2012年1月13日金曜日

アルゼンチン/リナレスへの旅1


アルゼンチンにやって来たのは、エゼキエル・リナレス(Ezequiel Linares1927-2001)という画家の足跡を追い、その作品を見るためである。ここでも何度か触れてきた。そのリナレスの作品にやっと会えた。アルゼンチンの北部のトゥックマン(Tucman)という町で、である。ともかく、ここまで来てしまったのだ。
どうして、こんなにも惹かれるのかは簡単には説明できない。美的経験を説明しがたいというのではない。リナレスの絵画の持つ力が感覚を動かしている。その感覚は、ある意味で、経験の総体とも言えるものなので、その魅力を語ることは自分を語ってしまうことになる。長い時間がかかるだろう。ここに書くのは、そのほんの一部。
リナレスの作品に初めて会ったのは、10年以上前に幕張で行われた国際美学会議でのことである。そこでトゥックマン大学美術学部の女性教授が「現代アルゼンチン絵画におけるバロック性」、確かそんなタイトルで何人かの画家をスライドを交え紹介したのである。その一人にリナレスがいたのだ。スライドを通しての絵に、ただただ驚いた。いままでに見たことのない絵画だった。そして、発表終了後に、その教授に話を聞きに行った。「誰なのか」と。そうしたら彼女がリナレスの小さな個展のカタログをくれた。
そのとき、リナレスの旅をしようと思ったのだった。
昔からアルゼンチンという国も気になっていたことも重なる。大昔、初めて仲良くなった外国人がアルゼンチン人の男二人連れ。そのフォルクスワーゲンで数日スイスを旅行をした。タンゴも昔から好きだった。でも、それはパリ経由のコンチネンタル・タンゴ。そして、もちろんゲバラ。それから70年代から80年代は南米文学とマラドーナ。文学についてはえらそうなことは言えないが、サッカー選手を通してアルゼンチンを感じてきた。
リナレスの絵にはガルシア・マルケスの「百年の孤独」と似たような感覚があると感じる。マルケスはコロンビアの文学者だが、生まれは1928年。そして、リナレスは1927年。そして、ゲバラも1928年。ある時代の南米の世代的共通性というのがあるのかもしれない。ただし、それまでアルゼンチンの美術についてはほとんど知らなかった。情報もないし、スペイン語もほとんどできない。何よりも、日本でアルゼンチンの美術について書かれた本を見たことがない(あるのかもしれないが)。フランスには少し紹介されていたが、リナレスについての情報はない。現在では少しずつアルゼンチンの現代作家が世界に登場するようになっている(感じがする)が、長い間、何人かの作家を除いて、その美術は知られていなかったのは間違いない。
そんな国に、リナレスのような画家がいたことも驚きだった。長い間、美術史という領域で仕事をしてきたが、これはかなりショックだった。そして、少しずつわかってきたのだが、アルゼンチンの近代美術史は、日本と同じようにかなり捩じれていた。意味合いはかなり違うが。ただし、リナレスはそうした捻れの中で語ることのできない画家だとも思った。彼の絵画的想像力を刺激しているのは、アルゼンチンの美術界ではない、あるいは美術という領域でもない、それよりずっと大きなもの、そんな感じを強く持つ。そして、絵画にそのような力があることも。
エゼキレル・リナレスはブエノス・アイレスに生まれている。そして、そこの国立の美大(Escuela Superior de Bellas Artes)で学んだあと、アルゼンチンの新しい美術運動「スール」(Sur)というグループの結成(57年)に参加する。ヨーロッパの動向に追随しがちなアルゼンチンの美術が自意識に目覚めた運動のひとつだったという。今から見ると、といっても最近わかったのだが、その傾向はフランスのアンフォルメル、アメリカの抽象表現主義、そのあたりと共通する抽象だ。その時代の作品も今回見ることができた。その後のリナレスとはまったく違う、近代絵画そのもの、つまり色と塗りによる、絵画性を求める表現。
このアルゼンチンでの抽象の流れは、実は、日本人も関係していた。酒井和也という日系画家だ。日本でどのくらい知られているかわからないが、ブエノスの国立美術館にも作品があるくらいだ。この画家のことについても調べたいが、それはリナレスを追いかけることとは別の意味合いになるだろう。ともかく、リナレスは注目されたのだ。そして、国の外でも活躍する(ラテンアメリカとスペイン語圏だが)。そのリナレスが1960年代の前半から突然変わる。ブエノスを去り、北部のトゥックマンという町に移ってからである。そこで美大の絵画教師になり、その地で一生をまっとうする。
あんなすごい絵を描くのだから、国内ではかなり知られた画家だろうと思い、最初にブエノスの美術館でリナレス巡りをしようとしたのだが、これがまったく見つけられない。2010年にシヴォリという小さな美術館で回顧展があったが、大きな注目を集めたとまではいかなかったそうだ。ラウラさんという美術批評家に聞くと、ブエノスで常時展示している美術館はないし、所蔵している場所も彼女は知らないという。つまり、首都では知られていないのだ。いわゆる地方の画家ということなのだろう。典型的な芸術家のパターン。若い時期、中央で名を知られたが、その後田舎に引っ込み次第に中央から忘れられていく。なじみの近代画家物語のひとつである。しかし、この物語で決定的に忘れられているのは、そのことが創造と関わることが稀にあるということだ。再発見の物語のことを言っているわけではない。再発見とは、時代の趣味やマーケットの問題である。リナレスは、そうした物語とも違っている。作品を前にしてそう感じる。
リナレスは、トゥックマンで変わる。それもドラスティックに。それまでの抽象を止め、アルゼンチンの現実を描き始める。ほぼ2年間で完全に作風が変わったという。そして、独裁者、サーカス、タンゴといったモティーフが、濃厚なエロティシズムを伴い絵画という表面に定着するようになる。知り合いに絵を見せると、フランシス・ベーコンに似ているという。実際、こちらで知り合ったリナレスの学生だったギャラリストは、リナレスはよくベーコンのことを話していたという。もちろん、影響ということはあるだろう。80年代にマドリッドとパリに滞在してもいる。しかし、その絵はベーコンとは別だ。見ているところが違うと言ったらいいか。南米という土地固有の現実。エロティシズムは、そこでの「生」の象徴なのだと、絵を見ていると感じる。アルゼンチンに来て、その現実を少しだけ感じることができた。そして、ブエノスを離れトゥックマンに行くことになったのである。リナレスへの旅の最終目的地。

0 件のコメント:

コメントを投稿