2012年1月21日土曜日

旅の終り、盲目のストリート・シンガー

本当に旅行をしたという感じだ。ヨーロッパやアジアを旅行するのとは違った、違和感といってもいいが、どこかゴツゴツするものを感じる、そんな旅行だった。もちろん、これはアルゼンチン、あるいは南米という風土と関係しているのだろう。その感覚は、リナレスのそれでもあった。そして、トゥックマンを離れる日、リナレスが長く勤めたトゥックマン大学の美術学部(昔は美大)を訪ねてみた。夏休みで入れないとは思っていたが、やっぱり。守衛のような人に「入れて」と言ったがもちろん断られてた。でも、こんな校舎で教えていたんだなということがわかり、またまた想像(幻想?)が刺激された。その一角に、新校舎建設の看板が。昔の記憶がひとつなくなることになる。その前でよかった。
リナレスづくしのマルコの町だったが、最後にもうひとつちょっとした驚きが待っていた。
リナレスの絵を見た興奮を、メンドーサ(有名なワインの産地)のワインで気分をまろやかにし(これは言葉のあやで、ワインもちょっとゴツゴツしている)、小さな繁華街をほろ酔い加減で歩いていた。すると、キレイな歌声が聞こえてきた。普通、ストリート・シンガーに足を止めることはほとんどないが、透き通った高い声(平凡な形容でいやになるが)、メランコリーなメロディーに引き寄せられて、聴いてみようと足を止めた。これが驚いた。盲目の若者が、ギターだけで、アルゼンチン、あるいは南米?わからないが、泣けるようなフォルクローレ(広い意味で)な歌を歌っているのだ。30人あまりの人が聴いていた。1曲終わると心からの拍手とブラボー。ぼくも思わず叫んでしまった。そして、置かれた空き缶に次々とお金を入れていく。歌を聴いていた全員が、空き缶にお金を入れた。こんなことは普通ないように思う。もちろん、ぼくも1曲終わるごとに入れた。隣でビデオカメラを回しながら聴いていたアイスランド人夫婦(不思議なカップルだった)も感動して、フェイスブックの「いいね」というのとは、まったく違う「いい〜」を連発していた。この夜、ここにいて幸せだった。偶然の幸せというのは、ときどきある。そのひとつだった。
付き添いなのか、横に座っていた美男子くんに聞くと、若者は少し知られているミュージシャンで、ブエノス在住とのこと。何でこんな所まで来て路上で歌っているのか不思議だったが、Youtubeでも見てくれという。その夜、もちろんチェックしてみた。彼はNahuel Pennisiという歌手で、コンサートにもテレビにも出演していた。テレビや大きなコンサートの音は、聴いたばかりの路上ライブには及ばなかった(実際はわからないが)。すごく路上が似合う歌手だったとも思う。ブエノスのおしゃれなランブハウスで聴いた、ポップスグループとは雲泥の差。アルゼンチンで、それもリナレスのトゥックマンで新しい音楽経験ができたのも収穫だった(チープなカメラビデオで撮った動画をアップロードしようとしたら、失敗。何とか聴いてもらいたいので、また試みます)。ますます、アルゼンチンが好きになっていく。
音楽のことでいえば、ブエノスでタンゴを聴きに行くつもりでいたのだが、結局やめた。観光地区のストリート・タンゴで何となくいいや、という気持ちになったからだ。これは正解だったのかもしれない。パリに帰ってボルヘスの対談集(80年代前半の対談)を読んでいたら、この奇想の詩人は「タンゴは終わっているよ。今はロックでしょ。」と断言していて、やっぱりね、と独り合点。それより、ペニッジ君だったのだ。
こうして、帰る日が来てしまった。最後にルッキー食堂でピザを食べようと思ったら夏休み。伴内くんと女将さんにアディオスを言えなかった。また、帰る日にブエノスの「ボルヘス文化センター」を訪ね、知り合いから紹介されたカロリーナさんとマリア・デル・カルメン・カルビ(すごい名前)さんと会ってアルゼンチンの現代アートのことなどのことを聞く。すごくダイナッミックなセンターだった。やっぱりボルヘス?
ともかく、すごく気持ちのいい旅だった。暑さで疲れたが、それもあって、最高にサービスの悪いアルゼンチン航空も苦にならなかった。サービスという概念がないのだ。日本はちょっと過剰だが。そして、パリへ。何か懐かしく、それもやけに落ち着いていて、気持ちが悪いくらい。地下鉄に貼られたコンサート、展覧会、映画、芝居、見本市などなどのポスター。ここでも書いた「文化の狂乱」の情報都市が落ち着いて見えるほど、アルゼンチン(二つの都市だけの印象だが)は、今もなおいい加減な人間の熱気が充満していたということなのかもしれない。本屋でいくつかのアルゼンチンとラテンアメリカの本を買って、もう一度、気分を思い出している。もう1月も下旬。滞在も残り少なくなってきた。

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