアバンギャルドに無理をしてきたのではないかとも思う。といっても、無理をしたおかげで、面白いものをたくさん見つけたのだが。でも、と、考える。
映画を見始めた小学校の高学年の頃から高校生くらいまでは、「銀幕のスター」(これも懐かしい言葉ですね)に憧れて映画を見ていたような気がする。女優で言えば、「9月になればの」ジーナ・ロロブリジーダとサンドラ・ディー、「ピクニック」のキム・ノバク、「ファニー」のレスリー・キャロン、「芽ばえ」のジャックリーヌ・ササール、などなど(知らない女優が多いでしょう。どちらかというと好みはマイナーだった)。男優で言ったら誰だっただろう?以外と思い出さない。ともかく、この「銀幕のスター」的な映画への視線が徐々に失われていった。現在のアイドルを追いかけることと同じと思うかもしれないが、あくまで「銀幕」がぼくの映画の始まりなのだ。
こうした映画鑑賞方が、大学入学とともに崩れてくる。おそらく、映画論というものが鑑賞術の中に入り込んできたせいかもしれない。それは「銀幕のスター」を脇において、監督論、映像論等々、芸術となっていった。フランスのクリスチャン・メッツの映画記号論なんかを読んだ記憶もある。そんな話しをしないと、映画ファンではないような雰囲気があったような気がする。それなり勉強したから、そういった話しも面白く、ぼくもときどきミーハー的映画ファンを馬鹿にしていたこともあった。こんな話しをしていくと、いろいろ不思議なことを思い出す。今でこそ小津安二郎は大監督でファンも多く、ぼくも「小津の秋刀魚の味」はね〜とか何とか、けっこう好きなのだが、実は、映画を見始めた頃はつまらない映画だと思っていたのだ。華やかさがなく、だらだらしていて。しばらくして「小津映画」というカテゴリーが出来上がり、黒澤以上に評価が上がってきて、フランスではそれこそ小津発見の時代が来た。そんなことを見聞きしているうちに、ぼくもいい映画なような気がしてきた。こんな自分の映画史も書いてみたいテーマだが、そんなことで、ますます「銀幕のスター」は遠ざかったのだ。
何か、だらだらと書きすぎてきた。おそらく、誰にでもアバンギャルド趣味とベタ趣味が同居しているように思うし、その関係は年齢や生活環境などの変化で変わるものだろう。とりあえず、今回は、前回のものが短かったので長く書いてみようと思っていたのと、本間千代子と歌謡曲の再発見がうれしくてこんなブログになってしまった。
あと少しだけ、ここ1ヶ月半のエトセトラ。ここでも何度か紹介している京都三條のシェーキーズが内装を変えた。もちろん、行ってみたが、これまでの70年代的なのんびりした雰囲気がなくなくなり、ぼくとしてはちょっと物足りない。本店の指示によるのかな?ピザといえば、あるパーティーで京都の宅配ピザ屋「リトル・パーティー」の社長さんと知り合った。ピザに関心がある人間には感激である。ぼくのピザ論(大袈裟な)を話し話しているうちに無料券をいただいてしまった。そして、久しぶりに宅配ピザを。社長がいい人であることで、美味しさはぐっとアップ。
何やかんやで、10月から11月は慌ただしかった。人に会うことも多かったのだ。大学院の授業にフランスのBD作家を2人を招いたり、四国に行ったり、そうそうアルテ・ポヴェラのミケランジェロ・ピストレットにも授業の関係で。仕事での会議も少なくない。あっと言う間の2ヶ月で、12月に入ってしまったのだ。することがいっぱいある。プレミアリーグはアーセナルが久しぶりの夢を見させてくれそうで、毎週週末は時間調整が大変だ。その上、ブラジルワールドカップの抽選会。初戦のコートジヴォワールはとくに楽しみだ。ドログバが前回のW杯の練習試合で骨折させられたことをしっかり記憶しているだろうから、日本が勝つのは至難だ。来年の6月に向けて、日本もだんだんサッカーに燃え上がっていく。サッカー熱が4年に1度しか日本ではないのが寂しいが、「フットボール熱」ではなく「サッカー熱」なので仕方がない。中途半端な終り方だが、だらだら文章にもあきてきたのである。こうしたわがままができるのがブログの良さ。ともかく、年末までに更新しなかったら「よいお年を!」

2013年10月19日土曜日

ふとした時間

1ヶ月1回のブログ更新を誓っていたのに、今回はできなかった。忙しかったのだ。8月末から9月、そして10月と慌ただしいことが続いた。気持ちも安定しなかった。弟が亡くなったためだ。2歳違いの弟である。子供の頃からぼくより優秀で、実際、立派な植物遺伝学の研究で世界的な業績もあげ、さらにこれからと楽しみにしていた。大きな賞を取ったときは、父と母の分も喜んだものだ。その弟が、9月28日朝、息を引き取ったと、出張先の韓国ゴヤンのホテルに家内から電話がきた。その4日前に病院に見舞いに行ったときは、弱っていたがもう少し大丈夫かなと思っていた矢先のことだった。2年前に大腸癌を発病し手術。そのあと、8月の始めまで抗癌剤の治療を受けていた。この春まではすごく元気で、治るかと思っていたのに、弟の癌はこちらの想像を超えた。これで一人になったかと、喪失感がおそった。家内も子供たちもいて、家族的に一人ではないのだが、生まれてから一番長く近くにいた存在なのだ。南禅寺の真乗院というお寺で近親者だけで葬式をした。青空が多い日だった。それから2週間以上経った。気持ちがひどくダウンしているわけではないが、ふとした時間に弟の顔が浮かんでくる。歳をとってくると、こうした映像を伴った「ふとした時間」が増えてくる。弟の死は、一番深い「ふとした時間」になるのだろう。
次回は、書きたいことがいろいろあるので、すご〜く長いブログにする予定。



2013年8月30日金曜日

ライアンエアー、ベネチア、瀬戸内国際芸術祭、ブルゴーニュ

ヨーロッパで1番安いと聞いていた格安航空ライアンエアー(アイルランドが本拠地)に始めて乗った。パリとベネチア間である。飛行場はシャルル・ド.ゴールではなく、パリから1時間半くらいの田舎町ボーヴェ。この航空会社は大都市周辺の小さな町の飛行場を基地にしている。このことも興味があって使うことにしたのだが、ともかく、これはこれは。予想外のことが多すぎて、結局、たいして格安にならず、ほんと自分の旅行術の甘さにうんざり。旅行ではミスをしないという、旅行術検定1級(あるの?)のプライドが少し崩れてしまった。旅行術まだまだ奥が深い。これまで2度ほど、ヨーロッパの格安航空を使ったことがあったので、ライアンも同じだろうと思っていたら、それが、これこそ「格安」の見本、そして、規則を守らないと、けっこう高くなってしまう。規則にひどく厳しい会社なのだった。これまでの経験から規約をあまり読まなっかったせいで、エクストラ料金を取られてしまったのだ。腹立たしいのだが、「格安」と「経営」を両立させるには、こうした方法だということに感心して、旅行術マニアとしては勉強になった。その一端を。
チケット代、パリーベネチア往復52ユーロ(6800円ほど)とあったので、思わずHPから申込み。この料金も、申し込み時期、曜日によって違いがあり、帰りのパリへのフライトは、日曜日だったので、行きの倍の値段。ということは。金曜日のベネチア行きだけだと、2500円くらい。これはと思うよね。一緒に行った学生は、申込み時期が遅かったので「プライマリー・シート」になってしまい、ぼくより30ユーロ近く高くなった。そして、この基本チケット料金にいろいろな料金が加算されてくる(金額は小さいが、ネット料、カード決済料金等々)。もちろん、荷物を預けると15ユーロ取られるので(15キロまで)、手荷物(10キロ)だけにする(厳しい大きさの制限がある)。ただし、荷物預けを予約後に申し込むと倍の料金に。学生はそうなってしまったのだ。ましてや、空港カウンターで預けることになると、100ユーロも取られてしまう。すべては、ネットでの予約を完璧にしないと、予想外の料金になるのだ。ぼくたちは、そこで大失敗(ライアン的観点から)。
前に使った格安航空(バルセロナのVeulingともうひとつは名前を忘れたがスロバキアの格安)では、一般の航空会社と同じように、予約書(e-ticket)を空港カウンターで見せてチェックイン、つまり搭乗券をもらうという手順だったので、ゴチャゴチャといろんなことが書かれているライアンの申込み画面での規約をしっかり読まなかった。というのも、予約していくページを「続けて」いくと、いろいろな料金のことだけでなく、ホテルやレンタカー、空港からのタクシー手配やバスチケットの申込み、もちろん保険、その上、旅行カバンも売ってますよ等々、ともかくいろんなオファーがゴロゴロ画面に出てくる。それがうっとうしくて、細かな規約を読まないことになったのだ。その結果、料金が膨らんでしまった。大きかったのは、搭乗券を印刷していないことだった。上に書いた、普通のチェックインだと思っていたのが間違い。予約が完了したらチェックインをして搭乗券を刷り出さないといけないのだ。チェックインのカウンターで文句は言ったが後の祭り。搭乗券の再発行になってしまった。何と!70ユーロ。往復の運賃より高いのだ。
でも、キャンセルするわけにはいかない。むかつきながら、搭乗口に向かうと、別の驚きが待っていた。出発1時間半も前なのに、かなりの乗客が搭乗口に並んでいる。搭乗する機体は見えない。その内、ボーヴェ空港(小さな飛行場で発着陸時間がかからない)にベネチアからの便が到着する。出発25分前!乗客が降りきると、即、搭乗。機体へと走る乗客がいたことにも驚いたが、指定席がないからである。上で書いたが、指定席はエキストラ料金が必要なのでほとんどの客は自由席。機内ではちょっとした混乱が起こっていた。厳密に重量と大きさを制限された手荷物を入れる場所探し、そして空席探しのためだ。それも治まり、飛行機到着25分後ちょうどに、機体は離陸。超スピーディーである。
機内はシンプルそのもの。まず、座席前に雑誌等を入れるポケットがない。すべて自分でスペースを見つけて荷物を棚に入れる。早い者勝ちなのだ。アテンドは荷物の世話をしない。ぼくは座席に置いた。座席は窮屈。それにリクライニングがない。背筋を伸ばし(健康的だが)1時間半のフライト。機内の案内誌はアテンドが欲しい人だけに渡す。手に取るのはごくわずかなのは、平凡な記事と機内の飲み物とスナックの紹介と販売商品の紹介が中心で楽しくないからだろう。乗客たちはよくわかっている。もちろん、音楽などのサービスはゼロ。機内アナウンスは英語のみ。帰りの便の英語は、訛りがきつくて(アイルランド英語?)何もわからなかった。そして、機内には飲み物とスナックの広告。酸素ボンベの使い方のシールは座席裏に貼ってある。まだまだ書くことはあるが、すべてが超簡素化、あるいは効率化の飛行機である。削るものは削る。長距離格安バスが空を飛ぶ感じ。スーツケースをもってヨーロッパを旅行する人は遠慮した方がいいかもしれない。
好奇心からキョロキョロしている内にあっという間にベネチア、トレヴーゾ空港に到着。ベネチア本島から1時間半ほどの内陸部。バスの時刻表はあるが、「到着時間に合わせて発車します」の表示。バスまでもがスピード重視である。そして、ベネチア・ビエンナーレへ。
この現代アートの大祭典は、いつもと同じ。もう何回来たのだろうか。ベネチアという町が好きなので来るのだが、そこに現代アートという催しがあり、もうひとつの名所を提供してくれているのだ。今回は、テーマは「百科全書の宮殿」。ITとともに人間の「知」あるいは「知識」が変貌している現代、アートとともにそのことを考えるのは悪いことではないが、テーマが壮大すぎる。加えて、この問いかけには当然、「知」に対する批評性が不可欠なのだが、そうしたことは感じなかった。だから、普通にアート・フェスティバル。ベネチアなのでレベルは高いが、前回(2007年かな、最後のビエンナーレは)に比べて、ぼくの趣味を刺激する作品が少ない感じはした。アルゼンチンのエヴァ・ペロンをモティーフにした映像とインスタレーションがかっこうよかった。ぼくがペロン・ファミリーに関心があるためもあるが。ミュージカルや映画の「エヴィータ」よりもずっとよかった。現代アートもなかなかなのだ。メイン会場のジャルディーニとアルセナーレ、市中にあるいくつかの展示会場。それなりに見たが、ともかく大きなアートフェスティバルは疲れる。でも、ベネチアの天気が最高で、気持ちよさは、最高!(同じ単語を使うことを避けているのだが、ここは「最高」を繰り返さざるをえない)。何度もカフェに入り、ビールやカフェで休憩。これが「最高」なのだ。この休憩のためにビエンナーレを見学しているのかもしれない。ただ、今回は2日だけの滞在なので、慌ただしかった。ライアンエアーのようなベネチアビエンナーレ見学である。
ベネチアで、7月の終りに大学の授業の一環で行った瀬戸内国際芸術祭(セトゲー)のことも思い出した。規模は違うが、塩の香りのせいか?そのセトゲーで面白かったのは、作品よりも別のことだった。ひとつは、ぼくたちの乗った神戸からの夜行フェリー(ジャンボフェリー)の船内に流れた、衝撃的なコマーシャルソングである。その歌が3日間耳からは離れなかったのだ。最初に着いた坂手港ではヤマベケンジの作品が迎えてくれたが、頭にはコマーシャルソングががんがんと。いまいちヤノベケンジ的になれなかった。豊島へ、直島へと船に乗るたびに、その歌が頭の中で響き出し口ずさんでしまうのだった。
それから小豆島が巡礼の島であることを初めて知った(恥ずかしい!)。泊まったのも巡礼宿。1泊2食付きで5000円。安い!食事も充実。小豆島の巡礼は、四国より何年か早いと言う。ぼくたちセトゲーを見に来た人間は、巡礼者なのだ。アート巡礼。北川フラムは、そのことを意識しているのかな?アートという言葉はなかったが、中世の宗教的巡礼の現代版かとも思う。そこに資本主義的観光システムが絡んでいる。よく考えれば、観光と言う近代の旅行自体が巡礼にひとつの起源を持っているといえる。それはベネチアや他のビエンナーレも同じだ。21世紀、世界はアートを巡礼し始めたのだとも言える。幸せなことか、不幸の反映か?
さて、ベネチアからの続き。2日間の滞在を終え最終便でボーヴェへ。ライアンエアーには馴れたので落ち着いて搭乗。搭乗券も刷り出しておいた。ボーヴェは初めてだったので1泊したが、ホテルに着いたのが夜の12時近く。翌朝、ちょっとだけの町歩きで町の輪郭はだいたいつかめた。カテドラルが立派だが、普通のフランスの田舎町である。ただただ、初めての町というのが、旅行マニアには重要なのだ。
そして、ブルゴーニュへ。といっても、ワインで有名な南東部ではなく北部のオセールという町の近郊。友人のアーティスト、リワン・トロムール(トロムと呼んでいる)が廃墟となったオーカー工場を「アート(広い意味で)という創造」のための場にしているのである。「ガルロン」と大学院の葛本君が、そこで作業したいというので連れていったのである。どういった場所なのかを伝えるのはひどく困難だが、廃墟のもつ時間のエネルギーを風景として構築する、抽象的に言うとそんなことになる。1990年に始まってからもう20年以上。ぼくは90年から何度も訪れた場所である。2003年には、精華の学生6人と1週間ほど滞在し、ワークショップというのをした。楽しい思い出になっている。葛本君は1ヶ月近くいる予定だが、ぼくは1泊だけ。今年の夏の旅行は、とにかく慌ただしいのだ。結局、テーマは「ライアンエアー的」になってしまったのだ。そして、疲れた。戻ってきたパリではよく寝た。そうそう、帰ったらすぐに横浜での授業が待っている。夏休みはあっと言う間に終るだろう。日本も涼しくなっているという。
 

2013年7月31日水曜日

ガルシア=マルケス、B級、半田素麺

暑〜い!この夏は暑さが身にしみる。「しみる」のは湿気のせい(こんな言い方ないけど)。始めて日傘を買う気になった。帽子を勧められるのだが、髪の毛のかなり少ない(ない、あるいはハゲとは言いたくないのでこんな表現に)人間にとっては効果はない。ぼくの場合、頭部が高温度サウナになってしまう。ともかく、日本が亜熱帯に入ったとと感じる。そして、湿気を加えると不快指数はタイなんかより上だ。「暑いね」と会う人ごとに季語のように挨拶しているうちに夏休みに入り、7月も終り。といっても、授業がなくなっただけで、会議やなんやら、大学に出かけなければならない。今日の夜からは、授業で瀬戸内国際芸術祭にも行かなくてはいけないし、夏休みはもう少し先なのだ。
そんな暑さの中、久しぶりにガルシア=マルケス(以下マルケス)を読んだ。『 予告された殺人の記録』(野谷文昭訳)。映像大学院のニコラスくんが、「先生お世話になってます。ぼくの一番好きなマルケスです」とか言ってもってきてくれたのだ(何か世話したかな?ハイネッケンはおごったけど)。彼はマルケスの国、コロンビア出身。ぼくが一度行きたい行きたい、と、ビールを飲むたびに言っていたからだろう。1年以上前にアルゼンチンに旅行したとき(この旅行についてはずいぶん前のブログで、その一端を書いた)、ブエノスアイレスのホステルで出会った若いフランス人の医者が、南米で一番面白い国と言っていたので、一度は行きたいと思うようになり、そうした気持ちでいたところ、大学にコロンビアからの留学生が来たという偶然もあって、ますます行きたくなってきたのだ。そして、マルケス。『百年の孤独』のショックは、ぼくのどこかに今でも何かを刻んでいる。ただし、長らく遠ざかっていたラテン文学はいつも気になっていた。そして、『 予告された殺人の記録』。短編と言っていい小説だが、濃密だった。フィクションというより、ドキュメンタリー的な構成によるリアリズム手法は、現在のアートや映画の傾向を予告していたかのようだ。ただし、さまざまな人間と集団が時間の中でモザイクのように絡み合い殺人が生まれる。そして、そのヴァナキュラー(土着的)な空間での殺人を、のちに記録しようとする、そうした小説だ。マルケスの小説を読むと、やっぱり小説という形式は力があるな〜と感じる。
といっても、2時間のサスペンスドラマも捨て難いが。こちらは、食べ物で言えば、B級グルメ(あるいはC級?)。ただし、これは価値の上下の問題ではない。マルケスが上で、内田康夫が下だとも思っていない。まあ、価値の相対化というものだが、それだけで片付けられることではなく、人間の活動(生活といってもいいけど)の場面場面で必要な「もの」と「こと」(個人的なものだが)と言ったらいいか。ここ1年程、美味しい昼ご飯を食べて、少し昼寝をしようかというときは、横になってハードな読み物が一番という感覚になっている。その読書は、何度も書いている、プルーストの『失われた時を求めて』(井上究一郎訳)である。このところ遠ざかっているが。マルケスは、このプルースト枠で読んだのだ。昼飯を食べ、自分の部屋に戻りクーラーをきかせる。そしてごろっと寝転びマルケスを。ただし、半分ぐらい読んだところで、睡魔が。寝心地がいいのだ。それを2回続けて完読。小説が短くて助かった。こんな風に、その場その時で、ピッタリな本や映画や音楽、そしてテレビ番組があるのだ。そして、それぞれがぼくにとって価値があるのである。
たとえば、夜遅く、風呂から上がりウィスキーをちびりするときは、やっぱりサッカー(プレミア)、あるいは韓流ドラマ。B級昼飯でお腹がいっぱいになってしまった午後は、再放送のサスペンス・ドラマ。ストーリーはわかりやすく、起承転結が時間帯で決まっているので、B級飯とよく合う。開始30分までに、ほぼ犯人像は推測でき、その推測が実証されていくのが中盤、そして、1時間半もたつと、真相と犯人の告白タイム。出演者もおおむね決まっていて、犯人役は役者側から推測できる。この「決まりごと」がいい。加えて、サスペンスドラマは名所巡りにもなっていて、これも楽しめるし、歴史も絡み勉強にもなる。サスペンスのおかげで日本の名所情報はかなりのものとなった。といって、番組に刺激されて行ったことはないのだが。サスペンスドラマといえば、ぼくの近所の南禅寺は事件の現場としてもよく使われる。一度、死体発見者のちょい役でドラマに出てみたいと思っているのだが。第一発見者の演技はたぶんできる。身ぶりや表情、そして叫び方なんかは、けっこうドラマで勉強している。
といって、テレビは楽なドラマだけがいいというわけではない。シリアスなものにもいいものある。テレビという形式(ストーリーの作り方、アングル、画面のサイズといったことだけでなく、テレビを見る生活リズムとの関係も含む)がシリアスなドラマに相応しいこともあるのだ。そんな、シリアス系の見応えのあるドラマがこのところ目立ってきたよう感じがする。今年に入って、何本も面白いドラマがあった。
我が家はケーブルテレビに入っているので番組は多チャンネル。プリペイなので少しお金はかかるが、コマーシャルに邪魔されないのがいい。民放はほとんど見なくなった。サスペンスドラマは別だが、民放を見る場合は録画で見る。コマーシャルのあざとさにうんざりなのだ。ともかく、最近、NHKやWOWOWで見させるドラマ、それも社会性をもった、手法的にはドキュメンタリータッチのシリアスなドラマがいくつもあって楽しめるし、楽しんだ。このドキュメンタリーという手法、概念については、一度書きたいと思っているのだが・・・。
 WOWOWの「レディージョーカー」「震える牛」なんかは毎週楽しみだったし、韓国のネット・ハッキングドラマ「ファントム」も秀逸だった。牛肉偽装問題を扱った「震える牛」を見てから、ハンバーグを外で食べる気をなくした。「ファントム」(主演のソ・ジソプはいいよね)を見てからは、ウィルスが気になって気になって。テレビは日常の細部に影響を与える(ぼくだけか?)。それから、NHKも上質な社会派ドラマを送り続けている。現在は「七つの会議」。こちらはねじ偽装と会社という組織のお恐ろしさを扱う。昨年、「初恋」という泣けるドラマでNHKを見直したのだが、お金を払っているんだから、このくらいはやってもらわないとね。ここまで書いたドラマは、ちょっとした映画をはるかに超える。気持ちがゆったりしてくると、テレビはますます楽しめるのだ。それと、いい番組を見ていると暑さは忘れる。
こんなことをしているうちに、ヨーロッパのサッカーシーズンが始まる。ブラジルW杯の前年なので、日本代表にも目を向ける。東アジア選手権では、サガン鳥栖の豊田が一番よかった。彼が来年代表に入ったら、久しぶりに代表を応援しよう。韓国は力が落ちてきて心配だ。イ・チョンヨンが、降格したボルトンから脱出できていないのが大きいと、個人的には思っている。ぜひ、エヴァートンに行ってほしい。こうして来年にかけてW杯モードに入っていくのだろう。ブラジルには行けそうもないが。そうそう、この前も書いたけど、それまでに本を出さなくてはね。テレビ時間を減らさなくては。
さて、前回書いたちくわと料理の話を面白いと言ってくれた人がいたので(マイナーなブログを見てくれる人がいるだけで感激だ)、7月も食べ物について書いておこう。やっぱり食べ物ネタは読んでもらえるのかな?
夏なので素麺。家にいるときの昼食は2日に1回が素麺。去年あたりから、我が家は「半田素麺」になった。徳島ではよく知られているらしい。我が家の素麺はー冷やしうどんの場合も同じだが、とにかく具を多種類入れる。ネギ、焼いたしし唐(丸ごと)、細かく切って炒めたナス、千切りのきゅうり、それから千切りした油揚げかちくわを入れることもある。時間があるときにはたまごの薄焼きもつくる。薬味類はみょうが(必須)と紅ショウガ(自家製)のみじん切り、ショウガ、ごま、のり、つけ汁は自家製ではなくチョーコー醤油の「京風だいの素」というのを使っている。市販のだしの素では美味しい方だと思う。甘さを押さえてあるのがいい。「素麺=あっさり」ではなく、「栄養満点、でも、少しあっさり」の素麺なのだ。
具をたくさん入れる食べ方は、どこから入ってきたのか忘れてしまったが、ひょっとしたら近くの「おめん」という店のつけうどんからか?開店した頃ころはずいぶん具がついていた気もする。その影響か?長〜いこと行っていないので、どうなっているのだろう。今も繁盛してるようだが。それとも、もともとぼくの母親がそんな素麺をしていたのか?それとも、家内の実家の食べ方か?日常の細部の、それも習慣になってしまったことの来歴をさぐるのは難しい。ともかく、具たくさんの半田素麺はぼくの夏のなのである。
なんとか、7月中にブログを更新できた。1ヶ月に1回の更新もなかなかたいへんだ。これも暑さのせいにしておこう。

2013年6月30日日曜日

ちくわと豊橋、テレビ、研究


6月もあわただしく過ぎていく。だらしない書き出しだ。こうした時候挨拶的な書き出しを何とか改めて、眼もさめるような書き出しがないかぐずぐずしているうちに、10日近くたってしまった。ブログを書くのも楽ではない。では、止(や)めれば?そんなことも思わないではないが、物事には止められなくなってしまうことやものも少なくない。ここでよく触れるサッカー、ピザ、韓流、ハン・ヒョジュ、自分の研究(書いたことあったかな?)、旅行などなどのことを止めれないのと同じように、このブログもそうなってきた。趣味ということなのか?それも自己目的的な。この年になって、新しい趣味を見つけたと思うことにしている。書くのは楽ではないが、グダグダと書いていくのは、他ではできないので、時間がかかるが楽しい経験なのである。最初は月3回程は更新と思っていたが、だんだん減ってきて、月1。会議や仕事が多くなってきて、これも怪しくなってきた。でも、頑張るぞ!って更新しているんです。
今回は、ブログという趣味について書くことが目的ではなく、ちくわ(竹輪)のことを書こうと思っていたのだ。なので、前書きからこのチクワへと話を運びたいと頭では考えていたのだが、どこで繋がらなくなったのか。「ブログを書くのも楽ではない」という文を入れてしまったためだろう。それが趣味のことを誘発し、ちくわから遠ざかってしまった。ブログという形式的に自由なエクリチュールの場の罠かもしれない。これでやっとちくわことが始められる。罠だと思ってしまえば、どこで段落替えしても、おかしくはないということになるからだ。
この6月に高校の同窓会があり、そこでヤマサのちくわをお土産にもらった。それを丸かじりしながら、そう言えば、ちくわのことをこれまで書いていなかったなと思い出した。では、一度ちくわ談義でもしてみようかと考えたのだ。高校まで住んだのは愛知県の豊橋という町で、ちくわが有名なのである。あとは菜飯田楽くらいしか知られていない非グルメ町だが、ちくわだけでなく練り物は何でも美味しいしレベルが高い。昔、「世界魚系練り物会議」というのを行ったくらいだ。会議の内容は知らないが、ちくわで世界会議をするなんて、すごいことである。そんな町だから、子供の頃からちくわはもっとも身近かな食べ物で日常的に食べていた。シンプルに生でわさび醤油で食べるか、おでんの具くらいだったが、おかずだけではなくおやつとしても食べていた。
その後、豊橋を離れてから(ずいぶん昔のことだが)、ちくわの食べ物としての懐の深さに気がついていったのだ。その間、ちくわのテンプラ(昔からの調理法ではない)が一般化し、つまみのチーズちくわもつくられた。子供の頃にはなかったちくわメニューである。そうした新しいちくわメニューにも刺激されたのだと思う。ちくわの秘められた力にしだいに気付くことになった。それだけでなく、炒めると別の力を発揮することもわかった。一緒に併せる素材を引き立たせ、さらに、ちくわ自体も新しい味をもつ。その代表はキャベツ。ちくわを薄く千切りにし、角形の切った新鮮なキャベツと炒める。さらに、紅ショウガとその付け汁を絡めると美味しさはますますパワーアップする。この一品はぼくがつくるものが一番美味しい。といっても、他で食べたことはないし、見たこともない。オリジナルと自慢しておこう。家内がいないときは5日に一回は食べていた。それからそれから・・・みそ汁に入れてもよいし、ひょっとしたらカレーにも合うのかもしれない(まだ試したことはない)。もちろん、穴の中にさまざまなものを詰め込めば、ほとんどのものは合う。ちくわの穴は製造過程から生まれたものだが、それが新しい味を展開させるものとなる。もちろん穴がないとちくわとは言わない。そこに特別な意味はないとしても、それによってちくわに新しい道が開かれる。ちくわの穴は含蓄がとても深い。
現在、非グルメ町豊橋は名前をあげようとしているのか、B級グルメブームにのって「豊橋カレーうどん」というのを売り出しているという。ちくわが使われていると思ったら、ちくわは除外され、ご飯、とろろ、カレーうどんを重ねた変な食べ物となっている。まだ食べたことはないので何とも言えないが、豊橋の友人たちに聞いてみたが、「うまい!」と絶賛する者は皆無。新名物をつくるなら、どうしてちくわをベースにしないのか?メディア受けしようと考えて、スベルっている。豊橋的発想? あまりにもちくわが日常的すぎて、その可能性が見えないのかもしれない。教訓である。
ちくわノスタルジーの6月だったのだが、コンフェデ杯、それからWOWOWの「震える牛」とか「ファントム」といったドラマも6月の生活を活性化させてくれている。サッカーの方は考えることも多かったが、ともかく日本の3連敗は順当なところだった。イタリア戦はイタリアが「なめた」としか言いようがない。ブラジル戦を視察すればそうなるのだろう。ただし、強豪国がなめてくれると十分にいける、そのくらいのレベルにはなってきたというこだ。サッカーであれ、他のことであれ、ヨーロッパがつくった近代のスポーツ・システムを取り込むには時間がかかる。 ぼくはこの取り込んでいるときの気持ちの捻れが好きなのだ。気持ちの複雑さといってもいい。他の文化を受容するということは、そうしたことではないのか。そこには自虐的ということもある。ただし、その自虐性には他者を尊敬する気持ちも強いのだ。
テレビはいろんなことを考えさせてくれるのだが、もう少しテレビ時間を減らして、原稿のスピードを上げなくてはならないと頭では思うのだが、これがなかなかうまくいかない。先日、久しぶりに藤原くんに会ったら、本を書いているので朝4時に起きているという。やっぱり、そうしたことをしなくてはとは考える。ただ、今書いているテーマが大きすぎて、調べることが多すぎるのと、能力の問題もあって歩みが遅くなってしまう。19世紀の後半から現在までのフランスと日本の美術全集(叢書)の歴史を精密にたどってみようとしているのだが、150年という時間はさすが長い。適当にはしょるればいいことも考えるのだが、150年という時間の重みのようなものを何とか文章に反映させたいと考えていると、調べることも多く、なかなか前に進まないのである。といっても、もう1年くらい細々と書き続けているので、フランスの1960年代まで来た。
その研究のことが頭にあって、いつでもパソコンを持ち歩き、時間があれば開き書き次ぐのだが、わからないこともでてくる。たとえば、こんな感じ。「フランスのチスネ出版の「文明の驚異」全集は・・・年まで続き」と書こうとして、「・・・年」の部分をちゃんと調べてなかったことがわかる。そこで、もう一度ネットで調べまくることになる。第一、美術全集の名前には似通ったものが多くてなかなか全体像が見えない。そこで書きながら調べる、そんなことを繰り返しているのである。フランスの3つの図書館の電子カタログ、世界の古書ネット、日本のCiNii、もちろん、ヤフーやグーグルの検索も。ただし、かなりの時間キーボードをたたいても、見つからないことも多い。実は、向こうの全集にはシリーズが終ったという切れ目がないことが多いので、全集が刊行された期間や全何巻を調べることが無駄な場合も少なくない。でも、ひょっとしたらと思い調べてしまうのだ。全集の刊行初年と終年がわかると、その全集の時代的意味がよりはっきりするからである。こんなことをしているのだが、とにかく、調べることに疲れてくるのだ。となって、今日はこのくらいにしてとなり、テレビを見たり本を読んだり、書きかけのブログを書き次ぐということになる。まあ、息抜きばかりしていても仕方ないが、ただし、誰もが感じていることだろうが息抜きほど楽しいこともないのだ。息抜きのために研究?そうかもしれない。でも、藤原くんに会ったのは何かの信号だろう。来年のワールドカップまでに本にしなくてはと、強く誓ったのだが。
結局、6月のブログは月が変わる前日に書き終えることができた。月に1回のベースは守った!

2013年5月30日木曜日

早川義男、ウイガン、ドルトムント、ドイツ

やっと初夏らしくなってきた。半袖シャツにしようか、でも、ここで半袖にすると本当の夏はどうしよう、といった軽いジレンマの季節でもある。まあ、夕方からは涼しいので長袖シャツということになるのだが。さて、いくつかの感動が重なる日というのがある。ちょっと前のことだが、5月11日の土曜日。そんな日だった。二つだけだが、まあ、1日に2回もあれば、充分過ぎるくらい充分。まず、大学を出るときにばったり福岡くんに会い車で送ってもらい(こうしたことは何かの兆候になる)、そして、行きつけのカフェでメールやら原稿を見て、祇園のシルバーウィングスというライブハウスへ。椅子席30人あまりの箱での早川義夫さんと佐久間正英さんのユニット。「あの」伝説のバンド、ジャックスのリーダーと四人囃子のベーシスト。ぼくの世代には泣けるコンビだ。15年前から組んでいるという。知らなかった。音楽シーンを追いかけていないからだが、繋がるということは縁があるということだ。今年から精華の先生と名なった佐久間さんがコンサートのことを教えてくれたのだった。
早川さんの歌は今も生きていた!もうひとつ、佐久間さんのギターがすごく上手なのも始めて知った。ベースの印象しかなかったので。知らない曲もあったが、昔の「堕天使ロック」とか「からっぽの世界」、当然「サルビアの花」なんかも歌ってくれて、40数年経った早川節は泣かせてくれたのだった。ぼくは一度だけジャックスのコンサートに行ったことがあり、四人囃子は2度ほどライブで見たことがある。それにしても、40年以上の歳月を経て再び、早川義夫を聞けるとは。
そして、その夜、イングランドのFA決勝。ウィガン・アスレテックスとマンチェスター・シティーの決勝戦。プレミア・リーグの2位と降格争いをしてるウィガン。日本では宮市が所属するチームなのでたまに「宮市ベンチ外」として1行ニュースが出るチームである。プレミア好きのぼくとしては、ウィガンというチームにここ数年惹かれてきた。これはイングランドのファンも同じ。毎年、奇跡的な残留争いを勝ち抜き、プレミアに残留してしまうという痺れるチームだからである。監督のロベルト・マルティネスの評価はすごく高い。そのことに加え、オーナーがまた地元主義の泣かせる人物なのである。そして、決勝戦は断然不利の予想を覆して1−0での勝利。オーナーの長年の夢が実現したのである。ちょうど、去年のリーグ1のモンペリエのように。資本主義に翻弄されながらも、今でもフットボールには地域性が生きている。
と、ここまで書いて一旦中断。
大学の仕事が忙しくてブログを再び書き始めたのは10日後。何回にも分けて書くんだったら、書いた所までをアップした方がいいかなといつも思うし、また、そもそも長いブログは止めにしたら、誰も読まないよ、と言ってくれる人もいるので、短いブログにしようかと考えたこともある。でも、世の中の文章が短文方向にますます進んでいるので、それに合わせるのはね、とねじくれてみたくもなり、ブログとしては長い文章にしている。自己プライドのせいかな。
何やかんやで5月も後半になるとますます夏の感じが出てきて、半袖シャツは当然になってきた。そんな折り、家内がパリに出発。小さな個展のためである。外国で展覧会をするのはけっこう大変だ。大物ともなれば画廊や美術館がすべてを仕切ってくれるが、そうでない者はほとんどを一人でしなくてはならない。作品輸送、案内状デザイン、オープニングの設定等々、もちろん画廊側もやってくれるのだが、展覧会に対する感度の違う相手だと、細部のチェックは自分になるのだ。今回のパリはそんな画廊主だった。実際に行動をし始めると、そうしたことが分かってくるのだ。そうなるとけっこう厄介なことが出てきて、ぼくもお出ましとなる。
資料調査やある展覧会を見るため、そして家内の展覧会のオープニングに来る友人たちに会うため等々の目的でぼくもパリに出張。そのオープニングには思いのほか多くの人が来てくれた。ともかく、パリは去年の夏以来である。それも5月のパリは何と30数年ぶり。暑いけど最高の季節の印象があるので楽しみにしていたら、来てみたら寒かった。それに曇り空(昨日は快晴だったが)。
そんなパリでチャンピオンズ・リーグ決勝、ドルトムントとバイエルンを見る。といっても、もちろんテレビで。フットボール好きのレジスの家で見ようということになった。彼は1年間ベルリンにいてブンデスリーグに詳しくなってしまったのだ。レジスの少しひねくれた性格は、当然ドルトムント派。もちろん、ぼくも同じ。こちらは香川がいたこともある。ただし、ぼくはブンデスリーガにそれほど興味はないのだが、チャンピオンズ・リーグの決勝ともなれば話は別。
試合前にハムとチーズとパン、そしてワインとシンプルだが、レジスのところの食べ物ーといってもカトリーヌが買いそろえるのだが—の美味しさは超一流。フットボール談義や映画の話をひとしきりして、チープな椅子を居間に並べた観客席へ(どこにあんな椅子があったのだろう)。前半はドルトムントが押していたので、けっこう盛り上がる。レジスは「そ・そ・そ〜」とぼくの言い方をまねしながら、早口のフランス語で興奮してくる。前半終了。そして、後半。試合のことを書いていくと終らないので、結果だけ。知ってのとおりバイエルンの勝ち。ロッベンにやられた。ぼくたちも別にシュンとなるわけでなく、美味しいデザートを食べながら、四方山話。ルーブルで開催中の「ドイツについて」展のことをカトリーヌに訊ねたら、入場1日券をくれた。彼女は学芸員なのである。フランスの美術のことを勉強してきたのに、研究者の知り合いはあまりいない。カトリーヌとレジスは数少ない知り合いなのだ。といって研究のことをあまり話すわけではないが。
その「ドイツについて」(De l'Allemagne)展はかなり見応えがあった。1800年から1939年まで、ロマン主義誕生からナチスまでの時代の美術を振り返りながら「ドイツの美意識とは何か」を振り返る展覧会だったと思う。これまで語られてきたドイツ像ー平凡な日本風言い方をすれば「ドイツ魂」ということだが、その生成と展開をイメージで綴る展覧会なので、新しい思想的な発見があるというわけではない。そのことで、ドイツ側からは批判的に見られ論争も起こっているという(その一端はネット上でも見れるhttp://www.lesinrocks.com/2013/04/21/actualite/exposition-de-lallemagne-au-louvre-les-raisons-dun-scandale-11387912/)。新しい視点がなく、ドイツの精神性を強調するーそれはナチズムに繋がるーまとめ方になっているということなのだろう。この批判の当否を言う立場にはないが、平凡な主張(ドイツ側からはつまらない政治的主張)だとしても、200点以上と言う物量作戦によって、「ドイツ魂」の系譜が総合的に視覚化された展覧会は見応えがあったのだ。個人的には、ドイツ的想像力を支えている「ガイスト」の画家フリードリッヒをこんなに見たことはなかったし、ゲーテの博物誌への関心やベックマンのマンガ的デッサンも興味深かった。
この冬のイタリア旅行からドイツに触れる機会が増えてきたような感覚があったが、今回のパリでもそうだった。大学時代からのドイツ語やドイツ現代アートのマッチョな感覚への違和感から、ドイツを遠ざけてきたが、こんなにドイツに触れることがあると、一回はしっかりとドイツに触れてもいいかなとも思ってきた。

2013年4月19日金曜日

ヘルマン・ニッチュ、少女時代、プルースト

前回、久しぶりのイタリア旅行に感激して紀行記1を書いた。第2弾もと考えていたが、何とそれから1ヶ月以上も経ってしまった。紀行続編を書く気分が薄れてきた。ブログは旬のものなんだと今更ながら感じる。ただし、前に書いたローマ近郊のフラスカーティ(白ワインの産地)での「カラヴァッジオについて」展の後日談は書かなくては。そのカタログが欲しかったので(現地ではできてなかった)、ネットで検索していくつかの関係筋のオフィスにメールを書いた。そうしたら、どうしたことか、出品者の一人ヘルマン・ニッチュ(Hermann Nitsch)の財団にメールが届いてしまった。ウイーン・アクショニストと呼ばれる超過激な生け贄の儀式のようなパフォーマンスで知られるアーティストである。他にもいろんな活動をしていることは、この1ヶ月で知ったが、その財団からニッチュについての分厚い本が送られてきたのだ。それも航空便で。「ニッチュに興味をもってくれてありがとう」というメッセージも付いて。「カラヴァッジオについて」展のカタログがありませんか、と書いたメールが、何故ウィーンに行ってニッチュの回顧録的な本が届いたのか。こんなことがあると感動する。そもそも、ローマで展覧会のパンフレットを偶然見つけ、行ってみるとびっくりする展覧会だったという幸運、そして、ニッチュの本。関係した人や物事が好きになる。でも、「カラヴァッジオについて」展のカタログ注文のメールへの返事はまだ来てない。イタリアだからしょうがないか、あるいはカタログは制作されなかったのか?一緒に旅行に行った小西くんが写真を撮っていたので、それをパソコンに。そのうち授業か雑談で話しようかと思っている。
前回、トスカーナ地方の味のないパンのことを書いたが、ピザに到達した人間として、もちろん、イタリアでピザはよく食べた。といっても、反ガイドブック派なので、どこでも基本的には勘と人に聞いて食べる所を探す、つまり行き当たりばったりで店を選んでいるのだ。このやり方の成功率は実はかなり低い。食べ物業界はヨーロッパでも日本でも80%以上は情報化されているからだ。ただ、行き当たりばったりで成功しなくても、偶然の幸運を夢見ることができるので、それなりに満足できるのだ。そのピザでは、大きな幸運はなかったのだが、ヴェネツィアで1店だけ気になったピザ屋があった。
サンマルコ広場のかなり裏手のテイク・アウトのチープな店だが、けっこう人が入っていた。お腹がすいていたこともあって入ってみた。そこでアンチョビのピザを頼んだのだが、これがなかなか。これまでヴェネツィアで食べたピザの中で一番美味しかった。そして、安かった!5ユーロ(当時550円くらい)。それで、このレベル。日本の有名ピザ屋よりもちろん美味しかった。ちょっとした感激で昼からビールを2本も飲んだ。そのおかげで、その日(イタリア最後の日)は何度もカフェに入ってだらだらしたのだった。それなりに知っていると思っても、知らないことは山ほどある。当たり前だが。まだまだ、ピザに「到達した者」とは言えないなと自戒。
もうひとつイタリア旅行の思い出。これは帰りの飛行機の中での新聞で知ったのだが、あのワグナーがフラーリ教会のティツィアーノの《聖母被昇天》をいたく愛していたとのこと。この教会は何度も行っている。それなのにワグナーとの関係は始めて知った。帰ってきてから感激である。ゲーテのトスカーナのパンのことも知ったついでに、もう一度『イタリア紀行』を読んでみようと思うのだった。
久しぶりのイタリア旅行のことを思い出しもしていた3月から4月の始めだったのだが、それもあっという間に遠ざかり、桜も散ってしまった。ぼくの青色の手帳を見ると、3月は春休みなのにいろいろな用事が書き込まれているし、4月は、それ以上に詰まっている。この4月から役職をすることになって、予定表がつまってきたのだ。となると、外食の機会も多くなる。いけないとわかていても、ついワインを飲み過ぎてしまう。酒が弱いわりには40過ぎからお酒の美味しさを知ってしまった不幸か?
相変わらずダラダラ書いているが、この1ヶ月の間で一番驚いたことは、少女時代のコンサートだった。行けなくなった人から買わないかと言われて買ったのだが、これがなかなか「勉強」になった。「勉強」なんて言い方をするのは研究者の嫌みなところだが、年寄りということもある。家内に一緒に行こうよと誘うがあっさり拒否。もう1枚あまっていたので、何人かの若い知り合いに声をかけたのだが、KPOPに興味ある人がいない。ぼくは孤独に韓国ファンをやっているので、同類の仲間がいない。少女時代はパリのKPOPフェスティバル(1年ほど前のこのブログに書いた)で一度見たのだが、そのときは2PMや4MINUTEに負けていていたので、最盛期は終わったのかと思っていたら、ライブは違った。驚いたのは、すべてが映像化されていることだった。ステージ背後の大きなスクリーンに映る、物語仕立てから抽象的なものまでの多様な映像、ライティング、水や火による仕掛け、埋め尽くしたファンが同じリズムで振る薄紫の電子団扇、そして少女時代という9人の歌と踊り。これらが一体化して構成されるステージは、コンサートというより立体的映像ショウだった。少女時代自体も映像と化していた。ぼくが現在のライヴ・シーンに疎いためもあるのだろうが、コンサートがこんなにも変容したことに驚いたのだった。ただ、後半のファンサービス(ステージからのファンとの交流)が過剰で、ファンでない者が行く所ではないのかもしれないと、寂しく感じたが、満足。
去年より平日が忙しくなってきたこともあって、週末は家にずっといるようになっている。3月までは、大学の仕事がない日は、銀閣寺道にあるケーキ屋カフェで仕事をするというのが日常になっていたのだが、平日の疲労感があるのか、用事がないときは家で過ごすことが多くなってきた。去年から書き続けている原稿のスピードをあげたいということもある。面倒くさく時間がかかるテーマで、ほんと書き終えることができるのか、とか、ほんとに面白いことなのかどうかもわからなくなっている。この感じは、2年前から読んでいるプルースト『失われた時を求めて』の読書と似ている。もちろん日本語(井上究一郎訳、ちくま文庫)でだ。ふとしたことから読み始めた、この有名な長編はなかなか前へ進まない。新幹線とか飛行機で読もうかと旅行に持っていくが、どうも読む気になれない。結局、プルーストは家で横になって読む、というスタイルに落ち着いてしまった。となると、家にいないときは読まないので、また家にいても、面白いテレビ番組とか原稿のことがあると読まないので、時間がかかっているのだ。その上、読み出すと眠たくなってくる。といって退屈というわけではない。プルーストの長くうねりのある緻密な文体(日本語だが)や、描かれる貴族社会のリアリティーが眠気を誘うとしか思えない。それも、気持ちのいい浅い眠りへと。こんな断続的読書が2年近く続いているのだ。自分でも驚く。こんな読書をするのは始めてだ。やっと7巻の終り(ちくま文庫は全10巻)まで来た。今書いているぼくの原稿も、似たようなペースである。まだ10ヶ月ほどだが。現在、予定の半分近く。プルーストを読み終える頃に、完成させよう。そんな気持ちになっている。
さて、もうすぐ連休。それがどうしたということだが、フットボール・シーズンの終りを告げる季節なのだ。プレミアリーグに数年前のようにはわくわくしないのは、アーセナルの凡庸さのせいである。ただし、パリ・サンジェルマン(PSG)に何十年かぶりに力が戻ってきたので中継を見るようにしている。昔、ジョージ・ウェアーがいた時代を思い出す。バルサとの第2レグは、見応えがあった。加えて、フランスのナショナル・チームも上昇中。3月のスペインとの試合は負けたけど、ここ10年くらいで一番だった。ともかく、もうすぐフットボール・シーズンも終り、自分の原稿とプルーストのスピードをぐんとあげようと思っているのだが。

2013年3月12日火曜日

イタリア紀行1ーカラヴァジオ、白ワイン、無塩パン


久しぶりにイタリアを旅行してきた。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア。水の都はビエンナーレ見学も兼ねてときどき訪れていたのだが、ローマとフィレンツェはほんと久しぶり。精華の学生9人と知り合いの熟年世代4人とぼくの14名の往復11日間の短い旅である。旅行実施人数に少し足りなかったので、ぼくが添乗員の仕事も引き受けることになった。望むところである。旅行魂がうずいたのである。そのイタリア紀行を2回に分けて(と、思ってはいるが)。
というわけで、ローマでは何といってもカラヴァッジオ巡り。ますます神話化(観光化)する、この「絵画の破壊者」(プッサン)はやっぱり輝いていた。フランチェーゼ教会コンタレッリ礼拝堂の「聖マタイ」も、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のチェラージ礼拝堂「聖ペテロ」も、何も変わらず、カラヴァッジオだった。ローマ自体が変わらないのだ。そのポポロ広場は、あの忘れがたい映画「マイ・プライベート・アイダホ」(1991年、ガス・ヴァン・サント監督)の中で、母探しをする主人公マイク(リヴァー・フェニックス)が石のベンチに寝てしまったところである。確か、広場のオベリスクの脇だったと思ったのだが、ベンチはなかった!あれは小道具だったのか、それともぼくの勘違いか。もう一度見なくては。カラヴァッジオを見るついでに、もちろん、現地ガイドのフランチェスコさんのアドバイスを受けて、ベルニーニとボロミーニの建造物も。もちろん、バロック天井画も。そのひとつコルトーナの壮大な天井画のあるバルベリーニ宮は、「ローマの休日」のオープニングに出てきたところと、ガイドの説明。そのシーンを覚えてないので、これもツタヤで借りなくては。旅行に行くと、舞台が登場する映画をもう一度見たくなるのだ。ともかく、ローマ・バロックを1日半ほど見ると、その劇場性と現実のフィクション性への欲望と快楽などなど、神の名によるいかがわしさにくらくらしてくる。とくにお茶漬け好きの日本人はお腹がいっぱいになるようだ。そんなわけで、少しすっきりしたくなる。
そんな気分になったときに、ホテルで、白ワインの名産地、ローマ近郊のフラスカーティで「カラヴァッジオについて」(About Caravaggio)という展覧会のチラシを見つけた。20世紀のアーティスト25人のカラヴァッジオ解釈展とのこと。これは行かなくては!と、ガイドをキャンセルして、全員でフラスカーティへ。白ワインを飲みながら新しいカラヴァッジオ・イメージなんて、カッコイイ!でも、田舎町だから平凡な展覧会なんだろうなと期待はしていなかったが、何とびっくり!充実した現代アート展だったのだ。それに出品作家がなかなか豪華。人選が国際的であることに加えて、20世紀イタリアの大御所、グレゴリオ・シルティアンやレナート・グッツソ、ルチアーノ・ヴェントローネ、そしてアルテポーヴェラのピトレッティ、ウイーン・アクション派のヘルマン・ニッチュなどなど大物も多い。彼らのカラヴァッジオについての旧作新作が並ぶ、贅沢な展覧会だし、何百年もの時間を経て、過去の画家が新たに蘇るということも贅沢なことだった。カタログがまだできていないということで、帰ってからメールで注文したが、1週間たっているのに返事がない。これもイタリアである。(ここで、ブログ書きを中断。東京での大正イマジュリィ学会全国大会のための準備や急ぎのメールに時間を取られたからである。その大会の2日目、山口昌夫さんが亡くなったとの知らせが。学会の初代会長だったのだ。黙祷・・・)
と、東京から帰ってきて、続きを書き出した。旅行のことを時間軸で書いていくとどうも平凡になるが、ともかく、「カラヴァッジオについて」展を堪能したあと、当然フラスカーティの白を。寒い日だったので夏に比べると、もうひとつフラスカーティの気分が出ないが、でも本場だ。この本場という意識がぼくから抜けない。その場でという感覚がともかく気持ちがいいのだ。数杯飲んでいい気分に。バングラディシュからの花売り男と話をしてたら商売のバラを1本をくれた。このあたりちょっと脈絡がないが、話は続いている。続くように書くと長くなるので、経緯をはしょっているのである。ともかく、暗くなってフラスカーティからローマに帰り夕食。ホテルで紹介してくれたバブーズという安いが味はよいというレストラン。超高級なところに行ったことがないので何とも言えないが、イタリアは前菜や一皿目の料理が美味しすぎて、メインディッシュは少し物足りない。これは日本的感覚なのか。このバブーズも海鮮リゾットが逸品だった。ホテルに帰る前にカフェ・バー(庶民的な)でシメのリキュール(名前忘れた)である。毎日1回か2回は行ったので店員たちとすっかり仲良くなり、昔からの馴染み店のような気分。旅行者であることを忘れる。こうした感じがいいのだ。その店には、ビールをがんがん飲んでいるラガーシャツ姿の屈強な年配の男たちがいて気勢をあげていた。聞けば、ラグビーの6カ国対抗でイタリア戦を応援に来ているウェールズのファンたちだった。「こいつらはビールをよく飲む」と店員たち。2年前にワールドカップでのウェールズが記憶に残っていたので、話しかけてみるとすごく喜んでくれてたけど、一緒に飲もうとは言わない。ケチなのだ。外国のバーやカフェで面白い人に会える場なのがうれしい。パリのカフェもそうだった。
こんなことで、最初のローマは終わっていった。旅行というのは時間を郷愁する営みでもある。ローマから城塞都市オルビエートを経てフィレンツェへ。ここも久しぶり。ぼくはこのルネサンス・マニエリスムの都市にもうひとつ馴染めないのだが、イタリア美術紀行では必須である。ただ、気に入りのサンマルコ修道院は人気観光地になってしまい、フラ・アンジェリコの聖なる静寂を味わう空気はない。ヴァチカンがその典型、加えていろいろな規制。感じはよくなかった。
さて、久しぶりのフィレンツェで感激したのは、パンである。料理を注文するとついてくるパン。昔も食べたに違いないのだが、こんなに意識したことはなかった。パーネ・トスカーノ(トスカーナ風のパン)というのだそうだ。とにかく、味がない。料理のソースをつけたり、塩を入れたオリーヴオイルをつけてみたりと工夫はしたが、その味のなさの頑固さは、何も変わらない。一般的に言えばまずい!でも、味がまずいのではない。味がないのだ。究極の無塩パンなのである。これだけ味がないと、うまいと感じる事態への逆転がどこかにあるに違いないと思って、書いたように色々工夫をして、籠に入ってきたパンを全部食べた。でも、逆転はない。ひょっとしたら、この逆転がないことが逆転なのかと、一応は納得した。そこで、パン屋でこのパーネ・トスカーノを半分買って日本にもってきた。家内は、小片に切って焼いた上に魚のペースをのせて食べたら美味しかったと言う。おや?ぼくも食べたが、パンが美味しいのではなく、のせたものが美味しかったのである。引き立たせ役なのだろうか。そんなことで、この不思議なパンは2週間たって我が家で乾燥中。どんなに乾燥しても食べれそうなパンなのである。トスカーナ地方の人は不思議とは思わないだろうし、こんなに考えているとも思わないだろう。このことをヴェネツィアで聞くと、これはゲーテが好きだったパンだそうだ。ヴェネツィアのパンは塩味がききすぎてまずい!と言ったとか。どこに書いてあることなのかを聞き忘れたが。知っている人は教えて下さい。
 

2013年2月11日月曜日

やっぱりピザ、なつかしの尾道

いや〜、学年末は慌ただしい!あっという間に日が流れていく。「流れる」。1月はあっという間に過ぎ、節分も丸かぶりをすることなく終わった。と、流れるという言葉を使ってみたら、そういえば成瀬巳喜男の「流れる」という名画があったな〜、と思い出した。レンタルして久しぶりに、と思ったが、見る時間がない。そして、もうひとつ。似たタイトルのイタリア?映画があったように思うのだが、検索しても出てこないので、こちらは勘違いか?ともかく流れている感覚は嫌いではない。成瀬監督の映画ににはそんな感覚がよくある。「浮雲」もそうだった。それに刺激されたに違いないアキ・カウリスマキの「浮き雲」のシーンは今も頭の中に残っている。ということは、年が明けてから成瀬モードで過ごしていたのか。
美大系の大学にいると、学年末は学生たちの展覧会が多い。知り合いの学生(卒業生)の展覧会にはなるべく行くようにしているし、学内での終了発表会もある。そして、画廊のオープニングに行ってしまうと、二次会なんかがあって、ついつい飲み過ぎることになる。楽しいけど、その疲れが取れないのだ。控えよう!
さて、前回のブログ(何とお正月だった!)から今日までの手帳を見ていくと、やっぱり用事が多かったことがわかる。といっても、企業で働く人に比べれば大したことはないと思うが。そんな1月2月だったのだが、それでもピザを食べている。というより、いつもピザを食べたいと思っていると言った方が正確だが、そんな言い方をしたいのだ。そうして(何が?でも「そうして」という接続詞が合うのだ、ここでは)、久しぶりにぼくのイメージに近いピザ屋を見つけた。自分を「ピザに行き着いた者」と妄想しているので、ヘンな言い方だが、どんなピザでも美味しく食べれるし、満足はするのだが、やはり、イメージに近いピザというものがある。そんなピザ屋を発見したのだ。上賀茂神社の脇にあるPizza Pazzaというイタリア人の若い兄弟がやっている店である。映画監督タビアーニ兄弟には似てないが(年も違うし・・・「サン・ロレンツォの夜」はよかったな〜)、「イタリアの兄弟」って語感、何かいいよね。ともかく、小さな店でおしゃれでもなく気取ってもいない。最初は(1月に行ったとき)ここ美味しいのかな〜と、少しの不安感を覚えたのだがーというのも食べログでは点数が低かったのでー、ただ、店の壁に掛けられた小さなレリーフ絵というのか、それが目に入ったので、違いを感じたのだが。そこに彫られた都市風景を、見たことがあったのだ。ピザを食べながら聞いてみると、やはりパドヴァにある老舗カフェ「ペドロッキ」ではないか。あの(美術史をかじったことのある人には「あの」ということなのだが)、ジォットのスクロベーニ礼拝堂のある町の有名カフェ。聞いていけば、「イタリアの兄弟」はパドヴァ出身なのだった。
そのことがわかる前から、つまりピザを注文し、食べ始めてから、ピザの味が「これは!」であったので、いろいろ質問していったところパドヴァ出身とわかったのだった。生地の薄いイタリアのピザである。ロマーナ(アンチョビ入り)、マルゲリータ、あと1枚(何だったか)、勤め先の若い職員と一緒に食べたピザは、食べログへの不信感を増幅させることになったのだ(思わず、食べログに投稿してしまった)。そのあともう1度行き、そのときの4種類のチーズのピザも最高だった。
ぼくの見るところ、現在、日本のピザではやっているのはナポリ風(あるいは南イタリア風)という生地にモチモチ感のあるピザのようだ。ナポリがモチモチ感というのは知らなかった。少なくとも、ずいぶん昔にナポリとその周辺で何度も食べたマルゲリータにそんな印象はなかったのだが・・・。ともかく、日本のピザの多くは、ナポリなら「ナポリ風」と「風」がつくピザである。このことを悪く言うわけではない。本場を知っていることをひけらかそうというわけではないが、「ナポリ風」を「本物」に仕立て上げてはいないか。つまり「風」を本物とする思考だ。外から内へと入ってきたものは、どのようなものであれ内側では「風」なのだ。その「風」をいかにも「本物」のようにしてしまうことに違和感があるのだ。そうした志向なので、ピザはおしゃれなものになる。外のものは移植されると「おしゃれ」にはなるのだが。パリのお好み焼きも、フランス人(日本好きの)には「おしゃれ」である。店構え、サービス、もちろんピザ自体もおしゃれを志向する。でもね〜、どこかおかしい。日本のピザの多くは(といってもぼくの数少ない体験からにすぎないが)、「イタリア風」ピザなのである。そのことを自覚することが必要なのだ。「風」であることをわかった上で食べる。
ただし、たまに「風」でないものがある。Pizza Pazzaのピザはそんなことを考えさせてくれた。だから、日本では異端である。食べログにつけた4点は低かったと反省。
この1ヶ月あまりの食べ物のことでいえば、入試の監督で出張した広島の帰りに尾道に寄った。これは2月初めのこと。有名なラーメンも食べたかったし。その前に、まずは広島の広島焼き。いつも思うことだが、いまいちノリキレナイ。タレが甘すぎる。また、広島の牡蠣。それも身がふっくらしすぎていて、カキフライにはいいが、そのままレモンをかけて食べるにはモチャモチャしすぎ。ピザのモチモチ感志向と似ている。ぼくのような「おフランス」な人間には、やっぱりフランスの牡蠣ということになってしまう。日本にはカキフライ、牡蠣の土手鍋、酢の物等々、牡蠣料理にバラエティーがありすぎて、そのすべてに対応しようとして、ふっくら牡蠣になったのかと想像する。生で食べることだけを追求するフランスの牡蠣の方が、生としてなら、やっぱりずっとレベルが高いのではないか。でも、フランスではカキフライができないけどね。矛盾。
そうそう、尾道の話だった。駅の観光案内で「ラーメンの美味しい店はどこですか?」と聞いたら、駅構内のようなところにある2店を教えてくれた。おやおや、結託?そこで町を少しだけ歩いてみると、観光観光していて入る気にならない。観光好きなのに、演出過多だとひるむのである。そこで駅に戻って、案内してくれた2店目のラーメン屋に。醤油ベースで美味しかった。
尾道は懐かしい町である。林芙美子ではない。ぼくは尾道からすぐのところにある因島で生まれたのだ。祖母と母が疎開した関係である。2歳までしかいなかったので、暮らした記憶はなかった。そこで、どんなところかを見に、大学生のとき始めて行った。尾道で降りて船に乗った。日立造船があって(今もあるのか?)、ミカン畑もあったように思う。祖母の知り合いもまだいて、泊めてもらい、子供の頃の話を聞いた記憶だけがある。祖母が詠んだ因島の歌がいくつもあり、それが島の記憶ともなっている。そんなわけで、尾道は、自然、ノスタルジックになる。それに、ほんとに久しぶりなのに、あまり変わっていない。おそらく、祖母や母がぼくを背負って歩いた波止場から駅までの感じは、いまでもあるように感じた。それと、何十年かぶりに乗った広島から尾道までの山陽線の昔風のこと。田舎の山間、田園をうねる線路の具合、トンネル、駅(改装はされても)などなど・・・日本には戦前が連続しているところがあるんだ、と感じた。祖母や母も同じような揺れを、その風景の中で感じていたのだろう、そんなことを想像させる山陽線だったのだ。
この1ヶ月あまりの記憶が、こんなことだとは。他にも、印象に残るだろうと思ったことはあったのに、いざ、書こうとすると、何が面白かったのかが曖昧になってしまう。身の回りを流れていく時間とは、そんなことなのだろう。といっても、来週は久しぶりのイタリア旅行だ。11日間の美術巡り。解説同行。ローマ・フォレンツェ・ヴェネツィアの定番である。コンタレッリ礼拝堂のカラヴァッジオ、ベルニーニの彫刻、パルミジァニーノ、ブロンティーノ。ローマとフォレンツェは何年ぶりだろう。また、冬のイタリアなんて、何十年ぶりである。毎日ピザを食べよう。イタリア語も少し復習して。帰ってきたら3月か〜。

2013年1月3日木曜日

年末のこと、謹賀新年

 年末に書いて中断、年を越してしまった文章1。
久しぶりに風邪を引いた。今年の2月あたりに人生で始めての風邪と自覚する風邪を引いて以来だ。そのときに風邪とはこうしたものなのか、と、少し実感したせいで、数日前からの何となくだるい寒い感じが風邪だとわかったのである。酒がききすぎてしまう。10日ほど前、忘年会で韓国焼酎を飲んで奇妙な酔いを経験したときに、おそらく風邪は始まっていたのかもしれない。といって、一般的な風邪の特徴、咳や鼻水といった症状はないのだが。そんな風邪の間も外での会合に出かけてしまうので、症状が完全回復しないのかもしれない。年末だから仕方がないか。と、書いて一時中断していたら、あっと言う間のほんとの年末。我が家の大掃除の日々が始まった。まずは本の整理。
研究者としては、それほど多くの本を持っているわけではないが、でも、毎年本は増えていく。知り合いには狂蔵書家も少なくないが、その悲喜劇を見ていると、そして、何よりもネット上で本まで読めてしまう時代になり、本の時代の終りの始まりが始まったような気もする。というわけで、今年の本棚の掃除は、いらない本は売る(買ってもらう?)という掃除の方法にした。もちろん、一部だが、それでも、必要な本、不必要な本と決めていく脳心理的負担が結構ある。でも、そんなことしていたら終わらないので、もう2度と読まないだろうという本は外に出すことにした。それで、買い取りをしている古本屋に何軒か電話。そうすると、すべて引き取れませんというところやハードカヴァーの小説は難しいというところなど、いくつか条件があることがわかった。そうか〜、今や電化製品はお金を払って引き取ってもらうんだもんな〜、本もそういう時代に入ってきたのだろうとため息。古本屋との話の中でひとつ驚いたのは、現在、日本の古本の多くは中国に送られているということだった。えええ〜!おそらくそれは本としてではなく、紙としてなのか?そんなことで、3日かけて書棚と本の整理が終わった。
文章2。
12月になると、新聞・雑誌・ネットでさまざまなジャンルの2012年度ベスト、といった企画が出てくる。昔から、この手の企画が好きなのだが、この頃はどうもベストに選ばれているものがばらばらで、どこかしまりがないし、ベスト10などに入っているものを知らない場合も多い。CD売上げ1位はAKB48の「真夏のsounds good!」と書かれていてもまったく実感がない。当たり前だ、興味がなかったので仕方ない。ぼくの場合で音楽の1位を押すとしたら、といっても今の音楽を聴いてないので1位というより、今年出たCDはこれしか聴いてないのだが、Terakaftというアフリカはマリ出身の、砂漠のロックと紹介されているグループの「Kel Tamadheq」という新アルバム。このテラカフトについては、このブログで1度書いたことがある。これまで知らなかったノリで不思議な酔いに誘ってくれる。
本では『聞く力ー心をひらく35のヒント』という阿川佐和子の本が2位に入っていた。紀伊国屋の数字だ。ちなみに1位は東川篤哉の『謎解きはディナーのあとで3』。こちらはまったく知らない。ライトな推理もの?2位の「聞く力」は週刊文春に連載していた対談を集めたものなのかと思ったら違っていて、対談の経験をもとにした書き下ろしらしい。たまに文春を買うけど、この対談は読まない。どこか胡散臭くて、活字を眼でさっと追うだけで、何か読む気がしなくなっていた。でも、これだけ売れるのは、当然、何かはあるんだろうけど、1番はタイトルだろうな。「・・・の力」。何かはやっている。そして、もうひとつは「心」か。「力」の方は4〜5年前から(もっと前?)何にでも「力」を付ければいいというわけで、ぼくたちの業界も「力」ばやりだ。大学力、人間力、理解力(これは昔からあったまともな言い方でややこしい)等々、他にもいくつかある。悩むことも力らしくて、いつの間に、日本は「力」が好きな国になったのだろう。力がないので、自信がないので、「力」ということだろうが、別に力なんてなくたっていいと考えないのだろうか。ぼくとしては、「力」というイデオロギーが体質に合わない。こんなことを書いてしまうのは、ぼく自身が権力的なのかもしれないが。いいことではない。もちろん、弱いことがいいわけではなく、強さとか弱さといった2元論が怪しいのだ。物事はそんなにすっきりしない。ベストについて書いていたら、他の方向に行ってしまった。ともかく、阿川佐和子の対談集の人生論的臭さがね。
と、考えて、ぼくの本ベスト10は?と考えると、やっぱり1位は、何回か前のブログに書いた『北朝鮮で考えたこと』(テッサ・モーリス-スズキ、田代泰子訳、集英社文庫)である。いつか、こうした旅行記を書いてみたい。旅行記のスタイルの可能性を考えさせてもくれた。あとは?といって、強烈な印象をもった本は少なかった、というより、あまり読まなかったのだ。これも前に書いたが、解釈ということに疲れてきたのである。ある現象について政治的、経済的、文化的な意味を引き出してくること。そのことが面白いと思わなくなってきたのだ。意味は重要だが、意味を考えることが重要な事象と、そうでない事象があるだろう。メディアやネットを通して誰もが意味を考える、解釈の民主主義になることは、逆に、解釈が感情や隠れたイデオロギーのアリバイとなり、さらに、解釈そのものの多様性が失われ1元化してしまうという不幸に陥る、それが目の前に見えてきたような感じもする。というわけで、あと1冊だけ、ベスト2ということだが、あげておくと、こちらは専門といったらいいか、フランス語の昔の本で『ドラクロワの手紙』(Lettres de Eugène Delacroix 1815-1863, A.Quantin, Paris, 1878)。フィリップ・ビュルティーという批評家の本である。まあ、マニア、研究者向けの本。でも、読んだというより、ペーパーナイフでベージ上部を切りながら(フランス綴じなので)パラパラと見ていったのだ。口絵の銅版、そしてタイポグラフィーが綺麗で、序文からは同時代人の熱も伝わる。いい読書(見?)だった。古本屋で安く買ったのだ。これも感激した。
あと、書くべきベストは、映画、サッカー、韓流、食べ物ということになるか。
と、ここまで書いてきて中断してしまったのだ。そして、ここからは1月3日。
ともかく、年末の掃除とガラス拭きで節々がギシギシして、夜には年末・正月用のお楽しみとして借りた韓流ドラマ「ジャイアンツ」を見始めてしまったことも、ブログ中断の原因。ドラマははまった、というより、はめさせられた。全60話。ソウルの江南地区開発を舞台として、貧困、裏切り、復讐、成功、そして愛の物語、そこに現代史が絡む。まあ、韓流ドラマの王道である。家内と子供の反感(反韓ではなく、こっそり見ることに)もかなりなもの。でも、パソコンで、自分の書斎でひっそりと見る内密な時間の快楽である。だからいっそう熱も入る。こんな単純でいいのだろうか。そんなことで、正月も過ぎてきたのだ。さて、

このブログを見てもらっているみなさん、明けましておめでとうございます!2013年が、みなさんにとってよい年となりますよう!
ぼくもよい年にしたいと思います。そのためにはまず健康。誓いはたてないが考えていることはある。これまでの人参ジュースと水素水(これはまだ4ヶ月ほどだが)に加えて、もうひとつ何か毎日の食べ物を見つけたい。何がいいでしょうね?それから新縄文食の徹底化。こうした身体維持に加えて、脳の維持のために何かをする予定。中世記憶術の実践?ブログのいっそうの長文化。嫌われる!でも書くことは、何といっても脳を刺激する。自分の研究のスピードアップ。韓流ドラマを減らそう。そのかわり韓国語の予習復習はしっかりと。新しいピザ屋も見つけよう。それから、これまでの関心事にもうひとつ何かを加えたいとも思う。何?運動、情熱がわかない。現代アート、もう少し見ることに。でもこれは新しい関心事ではない。正月が終わるまで考えることにしよう。
イラン北部1970年(平氏撮影)