2014年1月29日水曜日

新年の挨拶をと思っていたが・・・、大滝詠一やかっこいい人たちのこと

 年を越すまでにブログを更新、と思っていたけど、やっぱりできなかった。年末の大掃除が大変だったのだ(恒例だが)。腰が少し悪いし体を動かす習慣がなくなったので、重労働となる。掃除そのものは好きなのだが、身体がね。そんなことで2014年となってしまった。年を越えるときは、いつも近くの法然院。除夜の鐘をつくため。もちろん。このお寺はやってくる人は拒まないという、ほんと仏教的慈悲に満ちているので(お寺なので当たり前か)、1回目の鐘つきが終わっても2巡目をしてくれる。ぼくたち家族は、いつも2巡目なので「今年は何とか1巡目に」と早めに行ったのだが、やっぱり2巡目。紅白のせいだったかもしれない。久しぶりに、それなりに見た。「あまちゃん」の大ファンだった次男がチャンネル権を持ったせいである。けっこう楽しかった。八重さんのMCらしからぬ司会ぶりも楽しめたのと、「あまちゃん」の紅白のっとりも悪くなかった。もうひとつ五木ひろしの「博多ア・ラ・モード」。昔のラテン調歌謡曲、AKB48その他のバックコーラス・ダンスが最高で、とりわけ指原梨乃の仕草。AKB48への偏見は、2013年の最後にふっとんでしまったのだった。
その日、大瀧詠一が亡くなったというニュースが。ぼくのような「はっぴいえんど」世代にはずしんと響くことだった。昔、一度会ったことがあるのだが、あまり話さない人だったような記憶がある。ともかく大瀧詠一みたいにポップな感覚をもったミュージシャンはいなかった。あとは鈴木慶一のはちみつぱいとムーンライダースぐらいだろうと思っている。「はっぴいえんど」を再結成をしてほしかったのに!伝説のグループは、頭の中にしかなくなった。大瀧さんの死を聞いて、昔、新譜ジャーナルというフォーク・ロックの雑誌の編集をやっていたときに(3年間ちょっとの短い期間だったけど)、1973年の文京公会堂での「はっぴいえんど解散コンサート」のレヴューを書いたことがあったな〜、と思い出したのだった。自分では出来がよくて、後年の学術論文より充実していた感じがする。でも、バックナンバーがないので、ひどい文章だったかも。その雑誌をネットで探したけど見つからない。そんなことでバックナンバーを探していたら、キャロルの新譜ジャーナル別冊が何と15万円以上もしているのにびっくり!編集していたからよく覚えている!その上、何册か家にもあった。手元にちゃんと置いておくんだった!金銭のことだけでなく、とっておくものとほりだすものの区別は難しい。
去年の弟のときもそうだけど、同世代の人の訃報は、また別の人のことを思い出させる。そういえば、西岡恭三も高田渡も鬼籍に入ったのだった。はちみつぱいのかしぶち哲郎も。いい時代だったというべきか、ノスタルジーの甘さのせいなのか、細部が捨象される過去は、頭の中で「いい時代」なのだろう。
今年は正月から文章を書いた。長くやっている仕事に本腰をと思ったこともあるし、知り合いの研究者が大大著書を送ってくれたこともある。そして、何事もそうだが、本腰を入れると面白いこともあるが、少し疲れる。(ここまで書いて10日以上中断。話題が古くなってしまったが残すことにした。お正月はかなり前のような・・・。そして、やっと再開。すでに節分間近なのだった。だらだら日記のようなブログは、ネタがすぐに旬を過ぎてしまうので、ちょっと書くことを変えようかなとも思っているのだが。)

そうしている内に佐久間正英さんが亡くなったとの知らせがメールボックスに。もう少しいてくれるだろうと思っていたけど・・・、言葉は出てこない。人の死とはこういうことではないのかとも思う。佐久間さんを直接知ったのは短い期間だったけど、知り合えてよかったと、心から思う。ぼくの思う才能あるかっこういい人と少しだけでも知り会えたのは幸せだった。「かっこいい」というのは、すがたかたちのことではなく(そうした場合もあるけど)、「かっこ悪さ」を抱えたかっこよさ、とでも言っていいか。「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という早川義夫の歌に通じるかもしれない。
フランス映画でベルトラン・タベルニエ監督の「田舎の日曜日」というのがあった。田舎に暮らす老画家のところに娘が訪ねてくるという単純な話なのだが(はっきりと覚えてないところも多い)、その中に、確か、「お父さん、これまで何が一番幸せだった?」という娘の質問に「ゴッホと少しでも同時代を生きたことだよ。」といったようなことを、何とも言えない顔つきで老画家が答えるシーンがあった。こうしたことが好きなのだ。才能あるかっこいい人と同じ空気を吸う、こんな喜びがあるだろうか。有名人ということではない。世の中に知られていないが、そうした人は少なくない。というより、こちらの方が多いのだ。そうした人と出会う、そして、できれば少しの付き合いを、さらに長いこと続く知り合いになることが楽しいのだ。目標になることも少なくない。才能ある人の「かっこいい」ことは、優れた本を読むように身体にしみ込んでくる。そうした年上の人、友人、同僚、若い人の中にもいる。ぼくが旅行が好きなのも、どこでも人に図々しく声をかけるのも、そうした人にまだまだ会いたいためなのだ。そして、出会うことも少なくない。誰々と同時代を生きることができること、できたこと。いつかそんな同時代日記を書いてみたい。
そんな才能あるかっこいい歌手から、去年の11月末頃か、突然メールが来た。上で書いた雑誌編集をやっていた時代に知り合った歌手からだった。ぼくたちはキーボーと呼んでいたので本名を知らなかったのだが、ともかく、60年代末から70年代のフォーク・ローック・ムーブメントの中にいた歌い手である。声が伸びやかで、自作の歌には何とも言えない叙情性があったことが頭に刻まれている。実際、仲も良かった。レコーディングにも付き合ったし、レコード・ジャケットの裏側に「Thanks」とクレジットもしてくれた。その彼からのメールである。長いアメリカ暮らしのせいなのか、不思議な文体でのメールだった。日本の音楽業界に嫌気がさしてアメリカに行き、美術史研究者と暮らしていたとのことだった。彼とは何か縁があっただろう。そのキーボーが40年近くぶりにアルバムをつくったので、何か書いてくれということだったのだ。憶えていてくれたことが1番うれしかった。どんな声になっているのだろう、何を歌うのだろうと、CDが送られてくるのを待っている。
ミュージシャンの話ばかりになった。最初は別のことを書こうと考えていたのに、大瀧詠一のことで音楽の話になったのだ。でも、別のことは何なのかと思い出そうとしても(社会のこと?映画のこと?哲学的なこと?何だったのか)、思い出せないのだが。ともかく、1月のブログは長くすると決めているので、もう少し続けてみる。実は、1月は大学に行く以外は家にいて原稿を書いていたので、あまり面白いことをしてこなかったし、才能あるかっこいい人や奇麗な風景に会うこともあまりなかったのである。本もたいして読んでいない。
French Libraryというブログなのに、このところ本のことを書いていないのは看板に偽り的だと思うのだが、なかなか読む機会がないのだ。最近では、銀閣寺の古本屋で、新書や横光利一の随筆を買って読むくらいのことはするが、「身体にしみ込んでくるような」本は読んでない。ただし、例のプルースト(このブログのどこかで書いたことがある)は別。ただし、継続中だがなかなか進まない。それも当然。昼前に起きて(もちろん家にいる日は)昼飯を食べて、プルーストの第8巻(平凡社の文庫本なので全10巻。やっと終わりが見えてきた)のしおりを挟んだページから読み継いでいく。下関の練りウニの10倍以上に練り込んだ文体、さまざまな比喩、心理、風景描写等々を読んでいくと、20ページもいかないうちに眠くなってくる。その上、寝転がって読んでいるので昼寝へと落ち込んでいく。でも、この瞬間の気持ちよさ。とくに、この季節の晴れた日、窓からの光が身体に当たって恍惚に近い気分。これも読書のひとつのスタイルである。1月、家にいるときは、こんな昼間を過ごしててきたのだ。
このブログでの定番メニューの食べ物のことも、正月の寒ブリやふぐ以来、美味しい!というものがあまりないが、ひとつ食べ物の嗜好に変化がおきたような気もする。米が好きになってきたのである。理由はわからない。外国に行っても白いご飯を食べたいとほとんど思わなかったので(食べるけど)、米が好きではないと思ってきた。最後にお茶漬けということもまったく習慣がなかった。それに、10年ほど、新縄文食という炭水化物を少なくするダイエット的な食生活なので、米はますます遠ざかっていたのだった。それがそれが、去年の終わりの頃からか、あるいは今年に入ってからか、米は美味しい!と感じ始め、昼によく食べるようになった。それも、同じような食べ方で。大振りの茶碗にたきたてのご飯。そこに「しそわかめ」という山口萩の井上商店のふりかけと乾燥梅を少し、そして生卵と混ぜ、豊橋の苔苔(有名ではないが美味しい)で食べる。汁物はとろろ昆布にだしをいれたもの。シンプル!米はけっこういいものらしい。家にいるとき、とくに一人のときは、この昼飯が中心だ。その後、書いたように『失われた時を求めて』のプチ読書。白米とプルーストが眠りに入る前に頭の中で混じり合う。こんなこと書いていると食べたくなってきた。さっそく明日の昼飯は。米好きになったのか、この冬の気まぐれか。春になったら、ほんとに米が好きになったかどうかがわかるかもしれない。といっても、春はもうそこだ。

2013年12月9日月曜日

忘れていた時を求めてー本間千代子、石坂洋次郎、青春歌謡 etc.


気持ちが過去に向くときがある。どうしてかといろいろ考えてみると、歳のためだとか弟のことだとか、あるいは台風、はたまたシェーキーズだとか、原因はいっぱいある。何で台風やシェーキーズが過去を呼び覚ますの?っていうのは、あまりにも個人的にすぎてわからないだろうけど、ちょっと説明すれば、台風は1959年の伊勢湾台風を、シェーキーズは60年代のカルフォルニアという過去を呼び起こすのだ。この文章、ちょっと論理がおかしい?つまり、過去に向くという気持ちが先にあって、過去に向くのか、ある事象が過去のことを喚起するのか、はっきりしてないからである。もちろん、相互的関係なのだが。
訳のわからないことを書いているが、ともかく、この秋、昔のことが気になり、そのおかげで、すごくカンドー的(感動的と書くより、カタカナなのがいいでしょう?)な過去に会った、というか再発見したのである。忘れていたことを思い出したといったことである。まずは、そのことを書いてみる。そして、そのカンドーのために、この1ヶ月、頭の中には歌が鳴り響いてもいる。1960年から70年代の青春歌謡やムード歌謡と呼ばれたベタな歌ジャンルの歌のことを思い出したからである。直接のきっかけは、大阪テレビ(偉大な東京テレビ系)で、夕食を食べながら、ふと普段見ない「懐かしの歌謡曲」(正式な番組名は忘れた)といったたぐいの特番を見たことである。こうした「なつかし」番組は、過去と現在の時間の落差を喜びや残酷さとともに感じさせるので楽しいのだが、そのなかで、舟木一夫、和田 弘とマヒナスターズ、フランク永井、松尾和子、あるいはロスプリモスとか、とか、を、久しぶりに聴いたのだった。「なつかし」番組には、昔のスターの残酷な姿を見る喜びもあるが、スターたちが若かった昔の映像を流すことも少なくない。そんなことで、Youtubeで検索し、始めてフランク永井と松尾和子の「東京ナイトクラブ」を口ずさんだ。男女のデュエット曲である。以来、メロデイーと歌詞が頭から離れないので困るのだが、できたら一度カラオケでデュエットしたいな〜と本気で思い始めた。実は、何か恥ずかしくて、これまでカラオケでデュエット曲を歌ったことがないのだ。では、誰とデュエット?頭が痛い!
ともかく、歌謡曲についていえば、何故か忘れていた。21世紀に歌謡曲がないからかもしれない。テレビの数少ない音楽番組はポップス?かなにか、ヒットした曲だけが口パクで流れる。この手の番組も少なくなったし、ぼく自身ほとんど見ない。10年以上前に飽きている。音楽番組も20世紀で終ったのだ。歌謡曲が終ったからかもしれない。ほんとうは、ポップスも全部歌謡曲なんだが。演歌は?生きているのだろうけど、テレビなどではわからない。時たま地方都市の居酒屋なんかにはいると、ご当地ソングを歌う演歌歌手のポスターが貼ってあるでしょう。「え〜、こんなのあるの」と驚くが、おそらく演歌は局地的に今でも生きているのだろう。ともかく、歌謡曲を忘れていたのは、歌謡曲という言い方、イメージ、実際の歌、そうしたものが話題にならないからかもしれない。それが番組のせいで、突然、思い出したのだ(演歌的な歌も含んで)。
全部書ききれないが、まずは、舟木一夫。詰め襟の高校生ルック。「高校3年生」とか「「修学旅行」とか、学園物で一世を風靡したが、ぼくは学園物より青春物が好きだった。「懐かしの歌謡曲」を見てタイムスリップ。名曲「君たちがいて僕がいた」「花咲く乙女たち」「高原のお嬢さん」といった名曲がメロディーと歌詞とともに頭に降りてきたのだ。そして、ここもYouTubeで検索。やっぱり昔の舟木一夫はいいな〜と、郷愁に加えて楽曲の魅力も再発見。テレビの前で「いいね〜」と相づちを家内に求めると、「遅すぎ!私は昔からの舟木一夫ファンだった!再発見ということが間違っている!」と、ファンとは何か、再発見とは何かについて論争(大袈裟な!)。実は、ファンというのは、誰もが自分が最初の発見者と考えるものなのだ。のんびりした夕食時でしょ?東京テレビのおかげ。ともかく、舟木一夫再発見で、さらなるカンドーの再発見が。本間千代子を思い出したのだ。長い間忘れていた、というより名前を思い出すこともなかった。
若い頃、かなりのファンだった。1960年代の「青春」を代表するようなルックスと声。舟木一夫は、その本町千代子とコンビで映画を撮っていたのだ。代表作は「君たちがいて僕がいた」。舟木のヒット曲をモチーフにつくられたチープな高校生物である。こうした青春歌謡映画は、いつの頃までだろうか、かなり多かった。よく見たものだ。人気歌手のヒット曲をテーマに作られているので、主演はその人気歌手。「君たちがいて僕がいた」では、当然、舟木一夫。ヒット曲が中心なので、何かとメロディーが流れるし、実際に舟木が歌う場面もある。ここでいえば、舟木が「きーみたーちがいーて、ぼくがーいたー」と歌うのである(本間千代子と仲間も一緒に歌うが)。ヒット曲が歌われることが重要な映画である。そのために、筋書きや場面とは無関係にヒット曲が主人公によって歌われることしばしば。かなり跳んだシュールな映画でもあるのだ。シネマトグラフィーの原理と映画の内的論理も無視して、ヒット曲のメロディーが映画を統合しているといったらよいか。
その「君たちがいて僕がいた」の本間千代子。おしゃまできりっとした可愛らしい女子高校生。よく知られたところでは、1963年度版の映画「青い山脈」の新子役の吉永小百合が見せるような女子高校生像である。ぼくは「小百合」世代だしファンでもあったが、本町千代子の方が少しだけ好きだったのだ。このタイプの後継者は今もいる感じがする。映画の中ではなく、現実社会に。戦後の女子高生(あるいは女子)像の原型である。
こうして本間千代子から、再発見は戦後の青春イメージへと連なっていくのだ。夕食が楽しくならないわけはない!そこで思い出したのが、小説家、石坂洋次郎である。記憶は不連続に、ただし、何かの関連を持って連なっているのだが、ここも書き出すときりがなくなる。石坂洋次郎のもっとも知られている作品は「青い山脈」だろう。他にも多くの青春小説を書いた。戦後の青春像を作った小説家である。もちろん映画にもなった。「青い山脈」もそうだ。残念ながら本間千代子は石坂原作の映画には出演していない。所属が東映だったからで、石坂の小説を原作とする映画は日活の専売特許だったのではないか。ぼくが1番好きだったのは「青い山脈」ではなく、「陽のあたる坂道」。石原裕次郎と北原三枝の主演の「エデンの東」のような映画だった。ただし、最高だったのは裕次郎の妹役の芦川いずみ。彼女も戦後の理想の少女像なのだ。何度か日本の少女像について書いたこともあり、いまだに関心をもっているのだが、まとめる時間がない。ともかく、石坂洋次郎については復活させたいと思う。本間千代子を思い出して、ますますそう思ったし、もう一度読み返そうと思うようになった。本間千代子から話しがそれてきたが、芦川いずみに触れたかっただけなのだ。もちろん、これもYouTubeでチェック。
そんな戦後の映像での「青春」というのを思い出しながら、舟木と本間千代子の映画のDVDを買ってしまったり、YouTubeを何度も見たり、テレビで昔の映画を録画したりと、昔に忙しかった10月から11月だった。そうそう、「夢のハワイで盆踊り」という舟木/本間の映画は必見。本間千代子(映画では大学生だけど)の最高傑作であると同時に主題歌がなかなか。小津の映画で馴染みの笠智衆もいい。これまでまったく関心のなかったハワイに行こうかなという気持ちになってもしまった。
こうしたノスタルジーに惹かれるのは歳のせいなのだろうか。そのせいで大学生の頃からのアバンギャルド趣味が薄くなってきたようにも思う。もちろん、今でも「小難しい」と言われる映画や文学、そして美術は好きだが、それと同時に、ベタなものの快楽がこの上なくいごこちがよく感じられてきたのだ。確かに歳だ!現在で言えば、終了してしまった「水戸黄門」的な、あるいは2時間サスペンス的なわかりやすさといったらよいか。昔の歌謡曲の歌いやすさや歌詞の当たり前さと同じである。ともかく、解釈無用というところが気持ちよく、浸れるのだ。昔なら堕落!と感じたところだろう。でも、ぼくはアバンギャルドに無理をしてきたのではないかとも思う。といっても、無理をしたおかげで、面白いものをたくさん見つけたのだが。でも、と、考える。
映画を見始めた小学校の高学年の頃から高校生くらいまでは、「銀幕のスター」(これも懐かしい言葉ですね)に憧れて映画を見ていたような気がする。女優で言えば、「9月になればの」ジーナ・ロロブリジーダとサンドラ・ディー、「ピクニック」のキム・ノバク、「ファニー」のレスリー・キャロン、「芽ばえ」のジャックリーヌ・ササール、などなど(知らない女優が多いでしょう。どちらかというと好みはマイナーだった)。男優で言ったら誰だっただろう?以外と思い出さない。ともかく、この「銀幕のスター」的な映画への視線が徐々に失われていった。現在のアイドルを追いかけることと同じと思うかもしれないが、あくまで「銀幕」がぼくの映画の始まりなのだ。
こうした映画鑑賞方が、大学入学とともに崩れてくる。おそらく、映画論というものが鑑賞術の中に入り込んできたせいかもしれない。それは「銀幕のスター」を脇において、監督論、映像論等々、芸術となっていった。フランスのクリスチャン・メッツの映画記号論なんかを読んだ記憶もある。そんな話しをしないと、映画ファンではないような雰囲気があったような気がする。それなり勉強したから、そういった話しも面白く、ぼくもときどきミーハー的映画ファンを馬鹿にしていたこともあった。こんな話しをしていくと、いろいろ不思議なことを思い出す。今でこそ小津安二郎は大監督でファンも多く、ぼくも「小津の秋刀魚の味」はね〜とか何とか、けっこう好きなのだが、実は、映画を見始めた頃はつまらない映画だと思っていたのだ。華やかさがなく、だらだらしていて。しばらくして「小津映画」というカテゴリーが出来上がり、黒澤以上に評価が上がってきて、フランスではそれこそ小津発見の時代が来た。そんなことを見聞きしているうちに、ぼくもいい映画なような気がしてきた。こんな自分の映画史も書いてみたいテーマだが、そんなことで、ますます「銀幕のスター」は遠ざかったのだ。
何か、だらだらと書きすぎてきた。おそらく、誰にでもアバンギャルド趣味とベタ趣味が同居しているように思うし、その関係は年齢や生活環境などの変化で変わるものだろう。とりあえず、今回は、前回のものが短かったので長く書いてみようと思っていたのと、本間千代子と歌謡曲の再発見がうれしくてこんなブログになってしまった。
あと少しだけ、ここ1ヶ月半のエトセトラ。ここでも何度か紹介している京都三條のシェーキーズが内装を変えた。もちろん、行ってみたが、これまでの70年代的なのんびりした雰囲気がなくなくなり、ぼくとしてはちょっと物足りない。本店の指示によるのかな?ピザといえば、あるパーティーで京都の宅配ピザ屋「リトル・パーティー」の社長さんと知り合った。ピザに関心がある人間には感激である。ぼくのピザ論(大袈裟な)を話し話しているうちに無料券をいただいてしまった。そして、久しぶりに宅配ピザを。社長がいい人であることで、美味しさはぐっとアップ。
何やかんやで、10月から11月は慌ただしかった。人に会うことも多かったのだ。大学院の授業にフランスのBD作家を2人を招いたり、四国に行ったり、そうそうアルテ・ポヴェラのミケランジェロ・ピストレットにも授業の関係で。仕事での会議も少なくない。あっと言う間の2ヶ月で、12月に入ってしまったのだ。することがいっぱいある。プレミアリーグはアーセナルが久しぶりの夢を見させてくれそうで、毎週週末は時間調整が大変だ。その上、ブラジルワールドカップの抽選会。初戦のコートジヴォワールはとくに楽しみだ。ドログバが前回のW杯の練習試合で骨折させられたことをしっかり記憶しているだろうから、日本が勝つのは至難だ。来年の6月に向けて、日本もだんだんサッカーに燃え上がっていく。サッカー熱が4年に1度しか日本ではないのが寂しいが、「フットボール熱」ではなく「サッカー熱」なので仕方がない。中途半端な終り方だが、だらだら文章にもあきてきたのである。こうしたわがままができるのがブログの良さ。ともかく、年末までに更新しなかったら「よいお年を!」

2013年10月19日土曜日

ふとした時間

1ヶ月1回のブログ更新を誓っていたのに、今回はできなかった。忙しかったのだ。8月末から9月、そして10月と慌ただしいことが続いた。気持ちも安定しなかった。弟が亡くなったためだ。2歳違いの弟である。子供の頃からぼくより優秀で、実際、立派な植物遺伝学の研究で世界的な業績もあげ、さらにこれからと楽しみにしていた。大きな賞を取ったときは、父と母の分も喜んだものだ。その弟が、9月28日朝、息を引き取ったと、出張先の韓国ゴヤンのホテルに家内から電話がきた。その4日前に病院に見舞いに行ったときは、弱っていたがもう少し大丈夫かなと思っていた矢先のことだった。2年前に大腸癌を発病し手術。そのあと、8月の始めまで抗癌剤の治療を受けていた。この春まではすごく元気で、治るかと思っていたのに、弟の癌はこちらの想像を超えた。これで一人になったかと、喪失感がおそった。家内も子供たちもいて、家族的に一人ではないのだが、生まれてから一番長く近くにいた存在なのだ。南禅寺の真乗院というお寺で近親者だけで葬式をした。青空が多い日だった。それから2週間以上経った。気持ちがひどくダウンしているわけではないが、ふとした時間に弟の顔が浮かんでくる。歳をとってくると、こうした映像を伴った「ふとした時間」が増えてくる。弟の死は、一番深い「ふとした時間」になるのだろう。
次回は、書きたいことがいろいろあるので、すご〜く長いブログにする予定。



2013年8月30日金曜日

ライアンエアー、ベネチア、瀬戸内国際芸術祭、ブルゴーニュ

ヨーロッパで1番安いと聞いていた格安航空ライアンエアー(アイルランドが本拠地)に始めて乗った。パリとベネチア間である。飛行場はシャルル・ド.ゴールではなく、パリから1時間半くらいの田舎町ボーヴェ。この航空会社は大都市周辺の小さな町の飛行場を基地にしている。このことも興味があって使うことにしたのだが、ともかく、これはこれは。予想外のことが多すぎて、結局、たいして格安にならず、ほんと自分の旅行術の甘さにうんざり。旅行ではミスをしないという、旅行術検定1級(あるの?)のプライドが少し崩れてしまった。旅行術まだまだ奥が深い。これまで2度ほど、ヨーロッパの格安航空を使ったことがあったので、ライアンも同じだろうと思っていたら、それが、これこそ「格安」の見本、そして、規則を守らないと、けっこう高くなってしまう。規則にひどく厳しい会社なのだった。これまでの経験から規約をあまり読まなっかったせいで、エクストラ料金を取られてしまったのだ。腹立たしいのだが、「格安」と「経営」を両立させるには、こうした方法だということに感心して、旅行術マニアとしては勉強になった。その一端を。
チケット代、パリーベネチア往復52ユーロ(6800円ほど)とあったので、思わずHPから申込み。この料金も、申し込み時期、曜日によって違いがあり、帰りのパリへのフライトは、日曜日だったので、行きの倍の値段。ということは。金曜日のベネチア行きだけだと、2500円くらい。これはと思うよね。一緒に行った学生は、申込み時期が遅かったので「プライマリー・シート」になってしまい、ぼくより30ユーロ近く高くなった。そして、この基本チケット料金にいろいろな料金が加算されてくる(金額は小さいが、ネット料、カード決済料金等々)。もちろん、荷物を預けると15ユーロ取られるので(15キロまで)、手荷物(10キロ)だけにする(厳しい大きさの制限がある)。ただし、荷物預けを予約後に申し込むと倍の料金に。学生はそうなってしまったのだ。ましてや、空港カウンターで預けることになると、100ユーロも取られてしまう。すべては、ネットでの予約を完璧にしないと、予想外の料金になるのだ。ぼくたちは、そこで大失敗(ライアン的観点から)。
前に使った格安航空(バルセロナのVeulingともうひとつは名前を忘れたがスロバキアの格安)では、一般の航空会社と同じように、予約書(e-ticket)を空港カウンターで見せてチェックイン、つまり搭乗券をもらうという手順だったので、ゴチャゴチャといろんなことが書かれているライアンの申込み画面での規約をしっかり読まなかった。というのも、予約していくページを「続けて」いくと、いろいろな料金のことだけでなく、ホテルやレンタカー、空港からのタクシー手配やバスチケットの申込み、もちろん保険、その上、旅行カバンも売ってますよ等々、ともかくいろんなオファーがゴロゴロ画面に出てくる。それがうっとうしくて、細かな規約を読まないことになったのだ。その結果、料金が膨らんでしまった。大きかったのは、搭乗券を印刷していないことだった。上に書いた、普通のチェックインだと思っていたのが間違い。予約が完了したらチェックインをして搭乗券を刷り出さないといけないのだ。チェックインのカウンターで文句は言ったが後の祭り。搭乗券の再発行になってしまった。何と!70ユーロ。往復の運賃より高いのだ。
でも、キャンセルするわけにはいかない。むかつきながら、搭乗口に向かうと、別の驚きが待っていた。出発1時間半も前なのに、かなりの乗客が搭乗口に並んでいる。搭乗する機体は見えない。その内、ボーヴェ空港(小さな飛行場で発着陸時間がかからない)にベネチアからの便が到着する。出発25分前!乗客が降りきると、即、搭乗。機体へと走る乗客がいたことにも驚いたが、指定席がないからである。上で書いたが、指定席はエキストラ料金が必要なのでほとんどの客は自由席。機内ではちょっとした混乱が起こっていた。厳密に重量と大きさを制限された手荷物を入れる場所探し、そして空席探しのためだ。それも治まり、飛行機到着25分後ちょうどに、機体は離陸。超スピーディーである。
機内はシンプルそのもの。まず、座席前に雑誌等を入れるポケットがない。すべて自分でスペースを見つけて荷物を棚に入れる。早い者勝ちなのだ。アテンドは荷物の世話をしない。ぼくは座席に置いた。座席は窮屈。それにリクライニングがない。背筋を伸ばし(健康的だが)1時間半のフライト。機内の案内誌はアテンドが欲しい人だけに渡す。手に取るのはごくわずかなのは、平凡な記事と機内の飲み物とスナックの紹介と販売商品の紹介が中心で楽しくないからだろう。乗客たちはよくわかっている。もちろん、音楽などのサービスはゼロ。機内アナウンスは英語のみ。帰りの便の英語は、訛りがきつくて(アイルランド英語?)何もわからなかった。そして、機内には飲み物とスナックの広告。酸素ボンベの使い方のシールは座席裏に貼ってある。まだまだ書くことはあるが、すべてが超簡素化、あるいは効率化の飛行機である。削るものは削る。長距離格安バスが空を飛ぶ感じ。スーツケースをもってヨーロッパを旅行する人は遠慮した方がいいかもしれない。
好奇心からキョロキョロしている内にあっという間にベネチア、トレヴーゾ空港に到着。ベネチア本島から1時間半ほどの内陸部。バスの時刻表はあるが、「到着時間に合わせて発車します」の表示。バスまでもがスピード重視である。そして、ベネチア・ビエンナーレへ。
この現代アートの大祭典は、いつもと同じ。もう何回来たのだろうか。ベネチアという町が好きなので来るのだが、そこに現代アートという催しがあり、もうひとつの名所を提供してくれているのだ。今回は、テーマは「百科全書の宮殿」。ITとともに人間の「知」あるいは「知識」が変貌している現代、アートとともにそのことを考えるのは悪いことではないが、テーマが壮大すぎる。加えて、この問いかけには当然、「知」に対する批評性が不可欠なのだが、そうしたことは感じなかった。だから、普通にアート・フェスティバル。ベネチアなのでレベルは高いが、前回(2007年かな、最後のビエンナーレは)に比べて、ぼくの趣味を刺激する作品が少ない感じはした。アルゼンチンのエヴァ・ペロンをモティーフにした映像とインスタレーションがかっこうよかった。ぼくがペロン・ファミリーに関心があるためもあるが。ミュージカルや映画の「エヴィータ」よりもずっとよかった。現代アートもなかなかなのだ。メイン会場のジャルディーニとアルセナーレ、市中にあるいくつかの展示会場。それなりに見たが、ともかく大きなアートフェスティバルは疲れる。でも、ベネチアの天気が最高で、気持ちよさは、最高!(同じ単語を使うことを避けているのだが、ここは「最高」を繰り返さざるをえない)。何度もカフェに入り、ビールやカフェで休憩。これが「最高」なのだ。この休憩のためにビエンナーレを見学しているのかもしれない。ただ、今回は2日だけの滞在なので、慌ただしかった。ライアンエアーのようなベネチアビエンナーレ見学である。
ベネチアで、7月の終りに大学の授業の一環で行った瀬戸内国際芸術祭(セトゲー)のことも思い出した。規模は違うが、塩の香りのせいか?そのセトゲーで面白かったのは、作品よりも別のことだった。ひとつは、ぼくたちの乗った神戸からの夜行フェリー(ジャンボフェリー)の船内に流れた、衝撃的なコマーシャルソングである。その歌が3日間耳からは離れなかったのだ。最初に着いた坂手港ではヤマベケンジの作品が迎えてくれたが、頭にはコマーシャルソングががんがんと。いまいちヤノベケンジ的になれなかった。豊島へ、直島へと船に乗るたびに、その歌が頭の中で響き出し口ずさんでしまうのだった。
それから小豆島が巡礼の島であることを初めて知った(恥ずかしい!)。泊まったのも巡礼宿。1泊2食付きで5000円。安い!食事も充実。小豆島の巡礼は、四国より何年か早いと言う。ぼくたちセトゲーを見に来た人間は、巡礼者なのだ。アート巡礼。北川フラムは、そのことを意識しているのかな?アートという言葉はなかったが、中世の宗教的巡礼の現代版かとも思う。そこに資本主義的観光システムが絡んでいる。よく考えれば、観光と言う近代の旅行自体が巡礼にひとつの起源を持っているといえる。それはベネチアや他のビエンナーレも同じだ。21世紀、世界はアートを巡礼し始めたのだとも言える。幸せなことか、不幸の反映か?
さて、ベネチアからの続き。2日間の滞在を終え最終便でボーヴェへ。ライアンエアーには馴れたので落ち着いて搭乗。搭乗券も刷り出しておいた。ボーヴェは初めてだったので1泊したが、ホテルに着いたのが夜の12時近く。翌朝、ちょっとだけの町歩きで町の輪郭はだいたいつかめた。カテドラルが立派だが、普通のフランスの田舎町である。ただただ、初めての町というのが、旅行マニアには重要なのだ。
そして、ブルゴーニュへ。といっても、ワインで有名な南東部ではなく北部のオセールという町の近郊。友人のアーティスト、リワン・トロムール(トロムと呼んでいる)が廃墟となったオーカー工場を「アート(広い意味で)という創造」のための場にしているのである。「ガルロン」と大学院の葛本君が、そこで作業したいというので連れていったのである。どういった場所なのかを伝えるのはひどく困難だが、廃墟のもつ時間のエネルギーを風景として構築する、抽象的に言うとそんなことになる。1990年に始まってからもう20年以上。ぼくは90年から何度も訪れた場所である。2003年には、精華の学生6人と1週間ほど滞在し、ワークショップというのをした。楽しい思い出になっている。葛本君は1ヶ月近くいる予定だが、ぼくは1泊だけ。今年の夏の旅行は、とにかく慌ただしいのだ。結局、テーマは「ライアンエアー的」になってしまったのだ。そして、疲れた。戻ってきたパリではよく寝た。そうそう、帰ったらすぐに横浜での授業が待っている。夏休みはあっと言う間に終るだろう。日本も涼しくなっているという。
 

2013年7月31日水曜日

ガルシア=マルケス、B級、半田素麺

暑〜い!この夏は暑さが身にしみる。「しみる」のは湿気のせい(こんな言い方ないけど)。始めて日傘を買う気になった。帽子を勧められるのだが、髪の毛のかなり少ない(ない、あるいはハゲとは言いたくないのでこんな表現に)人間にとっては効果はない。ぼくの場合、頭部が高温度サウナになってしまう。ともかく、日本が亜熱帯に入ったとと感じる。そして、湿気を加えると不快指数はタイなんかより上だ。「暑いね」と会う人ごとに季語のように挨拶しているうちに夏休みに入り、7月も終り。といっても、授業がなくなっただけで、会議やなんやら、大学に出かけなければならない。今日の夜からは、授業で瀬戸内国際芸術祭にも行かなくてはいけないし、夏休みはもう少し先なのだ。
そんな暑さの中、久しぶりにガルシア=マルケス(以下マルケス)を読んだ。『 予告された殺人の記録』(野谷文昭訳)。映像大学院のニコラスくんが、「先生お世話になってます。ぼくの一番好きなマルケスです」とか言ってもってきてくれたのだ(何か世話したかな?ハイネッケンはおごったけど)。彼はマルケスの国、コロンビア出身。ぼくが一度行きたい行きたい、と、ビールを飲むたびに言っていたからだろう。1年以上前にアルゼンチンに旅行したとき(この旅行についてはずいぶん前のブログで、その一端を書いた)、ブエノスアイレスのホステルで出会った若いフランス人の医者が、南米で一番面白い国と言っていたので、一度は行きたいと思うようになり、そうした気持ちでいたところ、大学にコロンビアからの留学生が来たという偶然もあって、ますます行きたくなってきたのだ。そして、マルケス。『百年の孤独』のショックは、ぼくのどこかに今でも何かを刻んでいる。ただし、長らく遠ざかっていたラテン文学はいつも気になっていた。そして、『 予告された殺人の記録』。短編と言っていい小説だが、濃密だった。フィクションというより、ドキュメンタリー的な構成によるリアリズム手法は、現在のアートや映画の傾向を予告していたかのようだ。ただし、さまざまな人間と集団が時間の中でモザイクのように絡み合い殺人が生まれる。そして、そのヴァナキュラー(土着的)な空間での殺人を、のちに記録しようとする、そうした小説だ。マルケスの小説を読むと、やっぱり小説という形式は力があるな〜と感じる。
といっても、2時間のサスペンスドラマも捨て難いが。こちらは、食べ物で言えば、B級グルメ(あるいはC級?)。ただし、これは価値の上下の問題ではない。マルケスが上で、内田康夫が下だとも思っていない。まあ、価値の相対化というものだが、それだけで片付けられることではなく、人間の活動(生活といってもいいけど)の場面場面で必要な「もの」と「こと」(個人的なものだが)と言ったらいいか。ここ1年程、美味しい昼ご飯を食べて、少し昼寝をしようかというときは、横になってハードな読み物が一番という感覚になっている。その読書は、何度も書いている、プルーストの『失われた時を求めて』(井上究一郎訳)である。このところ遠ざかっているが。マルケスは、このプルースト枠で読んだのだ。昼飯を食べ、自分の部屋に戻りクーラーをきかせる。そしてごろっと寝転びマルケスを。ただし、半分ぐらい読んだところで、睡魔が。寝心地がいいのだ。それを2回続けて完読。小説が短くて助かった。こんな風に、その場その時で、ピッタリな本や映画や音楽、そしてテレビ番組があるのだ。そして、それぞれがぼくにとって価値があるのである。
たとえば、夜遅く、風呂から上がりウィスキーをちびりするときは、やっぱりサッカー(プレミア)、あるいは韓流ドラマ。B級昼飯でお腹がいっぱいになってしまった午後は、再放送のサスペンス・ドラマ。ストーリーはわかりやすく、起承転結が時間帯で決まっているので、B級飯とよく合う。開始30分までに、ほぼ犯人像は推測でき、その推測が実証されていくのが中盤、そして、1時間半もたつと、真相と犯人の告白タイム。出演者もおおむね決まっていて、犯人役は役者側から推測できる。この「決まりごと」がいい。加えて、サスペンスドラマは名所巡りにもなっていて、これも楽しめるし、歴史も絡み勉強にもなる。サスペンスのおかげで日本の名所情報はかなりのものとなった。といって、番組に刺激されて行ったことはないのだが。サスペンスドラマといえば、ぼくの近所の南禅寺は事件の現場としてもよく使われる。一度、死体発見者のちょい役でドラマに出てみたいと思っているのだが。第一発見者の演技はたぶんできる。身ぶりや表情、そして叫び方なんかは、けっこうドラマで勉強している。
といって、テレビは楽なドラマだけがいいというわけではない。シリアスなものにもいいものある。テレビという形式(ストーリーの作り方、アングル、画面のサイズといったことだけでなく、テレビを見る生活リズムとの関係も含む)がシリアスなドラマに相応しいこともあるのだ。そんな、シリアス系の見応えのあるドラマがこのところ目立ってきたよう感じがする。今年に入って、何本も面白いドラマがあった。
我が家はケーブルテレビに入っているので番組は多チャンネル。プリペイなので少しお金はかかるが、コマーシャルに邪魔されないのがいい。民放はほとんど見なくなった。サスペンスドラマは別だが、民放を見る場合は録画で見る。コマーシャルのあざとさにうんざりなのだ。ともかく、最近、NHKやWOWOWで見させるドラマ、それも社会性をもった、手法的にはドキュメンタリータッチのシリアスなドラマがいくつもあって楽しめるし、楽しんだ。このドキュメンタリーという手法、概念については、一度書きたいと思っているのだが・・・。
 WOWOWの「レディージョーカー」「震える牛」なんかは毎週楽しみだったし、韓国のネット・ハッキングドラマ「ファントム」も秀逸だった。牛肉偽装問題を扱った「震える牛」を見てから、ハンバーグを外で食べる気をなくした。「ファントム」(主演のソ・ジソプはいいよね)を見てからは、ウィルスが気になって気になって。テレビは日常の細部に影響を与える(ぼくだけか?)。それから、NHKも上質な社会派ドラマを送り続けている。現在は「七つの会議」。こちらはねじ偽装と会社という組織のお恐ろしさを扱う。昨年、「初恋」という泣けるドラマでNHKを見直したのだが、お金を払っているんだから、このくらいはやってもらわないとね。ここまで書いたドラマは、ちょっとした映画をはるかに超える。気持ちがゆったりしてくると、テレビはますます楽しめるのだ。それと、いい番組を見ていると暑さは忘れる。
こんなことをしているうちに、ヨーロッパのサッカーシーズンが始まる。ブラジルW杯の前年なので、日本代表にも目を向ける。東アジア選手権では、サガン鳥栖の豊田が一番よかった。彼が来年代表に入ったら、久しぶりに代表を応援しよう。韓国は力が落ちてきて心配だ。イ・チョンヨンが、降格したボルトンから脱出できていないのが大きいと、個人的には思っている。ぜひ、エヴァートンに行ってほしい。こうして来年にかけてW杯モードに入っていくのだろう。ブラジルには行けそうもないが。そうそう、この前も書いたけど、それまでに本を出さなくてはね。テレビ時間を減らさなくては。
さて、前回書いたちくわと料理の話を面白いと言ってくれた人がいたので(マイナーなブログを見てくれる人がいるだけで感激だ)、7月も食べ物について書いておこう。やっぱり食べ物ネタは読んでもらえるのかな?
夏なので素麺。家にいるときの昼食は2日に1回が素麺。去年あたりから、我が家は「半田素麺」になった。徳島ではよく知られているらしい。我が家の素麺はー冷やしうどんの場合も同じだが、とにかく具を多種類入れる。ネギ、焼いたしし唐(丸ごと)、細かく切って炒めたナス、千切りのきゅうり、それから千切りした油揚げかちくわを入れることもある。時間があるときにはたまごの薄焼きもつくる。薬味類はみょうが(必須)と紅ショウガ(自家製)のみじん切り、ショウガ、ごま、のり、つけ汁は自家製ではなくチョーコー醤油の「京風だいの素」というのを使っている。市販のだしの素では美味しい方だと思う。甘さを押さえてあるのがいい。「素麺=あっさり」ではなく、「栄養満点、でも、少しあっさり」の素麺なのだ。
具をたくさん入れる食べ方は、どこから入ってきたのか忘れてしまったが、ひょっとしたら近くの「おめん」という店のつけうどんからか?開店した頃ころはずいぶん具がついていた気もする。その影響か?長〜いこと行っていないので、どうなっているのだろう。今も繁盛してるようだが。それとも、もともとぼくの母親がそんな素麺をしていたのか?それとも、家内の実家の食べ方か?日常の細部の、それも習慣になってしまったことの来歴をさぐるのは難しい。ともかく、具たくさんの半田素麺はぼくの夏のなのである。
なんとか、7月中にブログを更新できた。1ヶ月に1回の更新もなかなかたいへんだ。これも暑さのせいにしておこう。

2013年6月30日日曜日

ちくわと豊橋、テレビ、研究


6月もあわただしく過ぎていく。だらしない書き出しだ。こうした時候挨拶的な書き出しを何とか改めて、眼もさめるような書き出しがないかぐずぐずしているうちに、10日近くたってしまった。ブログを書くのも楽ではない。では、止(や)めれば?そんなことも思わないではないが、物事には止められなくなってしまうことやものも少なくない。ここでよく触れるサッカー、ピザ、韓流、ハン・ヒョジュ、自分の研究(書いたことあったかな?)、旅行などなどのことを止めれないのと同じように、このブログもそうなってきた。趣味ということなのか?それも自己目的的な。この年になって、新しい趣味を見つけたと思うことにしている。書くのは楽ではないが、グダグダと書いていくのは、他ではできないので、時間がかかるが楽しい経験なのである。最初は月3回程は更新と思っていたが、だんだん減ってきて、月1。会議や仕事が多くなってきて、これも怪しくなってきた。でも、頑張るぞ!って更新しているんです。
今回は、ブログという趣味について書くことが目的ではなく、ちくわ(竹輪)のことを書こうと思っていたのだ。なので、前書きからこのチクワへと話を運びたいと頭では考えていたのだが、どこで繋がらなくなったのか。「ブログを書くのも楽ではない」という文を入れてしまったためだろう。それが趣味のことを誘発し、ちくわから遠ざかってしまった。ブログという形式的に自由なエクリチュールの場の罠かもしれない。これでやっとちくわことが始められる。罠だと思ってしまえば、どこで段落替えしても、おかしくはないということになるからだ。
この6月に高校の同窓会があり、そこでヤマサのちくわをお土産にもらった。それを丸かじりしながら、そう言えば、ちくわのことをこれまで書いていなかったなと思い出した。では、一度ちくわ談義でもしてみようかと考えたのだ。高校まで住んだのは愛知県の豊橋という町で、ちくわが有名なのである。あとは菜飯田楽くらいしか知られていない非グルメ町だが、ちくわだけでなく練り物は何でも美味しいしレベルが高い。昔、「世界魚系練り物会議」というのを行ったくらいだ。会議の内容は知らないが、ちくわで世界会議をするなんて、すごいことである。そんな町だから、子供の頃からちくわはもっとも身近かな食べ物で日常的に食べていた。シンプルに生でわさび醤油で食べるか、おでんの具くらいだったが、おかずだけではなくおやつとしても食べていた。
その後、豊橋を離れてから(ずいぶん昔のことだが)、ちくわの食べ物としての懐の深さに気がついていったのだ。その間、ちくわのテンプラ(昔からの調理法ではない)が一般化し、つまみのチーズちくわもつくられた。子供の頃にはなかったちくわメニューである。そうした新しいちくわメニューにも刺激されたのだと思う。ちくわの秘められた力にしだいに気付くことになった。それだけでなく、炒めると別の力を発揮することもわかった。一緒に併せる素材を引き立たせ、さらに、ちくわ自体も新しい味をもつ。その代表はキャベツ。ちくわを薄く千切りにし、角形の切った新鮮なキャベツと炒める。さらに、紅ショウガとその付け汁を絡めると美味しさはますますパワーアップする。この一品はぼくがつくるものが一番美味しい。といっても、他で食べたことはないし、見たこともない。オリジナルと自慢しておこう。家内がいないときは5日に一回は食べていた。それからそれから・・・みそ汁に入れてもよいし、ひょっとしたらカレーにも合うのかもしれない(まだ試したことはない)。もちろん、穴の中にさまざまなものを詰め込めば、ほとんどのものは合う。ちくわの穴は製造過程から生まれたものだが、それが新しい味を展開させるものとなる。もちろん穴がないとちくわとは言わない。そこに特別な意味はないとしても、それによってちくわに新しい道が開かれる。ちくわの穴は含蓄がとても深い。
現在、非グルメ町豊橋は名前をあげようとしているのか、B級グルメブームにのって「豊橋カレーうどん」というのを売り出しているという。ちくわが使われていると思ったら、ちくわは除外され、ご飯、とろろ、カレーうどんを重ねた変な食べ物となっている。まだ食べたことはないので何とも言えないが、豊橋の友人たちに聞いてみたが、「うまい!」と絶賛する者は皆無。新名物をつくるなら、どうしてちくわをベースにしないのか?メディア受けしようと考えて、スベルっている。豊橋的発想? あまりにもちくわが日常的すぎて、その可能性が見えないのかもしれない。教訓である。
ちくわノスタルジーの6月だったのだが、コンフェデ杯、それからWOWOWの「震える牛」とか「ファントム」といったドラマも6月の生活を活性化させてくれている。サッカーの方は考えることも多かったが、ともかく日本の3連敗は順当なところだった。イタリア戦はイタリアが「なめた」としか言いようがない。ブラジル戦を視察すればそうなるのだろう。ただし、強豪国がなめてくれると十分にいける、そのくらいのレベルにはなってきたというこだ。サッカーであれ、他のことであれ、ヨーロッパがつくった近代のスポーツ・システムを取り込むには時間がかかる。 ぼくはこの取り込んでいるときの気持ちの捻れが好きなのだ。気持ちの複雑さといってもいい。他の文化を受容するということは、そうしたことではないのか。そこには自虐的ということもある。ただし、その自虐性には他者を尊敬する気持ちも強いのだ。
テレビはいろんなことを考えさせてくれるのだが、もう少しテレビ時間を減らして、原稿のスピードを上げなくてはならないと頭では思うのだが、これがなかなかうまくいかない。先日、久しぶりに藤原くんに会ったら、本を書いているので朝4時に起きているという。やっぱり、そうしたことをしなくてはとは考える。ただ、今書いているテーマが大きすぎて、調べることが多すぎるのと、能力の問題もあって歩みが遅くなってしまう。19世紀の後半から現在までのフランスと日本の美術全集(叢書)の歴史を精密にたどってみようとしているのだが、150年という時間はさすが長い。適当にはしょるればいいことも考えるのだが、150年という時間の重みのようなものを何とか文章に反映させたいと考えていると、調べることも多く、なかなか前に進まないのである。といっても、もう1年くらい細々と書き続けているので、フランスの1960年代まで来た。
その研究のことが頭にあって、いつでもパソコンを持ち歩き、時間があれば開き書き次ぐのだが、わからないこともでてくる。たとえば、こんな感じ。「フランスのチスネ出版の「文明の驚異」全集は・・・年まで続き」と書こうとして、「・・・年」の部分をちゃんと調べてなかったことがわかる。そこで、もう一度ネットで調べまくることになる。第一、美術全集の名前には似通ったものが多くてなかなか全体像が見えない。そこで書きながら調べる、そんなことを繰り返しているのである。フランスの3つの図書館の電子カタログ、世界の古書ネット、日本のCiNii、もちろん、ヤフーやグーグルの検索も。ただし、かなりの時間キーボードをたたいても、見つからないことも多い。実は、向こうの全集にはシリーズが終ったという切れ目がないことが多いので、全集が刊行された期間や全何巻を調べることが無駄な場合も少なくない。でも、ひょっとしたらと思い調べてしまうのだ。全集の刊行初年と終年がわかると、その全集の時代的意味がよりはっきりするからである。こんなことをしているのだが、とにかく、調べることに疲れてくるのだ。となって、今日はこのくらいにしてとなり、テレビを見たり本を読んだり、書きかけのブログを書き次ぐということになる。まあ、息抜きばかりしていても仕方ないが、ただし、誰もが感じていることだろうが息抜きほど楽しいこともないのだ。息抜きのために研究?そうかもしれない。でも、藤原くんに会ったのは何かの信号だろう。来年のワールドカップまでに本にしなくてはと、強く誓ったのだが。
結局、6月のブログは月が変わる前日に書き終えることができた。月に1回のベースは守った!

2013年5月30日木曜日

早川義男、ウイガン、ドルトムント、ドイツ

やっと初夏らしくなってきた。半袖シャツにしようか、でも、ここで半袖にすると本当の夏はどうしよう、といった軽いジレンマの季節でもある。まあ、夕方からは涼しいので長袖シャツということになるのだが。さて、いくつかの感動が重なる日というのがある。ちょっと前のことだが、5月11日の土曜日。そんな日だった。二つだけだが、まあ、1日に2回もあれば、充分過ぎるくらい充分。まず、大学を出るときにばったり福岡くんに会い車で送ってもらい(こうしたことは何かの兆候になる)、そして、行きつけのカフェでメールやら原稿を見て、祇園のシルバーウィングスというライブハウスへ。椅子席30人あまりの箱での早川義夫さんと佐久間正英さんのユニット。「あの」伝説のバンド、ジャックスのリーダーと四人囃子のベーシスト。ぼくの世代には泣けるコンビだ。15年前から組んでいるという。知らなかった。音楽シーンを追いかけていないからだが、繋がるということは縁があるということだ。今年から精華の先生と名なった佐久間さんがコンサートのことを教えてくれたのだった。
早川さんの歌は今も生きていた!もうひとつ、佐久間さんのギターがすごく上手なのも始めて知った。ベースの印象しかなかったので。知らない曲もあったが、昔の「堕天使ロック」とか「からっぽの世界」、当然「サルビアの花」なんかも歌ってくれて、40数年経った早川節は泣かせてくれたのだった。ぼくは一度だけジャックスのコンサートに行ったことがあり、四人囃子は2度ほどライブで見たことがある。それにしても、40年以上の歳月を経て再び、早川義夫を聞けるとは。
そして、その夜、イングランドのFA決勝。ウィガン・アスレテックスとマンチェスター・シティーの決勝戦。プレミア・リーグの2位と降格争いをしてるウィガン。日本では宮市が所属するチームなのでたまに「宮市ベンチ外」として1行ニュースが出るチームである。プレミア好きのぼくとしては、ウィガンというチームにここ数年惹かれてきた。これはイングランドのファンも同じ。毎年、奇跡的な残留争いを勝ち抜き、プレミアに残留してしまうという痺れるチームだからである。監督のロベルト・マルティネスの評価はすごく高い。そのことに加え、オーナーがまた地元主義の泣かせる人物なのである。そして、決勝戦は断然不利の予想を覆して1−0での勝利。オーナーの長年の夢が実現したのである。ちょうど、去年のリーグ1のモンペリエのように。資本主義に翻弄されながらも、今でもフットボールには地域性が生きている。
と、ここまで書いて一旦中断。
大学の仕事が忙しくてブログを再び書き始めたのは10日後。何回にも分けて書くんだったら、書いた所までをアップした方がいいかなといつも思うし、また、そもそも長いブログは止めにしたら、誰も読まないよ、と言ってくれる人もいるので、短いブログにしようかと考えたこともある。でも、世の中の文章が短文方向にますます進んでいるので、それに合わせるのはね、とねじくれてみたくもなり、ブログとしては長い文章にしている。自己プライドのせいかな。
何やかんやで5月も後半になるとますます夏の感じが出てきて、半袖シャツは当然になってきた。そんな折り、家内がパリに出発。小さな個展のためである。外国で展覧会をするのはけっこう大変だ。大物ともなれば画廊や美術館がすべてを仕切ってくれるが、そうでない者はほとんどを一人でしなくてはならない。作品輸送、案内状デザイン、オープニングの設定等々、もちろん画廊側もやってくれるのだが、展覧会に対する感度の違う相手だと、細部のチェックは自分になるのだ。今回のパリはそんな画廊主だった。実際に行動をし始めると、そうしたことが分かってくるのだ。そうなるとけっこう厄介なことが出てきて、ぼくもお出ましとなる。
資料調査やある展覧会を見るため、そして家内の展覧会のオープニングに来る友人たちに会うため等々の目的でぼくもパリに出張。そのオープニングには思いのほか多くの人が来てくれた。ともかく、パリは去年の夏以来である。それも5月のパリは何と30数年ぶり。暑いけど最高の季節の印象があるので楽しみにしていたら、来てみたら寒かった。それに曇り空(昨日は快晴だったが)。
そんなパリでチャンピオンズ・リーグ決勝、ドルトムントとバイエルンを見る。といっても、もちろんテレビで。フットボール好きのレジスの家で見ようということになった。彼は1年間ベルリンにいてブンデスリーグに詳しくなってしまったのだ。レジスの少しひねくれた性格は、当然ドルトムント派。もちろん、ぼくも同じ。こちらは香川がいたこともある。ただし、ぼくはブンデスリーガにそれほど興味はないのだが、チャンピオンズ・リーグの決勝ともなれば話は別。
試合前にハムとチーズとパン、そしてワインとシンプルだが、レジスのところの食べ物ーといってもカトリーヌが買いそろえるのだが—の美味しさは超一流。フットボール談義や映画の話をひとしきりして、チープな椅子を居間に並べた観客席へ(どこにあんな椅子があったのだろう)。前半はドルトムントが押していたので、けっこう盛り上がる。レジスは「そ・そ・そ〜」とぼくの言い方をまねしながら、早口のフランス語で興奮してくる。前半終了。そして、後半。試合のことを書いていくと終らないので、結果だけ。知ってのとおりバイエルンの勝ち。ロッベンにやられた。ぼくたちも別にシュンとなるわけでなく、美味しいデザートを食べながら、四方山話。ルーブルで開催中の「ドイツについて」展のことをカトリーヌに訊ねたら、入場1日券をくれた。彼女は学芸員なのである。フランスの美術のことを勉強してきたのに、研究者の知り合いはあまりいない。カトリーヌとレジスは数少ない知り合いなのだ。といって研究のことをあまり話すわけではないが。
その「ドイツについて」(De l'Allemagne)展はかなり見応えがあった。1800年から1939年まで、ロマン主義誕生からナチスまでの時代の美術を振り返りながら「ドイツの美意識とは何か」を振り返る展覧会だったと思う。これまで語られてきたドイツ像ー平凡な日本風言い方をすれば「ドイツ魂」ということだが、その生成と展開をイメージで綴る展覧会なので、新しい思想的な発見があるというわけではない。そのことで、ドイツ側からは批判的に見られ論争も起こっているという(その一端はネット上でも見れるhttp://www.lesinrocks.com/2013/04/21/actualite/exposition-de-lallemagne-au-louvre-les-raisons-dun-scandale-11387912/)。新しい視点がなく、ドイツの精神性を強調するーそれはナチズムに繋がるーまとめ方になっているということなのだろう。この批判の当否を言う立場にはないが、平凡な主張(ドイツ側からはつまらない政治的主張)だとしても、200点以上と言う物量作戦によって、「ドイツ魂」の系譜が総合的に視覚化された展覧会は見応えがあったのだ。個人的には、ドイツ的想像力を支えている「ガイスト」の画家フリードリッヒをこんなに見たことはなかったし、ゲーテの博物誌への関心やベックマンのマンガ的デッサンも興味深かった。
この冬のイタリア旅行からドイツに触れる機会が増えてきたような感覚があったが、今回のパリでもそうだった。大学時代からのドイツ語やドイツ現代アートのマッチョな感覚への違和感から、ドイツを遠ざけてきたが、こんなにドイツに触れることがあると、一回はしっかりとドイツに触れてもいいかなとも思ってきた。