2012年1月10日火曜日

ブエノスアイレス2、ルッキー食堂の松尾伴内


ますます暑くなってきた。昨日と今日は37度。来た当初は、木陰が涼しいという感じだったが、この両日はそれどころではない。日本の夏と同じ。でも、濃厚さは、圧倒的にブエノスアイレスに軍配があがるので、暑さは倍増。くらくらしながら、町を歩く。ホステルの部屋にはクーラーはなく、通りに面しているので夜の騒音もはなはだしい。でも、不思議といらいらしないし、寝れてしまうのだ。このホステルの雰囲気と近くにあるlucky食堂のおかげかもしれない。Luckyと書いて正確に何と発音するのか知らないが、たぶん「ルッキー」。そう言うと答えてくれるので、そんなに違わないとは思う。
前回、カフェのことを書いたが、この食堂は、まさしくブエノスアイレスの質のいい大衆食堂。安くて美味しく、給仕が素晴らしい。常連が多く、彼らが食べる物を見ながら注文もできる。こうした場所が見つかると、その土地がいっそう楽しくなる。そこで給仕をするのはアルゼンチンの松尾伴内くん。インディオ系なのだろうか、あのチープな味が秀逸なタレントに似ている。でも、その給仕の仕方は本格的だ。この町のカフェのウエイターたちがしっかりしていることは前回書いたが、松尾伴内くんは、そのなかでもトップクラス。そのフォーマルな給仕の仕方が、食べ物を美味しくする。豪華風にするのではない。食べ物はきちっと食べよう、と言っているのだ。こうした風習はしだいに日本でもなくなってきた。
一度、インターナショナルな豪華ホテルのカフェでランチを食べたが、そのウエイターはカジュアルで今風。そんなの、もうおしゃれじゃないよ、という感じがするのに、世界中でこうしたカジュアル化が進行中である。ぼくもそうなので何とも言えないが、パリでも、昔風のギャルソンは減った。もちろん高級店はそうなのだが、どこかマニュアル化している。給仕はスタイルの問題ではなく、食べ物飲み物を客に楽しんでもらう気持ちの作法である。高級店はそのことを忘れている。
グローバリゼイションは作法のカジュアル化をもたらしている。ぼくも基本的にはカジュアル的なので、あんまり言えないが、カジュアルという概念はフォーマルに対応してのことである。一方がなくなり、カジュアルだけになってくると、バランスが悪い。こうなってきたのは、何が原因なのだろうか。60年後半を経験した世代のスタイルの問題だとも思う。イギリスのケンブリッジのインテリ団塊世代は、わざとネクタイなんか締めないラフな服装をしたらしいが(ケンブリッジ風と言うらしい)、日本でも同じことか。いまさらながら、ぼくの世代の無思想性を感じる。そうした意味では、ブエノスアイレスの松尾くんは思想がある。乱雑な大都市、ブエノスアイレスなのに、しっかりしたことはしっかりしているのだ。ここが魅力でもある。
そのルッキー食堂で、ぼくにとって一番なのは、アルゼンチン風(?)タルエニーリ。イタリア移民の多い、この国にはそのレストランとカフェが多い。しかし、移民によって文化は変容する。ガイドブックでは、ここのパスタは評判がよくない。でも、でも、トマトソースに
骨付き肉を絡めたソーズを、名古屋のきしめんっぽいタルエリーニにかけたパスタは、かなりのものだった。いろんな文化に味付けされて変容する食べ物。パリのラーメンのように、ルッキー食堂のタルエニーリは、ブエノスアイレスの、おそらく歴史も凝縮されているはずだ。もう1品。トルティージャ(オムレツ)。これもスペインのものとは酸くし違う。
ともかく、ルッキー食堂を発見してから大カロリーオバーである。長く食生活のベースにしてきた新縄文食を守ることはできない。郷に入れば・・・。おそらく、パリに帰るころには腹がブヨブヨになるだろう。ブエノスアイレスは、おしゃれ地区を除いて、肉付きのよい(よすぎる)男女がすごく多いので驚くが、それを気にしている風もない。ダイエットは中流あたりまでの人には無縁のようにみえる。ただし、おしゃれ地区は違う。スリムな人も多い。この対比は、健康志向そのものがグローバリズムのイデオロギーであることを語っている。どっちがいいのか。健康志向に取り憑かれること。食べる欲望に身を任せること。考えてしまう。アルゼンチンは考えることは多い。

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