2012年9月23日日曜日

解釈と意味・自分にご褒美・スパゲッティー・ナポリタン

9月に入って、横浜の都市文化ラボで精華枠の授業に参加し、次の週は、東京でのシャルダン・シンポジウムに参加。久しぶりに、フランス18世紀絵画の雰囲気に浸る。そもそも、この業界(美学美術史とかいったことだが)に入ったのがフランス18世紀美術というレッテルで、大学院以来20年近く、オーソドックスな美術史をやっていたのだ。シャルダンはすごく気に入った画家だった。そんな狭い世界にいたのだが、別のことも考えたり発表したりもしていた。でも、外から見れば、オーソックスな18世紀美術史研究者だということになる。業界入りのレッテルはなかなか取れないのだ。オーソドックスというのは、ある画家や美術現象にポイントを絞って研究する、具体的には資料を集め分析し、そこから新しい問題点を抽出して、何らかの解釈を与える(与えようとする)ことだが、その「解釈」のためには、何らかのイデオロギーがいる。イデオロギーといっても、昔のマルクス主義のようなガチガチの思想のことではなく、解釈のベースとなる思考のことだ。そうした解釈に何か身が入らなくなって、10数年前から、少しずつ距離を置くようになった。解釈の窮屈さ。年齢(怠惰)と時代が関係しているのだとも思う。でも、身体が軽くなる感じはする。
ある物事を理解するとき、ほとんどが、そこに意味(言葉)を与えることで理解できると思っている。その「意味」というのは、一般に物事という現象の奥にある意味を支える思想や観念に結ばれたものであることが多い。でも、20世紀の後半に、それまで支えてきた思想や概念の効力が弱くなってしまった。マルクス主義が典型だが、そうした支配的な思想がなくなってきた時代、意味を与えることはものすごく難しいことなのに、意外とそのことについて意識されていない。
物事に意味を見つけることが無駄だとは言わないが、評論家、思想家、研究者と言われる人たちの、解釈構造と、ワイドショーのコメンテイターや政治家の意見を発する構造が、ほとんど同じようなことになってきてしまっているのも、「奥」にあった基盤(思想)が弱くなってきた結果、解釈が平板なものにもなってきたためだろう。ぼくに関心があるのは、物事の意味を生み出す解釈のプロセスの構造といったものなのだが、実際は、どのように考えたらいいのかわからない。
少しややこしい(ぼく自身も)話になってしまったが、言いたいのは、ある物事の「奥」に、何らかの意味を考えることがつまらないと思えてきたということだ。となると、当然、目の前の具体的なひとつひとつの物事に接触することに傾いていく。悪くいえば、刹那的ということかもしれないが、これがなかなか楽しいし、楽でもある。たとえば、サッカーのボールと選手の動きを追う。そうして、最後のゴール。そこには、もちろんテレビでの観戦なのでヴァーチャルだが、快楽といった感覚がある。これがいいのだ。でも、そこで「日本的サッカー」とか戦略の話を持ち出して、ゲームの意味を解釈しようとすると、つまらなくなってしまう。もちろん、解釈には面白いところもあるが、それは意味が見つかるからではなく、解釈する言葉(パロール)の彩(あや)が面白いということのような気もする。でも、物事に意味を与えないことは不安でもある。意味が「私」や「世界」をつくってきたからだろう。
こんなことを書くのは、ひょっとしたら物事に、昔のように「本当の意味」(真実)をぼくが求めているのかもしれないが、それが難しいとわかっているのに、「意味を求めること」をやめられないからかもしれない。矛盾したことだが、意味という「奥」と、現象という「前」。今は「前」が面白いということなのだが、そこには感覚的なことが大きく関与しているので「楽しい」。といっても、ただ、「楽しそうにしている」だけかもしれない。何か年寄り話になってきたので、ここらで止めることにして、もうひとつだけ9月雑感を書いてみる。
先週の授業で、女子学生が「自分にご褒美」ということを言った。その語調のためか、何かすごく面白くて、最近よく目にする「自分にご褒美」ということを考え学生たちに適当なことを話した。いつ頃から、この言葉を耳にするようになったのか。最近のことではないだろうか。「褒美」というのは、基本的に他者にあげるものなのに、それを自分にあげる。となると、その「あげる」主体はだれなのか。もちろん「私」なのだが、「私にご褒美」とはあまり言わない。「自分」にだ。となると、この「自分」は、あげる「私」とどういう関係にあるのか。そのことが面白くて考えたのだ。
もちろん、素直に考えれば、このところ仕事を頑張ったので、ゆったりしようと思いちょっと豪華な夕食をするとか、普通とは違うことをする、ということなのだろう。そうしたことは、ぼくなんか毎日のようにやっている。これを書いている日、屋根の掃除をしたのだが、それだけで、夕飯を豪華にしたいと思ってしまう。屋根掃除で「ご褒美」はないだろうがー単純に肉体的なことに「ご褒美」はない感じがするー、そうした自分の頑張りのような経験を「自分にご褒美」という表現で表すところが面白いのだ。ここでは、私がもうひとりの私=自分を想定する。自我の二重化?あるいは、無意識の前景化?もうひとつ興味があるのは、「自分にご褒美」を使うのは主に女の人、それも年齢に関係ないと見える。男が使うのはあまり聞いたことがない。
ちょっと否定的に考えると、「私」の小さな自己完結物語を作っているとも見える。「頑張る」のは、あるいは「頑張った」のは、「私」だけで成立するものではないのに(私は他者との関係で成立しているから)、すべてが「私」の、それももう一人の「私」の行いとなっている。こんな風に考えていくと、すごく哲学的問題になっていく。でも、その意味をあまり探っても意味はないだろう。ただ、現在、「私」がすごく揺らいでいることは間違いないのではないだろうか?そして、「私」が狭い領域に閉じ込められようとしていることも。理論にならないことをだらだらと書いたが、ひょっとしたら、これが9月の心象風景かもしれない。この風景を心に設定するのも「私」と関係するのだが。ともかく、近代社会は「私」というややこしいものをつくったものだ。
こんな文章はうっとうしいなと、自分でも思いながらも、ブログ更新のために書いてしまったのだが、アップするその日、久しぶりに日本近代料理の代表的一品「スパゲッティー・ナポリタン」をつくった。休日の昼間、昔の火曜サスペンスドラマを見ながら、妙に食べたくなったのだ。ただし、正統「ナポリタン」ではなく、変調。タコ・ウインナーのかわりに美味しい浜松のベーコンをたっぷり。いためる油はサラダ油のかわりにオリーヴ油。スパゲッティーも「オーマイスパ」ではなくイタリアもの。ただし、野菜は定番のタマネギ、ピーマン、人参。もちろん、このスパのポイント、ケチャップはカゴメ、それもたっぷり。チープな味は少し失われたが、味はなかなか。口のまわりに油を含んだケチャップがべったりついて、ここは正統スパゲッティー・ナポリタン。そうして食べ終えると、サスペンス劇場のフィナーレ。あの竹内マリアの「シングルアゲイン」。これがスパゲッティー・ナポリタンの食後にぴったり!ノスタルジー?
解釈、自分にご褒美、スパゲッティー・ナポリタン。妙な3題ブログになってしまった。


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