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やっと本をだした!でも、もう2ヶ月近く前になる。『日仏「美術全集」史ー美術(史)啓蒙の200年』(三元社)という500ページを超える厚いものとなった。(http://www.sangensha.co.jp)いわゆる研究書(イヤな言葉)。長くやっていたので疲れた。評判?いまのところほとんどないけど、書きたいことを書いたので気にはしてないし、学んだことが山ほどあったので満足している。自分で言うのもなんだが、これまで顧みられなかった「美術全集」という書籍の歴史を初めて検証したということではかなり価値があると思っているのだが。ただ、「初めて」というのが曲者で、つまり、これまでの知識の積み重ねがない領域は研究している人も少なく、読者層がすごく薄いということになる。ただ、「美術全集」という名前だけは広く流通している、そのあたりで手にとってくれるといいのだが。税込みで6000円ちょっと値段が高いので、このブログを読んだ人が図書館にリクエストしてくれるとうれしいですね。図書館には資料としても必要だと思っているので。
この本の仕事と大学の仕事で、ブログをだいぶ休んでしまった。半年以上!!!本が出たらゆっくりできるかと思ったら、全集のデータをWEBにあげるのに時間がかかり、結局、「楽になるかな」と思ったのが2月の後半。でも例年の恒例行事の学生とのパリ研修。その後の大学の仕事。春休みはほとんどなかった。いやはや、慌ただしい。この半年の間にも面白いことや楽しいことがいくつもあったのに、記憶が薄らいでしまった。ひとつくらいは思い出そうと、スマホの予定表を戻していくが、会議ばっかり。予定表にはフットボールのことは記録してないし、テレビドラマの感想も入っていない。去年スマホに変えてから予定表が日程表という無機質なものになってしまった。それまではシステム手帳に挟むBindex Diaryというメモもできる予定表を使っていて、細々したことも書き込んでいた。「東京ラブストーリー再発見」とか「アーセナルの試合のこととか」「映画の感想とか」ね。手書きの予定表は、こんなことをさせたくするのだ。それがまた、記憶にもなる。スマホの予定表はこうしたことがしにくい。そろそろ変えようかと思っている。
さて、研修のパリ。これも少し記憶が薄くなってきた。去年のパリの夏はダニに噛まれてさんざんだった。面白かったのでブログで書こうかと思ったのに中途半端になって中止。その後遺症(蕁麻疹体質になってしまった)はいまだ少し続いているのだが、そのパリに学生の研修で1週間。去年のテロのために少しキャンセルが出て20人余りの参加となった。そういえば、テロのことでも書きたいことはあったのだ。襲撃された地区はすごく馴染みがあり、最初の襲撃先のカンボジア料理屋は何度か通った店でもあったし、行ったことある場所ばかりだった。テロのリアリティーはぼくにとってかなりのものだった。
テロについて何か書こうは思わないが、フランスではいろいろな国際政治情勢とからんでテロが続いてきたし、ぼくの記憶ではアルジェリア独立戦争のときもかなりあったと思う。そして、少し前のブリュッセル。そういえば、息子とのスペイン旅行のときにマドリッドの3駅での同時爆破テロに遭遇したことも思い出す。テロはいまや世界を覆っているが、そのテロ手法が「自爆」であることに注目したい。「注目したい」なんてのんきなことを言っている場合ではないが、「自爆」を想像するだけで震えてしまうのだ。どうしてこうなのか?きちっと分析しているものを読んだことはないが、ネットでイスラエルの女性が女性と子どものテロリストのインタビューを含んだ研究書を見つけた(Anat Berko, The Smarter Bomb Women and Children as Suicide Bombers, Littlefield Publishers, 2012)。読んでみたい本だ。
ぼくが一番嫌いなのは暴力なのだが、それを自分と他人に向け、それも爆弾でという状況は身震いさせる。それをいとも日常的にやってしまう自爆テロとは、想像力がまったく追いつかない。どうしたらそうしたことになるのか。テロリストとなった人を想像してみる。組織での上からの命令はあるだろう。そうでなければ自分で爆死しようとは思わないのではないか。でも、当人をそのような気持ちにさせてしまうものは何なのかがわからない。思想と言われるものなのか?ある思想(政治的でも宗教的でも)に染まった人(あるいは共同体)が、ある状況のなかで、自分と他人を巻き込み自爆死に至る。自己犠牲の最高度のナルシズムといった精神分析学的分析をしてみたって始まらない。自爆テロは多くの他人を巻き込むからだ。
ただ、自爆テロが「カミカゼ」という日本語としてもよく使われることは意識しておきたい。欧米のメディアには、それが起こると「KAMIKAZE」という言葉が見出しに踊る。日本人は違和感を覚える人が多いというが、あの太平洋戦争末期の自爆特攻が、自爆テロのひとつの起源であることは頭に入れておいたほうがいいかと思う。世界の多くのウィキの「自爆テロ」項のトップ映像が1945年の空母バンカー・ヒルへの特攻の写真である。平和な日本の礎=犠牲者としての特攻隊(もちろん理解できるが)というだけではなく、恐ろしいテロ行為者として記憶する必要もあるだろう。うまく考えがまとまらないが、上に書いた本を読んで勉強してみたい。この自爆テロは21世紀に入って急速に増加してきているとの報告もある(英語版ウィキ)。自爆テロの世紀。何と恐ろしいことだろう。ちなみに、英語版ウィキは、「自爆テロ」に関してかなり充実している。興味ある方はどうぞ。
桜の季節、テロの話になってしまったが、明日は入学式。大学勤めの人間には正月でもある。晩年なのに、なんでこんなに働くの?と思いもするが、これも幸せなことだと思うようにしている。ときどきブログも書いていこう。左はパリでの伝統カフェでの夕食のひとコマ。奥の絵(本物)はアール・デコの画家タマラ・ド・レンピッカ。伝統のカフェはすごい。
夏休みを利用して2年ぶりの夏のヨーロッパ、パリとヴェネチアだ。パリに着いて翌日ヴェネネチアに。旅行に出るとブログを書きたくなる。原稿の最終段階のためブログを書く気持ちが薄くなり、3ヶ月もほっておいた。でも、旅行をすると書きたくなってくる。時間もあるのだが。そんなわけで、仕事も一段落し、2年ぶりの夏のヨーロッパとなったのである。
ヴェネチアはビエンナーレ。我が塩田千春がどうなっているのかを見たいと思って来たのだが、いつものことで熱心に見るわけではない。暑くて疲れるのだ。でも、これまでと比べればけっこう時間はかけた。気に入ったのはアルメニアの展示。作品そのものというより、現代アートが本格的に歴史と絡み合う、その迫力に感動したのだ。まあ、アルメニアに思い入れがあるからかもしれないが。そのアルメニアは、大昔初めて海外に行ったときにトルコ側から見た雪のアララト山に感激し、あそこにアルメニアがあるんだと思った経験もあるし、アルメニア出身のアメリカ作家サローヤンの小説に惹かれたこともある。心のどこかにアルメニアがあったのだ。今回のヴェネチアでもう一度火がついた。
そのアルメニアの展示は、サン・ラザーロ島のアルメニア修道院で行われている。何度もヴェネチアに行っているのに、この島を知らなかった。サン・ラザーロはアルメニア教会の修道院があるだけの島だった。18世紀からの長い歴史もつアルメニア教会の大きなベースである。その歴史を書いた本も買ったので、細かな知識も得ることができたが、書けばきりがない。ともかく、島はアルメニアという土地と人間の長く深い記憶がぎっしり詰まった場だったのである。その修道院を使っての現代アート祭への参加。「ズルイ」と思う人もいるだろう。アートは歴史にかなわないからである。美術館でいくら歴史的作品を構築しようが、何世紀にもわたって民族の記憶とその実践を行ってきた場所にかなうはずはない。そこに現代のアルメニア出身のアーティストが加わる。当然スケールが大きくなる。修道院のブックショップのおばさんは、こうしたことは初めてで、おそらく最後のことになるかもしれない、と言っていた。唯一の出来事を見ることができたのだ。感激しないわけにはいかない。そこに展示した世界中のアルメニア系の作家たち(アルメニア人は一種の流浪の民でもある)もうれしかったのではないか。現代アート祭は、一方に商業主義をかかえながら、こうしたこともできるのだ。今夏、ヴェネチアに、というよりサン・ラザーロ島に行けて、ほんとによかった。そのあと、僕の好きな島サン・ジョルジョ・マッジョーレで、ティントレットの『最後の晩餐』を見て教会横のカフェでモレッティ(ビール)の小瓶。目の前に青い海。何とも言えませんでした。もちろん、この島にもビエンナーレの作品が展示されていたので見てみたが、やっぱり、テントレットとモレッティのコンビには負けてしまう。
今回のヴェネチアでは、もうひとつ新しいことに挑戦してみた。宿泊を隣町メストレにしたのだ。初めてのことである。格安のツアー旅行だと、ここに宿を取ることが多いらしいが、ヴェネチアのイメージは皆無。一般には何もない町となっているようだ。実は、そのことを狙ってメストレにしたのである。ぼくも少し前までは、メストレ〜って、馬鹿にしていたのだが、旅行術も老獪になってくるとこうしたところを選びたくなってもくる。それも今回は一人。連れがいたら泊まらないけど、ひとつの楽しみとして宿泊したのだった。だが、メストレ選択は成功。駅前の趣味の悪い近代建築群を列車から見てきて印象が悪かったのだが、町自体はそうではなかった。といっても観光と言えるものは皆無。海の方には工場地帯もあるようだが、駅のちょっと先からは普通の住宅街で、何の特色もなく、ヴェネチア観光のためのホテルだけが点在する町。だから観光客は少なくない。でも、こうした何もないところで、小さな何かを見つけるのが旅行の醍醐味である。そして、見つけたのだった。
レストランである。Santi Mestorini。キノコのサラダ、Tボーンステーキのカツレツとか、スパゲッティの一回り太めのパスタ等々、なかなかだった。「孤独なグルメ」のノリである。ヴェネチア本島を3日間、毎日2万歩以上歩いて疲れた身体をほっこりさせてくれた町がメストレだった。2度と行くことはないだろうが、旅行術体現者には小さな勲章である。
パリーヴェネチアは前にも使った格安のRyanair。今回は格安飛行を完全攻略。2年前の失敗から学び、格安が格安であることと実践できた。前回乗ったときとは違って、機内広告がなくなっていた。あまりにも商売商売で規制がかかったのか。乗務員も愛想がよくなっていた。もちろん、リクライニングはなく背筋を伸ばしての1時間半。この時間なら年寄りにも大丈夫。といっても、ヴェネチアだ!といったわくわくする気持ちにさせてくれない飛行機会社ではある。安いとはそういうことなのかもしれない。そろそろ、このあたりを卒業したいと思っているのだが、若いころの海外旅行トラウマ(?)を払拭できない。つい、格安へと目が行ってしまう。悲しいサガである。
そして、パリ。着いた日から2日間ほどは暑かったのに、突然、秋が訪れた。気持ちいい。といっても観光をするわけではないので、だらだらすることになる。パリでなくてもいいが、ある場所に滞在するときの最初のポイントは行きつけのカフェを見つけることだ。そのために最初、宿泊する地区のカフェ巡りをし、気に入ったところを探すのである。これが意外と難しい。パリのようにカフェが異様に多い大都市だとなおさらだ。最初に入ったときは感じよかったのに、次は、ギャルソンが代わっていて感じ悪いことも少なくない。もちろん、食べ物が美味しいかどうか。基準はサンドイッチかサラダの値段と味。ここがリーズナブルであるかが目安となる。そして込み具合。あんまり混んでいても落ち着かないし、少なくては不安になる。こうして、今回は借りたアパートから5分ほどの、現在人気の界隈と言われるシャロンヌ通り(バスティーユ寄り)のカフェ「画家のビストロ」(Le Bistrot du Peintre)に落ち着いた。どんなギャルソンでも感じがいいし、客層もいい。やはり感じのいいマダム(午前中から昼過ぎまでいるので経営者だと思う)のしつけのせいだろう。毎日ほぼ2回入った。店に入るときにギャルソンがボンジュールと声をかけられ握手を求められる。常連として街に馴染んでいる気分になる。
パリは少し知り合いがいるので、結局、一緒に夕飯を食べることが多くなる。フランス語のいい勉強でもある。その一人、ジミー(愛称)という画家の絵を見に行く。ぼくは基本的に絵画が好きなので、本当に絵を描いている人に憧れている。といっても、最近はほとんどいなくなってしまったが。そんな中でもジミーは本当の画家だ。「自然に倣う」(d'après nature)というフランス語があるが、それを律儀にやっている画家である。その「自然に倣う」ことのすごさが現代も生きていることがすごいのだ。絵画(油彩画)という西洋で生まれた西洋ローカルな表現が、いまだに力を持っていることを、ジミーの絵を見ていると感じる。アルゼンチンのリナレスもそうだった。絵画は依然として力を持ち、現代にも強いメッセージを持っていると感じる、ぼくにとっては稀な機会だ。ジミーの新作を見ることができただけで、今回、パリに来てよかった。
あとはだらだらとした生活が1週間ほど続いている。興味ある画廊はあるが夏休み。9月の中旬以降にならないと開かない。映画は、今、カンヌで賞をとった作品が上映中。一つしか見ていない。ジャック・オディアールの『ディーパン』。スリランカの内戦での反政府
組織からパリに逃れてきた元戦士と偽家族がフランスの底辺社会で生きる話。何故、パルム・ドールだったのかと騒がしかったが、悪くはなかった。日本ではこんな映画は撮れないだろう。そんなことで、短い夏休みももうすぐ終わり。
ブログの更新を、と4月から5月の身辺雑記をたくさん書いたのだが、面白くなくて、書き直し。ブログは時間がかかる。といっても、記憶能力の後退もあり備忘録としてのブログも必要なので、ごく簡単に、この春の雑記を。
浦和、深谷、高知。今まで行ったことのない町に行ってきた。レッズの浦和。うなぎが名物と初めて知った。でも、有名なうなぎ屋は7時閉店!食べれなかった。そうしたら、テレビで埼玉の小川町もうなぎが名産だとか。埼玉とうなぎってまったく想像してなかったのでちょっとした驚き。調べなくては。ただ、うなぎと言えば浜松だよね。その隣町の磐田(家内の故郷です)にもおいしいうなぎ屋があったのに、久しぶりに行ったら消えていた。美味しいうなぎ屋が減っているように思う。浜松でさえうなぎは餃子に押されてる。B級グルメの時代なのか。ぼくもB級グルメ派だけど、もう一方に伝統派も健在でいてほしい。次の、「ふかやネギ」で知られる深谷は、駅舎が立派な町だが普通の田舎町。そうした町はサビレ感があるけど、妙なことに、深谷にはそれがなかった。普通の田舎町が、普通のままでいるのは難しいのに、深谷は立派というのか。そして高知。繁華街の飲み客の元気なこと。南国的ということ?そして初カツオ。美味しかったけどね・・・。あまりにもはまりすぎていて、感動!とまではいかなかった。
さて、さて、ここからは、「海街Diary」のこと。フランスの新聞「リベラシオン」のサイトでカンヌ映画祭の特集を連日やっているので見ていたら、「4人姉妹」という日本映画の監督出演者のレッドカーペット中継とインタビューライブをやっていた。そこではじめて原作が吉田秋生の『海街Diary』であることを知った。映画情報にまったく疎くなっている。これでは、人に「映画が好き」などとは言えなくなるな〜、と反省。それはともかく、ぼくは吉田秋生のマンガの大ファンである。だから、もちろん『海街Diary』は読んでいる。ここ数年マンガを読まなくなったが、吉田秋生は別。『海街Diary』も気に入っていた。それが映画化されたとは。
文学や映画には「青春もの」というジャンルがある。映画で思い出せばきりがない。ナタリー・ウッドの『草原の輝き』ジェーン・フォンダの『ひとりぼっちの青春』レスリー・キャロンの『ファニー』などなど、心に刻まれた青春ムービーである。小説も当然。でも、映画のことを考えていたら青春小説がなかなか頭に出てこない。『三四郎』のような成長啓蒙小説ではない小説。プルーストの『失われた時をもとめて』も青春小説と思ってはいるが。う〜〜ん。文学と映画はそうした膨大な青春ものを生み出してきた。ある意味、文学や映画は青春という言葉を造り出すものだとも言える。もちろん音楽も。とくにポップスは全編、これ青春ものとは思うけど、何かパターン化しすぎていて・・・。水戸黄門のようにはまってはしまうが。そして、マンガ。もちろん、ここも「青春もの」にあふれている。でも、そうしたマンガの「青春もの」と吉田秋生はまったく違っているのだ。『夢見る頃をすぎても』『河よりも長くゆるやかに』が最高峰だが、マンガという表現ジャンルにしかできない、というより、マンガこそが青春を語りえる、そんなことを教えてくれたのだった。それは青春のスカスカな空気感ー言葉を探しているのに見つからず、見つからないこと自体を自己目的化するために生まれる虚弱感とでも言っておこうかー、そんな空気を吉田秋生のペンは生みだすのだ。その吉田秋生先生から間接的にイラスト入りの色紙をいただいている(個人的に知らないが人を通じてもらったのだ)。ちょっと自慢しておこう。『海街Diary』のような4人姉妹のイラストが描かれたもの。家宝!ともかく、もうすぐ映画も上映されそうなので楽しみにしている。でも、綾瀬と広末がな〜。カンヌのオフィシャル・インタビューでの素人感はなんとかしてほしかった。
吉田秋生先生の色紙を久しぶりに取り出して見ていたら、昔から有名人のサインをもらうのが好きだったことを思い出した。最初は大学時代のアダモ。あの「サン・トワ・マミー」や「雪が降る」の。京都会館(この名前は少し前に消えてしまったが)のコンサート後の出演者出口で長い時間並んでもらったものだ。以降、量的には多くはないが、ブラジルのドゥンガ、「ゴルゴ」のさいとうたかおさん、伝説的なF1マンガ『F』の六田登さん(ここには酔っぱらったぼくの姿も描き入れてくれた)、そして、フランスBDの最高峰モエビュスさん、そういえば、三男と行った欧州サッカー旅行でも有名選手にサインをもらったetc。まあ、勤め先での役得というのもある。理由はわからないがサインというのは妙に心をそそる。まだ何人かもらいたい人がいる。歳を忘れて頑張ろう。
話は変わって、このところ、原稿のために読書をしてなかったことも思い出した。原稿を書いているのに本を読んでないって不思議だと思うでしょう?本を見ているのである。本は読むものだけでなく「手にとり見るものでもある」。ぼくは愛書家ではないが、このところやってきた研究?で、本の多様な魅力を知った。こうした導線からも、本を読むファイトもでてくるのだ。
この2週間ほどの面白かったものを2冊。何といっても「フレンチライブラリー」である。ひとつは、脱構築派の理論家ポール・ド・マンの『美学イデオロギー』。1970〜80年代のスター理論家だった。ぼくの敬愛した文学研究者がよく口にしていた批評家だ。要約するのは難しいが、ぼくが理解した、というよりも、そのように読んだと言うことなのだが(読書は基本的に誤読である)、「美的」ということはいかれたイデオロギーだということだ。そのイデオロギーとは、「あるがままのもの」を崩してしまうということ。たとえば、映画を見て何かしらの感動があったとする。そのことを言葉で、それも感覚的言葉を差し込みながら映画を理屈化(意味化)していくと、映画と感動は別のものにすり替わり、映画は「見た」ようなものでなくなってしまう。そうした経験は誰にでもある。「美的イデオロギー」というのは、この「感覚的表現を使って感動を理屈化(意味化)していく」ことなのだと、理解した。長い間、意味を、とくに「ほんとうの意味」を見つけようとすることがうっとうしくなっているという、ぼく自身の考えも反映している。意味をもとめずテクストの上で言葉とイメージが躍動することの感動。ド・マンの世代に教えられたはずなのに、いまや、再び「意味」というイデオロギーが闊歩している。そして、日本では、この意味はほとんど人生論的になる。哲学も文学も映画もマンガも。ただ、吉田秋生はそうしたイデオロギーから少し身を引いている。
もう1冊。銀閣寺の古本屋で買った浜野修という人の『酒・煙草・革命・接吻・賭博』(出版東京)という昭和27年のエッセイ。というより浜野という人の翻訳本。変なエピソードがいっぱい書いてある。すべてが表題に関わる話題である。人間の基本的欲望にまつわる「奇譚」である。不思議な本だがユーモアがあって笑える。こうしたわけのわからない本は昔あったような気もする。巻末には出版案内があり長田幹彦『幽霊インタビュー』とか洋画家東郷青児の『ロマンス・シート』など誘われるものもある。出版社のことは調べたがわからない。そう言えば、昔は奇譚、艶笑ものなどがかなりあったような気がする。「気がする」のは、ぼくが牧逸馬の「怪奇実話」シリーズの愛読者だったからかもしれない。
本名は長谷川海太郎だが、谷譲治、林不忘、牧逸馬の3つのペンネームでハチャメチャ旅行物、時代物、怪奇物を雑誌「新青年」を中心に書きまくった、明治後半から昭和の「大」大衆作家である。今では忘れられてきたが、ぼくには最高の作家である。『めりけんじゃっぷ商売往来』、『踊る地平線』、『浴槽の花嫁 世界怪奇実話1』などは傑作だった。文学的にも。もっとも知られたのは林不忘での『丹下左膳』。35歳の若さで亡くなってしまった。山田風太郎もこの系譜である。かなりのものは青空文庫で読むことができきます。一度、どうぞ。
と、いつものようにだらだらと書いてきたが、もう梅雨入りだとか。そうそう、写真にあげたのは、フランスから送ってもらったエリー・フォールという美術評論家の『美術史』の第1巻『古代美術』。1909年刊行。実は、この有名な初版が日本の大学図書館には入ってない。その昔、「美術史はフォール」と云われたぐらいの本なのに大学にないとはね。けっこう安かった。
やぁ〜っと原稿がいち段落した。長かった!!!去年の夏には終わると思って「再開」を宣言したのだが、暑い夏、旅行にも行かずパソコンに向かってネットで情報を追いながら原稿を書いたのだが終わらなかった。甘く見ていたのだ。ともかく、去夏から半年以上ものびてやっといち段落。と言っても、最初の計画からすれば4年以上は遅れてたのだが。まだ少しは残っている部分もあるが、気持ちは楽になった。やっとブログを書く気持ちが出てきたのである。春ということもあるかもしれない。といっても、長いこと休んでいたので何を書こうかと迷うのだが。ブログを書かなかったこの8ヶ月あまり、何をしていたのかと思い出そうとするけど、なかなか思い出せない。面白いことはいっぱいあったのに。
まずは、今年に入ってからの思い出すことをアトランダムに。
1月のパリでのシャルリー・エブドへのテロ。 フランスのネットを見まくった。意見はあるが書くのには時間がいる。そのパリへ2月末から1週間。学生の研修旅行。何と1年ぶりである。こんなに間を空けたことは今までなかったのだが、これも原稿のせい。自分の仕事だから仕方がないが、少し損をした気持ちになる。テロのことで不安がる学生もいたし、ぼくもいつもより少し不安だったので、ネットで危険情報をかなりチェックした。でも、行ってみたらパリはパリだった。普通のパリ。現実とはそんなものだろう。もちろん、危機に遭遇すれば、普通のパリではなくなる。これも当然だ。そうしたことは、大昔、1年近くのヨーロッパ、中近東、インド、ネパールの旅行で学んだ。その旅行でほんとに危険と感じたのは、ヨルダンの首都アンマンで、4人ほどの兵士に機関銃を突きつけられたときくらいだが。ホテルの2階から通りを写真で撮影したのが原因だった。フィルムを抜かれただけで解放されたが、第3次中東戦争後の政治・軍事的緊張のために厳重な警戒をしていたことをあとで知った。その昔より、はるかに(おそらく)危険は突然にやってくる状況になった。この突然の危機にどう対処するのか。情報をチェックするだけでは十分ではないし、外に出ないことでもない。危機に対処する個人の身体的技法が必要なはずだ。具体的にどうすればいいのかわからないが。
そのパリではよく歩いた。スマホに変えたので、一日の歩いた歩数を知らせてくれる。スマホは情報過多なところがうっとうしいが、これは悪くない。何と、2万3000歩も歩いた日があったのだ。腰も痛くならずに。そうそう、一度はと思っていた「農業博覧会」(サロン・ダグリクルチュール)に行くことができた。サロン大国(博覧会や品評会等々)のフランスでも1番規模の大きな博覧会だそうで、フランス農業の見本市。もちろん、ワイン、チーズ、ハム、肉などなど、試食品も少なくない。想像以上の規模で、ゆったり楽しむことができなかったが、農業と食べ物が「おフランス」な文化を支えていることは実感。一緒に行った学生たちも満足そうだった。
歳とともに、時差ボケがひどくなってくる。とくにヨーロッパから帰ってきたときがひどい。今回は、ほぼ1週間。4時間くらいしか寝れないので、1日に2回の4時間睡眠。3月は睡眠に悩まされそうと思っていたら、やっぱり。でも、意外なことがことが原因で。時差ボケが取れたある夜、寝床にカメムシが忍び込んだのだ。臭気のためにはきそうになったが、どこにいるかわからない。これもひとつの危機。翌日の昼頃起きたら(結構寝てしまったのだ、睡魔はカメムシに勝つ?)、身体はカメムシ臭。何と枕の下でまだ這っていた。寝れなかった憎しみを厚い紙に託し退治。着ているもの、シーツなどすべてを洗濯に出し身体も洗った。石鹸はアレッポ石鹸。でも、2日目にもカメムシ臭は取れない。カメムシ人間になるのではないかという不安が襲ったが、杞憂。3日目にはほとんど消えていた。ぼくは、ごきぶり、蜂、あぶ、蛾など虫類はまったく怖くないし、カメムシだって怖くはない。ただし、その臭いだけはね。誰もがそうだろうが。あれは何の臭いなのだろうかと、ウィキをチェックしたら「腹面にある臭腺からトランス-2-ヘキセナールなどを主成分とした[1]悪臭を分泌する。」とある。その上、1匹のカメムシが臭いを放つと、群れている他のカメムシは退散するというほどの臭いだという。なのに「カメムシ学者の中には、臭いでカメムシの種類をかぎ分ける者もいる。」なんて書いてある。毎日、臭いをかいでいるのだろうか。一度カメムシ学者に会ってみたくなる。危機と生きると危機ではなくなるのということである。ともかく、カメムシ学者を知っていたら紹介してください。
最後に、痕跡を消すということについて書いておこう。このところ、痕跡を消すことに関心が向かっている。痕跡を消すこと。現代ではどちらかと言えば支持されていない。やましいことは隠そうとする(犯罪者がその代表である)場合など、イメージは悪い。痕跡消去は、現在の文化では分が悪いのだ。時代は、といっても19世紀以降のことだが、痕跡は「私」の生きる証として重要なものとなってきた。でも、と考える。痕跡を消すことは、ほんとうにマイナスなのか。大昔の絵、たとえば、17世紀のオランダ絵画を見ていると、それが画家の塗り痕を隠す絵であることがわかる。筆で描いているのに、筆の筆触を隠したのだ。理屈はいろいろ考えられるが、それは別として、そのことが楽しかったに違いない。こんなことを考えていた矢先、ぼく自身が、痕跡を消すことの快楽を味わってしまったのである。
ジーンとくるような快楽は、ある深夜、サッポロ一番塩ラーメンをつくったときのことだった。実は、ぼくの基本的食事法は、朝と夜には炭水化物を摂らない、ローカーボダイエットの改編版。江部康二さんという医者(最近は本が売れて世間的にも知られてきた)の用語では「新縄文食」(関心ある人はネットで調べて下さい)。糖尿病のための食事法として始めたものである。その食事法を、かなり前からやっているのだ。病気をしたためだが、なので、深夜にインスタントとはいえ、ラーメンなど言語道断。自己規制もあるが、厳しい家内の目。といっても、普通には夜に炭水化物類(ごはん、麺類等々)をほしいと思うことはほとんどない。しかし、その夜は違った。テレビ番組のせいか?はたまた、数日前の昼のラーメンのうまさの記憶がよみがえったのか?、深夜に味わう美味しいワインのせいか?ともかく、インスタントラーメンが食べたくなったのである。
食料室には、昼食用のサッポロ一番塩ラーメンが。それほどの好みではないのだが、その深夜は猛烈に食べたくなったのだった。ただし、我が家の台所は、家内の寝る部屋の続きにある。もし、睡眠が浅い場合は、小さな音でも起きてしまい、ラーメンを深夜に食べたことがばれてしまう。こうなると、翌日が厄介である。インスタントラーメンのせいでもめるのは馬鹿らしいでしょう?そういうわけで、ラーメン作りは慎重に慎重を重ねることになった。つまり、作り、食べた痕跡を完全に消してしまうことが必要だからだ。そのために、まず水道水のの流れを最小限に、ガス着火の音を出さないように、そして、火の音も最小限に。鍋の水が湯になるのに結構時間がかかった。やっと湧いたお湯に麺を入れても火が小さいのでなかなか柔らかくならない、普通よる2倍の時間がかかった。もうひとつ、ラーメンには卵。ぼくの定番である。爪で卵を割り(音を出さないため)、鍋に落とす。葱は、これも小さく手でちぎる。こうして、無限とも言える時間が経ち、サッポロ一番塩ラーメンは出来上がった。部屋からは起きたようなシグナルはない。時間をかけたために柔らかくなりすぎた。でも、インスタントはグニャグニャな麺の方がインスタントの分にあっている。そして、居間に運びゆっくりと食べる。「うまかった〜!!!」抑圧の中でのラーメンがこんなに美味しいとは。しかし、片付けが待っている。卵の殻は生ゴミ箱の奥に隠し、少量の水で器と鍋を洗う。お湯を使うと給湯装置が音が出るからである。やっかいだったのは、鍋の底にこびりついてしまった卵。普通のスポンジでは取れないので、鉄タワシと爪で、ゆっくりと。もちろん、鍋、食器、箸は元の場所に。翌朝に臭いが残らないように台所の窓も開けた。こうして、深夜のサッポロ一番塩ラーメンとの一夜は、完全犯罪となったのだった。痕跡を消すことの快楽である。
こんな感じでブログの再・再開!最低、1ヶ月に1回は更新するつもりである。アクセスしてくれたごく少数の読者のみなさん、よろしく。つまらないこと、だらだらしていることが面白いということもある、そんなブログを目指して。
ブラジルのW杯までに原稿を仕上げると書いて中断したこのブログFrench Libraryだが、結局、原稿は完成できず、W杯に突入。6月13日の開幕試合ブラジル・クロアチアから始まったW杯は、ドイツ優勝という、ぼくには悔しい結果で終わってしまった。アルゼンチン好きなのだ。そして、タイムラグの生活も1ヶ月が限度とも思った。LIVEで見たのが20試合弱か。あとは録画。楽しいが大変だった。大変なのは見るだけでなく、情報をチェックしたくなるからだ。日本での情報だけでなく、面白かったチームの情報を、当該の国のヤフーやグーグルでチェックしてしまうからだ。現在のコートジボワール、コスタリカ、コロンビアの現状とかもチェックしたくなり、パソコンの画面で見るはめになるからだ。おかげで、いくつかの国のヤフー的現実を知ることができた。
さて、このW杯ほど、紙一重ということの重さを感じたことはなかった。そのことが今回のW杯を面白くさせた。紙一重は、偶然的なものと、少し開きのあるものとがある。1次リーグから決勝トーナメント1回戦は白熱したゲームが多かったが、その多くは開きのある紙一重だった。実力が開いていても、紙一重になるのである。そこでは実力が下のチームが上に迫る、その迫力が面白くした試合も多かった。アルジェリアとドイツ、オランダとメキシコがそうした試合だった。下位のチームの気迫と体力。誰が見ても興奮する。そこでは戦術は一部にすぎず、別のファクターが支配する。そこで紙一重が起こる。フットボールが世界を熱狂させる原因のひとつは、ここにあると思う。そして、準々決勝になると、偶然の紙一重が白熱を生む。オランダとコスタリカは少し差があったが、あとは実力拮抗。ドイツ戦のフランスは、ヴァランの若さが出てしまった。もうひとつ頭を上にのばしたら、どっちに転んだかはわからない。コロンビアは、ファルカオがいたら準決勝までは来ていたとは思うが、このレベルになると、サッカーほど予測のつかないスポーツはない。その最大のものはブラジルの崩壊!唖然。諸行無常と言うか、物事が崩壊するというのは、こうしたことなんだと悟った僧侶(?)のようになるしかなかった。といって、ぼくはブラジルファンではないのだが。ダビド・ルイスの1点目のミスは、腕に主将の腕章を巻いたためか、もともとあった守備でのおっちょこちょいのためか。となるとミスではないのだが。そしてアルゼンチン。ディ・マリアの怪我が痛かったが、監督のミスも大きかった。不調のアグエロをどうして使ったのか、これが最大の疑問だ。それに対して、先発として起用されなくて、何かを溜めていたゲッツェを最後に送り出したレーウの心理学が優勝をもたらしたのだが、世界の評論家たちがドイツの戦略を、新しい方向だと誉め称え、アルゼンチンを守旧だといさめることには納得出来ない。フットボールの進化?こうした近代主義が大きな価値として存在しているようでは、フットボールは面白くなくなるだろう。このスポーツの面白いところは、多様性、そして、何度も書いたことだが(このブログで)、世界の残酷さを抱え込んでいるところだ。
数日前、朝日新聞に蓮實重彦が、今回はつまらないW杯だったと書いていた。これにも唖然!スポーツとしてのサッカーの美しさが台無しにされたと言っているのだが、蓮見の本を読んできた者として、サッカーにスポーツとしての美しさを求めるという、その発言をパロディーと思いたいのだが。仮に、美しいとしても、それは残酷さと表裏一体になっているからだと思っている。ともかく、蓮見重彦は、物事をもっと相対化出来る人かと思っていた。フットボールを美しさという言葉で語ること自体、美しくない。だから、ぼくはクライフも好きではない。日本にはそうした形式主義のスポーツモダニストがあふれている。そこから、スポーツに人生を過剰に重ねるつまらない記事や評論があふれてくるのである。そのことと、多くのスポーツファンが批判する民放のスポーツ芸能化とが表裏一体の現象であることに気づく人は少ない。
W杯ともなると、いろんな人がいろんなことを「語る」のでいらつくことも多いが、そうしたことを白熱したゲームはどうでもいいことにする。何がベストゲームだったか1試合選べと言われれば、アルジェリアとドイツの試合だった。アルジェリアについて、それまでまったく情報がなかったのでびっくりしたことと、ボールを、受ける蹴る、走る、相手をチェックする、ゴールに向かう、という基本的なことに忠実だったことが印象的だった。日本とえらい違いだ。といって、日本の1次リーグ敗退にがっかりしているわけではない。あんなにつまらない試合をしたら当然。批判しない評論家、海外の情報を精確にキャッチしないメディア等々、大きく言えば、フットボール世界に世慣れしていないということにつきる。たとえば、岡田武史。かなり信用しているのだが、その前監督が、世界のサッカー関係者たちに会って話を聞くと全員日本の実力を高く評価していた、と、話していた。日本はもっと自信をもったほうがよい!などと言っている。「自分たちのサッカーをして優勝」という馬鹿げたフレーズと重なる。岡田という日本でも数少ない現実主義者が、ほんとうに「自分たちのサッカー」という麻薬に麻痺してしまったのも仕方がない。
W杯のことを書いていくときりがない。書くことにきりがないことは幸せなことだ。ただ、W杯中は頭がボーとして書けないのだが。ともかく終わった!そしてブログ再開!
ともかく、4年後のロシアW杯はかならず行く予定だ。大学も定年、久しぶりのロシア(というより前に行ったのがソ連の時代なので、始めてと言うべきか)、予算は4試合見るとして35万くらいで、貯金しなくては、あるいは、現在のウクライナ情勢がさらに進み、ロシアが無謀な帝国主義になったらどうしよう、などなど考え始めている。これも楽しい。日韓のときに札幌と大阪でしか見たことないので、ともかく海外でW杯を経験したいのである。理想はもちろん、イングランドに1年ほど住み、アーセナルかニューキャッスルを毎週追いかけることだが、当然、夢物語。Jリーグがそんな情熱をかきたてるようなリーグになり、京都サンガを追いかけるようになったらとは思うが、いつになることやら。
1ヶ月半以上ブログを中断している間、W杯以外にもいろいろあったのだが、どんなことがあったのかを、列挙しておく。ブログはぼくの備忘録ともなっているので、お許しを。システム手帳のスケジュール表を見ながら、W杯期間中も、いろいろあったんだなー、と、妙に感心。
もちろん、仕事はちゃんとしたと思う。授業と会議。学部の世話役なので面倒なものもあるが致し方ない。ただ、試合のビデオ見には神経を使う。試合結果を知らないように、つまりW杯情報を半日以上遮断しなくてはならないからだ。今回は大成功。これまでのW杯では、家にたどり着く前に、結果を知ってしまった(知らされてしまった)こともあって、情報遮断法を学習したのだ。
そんな日々、健康診断の結果が出て、この1年で中性脂肪がかなり増えていることがわかった。夜中のツマミと甘いものを食べないと決心。ただし、朝方のいくつかの試合では、ついツマミでビールを飲んでしまった。フットボールとビールは、ほんとうにぴったりの組み合わせなのだが、朝方にビールは合わないこともわかった。それから歯が悪くなって行きつけの歯科医へ。奥歯はそろそろダメです、歯垢を取りましょうと、W杯期間中、3回歯医者へ。ぼくは医者には忠実で、その上、病院が嫌いではない。これまで何度か入院したが、まあ、症状が軽いということもあって、楽しい入院生活だったからだ。病院という閉じた空間の「さかさま的世界」、つまり現実とは逆の意識が働くという意味だが、それが楽しいのである。まだ、病気に傍観的。これがもっと年取ったら、深刻なものだったらそうはいかないだろうが、そうなるときがあっても、楽しくしてみようとは思っているのだが。
そうそう、客員教授になってもらったパリのオノデラユキさんもやってきた。はじめてきちっと作品に対面したのだが、来てもらってよかった。写真という媒体がアートという哲学の道具としてうまく使われているところに感心した。スケールも大きい。物理的にも精神的にも。海外にいるというのはこういうことなのかとも思う。もちろん、レクチャーのあとは学生も一緒に歓迎会。属している学会の例会が2つあった。学会というのは研究者の業界である。研究動向を得ることが基本的な目標だが、会員の親睦ということが一番大きい。とくに日本は学会が発達している国で、学会が研究の基礎的な場になっている。だから世間の業界と同じで、おかしなところもあるが、権力的でさえなかったら楽しい場である。ドイツとアルジェリアの試合ほど、スリリングな発表はなかったが。
W杯が終わった週に韓国のホンイク大学の先生と学生が、精華の立体との合同展のためにやってきた。去年の9月にゴヤンでお世話になった先生たちである。ぼくは何もするわけではないが、一緒に宵々山の市中の居酒屋でまずは歓迎会。 歓迎会係?そうかもしれない。オノデラさんのときもそうだが、講演会やゲストとの付き合いは、本番の後も大切だ。ゲストたちと個別に話す機会があるし、そこでこそ話が深みを増すことも多い。と、これは飲むためのこじつけかもしれないとも思うが。韓国の先生と学生たちとも楽しくやっている。キム・ボムスさん(若い先生)が『監視者たち』の豪華なDVDセットを持ってきてくれた。日本でなかなか公開されないのでお願いしたのだ。ハン・ヒョジュが主演者のひとりで評判をとった映画。週末に繰り返し見よう。原稿もスピードがあがりそうだ。
W杯期間中は韓国ドラマや映画を見てなかったのだが、韓国からのゲストが来たこともあって、スイッチがそっちの方向に。そして、そして、ほんとに泣けた映画を借りて見た。『建築学概論』。タイトルがよかったので、もともと見ようかと思っていたのだが、DVDだけどほんとによかった。初恋というテーマ、それを大学の授業「建築学概論」と重ねる発想、シナリオの作り方(とくにディテール)、そして俳優たち、理論派の映画ファンには通俗的ということになるのかもしれないが、いい映画だった。去年、NHKでの『初恋』と同じ、いや、それより少し上。大学1回生時代の二人を演じるイ・ジェフンとスジが抜群。2012年の映画なので、こっちはだいぶ遅れた。スジはもう韓国の大アイドルらしい。大人役の男はオム・テウン。もともと好きな男優だ。建築学概論というタイトルも秀逸だ(英語のクレジットを見ると韓国では「アーキテクチャー」のようなので、日本語のタイトルは配給会社の宣伝担当か?このタイトルの方がずっといい)。
建築をテーマにした映画はいくつもあるが、これはトップクラス。「概論」というのが初恋の比喩になっているし、授業そのものが建築を都市(ソウルだが)から見ていくという内容であることも、ストーリーにふくらみをもたせている。もちろん、初恋がパターン化されているとする人もいるかもしれないが、初恋はパターンだのだ。だからこそ、繰り返される記憶映像となるのだ。ともかく、W杯の終わった週、『建築学概論』はブラジル時間から、ぼくを昭和の時間へと頭を切り替えさせたのだった。
ブログを少しの間、中断することにした。理由はいろいろあるが、基本的には長い文章を書く時間がないのだ。じゃ、短いのをとも思うのだが、長いダラダラした文章を書くのも目的だったので、フェイスブックやツイッターのような短文と写真のメディアではね〜。ともかく、W杯の頃までは中断することにした。その頃には、予定している原稿も完成させ、リフレッシュな気持ちで、新しいタイプのブログをやろうと思っている。このFrench Libraryを読んでもらっている少数のアミーゴのみなさん、そんなわけで、また、6月頃に会いましょう。
ふとした機会(瞬間と言った方がいいが)に、これまで気づかなかったことに気づいたり、嗜好が変わったりということがある。誰にでもあることだが、今年に入って、そんなことが2つあった。ひとつは、「ぼくはピーマンが好きだ」とわかったことである。言葉で書くと、すごくつまらないことになってしまうが、冷蔵庫野菜室のピーマン2袋を見たとき、そうだったんだ!「ぼくはピーマンが好きなんだ」と妙に納得したのだった。長く生きてきて、ピーマンが好きだと思ったことはなかった。でもよく食べてはいた。生でも食べるし、酢豚に入っていないとがっかりするし、ピザにもトッピングする。何度も書いているシェーキーズではペパロニ(アメリカ産のサラミ)にピーマンのトッピングが一番の好物で、注文せずとも店員さんが入店と同時に窯に入れてくれる(この自慢話もこのブログに書いたはずだ)。他のピーマン料理はあまり食べないが、それでも野菜室にはいつもピーマンがあるのだ。ただ、ピーマンが好物だとは、一度も考えたことがなかった。この歳になって、どうしてこんなことに気づくことになったのか?わからないが、ピーマン好きだとわかったときには、ひどく幸せな気分だった。
もうひとつは、白いご飯が上手いと思うようになったことだ。実は、これまでご飯を美味しいと感じたことはあまりない。もちろん食べてはいし美味しいと思うこともあったのだろうが、普通はあるから食べているだけで、上手いともまずいとも思わなかった。海外に行ってもご飯が食べたいと思うことはあまりないし、漬け物類は好きだが、お茶漬けをする習慣もない。飲んで帰ってきて家内が「お茶漬けする?」と聞いてくれる風景は夢見るが、といって、実際にされても困るだろうなと、ドラマなんか見ていて思っていたのだった。それが今年に入ってから妙に白いご飯が美味しいと感じるようになって、よく食べる。といっても夕食は炭水化物系を控えているので昼飯でのことだが。特に自宅での場合、昼はご飯、というのが多くなった。少し大きめのお茶碗に盛り、そこに生卵(宅配してもらっている)、ネギ、そして萩市の井上商店の「しそわかめ」をたっぷり、加えて広島の三島食品の「カリカリ梅」を少々、そこに当然、醤油をかけて混ぜる。何故か山陽道の混ぜご飯になるのだが、それを豊橋の海苔でくるみ食べるのだ。うまい!こうして今年新しい味覚の嗜好が始まったのだ。歳はとってきたが、何であれ新しい事やものの発見は楽しい。
と、ここまで書いてきていったん中断、2週間後に再開。
2月から3月の始めは、学年末で忙しいし、ソチのオリンピックもあった。冬の五輪はそれほど関心はなく、キム・ヨナを見るだけにして原稿を頑張ろうと思っていたのだが、放送が始まるとつい見てしまった。夜型の人間なので、ヨーロッパのスポーツ中継は就寝前のちょっとしたくつろぎタイム。ウイスキーや焼酎をちびちびやりながらサッカーなんかを見るのだが、2月の2週間はオリンピックになってしまった。レベルの高い競技を見ているとやっぱり楽しいが、でも、終わるまで見てしまうので疲れたのだが。ぼくにとってソチでのベストは、キム・ヨナ(前回よりよくないがそれでも1年間大きな大会に出ていなくてあの演技、やっぱり女王だ)、次にオランダ勢のスピードスケート(身体の大きなアスリートのスピード感はすごい)、日本の選手で言えば葛西(ルサンチマンを結果に結びつけたしぶとさ。日本人離れしていた)、複合の渡部(その知的な物言いが新しいアスリートを感じさせた)。こうしてよく見たのだが、翌日のメディアの涙の人間ドラマ作りが過剰すぎて食傷。オリンピックが人生劇場になってしまう。加えて、国家ナショナリズム。それもオリンピックということか。やっぱり現在、スポーツの面白さを堪能するなら毎年のW杯だろうね。
そうそう、この2月3月は美術、美術な月間だった。そのなかでも祇園の何必館での「今村幸生」展は面白かったな〜。これまで知らなかった画家だったが、新聞の展評の写真を見て不思議な気持ちになり足を向けたのだった。そして・・・・。これはこれは。一見、ポップなイラスト風だがちょっと違う。今はやりのポップイラスト絵画は世界の表面の見取り図を差し出すのだが(もちろん面白い作品に限るが)、今村幸生のそれは、世界の表面の奥にのある層のようなものに触れようとしていると見えた。表面と奥を対照させているわけではない。そうした言い方しかできないのだが、地球の地層と同じように、世界は多くの歴史・文化の層からできていると考えているのだ。そこに価値の差異はない。今村が触れたのは、ぼくが大切だと思っている表面の下にある層なのである。そして、層はいつも同じところに留まっているわけではない。80歳になってこそ届く場所か?今村幸生を見た後は旧立誠小学校でウィリアム・ケントリジ。この南アフリカの作家の映像中心のインスタレーション。現代アートのひとつの地平を考えることになった。こういった作家が日本であまり出てこないのは何故かとか・・・
こんな2月だったのだが(このブログ、だんだん日常雑記になってきてしまった。どうしよう、つまらなくなっていきそうだ)、26日からは学生28人(プラス佐川さん)と一緒にパリ研修7日間。ピーマンも井上商店の「しそわかめ」もないが、パリが好きなので、どんなことでも何日でも行くのはうれしい。半正式研修(来年度から正式科目になるのでそのプレ)だったので講義もした。ルーヴル、オルセー、ポンピドー、パッサージュ巡り、そしてオベール=シュル=オワーズでゴッホと弟テオの墓参り、何十年か振りでサクレクールに登ったりと、足と腰が疲れたのだったが、学生たちのパリ初体験の感覚を見ていたらやっぱり来てよかったと感じもした。最後の晩餐は全員でクスクス屋。初めての学生にはパリのエスニックは、パリイメージを豊かにするはずだと思って企画したのだが・・・。何か「先生」である。
研修2日目にボザールの教授をしている川俣正さんのアトリエを訪問できたのも収穫。これは佐川さんのおかげ。川俣さんのことを知っている学生たちは驚きだったようだ。数年前、ボザールで川俣さんを遠目に見かけたのだが、そのときの印象とは違ってすごく「サンパ」(フランス語で感じがよくオープンなという意味)な人でこれにも感激。翌日はぼくを含めて3人で、川俣さんと佐川さんの同級生話を肴に、コート・デュ・ローヌを痛飲。このところ、パリではぼくはだいたいこの銘柄。「コート・デュ・ローヌがわかってこそワインがわかる!」と力説したレストランで隣にいたフランス人のアドバイスを実践しているのだ。この日のものはおいしかった。
もうひとり、オノデラユキさんとも会った。もう20年もパリにいるアーティストで、写真アートというのか、写真をベースに世界を新しく構成している人である。会うのは初めて。電話での感じから彼女も「サンパ」と思っていたが、その通りだった。パリに住む日本人で感じのいい人はそれほど多くはないと言うのがぼくの印象なのだが、短い間に2人もそうした人と会えたのは、すごく幸運なことである。来年度から芸術学部の客員教授で来てもらうので、打ち合わせを兼ねて、彼女のご近所のラオス料理屋に。ともかくうまかった!昔、ベルヴィルで食べたことがあったのだが、それに比べれば雲泥の差。どの国でもちゃんとすれば料理は美味しいのだということを再確認。
こうして3月半ばになったのである。3月半ばはぼくのものではないけど、月日も私に関係しないなら月日ではない。ブログの間隔が開いたのは、それだけ2月から3月が私的に濃密だったということだと、しておこう。完全時差ぼけの今朝は4時過ぎに起きてしまった。お腹がすいたので、パリから買ってきたピレネーの生ハムと目玉焼き、そしてピーマンとトマトで朝食。頭が何かに包まれている。これから大正イマジュリィ学会の全国大会があるというのに。それにしても今朝は寒かった。
年を越すまでにブログを更新、と思っていたけど、やっぱりできなかった。年末の大掃除が大変だったのだ(恒例だが)。腰が少し悪いし体を動かす習慣がなくなったので、重労働となる。掃除そのものは好きなのだが、身体がね。そんなことで2014年となってしまった。年を越えるときは、いつも近くの法然院。除夜の鐘をつくため。もちろん。このお寺はやってくる人は拒まないという、ほんと仏教的慈悲に満ちているので(お寺なので当たり前か)、1回目の鐘つきが終わっても2巡目をしてくれる。ぼくたち家族は、いつも2巡目なので「今年は何とか1巡目に」と早めに行ったのだが、やっぱり2巡目。紅白のせいだったかもしれない。久しぶりに、それなりに見た。「あまちゃん」の大ファンだった次男がチャンネル権を持ったせいである。けっこう楽しかった。八重さんのMCらしからぬ司会ぶりも楽しめたのと、「あまちゃん」の紅白のっとりも悪くなかった。もうひとつ五木ひろしの「博多ア・ラ・モード」。昔のラテン調歌謡曲、AKB48その他のバックコーラス・ダンスが最高で、とりわけ指原梨乃の仕草。AKB48への偏見は、2013年の最後にふっとんでしまったのだった。
その日、大瀧詠一が亡くなったというニュースが。ぼくのような「はっぴいえんど」世代にはずしんと響くことだった。昔、一度会ったことがあるのだが、あまり話さない人だったような記憶がある。ともかく大瀧詠一みたいにポップな感覚をもったミュージシャンはいなかった。あとは鈴木慶一のはちみつぱいとムーンライダースぐらいだろうと思っている。「はっぴいえんど」を再結成をしてほしかったのに!伝説のグループは、頭の中にしかなくなった。大瀧さんの死を聞いて、昔、新譜ジャーナルというフォーク・ロックの雑誌の編集をやっていたときに(3年間ちょっとの短い期間だったけど)、1973年の文京公会堂での「はっぴいえんど解散コンサート」のレヴューを書いたことがあったな〜、と思い出したのだった。自分では出来がよくて、後年の学術論文より充実していた感じがする。でも、バックナンバーがないので、ひどい文章だったかも。その雑誌をネットで探したけど見つからない。そんなことでバックナンバーを探していたら、キャロルの新譜ジャーナル別冊が何と15万円以上もしているのにびっくり!編集していたからよく覚えている!その上、何册か家にもあった。手元にちゃんと置いておくんだった!金銭のことだけでなく、とっておくものとほりだすものの区別は難しい。
去年の弟のときもそうだけど、同世代の人の訃報は、また別の人のことを思い出させる。そういえば、西岡恭三も高田渡も鬼籍に入ったのだった。はちみつぱいのかしぶち哲郎も。いい時代だったというべきか、ノスタルジーの甘さのせいなのか、細部が捨象される過去は、頭の中で「いい時代」なのだろう。
今年は正月から文章を書いた。長くやっている仕事に本腰をと思ったこともあるし、知り合いの研究者が大大著書を送ってくれたこともある。そして、何事もそうだが、本腰を入れると面白いこともあるが、少し疲れる。(ここまで書いて10日以上中断。話題が古くなってしまったが残すことにした。お正月はかなり前のような・・・。そして、やっと再開。すでに節分間近なのだった。だらだら日記のようなブログは、ネタがすぐに旬を過ぎてしまうので、ちょっと書くことを変えようかなとも思っているのだが。)
そうしている内に佐久間正英さんが亡くなったとの知らせがメールボックスに。もう少しいてくれるだろうと思っていたけど・・・、言葉は出てこない。人の死とはこういうことではないのかとも思う。佐久間さんを直接知ったのは短い期間だったけど、知り合えてよかったと、心から思う。ぼくの思う才能あるかっこういい人と少しだけでも知り会えたのは幸せだった。「かっこいい」というのは、すがたかたちのことではなく(そうした場合もあるけど)、「かっこ悪さ」を抱えたかっこよさ、とでも言っていいか。「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という早川義夫の歌に通じるかもしれない。
フランス映画でベルトラン・タベルニエ監督の「田舎の日曜日」というのがあった。田舎に暮らす老画家のところに娘が訪ねてくるという単純な話なのだが(はっきりと覚えてないところも多い)、その中に、確か、「お父さん、これまで何が一番幸せだった?」という娘の質問に「ゴッホと少しでも同時代を生きたことだよ。」といったようなことを、何とも言えない顔つきで老画家が答えるシーンがあった。こうしたことが好きなのだ。才能あるかっこいい人と同じ空気を吸う、こんな喜びがあるだろうか。有名人ということではない。世の中に知られていないが、そうした人は少なくない。というより、こちらの方が多いのだ。そうした人と出会う、そして、できれば少しの付き合いを、さらに長いこと続く知り合いになることが楽しいのだ。目標になることも少なくない。才能ある人の「かっこいい」ことは、優れた本を読むように身体にしみ込んでくる。そうした年上の人、友人、同僚、若い人の中にもいる。ぼくが旅行が好きなのも、どこでも人に図々しく声をかけるのも、そうした人にまだまだ会いたいためなのだ。そして、出会うことも少なくない。誰々と同時代を生きることができること、できたこと。いつかそんな同時代日記を書いてみたい。
そんな才能あるかっこいい歌手から、去年の11月末頃か、突然メールが来た。上で書いた雑誌編集をやっていた時代に知り合った歌手からだった。ぼくたちはキーボーと呼んでいたので本名を知らなかったのだが、ともかく、60年代末から70年代のフォーク・ローック・ムーブメントの中にいた歌い手である。声が伸びやかで、自作の歌には何とも言えない叙情性があったことが頭に刻まれている。実際、仲も良かった。レコーディングにも付き合ったし、レコード・ジャケットの裏側に「Thanks」とクレジットもしてくれた。その彼からのメールである。長いアメリカ暮らしのせいなのか、不思議な文体でのメールだった。日本の音楽業界に嫌気がさしてアメリカに行き、美術史研究者と暮らしていたとのことだった。彼とは何か縁があっただろう。そのキーボーが40年近くぶりにアルバムをつくったので、何か書いてくれということだったのだ。憶えていてくれたことが1番うれしかった。どんな声になっているのだろう、何を歌うのだろうと、CDが送られてくるのを待っている。
ミュージシャンの話ばかりになった。最初は別のことを書こうと考えていたのに、大瀧詠一のことで音楽の話になったのだ。でも、別のことは何なのかと思い出そうとしても(社会のこと?映画のこと?哲学的なこと?何だったのか)、思い出せないのだが。ともかく、1月のブログは長くすると決めているので、もう少し続けてみる。実は、1月は大学に行く以外は家にいて原稿を書いていたので、あまり面白いことをしてこなかったし、才能あるかっこいい人や奇麗な風景に会うこともあまりなかったのである。本もたいして読んでいない。
French Libraryというブログなのに、このところ本のことを書いていないのは看板に偽り的だと思うのだが、なかなか読む機会がないのだ。最近では、銀閣寺の古本屋で、新書や横光利一の随筆を買って読むくらいのことはするが、「身体にしみ込んでくるような」本は読んでない。ただし、例のプルースト(このブログのどこかで書いたことがある)は別。ただし、継続中だがなかなか進まない。それも当然。昼前に起きて(もちろん家にいる日は)昼飯を食べて、プルーストの第8巻(平凡社の文庫本なので全10巻。やっと終わりが見えてきた)のしおりを挟んだページから読み継いでいく。下関の練りウニの10倍以上に練り込んだ文体、さまざまな比喩、心理、風景描写等々を読んでいくと、20ページもいかないうちに眠くなってくる。その上、寝転がって読んでいるので昼寝へと落ち込んでいく。でも、この瞬間の気持ちよさ。とくに、この季節の晴れた日、窓からの光が身体に当たって恍惚に近い気分。これも読書のひとつのスタイルである。1月、家にいるときは、こんな昼間を過ごしててきたのだ。
このブログでの定番メニューの食べ物のことも、正月の寒ブリやふぐ以来、美味しい!というものがあまりないが、ひとつ食べ物の嗜好に変化がおきたような気もする。米が好きになってきたのである。理由はわからない。外国に行っても白いご飯を食べたいとほとんど思わなかったので(食べるけど)、米が好きではないと思ってきた。最後にお茶漬けということもまったく習慣がなかった。それに、10年ほど、新縄文食という炭水化物を少なくするダイエット的な食生活なので、米はますます遠ざかっていたのだった。それがそれが、去年の終わりの頃からか、あるいは今年に入ってからか、米は美味しい!と感じ始め、昼によく食べるようになった。それも、同じような食べ方で。大振りの茶碗にたきたてのご飯。そこに「しそわかめ」という山口萩の井上商店のふりかけと乾燥梅を少し、そして生卵と混ぜ、豊橋の苔苔(有名ではないが美味しい)で食べる。汁物はとろろ昆布にだしをいれたもの。シンプル!米はけっこういいものらしい。家にいるとき、とくに一人のときは、この昼飯が中心だ。その後、書いたように『失われた時を求めて』のプチ読書。白米とプルーストが眠りに入る前に頭の中で混じり合う。こんなこと書いていると食べたくなってきた。さっそく明日の昼飯は。米好きになったのか、この冬の気まぐれか。春になったら、ほんとに米が好きになったかどうかがわかるかもしれない。といっても、春はもうそこだ。
気持ちが過去に向くときがある。どうしてかといろいろ考えてみると、歳のためだとか弟のことだとか、あるいは台風、はたまたシェーキーズだとか、原因はいっぱいある。何で台風やシェーキーズが過去を呼び覚ますの?っていうのは、あまりにも個人的にすぎてわからないだろうけど、ちょっと説明すれば、台風は1959年の伊勢湾台風を、シェーキーズは60年代のカルフォルニアという過去を呼び起こすのだ。この文章、ちょっと論理がおかしい?つまり、過去に向くという気持ちが先にあって、過去に向くのか、ある事象が過去のことを喚起するのか、はっきりしてないからである。もちろん、相互的関係なのだが。
訳のわからないことを書いているが、ともかく、この秋、昔のことが気になり、そのおかげで、すごくカンドー的(感動的と書くより、カタカナなのがいいでしょう?)な過去に会った、というか再発見したのである。忘れていたことを思い出したといったことである。まずは、そのことを書いてみる。そして、そのカンドーのために、この1ヶ月、頭の中には歌が鳴り響いてもいる。1960年から70年代の青春歌謡やムード歌謡と呼ばれたベタな歌ジャンルの歌のことを思い出したからである。直接のきっかけは、大阪テレビ(偉大な東京テレビ系)で、夕食を食べながら、ふと普段見ない「懐かしの歌謡曲」(正式な番組名は忘れた)といったたぐいの特番を見たことである。こうした「なつかし」番組は、過去と現在の時間の落差を喜びや残酷さとともに感じさせるので楽しいのだが、そのなかで、舟木一夫、和田 弘とマヒナスターズ、フランク永井、松尾和子、あるいはロスプリモスとか、とか、を、久しぶりに聴いたのだった。「なつかし」番組には、昔のスターの残酷な姿を見る喜びもあるが、スターたちが若かった昔の映像を流すことも少なくない。そんなことで、Youtubeで検索し、始めてフランク永井と松尾和子の「東京ナイトクラブ」を口ずさんだ。男女のデュエット曲である。以来、メロデイーと歌詞が頭から離れないので困るのだが、できたら一度カラオケでデュエットしたいな〜と本気で思い始めた。実は、何か恥ずかしくて、これまでカラオケでデュエット曲を歌ったことがないのだ。では、誰とデュエット?頭が痛い!
ともかく、歌謡曲についていえば、何故か忘れていた。21世紀に歌謡曲がないからかもしれない。テレビの数少ない音楽番組はポップス?かなにか、ヒットした曲だけが口パクで流れる。この手の番組も少なくなったし、ぼく自身ほとんど見ない。10年以上前に飽きている。音楽番組も20世紀で終ったのだ。歌謡曲が終ったからかもしれない。ほんとうは、ポップスも全部歌謡曲なんだが。演歌は?生きているのだろうけど、テレビなどではわからない。時たま地方都市の居酒屋なんかにはいると、ご当地ソングを歌う演歌歌手のポスターが貼ってあるでしょう。「え〜、こんなのあるの」と驚くが、おそらく演歌は局地的に今でも生きているのだろう。ともかく、歌謡曲を忘れていたのは、歌謡曲という言い方、イメージ、実際の歌、そうしたものが話題にならないからかもしれない。それが番組のせいで、突然、思い出したのだ(演歌的な歌も含んで)。
全部書ききれないが、まずは、舟木一夫。詰め襟の高校生ルック。「高校3年生」とか「「修学旅行」とか、学園物で一世を風靡したが、ぼくは学園物より青春物が好きだった。「懐かしの歌謡曲」を見てタイムスリップ。名曲「君たちがいて僕がいた」「花咲く乙女たち」「高原のお嬢さん」といった名曲がメロディーと歌詞とともに頭に降りてきたのだ。そして、ここもYouTubeで検索。やっぱり昔の舟木一夫はいいな〜と、郷愁に加えて楽曲の魅力も再発見。テレビの前で「いいね〜」と相づちを家内に求めると、「遅すぎ!私は昔からの舟木一夫ファンだった!再発見ということが間違っている!」と、ファンとは何か、再発見とは何かについて論争(大袈裟な!)。実は、ファンというのは、誰もが自分が最初の発見者と考えるものなのだ。のんびりした夕食時でしょ?東京テレビのおかげ。ともかく、舟木一夫再発見で、さらなるカンドーの再発見が。本間千代子を思い出したのだ。長い間忘れていた、というより名前を思い出すこともなかった。
若い頃、かなりのファンだった。1960年代の「青春」を代表するようなルックスと声。舟木一夫は、その本町千代子とコンビで映画を撮っていたのだ。代表作は「君たちがいて僕がいた」。舟木のヒット曲をモチーフにつくられたチープな高校生物である。こうした青春歌謡映画は、いつの頃までだろうか、かなり多かった。よく見たものだ。人気歌手のヒット曲をテーマに作られているので、主演はその人気歌手。「君たちがいて僕がいた」では、当然、舟木一夫。ヒット曲が中心なので、何かとメロディーが流れるし、実際に舟木が歌う場面もある。ここでいえば、舟木が「きーみたーちがいーて、ぼくがーいたー」と歌うのである(本間千代子と仲間も一緒に歌うが)。ヒット曲が歌われることが重要な映画である。そのために、筋書きや場面とは無関係にヒット曲が主人公によって歌われることしばしば。かなり跳んだシュールな映画でもあるのだ。シネマトグラフィーの原理と映画の内的論理も無視して、ヒット曲のメロディーが映画を統合しているといったらよいか。
その「君たちがいて僕がいた」の本間千代子。おしゃまできりっとした可愛らしい女子高校生。よく知られたところでは、1963年度版の映画「青い山脈」の新子役の吉永小百合が見せるような女子高校生像である。ぼくは「小百合」世代だしファンでもあったが、本町千代子の方が少しだけ好きだったのだ。このタイプの後継者は今もいる感じがする。映画の中ではなく、現実社会に。戦後の女子高生(あるいは女子)像の原型である。
こうして本間千代子から、再発見は戦後の青春イメージへと連なっていくのだ。夕食が楽しくならないわけはない!そこで思い出したのが、小説家、石坂洋次郎である。記憶は不連続に、ただし、何かの関連を持って連なっているのだが、ここも書き出すときりがなくなる。石坂洋次郎のもっとも知られている作品は「青い山脈」だろう。他にも多くの青春小説を書いた。戦後の青春像を作った小説家である。もちろん映画にもなった。「青い山脈」もそうだ。残念ながら本間千代子は石坂原作の映画には出演していない。所属が東映だったからで、石坂の小説を原作とする映画は日活の専売特許だったのではないか。ぼくが1番好きだったのは「青い山脈」ではなく、「陽のあたる坂道」。石原裕次郎と北原三枝の主演の「エデンの東」のような映画だった。ただし、最高だったのは裕次郎の妹役の芦川いずみ。彼女も戦後の理想の少女像なのだ。何度か日本の少女像について書いたこともあり、いまだに関心をもっているのだが、まとめる時間がない。ともかく、石坂洋次郎については復活させたいと思う。本間千代子を思い出して、ますますそう思ったし、もう一度読み返そうと思うようになった。本間千代子から話しがそれてきたが、芦川いずみに触れたかっただけなのだ。もちろん、これもYouTubeでチェック。
そんな戦後の映像での「青春」というのを思い出しながら、舟木と本間千代子の映画のDVDを買ってしまったり、YouTubeを何度も見たり、テレビで昔の映画を録画したりと、昔に忙しかった10月から11月だった。そうそう、「夢のハワイで盆踊り」という舟木/本間の映画は必見。本間千代子(映画では大学生だけど)の最高傑作であると同時に主題歌がなかなか。小津の映画で馴染みの笠智衆もいい。これまでまったく関心のなかったハワイに行こうかなという気持ちになってもしまった。
こうしたノスタルジーに惹かれるのは歳のせいなのだろうか。そのせいで大学生の頃からのアバンギャルド趣味が薄くなってきたようにも思う。もちろん、今でも「小難しい」と言われる映画や文学、そして美術は好きだが、それと同時に、ベタなものの快楽がこの上なくいごこちがよく感じられてきたのだ。確かに歳だ!現在で言えば、終了してしまった「水戸黄門」的な、あるいは2時間サスペンス的なわかりやすさといったらよいか。昔の歌謡曲の歌いやすさや歌詞の当たり前さと同じである。ともかく、解釈無用というところが気持ちよく、浸れるのだ。昔なら堕落!と感じたところだろう。でも、ぼくはアバンギャルドに無理をしてきたのではないかとも思う。といっても、無理をしたおかげで、面白いものをたくさん見つけたのだが。でも、と、考える。
映画を見始めた小学校の高学年の頃から高校生くらいまでは、「銀幕のスター」(これも懐かしい言葉ですね)に憧れて映画を見ていたような気がする。女優で言えば、「9月になればの」ジーナ・ロロブリジーダとサンドラ・ディー、「ピクニック」のキム・ノバク、「ファニー」のレスリー・キャロン、「芽ばえ」のジャックリーヌ・ササール、などなど(知らない女優が多いでしょう。どちらかというと好みはマイナーだった)。男優で言ったら誰だっただろう?以外と思い出さない。ともかく、この「銀幕のスター」的な映画への視線が徐々に失われていった。現在のアイドルを追いかけることと同じと思うかもしれないが、あくまで「銀幕」がぼくの映画の始まりなのだ。
こうした映画鑑賞方が、大学入学とともに崩れてくる。おそらく、映画論というものが鑑賞術の中に入り込んできたせいかもしれない。それは「銀幕のスター」を脇において、監督論、映像論等々、芸術となっていった。フランスのクリスチャン・メッツの映画記号論なんかを読んだ記憶もある。そんな話しをしないと、映画ファンではないような雰囲気があったような気がする。それなり勉強したから、そういった話しも面白く、ぼくもときどきミーハー的映画ファンを馬鹿にしていたこともあった。こんな話しをしていくと、いろいろ不思議なことを思い出す。今でこそ小津安二郎は大監督でファンも多く、ぼくも「小津の秋刀魚の味」はね〜とか何とか、けっこう好きなのだが、実は、映画を見始めた頃はつまらない映画だと思っていたのだ。華やかさがなく、だらだらしていて。しばらくして「小津映画」というカテゴリーが出来上がり、黒澤以上に評価が上がってきて、フランスではそれこそ小津発見の時代が来た。そんなことを見聞きしているうちに、ぼくもいい映画なような気がしてきた。こんな自分の映画史も書いてみたいテーマだが、そんなことで、ますます「銀幕のスター」は遠ざかったのだ。
何か、だらだらと書きすぎてきた。おそらく、誰にでもアバンギャルド趣味とベタ趣味が同居しているように思うし、その関係は年齢や生活環境などの変化で変わるものだろう。とりあえず、今回は、前回のものが短かったので長く書いてみようと思っていたのと、本間千代子と歌謡曲の再発見がうれしくてこんなブログになってしまった。
あと少しだけ、ここ1ヶ月半のエトセトラ。ここでも何度か紹介している京都三條のシェーキーズが内装を変えた。もちろん、行ってみたが、これまでの70年代的なのんびりした雰囲気がなくなくなり、ぼくとしてはちょっと物足りない。本店の指示によるのかな?ピザといえば、あるパーティーで京都の宅配ピザ屋「リトル・パーティー」の社長さんと知り合った。ピザに関心がある人間には感激である。ぼくのピザ論(大袈裟な)を話し話しているうちに無料券をいただいてしまった。そして、久しぶりに宅配ピザを。社長がいい人であることで、美味しさはぐっとアップ。
何やかんやで、10月から11月は慌ただしかった。人に会うことも多かったのだ。大学院の授業にフランスのBD作家を2人を招いたり、四国に行ったり、そうそうアルテ・ポヴェラのミケランジェロ・ピストレットにも授業の関係で。仕事での会議も少なくない。あっと言う間の2ヶ月で、12月に入ってしまったのだ。することがいっぱいある。プレミアリーグはアーセナルが久しぶりの夢を見させてくれそうで、毎週週末は時間調整が大変だ。その上、ブラジルワールドカップの抽選会。初戦のコートジヴォワールはとくに楽しみだ。ドログバが前回のW杯の練習試合で骨折させられたことをしっかり記憶しているだろうから、日本が勝つのは至難だ。来年の6月に向けて、日本もだんだんサッカーに燃え上がっていく。サッカー熱が4年に1度しか日本ではないのが寂しいが、「フットボール熱」ではなく「サッカー熱」なので仕方がない。中途半端な終り方だが、だらだら文章にもあきてきたのである。こうしたわがままができるのがブログの良さ。ともかく、年末までに更新しなかったら「よいお年を!」
1ヶ月1回のブログ更新を誓っていたのに、今回はできなかった。忙しかったのだ。8月末から9月、そして10月と慌ただしいことが続いた。気持ちも安定しなかった。弟が亡くなったためだ。2歳違いの弟である。子供の頃からぼくより優秀で、実際、立派な植物遺伝学の研究で世界的な業績もあげ、さらにこれからと楽しみにしていた。大きな賞を取ったときは、父と母の分も喜んだものだ。その弟が、9月28日朝、息を引き取ったと、出張先の韓国ゴヤンのホテルに家内から電話がきた。その4日前に病院に見舞いに行ったときは、弱っていたがもう少し大丈夫かなと思っていた矢先のことだった。2年前に大腸癌を発病し手術。そのあと、8月の始めまで抗癌剤の治療を受けていた。この春まではすごく元気で、治るかと思っていたのに、弟の癌はこちらの想像を超えた。これで一人になったかと、喪失感がおそった。家内も子供たちもいて、家族的に一人ではないのだが、生まれてから一番長く近くにいた存在なのだ。南禅寺の真乗院というお寺で近親者だけで葬式をした。青空が多い日だった。それから2週間以上経った。気持ちがひどくダウンしているわけではないが、ふとした時間に弟の顔が浮かんでくる。歳をとってくると、こうした映像を伴った「ふとした時間」が増えてくる。弟の死は、一番深い「ふとした時間」になるのだろう。
次回は、書きたいことがいろいろあるので、すご〜く長いブログにする予定。
ヨーロッパで1番安いと聞いていた格安航空ライアンエアー(アイルランドが本拠地)に始めて乗った。パリとベネチア間である。飛行場はシャルル・ド.ゴールではなく、パリから1時間半くらいの田舎町ボーヴェ。この航空会社は大都市周辺の小さな町の飛行場を基地にしている。このことも興味があって使うことにしたのだが、ともかく、これはこれは。予想外のことが多すぎて、結局、たいして格安にならず、ほんと自分の旅行術の甘さにうんざり。旅行ではミスをしないという、旅行術検定1級(あるの?)のプライドが少し崩れてしまった。旅行術まだまだ奥が深い。これまで2度ほど、ヨーロッパの格安航空を使ったことがあったので、ライアンも同じだろうと思っていたら、それが、これこそ「格安」の見本、そして、規則を守らないと、けっこう高くなってしまう。規則にひどく厳しい会社なのだった。これまでの経験から規約をあまり読まなっかったせいで、エクストラ料金を取られてしまったのだ。腹立たしいのだが、「格安」と「経営」を両立させるには、こうした方法だということに感心して、旅行術マニアとしては勉強になった。その一端を。
チケット代、パリーベネチア往復52ユーロ(6800円ほど)とあったので、思わずHPから申込み。この料金も、申し込み時期、曜日によって違いがあり、帰りのパリへのフライトは、日曜日だったので、行きの倍の値段。ということは。金曜日のベネチア行きだけだと、2500円くらい。これはと思うよね。一緒に行った学生は、申込み時期が遅かったので「プライマリー・シート」になってしまい、ぼくより30ユーロ近く高くなった。そして、この基本チケット料金にいろいろな料金が加算されてくる(金額は小さいが、ネット料、カード決済料金等々)。もちろん、荷物を預けると15ユーロ取られるので(15キロまで)、手荷物(10キロ)だけにする(厳しい大きさの制限がある)。ただし、荷物預けを予約後に申し込むと倍の料金に。学生はそうなってしまったのだ。ましてや、空港カウンターで預けることになると、100ユーロも取られてしまう。すべては、ネットでの予約を完璧にしないと、予想外の料金になるのだ。ぼくたちは、そこで大失敗(ライアン的観点から)。
前に使った格安航空(バルセロナのVeulingともうひとつは名前を忘れたがスロバキアの格安)では、一般の航空会社と同じように、予約書(e-ticket)を空港カウンターで見せてチェックイン、つまり搭乗券をもらうという手順だったので、ゴチャゴチャといろんなことが書かれているライアンの申込み画面での規約をしっかり読まなかった。というのも、予約していくページを「続けて」いくと、いろいろな料金のことだけでなく、ホテルやレンタカー、空港からのタクシー手配やバスチケットの申込み、もちろん保険、その上、旅行カバンも売ってますよ等々、ともかくいろんなオファーがゴロゴロ画面に出てくる。それがうっとうしくて、細かな規約を読まないことになったのだ。その結果、料金が膨らんでしまった。大きかったのは、搭乗券を印刷していないことだった。上に書いた、普通のチェックインだと思っていたのが間違い。予約が完了したらチェックインをして搭乗券を刷り出さないといけないのだ。チェックインのカウンターで文句は言ったが後の祭り。搭乗券の再発行になってしまった。何と!70ユーロ。往復の運賃より高いのだ。
でも、キャンセルするわけにはいかない。むかつきながら、搭乗口に向かうと、別の驚きが待っていた。出発1時間半も前なのに、かなりの乗客が搭乗口に並んでいる。搭乗する機体は見えない。その内、ボーヴェ空港(小さな飛行場で発着陸時間がかからない)にベネチアからの便が到着する。出発25分前!乗客が降りきると、即、搭乗。機体へと走る乗客がいたことにも驚いたが、指定席がないからである。上で書いたが、指定席はエキストラ料金が必要なのでほとんどの客は自由席。機内ではちょっとした混乱が起こっていた。厳密に重量と大きさを制限された手荷物を入れる場所探し、そして空席探しのためだ。それも治まり、飛行機到着25分後ちょうどに、機体は離陸。超スピーディーである。
機内はシンプルそのもの。まず、座席前に雑誌等を入れるポケットがない。すべて自分でスペースを見つけて荷物を棚に入れる。早い者勝ちなのだ。アテンドは荷物の世話をしない。ぼくは座席に置いた。座席は窮屈。それにリクライニングがない。背筋を伸ばし(健康的だが)1時間半のフライト。機内の案内誌はアテンドが欲しい人だけに渡す。手に取るのはごくわずかなのは、平凡な記事と機内の飲み物とスナックの紹介と販売商品の紹介が中心で楽しくないからだろう。乗客たちはよくわかっている。もちろん、音楽などのサービスはゼロ。機内アナウンスは英語のみ。帰りの便の英語は、訛りがきつくて(アイルランド英語?)何もわからなかった。そして、機内には飲み物とスナックの広告。酸素ボンベの使い方のシールは座席裏に貼ってある。まだまだ書くことはあるが、すべてが超簡素化、あるいは効率化の飛行機である。削るものは削る。長距離格安バスが空を飛ぶ感じ。スーツケースをもってヨーロッパを旅行する人は遠慮した方がいいかもしれない。
好奇心からキョロキョロしている内にあっという間にベネチア、トレヴーゾ空港に到着。ベネチア本島から1時間半ほどの内陸部。バスの時刻表はあるが、「到着時間に合わせて発車します」の表示。バスまでもがスピード重視である。そして、ベネチア・ビエンナーレへ。
この現代アートの大祭典は、いつもと同じ。もう何回来たのだろうか。ベネチアという町が好きなので来るのだが、そこに現代アートという催しがあり、もうひとつの名所を提供してくれているのだ。今回は、テーマは「百科全書の宮殿」。ITとともに人間の「知」あるいは「知識」が変貌している現代、アートとともにそのことを考えるのは悪いことではないが、テーマが壮大すぎる。加えて、この問いかけには当然、「知」に対する批評性が不可欠なのだが、そうしたことは感じなかった。だから、普通にアート・フェスティバル。ベネチアなのでレベルは高いが、前回(2007年かな、最後のビエンナーレは)に比べて、ぼくの趣味を刺激する作品が少ない感じはした。アルゼンチンのエヴァ・ペロンをモティーフにした映像とインスタレーションがかっこうよかった。ぼくがペロン・ファミリーに関心があるためもあるが。ミュージカルや映画の「エヴィータ」よりもずっとよかった。現代アートもなかなかなのだ。メイン会場のジャルディーニとアルセナーレ、市中にあるいくつかの展示会場。それなりに見たが、ともかく大きなアートフェスティバルは疲れる。でも、ベネチアの天気が最高で、気持ちよさは、最高!(同じ単語を使うことを避けているのだが、ここは「最高」を繰り返さざるをえない)。何度もカフェに入り、ビールやカフェで休憩。これが「最高」なのだ。この休憩のためにビエンナーレを見学しているのかもしれない。ただ、今回は2日だけの滞在なので、慌ただしかった。ライアンエアーのようなベネチアビエンナーレ見学である。
ベネチアで、7月の終りに大学の授業の一環で行った瀬戸内国際芸術祭(セトゲー)のことも思い出した。規模は違うが、塩の香りのせいか?そのセトゲーで面白かったのは、作品よりも別のことだった。ひとつは、ぼくたちの乗った神戸からの夜行フェリー(ジャンボフェリー)の船内に流れた、衝撃的なコマーシャルソングである。その歌が3日間耳からは離れなかったのだ。最初に着いた坂手港ではヤマベケンジの作品が迎えてくれたが、頭にはコマーシャルソングががんがんと。いまいちヤノベケンジ的になれなかった。豊島へ、直島へと船に乗るたびに、その歌が頭の中で響き出し口ずさんでしまうのだった。
それから小豆島が巡礼の島であることを初めて知った(恥ずかしい!)。泊まったのも巡礼宿。1泊2食付きで5000円。安い!食事も充実。小豆島の巡礼は、四国より何年か早いと言う。ぼくたちセトゲーを見に来た人間は、巡礼者なのだ。アート巡礼。北川フラムは、そのことを意識しているのかな?アートという言葉はなかったが、中世の宗教的巡礼の現代版かとも思う。そこに資本主義的観光システムが絡んでいる。よく考えれば、観光と言う近代の旅行自体が巡礼にひとつの起源を持っているといえる。それはベネチアや他のビエンナーレも同じだ。21世紀、世界はアートを巡礼し始めたのだとも言える。幸せなことか、不幸の反映か?
さて、ベネチアからの続き。2日間の滞在を終え最終便でボーヴェへ。ライアンエアーには馴れたので落ち着いて搭乗。搭乗券も刷り出しておいた。ボーヴェは初めてだったので1泊したが、ホテルに着いたのが夜の12時近く。翌朝、ちょっとだけの町歩きで町の輪郭はだいたいつかめた。カテドラルが立派だが、普通のフランスの田舎町である。ただただ、初めての町というのが、旅行マニアには重要なのだ。
そして、ブルゴーニュへ。といっても、ワインで有名な南東部ではなく北部のオセールという町の近郊。友人のアーティスト、リワン・トロムール(トロムと呼んでいる)が廃墟となったオーカー工場を「アート(広い意味で)という創造」のための場にしているのである。「ガルロン」と大学院の葛本君が、そこで作業したいというので連れていったのである。どういった場所なのかを伝えるのはひどく困難だが、廃墟のもつ時間のエネルギーを風景として構築する、抽象的に言うとそんなことになる。1990年に始まってからもう20年以上。ぼくは90年から何度も訪れた場所である。2003年には、精華の学生6人と1週間ほど滞在し、ワークショップというのをした。楽しい思い出になっている。葛本君は1ヶ月近くいる予定だが、ぼくは1泊だけ。今年の夏の旅行は、とにかく慌ただしいのだ。結局、テーマは「ライアンエアー的」になってしまったのだ。そして、疲れた。戻ってきたパリではよく寝た。そうそう、帰ったらすぐに横浜での授業が待っている。夏休みはあっと言う間に終るだろう。日本も涼しくなっているという。
暑〜い!この夏は暑さが身にしみる。「しみる」のは湿気のせい(こんな言い方ないけど)。始めて日傘を買う気になった。帽子を勧められるのだが、髪の毛のかなり少ない(ない、あるいはハゲとは言いたくないのでこんな表現に)人間にとっては効果はない。ぼくの場合、頭部が高温度サウナになってしまう。ともかく、日本が亜熱帯に入ったとと感じる。そして、湿気を加えると不快指数はタイなんかより上だ。「暑いね」と会う人ごとに季語のように挨拶しているうちに夏休みに入り、7月も終り。といっても、授業がなくなっただけで、会議やなんやら、大学に出かけなければならない。今日の夜からは、授業で瀬戸内国際芸術祭にも行かなくてはいけないし、夏休みはもう少し先なのだ。
そんな暑さの中、久しぶりにガルシア=マルケス(以下マルケス)を読んだ。『 予告された殺人の記録』(野谷文昭訳)。映像大学院のニコラスくんが、「先生お世話になってます。ぼくの一番好きなマルケスです」とか言ってもってきてくれたのだ(何か世話したかな?ハイネッケンはおごったけど)。彼はマルケスの国、コロンビア出身。ぼくが一度行きたい行きたい、と、ビールを飲むたびに言っていたからだろう。1年以上前にアルゼンチンに旅行したとき(この旅行についてはずいぶん前のブログで、その一端を書いた)、ブエノスアイレスのホステルで出会った若いフランス人の医者が、南米で一番面白い国と言っていたので、一度は行きたいと思うようになり、そうした気持ちでいたところ、大学にコロンビアからの留学生が来たという偶然もあって、ますます行きたくなってきたのだ。そして、マルケス。『百年の孤独』のショックは、ぼくのどこかに今でも何かを刻んでいる。ただし、長らく遠ざかっていたラテン文学はいつも気になっていた。そして、『 予告された殺人の記録』。短編と言っていい小説だが、濃密だった。フィクションというより、ドキュメンタリー的な構成によるリアリズム手法は、現在のアートや映画の傾向を予告していたかのようだ。ただし、さまざまな人間と集団が時間の中でモザイクのように絡み合い殺人が生まれる。そして、そのヴァナキュラー(土着的)な空間での殺人を、のちに記録しようとする、そうした小説だ。マルケスの小説を読むと、やっぱり小説という形式は力があるな〜と感じる。
といっても、2時間のサスペンスドラマも捨て難いが。こちらは、食べ物で言えば、B級グルメ(あるいはC級?)。ただし、これは価値の上下の問題ではない。マルケスが上で、内田康夫が下だとも思っていない。まあ、価値の相対化というものだが、それだけで片付けられることではなく、人間の活動(生活といってもいいけど)の場面場面で必要な「もの」と「こと」(個人的なものだが)と言ったらいいか。ここ1年程、美味しい昼ご飯を食べて、少し昼寝をしようかというときは、横になってハードな読み物が一番という感覚になっている。その読書は、何度も書いている、プルーストの『失われた時を求めて』(井上究一郎訳)である。このところ遠ざかっているが。マルケスは、このプルースト枠で読んだのだ。昼飯を食べ、自分の部屋に戻りクーラーをきかせる。そしてごろっと寝転びマルケスを。ただし、半分ぐらい読んだところで、睡魔が。寝心地がいいのだ。それを2回続けて完読。小説が短くて助かった。こんな風に、その場その時で、ピッタリな本や映画や音楽、そしてテレビ番組があるのだ。そして、それぞれがぼくにとって価値があるのである。
たとえば、夜遅く、風呂から上がりウィスキーをちびりするときは、やっぱりサッカー(プレミア)、あるいは韓流ドラマ。B級昼飯でお腹がいっぱいになってしまった午後は、再放送のサスペンス・ドラマ。ストーリーはわかりやすく、起承転結が時間帯で決まっているので、B級飯とよく合う。開始30分までに、ほぼ犯人像は推測でき、その推測が実証されていくのが中盤、そして、1時間半もたつと、真相と犯人の告白タイム。出演者もおおむね決まっていて、犯人役は役者側から推測できる。この「決まりごと」がいい。加えて、サスペンスドラマは名所巡りにもなっていて、これも楽しめるし、歴史も絡み勉強にもなる。サスペンスのおかげで日本の名所情報はかなりのものとなった。といって、番組に刺激されて行ったことはないのだが。サスペンスドラマといえば、ぼくの近所の南禅寺は事件の現場としてもよく使われる。一度、死体発見者のちょい役でドラマに出てみたいと思っているのだが。第一発見者の演技はたぶんできる。身ぶりや表情、そして叫び方なんかは、けっこうドラマで勉強している。
といって、テレビは楽なドラマだけがいいというわけではない。シリアスなものにもいいものある。テレビという形式(ストーリーの作り方、アングル、画面のサイズといったことだけでなく、テレビを見る生活リズムとの関係も含む)がシリアスなドラマに相応しいこともあるのだ。そんな、シリアス系の見応えのあるドラマがこのところ目立ってきたよう感じがする。今年に入って、何本も面白いドラマがあった。
我が家はケーブルテレビに入っているので番組は多チャンネル。プリペイなので少しお金はかかるが、コマーシャルに邪魔されないのがいい。民放はほとんど見なくなった。サスペンスドラマは別だが、民放を見る場合は録画で見る。コマーシャルのあざとさにうんざりなのだ。ともかく、最近、NHKやWOWOWで見させるドラマ、それも社会性をもった、手法的にはドキュメンタリータッチのシリアスなドラマがいくつもあって楽しめるし、楽しんだ。このドキュメンタリーという手法、概念については、一度書きたいと思っているのだが・・・。
WOWOWの「レディージョーカー」「震える牛」なんかは毎週楽しみだったし、韓国のネット・ハッキングドラマ「ファントム」も秀逸だった。牛肉偽装問題を扱った「震える牛」を見てから、ハンバーグを外で食べる気をなくした。「ファントム」(主演のソ・ジソプはいいよね)を見てからは、ウィルスが気になって気になって。テレビは日常の細部に影響を与える(ぼくだけか?)。それから、NHKも上質な社会派ドラマを送り続けている。現在は「七つの会議」。こちらはねじ偽装と会社という組織のお恐ろしさを扱う。昨年、「初恋」という泣けるドラマでNHKを見直したのだが、お金を払っているんだから、このくらいはやってもらわないとね。ここまで書いたドラマは、ちょっとした映画をはるかに超える。気持ちがゆったりしてくると、テレビはますます楽しめるのだ。それと、いい番組を見ていると暑さは忘れる。
こんなことをしているうちに、ヨーロッパのサッカーシーズンが始まる。ブラジルW杯の前年なので、日本代表にも目を向ける。東アジア選手権では、サガン鳥栖の豊田が一番よかった。彼が来年代表に入ったら、久しぶりに代表を応援しよう。韓国は力が落ちてきて心配だ。イ・チョンヨンが、降格したボルトンから脱出できていないのが大きいと、個人的には思っている。ぜひ、エヴァートンに行ってほしい。こうして来年にかけてW杯モードに入っていくのだろう。ブラジルには行けそうもないが。そうそう、この前も書いたけど、それまでに本を出さなくてはね。テレビ時間を減らさなくては。
さて、前回書いたちくわと料理の話を面白いと言ってくれた人がいたので(マイナーなブログを見てくれる人がいるだけで感激だ)、7月も食べ物について書いておこう。やっぱり食べ物ネタは読んでもらえるのかな?
夏なので素麺。家にいるときの昼食は2日に1回が素麺。去年あたりから、我が家は「半田素麺」になった。徳島ではよく知られているらしい。我が家の素麺はー冷やしうどんの場合も同じだが、とにかく具を多種類入れる。ネギ、焼いたしし唐(丸ごと)、細かく切って炒めたナス、千切りのきゅうり、それから千切りした油揚げかちくわを入れることもある。時間があるときにはたまごの薄焼きもつくる。薬味類はみょうが(必須)と紅ショウガ(自家製)のみじん切り、ショウガ、ごま、のり、つけ汁は自家製ではなくチョーコー醤油の「京風だいの素」というのを使っている。市販のだしの素では美味しい方だと思う。甘さを押さえてあるのがいい。「素麺=あっさり」ではなく、「栄養満点、でも、少しあっさり」の素麺なのだ。
具をたくさん入れる食べ方は、どこから入ってきたのか忘れてしまったが、ひょっとしたら近くの「おめん」という店のつけうどんからか?開店した頃ころはずいぶん具がついていた気もする。その影響か?長〜いこと行っていないので、どうなっているのだろう。今も繁盛してるようだが。それとも、もともとぼくの母親がそんな素麺をしていたのか?それとも、家内の実家の食べ方か?日常の細部の、それも習慣になってしまったことの来歴をさぐるのは難しい。ともかく、具たくさんの半田素麺はぼくの夏のなのである。
なんとか、7月中にブログを更新できた。1ヶ月に1回の更新もなかなかたいへんだ。これも暑さのせいにしておこう。
6月もあわただしく過ぎていく。だらしない書き出しだ。こうした時候挨拶的な書き出しを何とか改めて、眼もさめるような書き出しがないかぐずぐずしているうちに、10日近くたってしまった。ブログを書くのも楽ではない。では、止(や)めれば?そんなことも思わないではないが、物事には止められなくなってしまうことやものも少なくない。ここでよく触れるサッカー、ピザ、韓流、ハン・ヒョジュ、自分の研究(書いたことあったかな?)、旅行などなどのことを止めれないのと同じように、このブログもそうなってきた。趣味ということなのか?それも自己目的的な。この年になって、新しい趣味を見つけたと思うことにしている。書くのは楽ではないが、グダグダと書いていくのは、他ではできないので、時間がかかるが楽しい経験なのである。最初は月3回程は更新と思っていたが、だんだん減ってきて、月1。会議や仕事が多くなってきて、これも怪しくなってきた。でも、頑張るぞ!って更新しているんです。
今回は、ブログという趣味について書くことが目的ではなく、ちくわ(竹輪)のことを書こうと思っていたのだ。なので、前書きからこのチクワへと話を運びたいと頭では考えていたのだが、どこで繋がらなくなったのか。「ブログを書くのも楽ではない」という文を入れてしまったためだろう。それが趣味のことを誘発し、ちくわから遠ざかってしまった。ブログという形式的に自由なエクリチュールの場の罠かもしれない。これでやっとちくわことが始められる。罠だと思ってしまえば、どこで段落替えしても、おかしくはないということになるからだ。
この6月に高校の同窓会があり、そこでヤマサのちくわをお土産にもらった。それを丸かじりしながら、そう言えば、ちくわのことをこれまで書いていなかったなと思い出した。では、一度ちくわ談義でもしてみようかと考えたのだ。高校まで住んだのは愛知県の豊橋という町で、ちくわが有名なのである。あとは菜飯田楽くらいしか知られていない非グルメ町だが、ちくわだけでなく練り物は何でも美味しいしレベルが高い。昔、「世界魚系練り物会議」というのを行ったくらいだ。会議の内容は知らないが、ちくわで世界会議をするなんて、すごいことである。そんな町だから、子供の頃からちくわはもっとも身近かな食べ物で日常的に食べていた。シンプルに生でわさび醤油で食べるか、おでんの具くらいだったが、おかずだけではなくおやつとしても食べていた。
その後、豊橋を離れてから(ずいぶん昔のことだが)、ちくわの食べ物としての懐の深さに気がついていったのだ。その間、ちくわのテンプラ(昔からの調理法ではない)が一般化し、つまみのチーズちくわもつくられた。子供の頃にはなかったちくわメニューである。そうした新しいちくわメニューにも刺激されたのだと思う。ちくわの秘められた力にしだいに気付くことになった。それだけでなく、炒めると別の力を発揮することもわかった。一緒に併せる素材を引き立たせ、さらに、ちくわ自体も新しい味をもつ。その代表はキャベツ。ちくわを薄く千切りにし、角形の切った新鮮なキャベツと炒める。さらに、紅ショウガとその付け汁を絡めると美味しさはますますパワーアップする。この一品はぼくがつくるものが一番美味しい。といっても、他で食べたことはないし、見たこともない。オリジナルと自慢しておこう。家内がいないときは5日に一回は食べていた。それからそれから・・・みそ汁に入れてもよいし、ひょっとしたらカレーにも合うのかもしれない(まだ試したことはない)。もちろん、穴の中にさまざまなものを詰め込めば、ほとんどのものは合う。ちくわの穴は製造過程から生まれたものだが、それが新しい味を展開させるものとなる。もちろん穴がないとちくわとは言わない。そこに特別な意味はないとしても、それによってちくわに新しい道が開かれる。ちくわの穴は含蓄がとても深い。
現在、非グルメ町豊橋は名前をあげようとしているのか、B級グルメブームにのって「豊橋カレーうどん」というのを売り出しているという。ちくわが使われていると思ったら、ちくわは除外され、ご飯、とろろ、カレーうどんを重ねた変な食べ物となっている。まだ食べたことはないので何とも言えないが、豊橋の友人たちに聞いてみたが、「うまい!」と絶賛する者は皆無。新名物をつくるなら、どうしてちくわをベースにしないのか?メディア受けしようと考えて、スベルっている。豊橋的発想? あまりにもちくわが日常的すぎて、その可能性が見えないのかもしれない。教訓である。
ちくわノスタルジーの6月だったのだが、コンフェデ杯、それからWOWOWの「震える牛」とか「ファントム」といったドラマも6月の生活を活性化させてくれている。サッカーの方は考えることも多かったが、ともかく日本の3連敗は順当なところだった。イタリア戦はイタリアが「なめた」としか言いようがない。ブラジル戦を視察すればそうなるのだろう。ただし、強豪国がなめてくれると十分にいける、そのくらいのレベルにはなってきたというこだ。サッカーであれ、他のことであれ、ヨーロッパがつくった近代のスポーツ・システムを取り込むには時間がかかる。 ぼくはこの取り込んでいるときの気持ちの捻れが好きなのだ。気持ちの複雑さといってもいい。他の文化を受容するということは、そうしたことではないのか。そこには自虐的ということもある。ただし、その自虐性には他者を尊敬する気持ちも強いのだ。
テレビはいろんなことを考えさせてくれるのだが、もう少しテレビ時間を減らして、原稿のスピードを上げなくてはならないと頭では思うのだが、これがなかなかうまくいかない。先日、久しぶりに藤原くんに会ったら、本を書いているので朝4時に起きているという。やっぱり、そうしたことをしなくてはとは考える。ただ、今書いているテーマが大きすぎて、調べることが多すぎるのと、能力の問題もあって歩みが遅くなってしまう。19世紀の後半から現在までのフランスと日本の美術全集(叢書)の歴史を精密にたどってみようとしているのだが、150年という時間はさすが長い。適当にはしょるればいいことも考えるのだが、150年という時間の重みのようなものを何とか文章に反映させたいと考えていると、調べることも多く、なかなか前に進まないのである。といっても、もう1年くらい細々と書き続けているので、フランスの1960年代まで来た。
その研究のことが頭にあって、いつでもパソコンを持ち歩き、時間があれば開き書き次ぐのだが、わからないこともでてくる。たとえば、こんな感じ。「フランスのチスネ出版の「文明の驚異」全集は・・・年まで続き」と書こうとして、「・・・年」の部分をちゃんと調べてなかったことがわかる。そこで、もう一度ネットで調べまくることになる。第一、美術全集の名前には似通ったものが多くてなかなか全体像が見えない。そこで書きながら調べる、そんなことを繰り返しているのである。フランスの3つの図書館の電子カタログ、世界の古書ネット、日本のCiNii、もちろん、ヤフーやグーグルの検索も。ただし、かなりの時間キーボードをたたいても、見つからないことも多い。実は、向こうの全集にはシリーズが終ったという切れ目がないことが多いので、全集が刊行された期間や全何巻を調べることが無駄な場合も少なくない。でも、ひょっとしたらと思い調べてしまうのだ。全集の刊行初年と終年がわかると、その全集の時代的意味がよりはっきりするからである。こんなことをしているのだが、とにかく、調べることに疲れてくるのだ。となって、今日はこのくらいにしてとなり、テレビを見たり本を読んだり、書きかけのブログを書き次ぐということになる。まあ、息抜きばかりしていても仕方ないが、ただし、誰もが感じていることだろうが息抜きほど楽しいこともないのだ。息抜きのために研究?そうかもしれない。でも、藤原くんに会ったのは何かの信号だろう。来年のワールドカップまでに本にしなくてはと、強く誓ったのだが。
結局、6月のブログは月が変わる前日に書き終えることができた。月に1回のベースは守った!
やっと初夏らしくなってきた。半袖シャツにしようか、でも、ここで半袖にすると本当の夏はどうしよう、といった軽いジレンマの季節でもある。まあ、夕方からは涼しいので長袖シャツということになるのだが。さて、いくつかの感動が重なる日というのがある。ちょっと前のことだが、5月11日の土曜日。そんな日だった。二つだけだが、まあ、1日に2回もあれば、充分過ぎるくらい充分。まず、大学を出るときにばったり福岡くんに会い車で送ってもらい(こうしたことは何かの兆候になる)、そして、行きつけのカフェでメールやら原稿を見て、祇園のシルバーウィングスというライブハウスへ。椅子席30人あまりの箱での早川義夫さんと佐久間正英さんのユニット。「あの」伝説のバンド、ジャックスのリーダーと四人囃子のベーシスト。ぼくの世代には泣けるコンビだ。15年前から組んでいるという。知らなかった。音楽シーンを追いかけていないからだが、繋がるということは縁があるということだ。今年から精華の先生と名なった佐久間さんがコンサートのことを教えてくれたのだった。
早川さんの歌は今も生きていた!もうひとつ、佐久間さんのギターがすごく上手なのも始めて知った。ベースの印象しかなかったので。知らない曲もあったが、昔の「堕天使ロック」とか「からっぽの世界」、当然「サルビアの花」なんかも歌ってくれて、40数年経った早川節は泣かせてくれたのだった。ぼくは一度だけジャックスのコンサートに行ったことがあり、四人囃子は2度ほどライブで見たことがある。それにしても、40年以上の歳月を経て再び、早川義夫を聞けるとは。
そして、その夜、イングランドのFA決勝。ウィガン・アスレテックスとマンチェスター・シティーの決勝戦。プレミア・リーグの2位と降格争いをしてるウィガン。日本では宮市が所属するチームなのでたまに「宮市ベンチ外」として1行ニュースが出るチームである。プレミア好きのぼくとしては、ウィガンというチームにここ数年惹かれてきた。これはイングランドのファンも同じ。毎年、奇跡的な残留争いを勝ち抜き、プレミアに残留してしまうという痺れるチームだからである。監督のロベルト・マルティネスの評価はすごく高い。そのことに加え、オーナーがまた地元主義の泣かせる人物なのである。そして、決勝戦は断然不利の予想を覆して1−0での勝利。オーナーの長年の夢が実現したのである。ちょうど、去年のリーグ1のモンペリエのように。資本主義に翻弄されながらも、今でもフットボールには地域性が生きている。
と、ここまで書いて一旦中断。
大学の仕事が忙しくてブログを再び書き始めたのは10日後。何回にも分けて書くんだったら、書いた所までをアップした方がいいかなといつも思うし、また、そもそも長いブログは止めにしたら、誰も読まないよ、と言ってくれる人もいるので、短いブログにしようかと考えたこともある。でも、世の中の文章が短文方向にますます進んでいるので、それに合わせるのはね、とねじくれてみたくもなり、ブログとしては長い文章にしている。自己プライドのせいかな。
何やかんやで5月も後半になるとますます夏の感じが出てきて、半袖シャツは当然になってきた。そんな折り、家内がパリに出発。小さな個展のためである。外国で展覧会をするのはけっこう大変だ。大物ともなれば画廊や美術館がすべてを仕切ってくれるが、そうでない者はほとんどを一人でしなくてはならない。作品輸送、案内状デザイン、オープニングの設定等々、もちろん画廊側もやってくれるのだが、展覧会に対する感度の違う相手だと、細部のチェックは自分になるのだ。今回のパリはそんな画廊主だった。実際に行動をし始めると、そうしたことが分かってくるのだ。そうなるとけっこう厄介なことが出てきて、ぼくもお出ましとなる。
資料調査やある展覧会を見るため、そして家内の展覧会のオープニングに来る友人たちに会うため等々の目的でぼくもパリに出張。そのオープニングには思いのほか多くの人が来てくれた。ともかく、パリは去年の夏以来である。それも5月のパリは何と30数年ぶり。暑いけど最高の季節の印象があるので楽しみにしていたら、来てみたら寒かった。それに曇り空(昨日は快晴だったが)。
そんなパリでチャンピオンズ・リーグ決勝、ドルトムントとバイエルンを見る。といっても、もちろんテレビで。フットボール好きのレジスの家で見ようということになった。彼は1年間ベルリンにいてブンデスリーグに詳しくなってしまったのだ。レジスの少しひねくれた性格は、当然ドルトムント派。もちろん、ぼくも同じ。こちらは香川がいたこともある。ただし、ぼくはブンデスリーガにそれほど興味はないのだが、チャンピオンズ・リーグの決勝ともなれば話は別。
試合前にハムとチーズとパン、そしてワインとシンプルだが、レジスのところの食べ物ーといってもカトリーヌが買いそろえるのだが—の美味しさは超一流。フットボール談義や映画の話をひとしきりして、チープな椅子を居間に並べた観客席へ(どこにあんな椅子があったのだろう)。前半はドルトムントが押していたので、けっこう盛り上がる。レジスは「そ・そ・そ〜」とぼくの言い方をまねしながら、早口のフランス語で興奮してくる。前半終了。そして、後半。試合のことを書いていくと終らないので、結果だけ。知ってのとおりバイエルンの勝ち。ロッベンにやられた。ぼくたちも別にシュンとなるわけでなく、美味しいデザートを食べながら、四方山話。ルーブルで開催中の「ドイツについて」展のことをカトリーヌに訊ねたら、入場1日券をくれた。彼女は学芸員なのである。フランスの美術のことを勉強してきたのに、研究者の知り合いはあまりいない。カトリーヌとレジスは数少ない知り合いなのだ。といって研究のことをあまり話すわけではないが。
その「ドイツについて」(De l'Allemagne)展はかなり見応えがあった。1800年から1939年まで、ロマン主義誕生からナチスまでの時代の美術を振り返りながら「ドイツの美意識とは何か」を振り返る展覧会だったと思う。これまで語られてきたドイツ像ー平凡な日本風言い方をすれば「ドイツ魂」ということだが、その生成と展開をイメージで綴る展覧会なので、新しい思想的な発見があるというわけではない。そのことで、ドイツ側からは批判的に見られ論争も起こっているという(その一端はネット上でも見れるhttp://www.lesinrocks.com/2013/04/21/actualite/exposition-de-lallemagne-au-louvre-les-raisons-dun-scandale-11387912/)。新しい視点がなく、ドイツの精神性を強調するーそれはナチズムに繋がるーまとめ方になっているということなのだろう。この批判の当否を言う立場にはないが、平凡な主張(ドイツ側からはつまらない政治的主張)だとしても、200点以上と言う物量作戦によって、「ドイツ魂」の系譜が総合的に視覚化された展覧会は見応えがあったのだ。個人的には、ドイツ的想像力を支えている「ガイスト」の画家フリードリッヒをこんなに見たことはなかったし、ゲーテの博物誌への関心やベックマンのマンガ的デッサンも興味深かった。
この冬のイタリア旅行からドイツに触れる機会が増えてきたような感覚があったが、今回のパリでもそうだった。大学時代からのドイツ語やドイツ現代アートのマッチョな感覚への違和感から、ドイツを遠ざけてきたが、こんなにドイツに触れることがあると、一回はしっかりとドイツに触れてもいいかなとも思ってきた。
前回、久しぶりのイタリア旅行に感激して紀行記1を書いた。第2弾もと考えていたが、何とそれから1ヶ月以上も経ってしまった。紀行続編を書く気分が薄れてきた。ブログは旬のものなんだと今更ながら感じる。ただし、前に書いたローマ近郊のフラスカーティ(白ワインの産地)での「カラヴァッジオについて」展の後日談は書かなくては。そのカタログが欲しかったので(現地ではできてなかった)、ネットで検索していくつかの関係筋のオフィスにメールを書いた。そうしたら、どうしたことか、出品者の一人ヘルマン・ニッチュ(Hermann Nitsch)の財団にメールが届いてしまった。ウイーン・アクショニストと呼ばれる超過激な生け贄の儀式のようなパフォーマンスで知られるアーティストである。他にもいろんな活動をしていることは、この1ヶ月で知ったが、その財団からニッチュについての分厚い本が送られてきたのだ。それも航空便で。「ニッチュに興味をもってくれてありがとう」というメッセージも付いて。「カラヴァッジオについて」展のカタログがありませんか、と書いたメールが、何故ウィーンに行ってニッチュの回顧録的な本が届いたのか。こんなことがあると感動する。そもそも、ローマで展覧会のパンフレットを偶然見つけ、行ってみるとびっくりする展覧会だったという幸運、そして、ニッチュの本。関係した人や物事が好きになる。でも、「カラヴァッジオについて」展のカタログ注文のメールへの返事はまだ来てない。イタリアだからしょうがないか、あるいはカタログは制作されなかったのか?一緒に旅行に行った小西くんが写真を撮っていたので、それをパソコンに。そのうち授業か雑談で話しようかと思っている。
前回、トスカーナ地方の味のないパンのことを書いたが、ピザに到達した人間として、もちろん、イタリアでピザはよく食べた。といっても、反ガイドブック派なので、どこでも基本的には勘と人に聞いて食べる所を探す、つまり行き当たりばったりで店を選んでいるのだ。このやり方の成功率は実はかなり低い。食べ物業界はヨーロッパでも日本でも80%以上は情報化されているからだ。ただ、行き当たりばったりで成功しなくても、偶然の幸運を夢見ることができるので、それなりに満足できるのだ。そのピザでは、大きな幸運はなかったのだが、ヴェネツィアで1店だけ気になったピザ屋があった。
サンマルコ広場のかなり裏手のテイク・アウトのチープな店だが、けっこう人が入っていた。お腹がすいていたこともあって入ってみた。そこでアンチョビのピザを頼んだのだが、これがなかなか。これまでヴェネツィアで食べたピザの中で一番美味しかった。そして、安かった!5ユーロ(当時550円くらい)。それで、このレベル。日本の有名ピザ屋よりもちろん美味しかった。ちょっとした感激で昼からビールを2本も飲んだ。そのおかげで、その日(イタリア最後の日)は何度もカフェに入ってだらだらしたのだった。それなりに知っていると思っても、知らないことは山ほどある。当たり前だが。まだまだ、ピザに「到達した者」とは言えないなと自戒。
もうひとつイタリア旅行の思い出。これは帰りの飛行機の中での新聞で知ったのだが、あのワグナーがフラーリ教会のティツィアーノの《聖母被昇天》をいたく愛していたとのこと。この教会は何度も行っている。それなのにワグナーとの関係は始めて知った。帰ってきてから感激である。ゲーテのトスカーナのパンのことも知ったついでに、もう一度『イタリア紀行』を読んでみようと思うのだった。
久しぶりのイタリア旅行のことを思い出しもしていた3月から4月の始めだったのだが、それもあっという間に遠ざかり、桜も散ってしまった。ぼくの青色の手帳を見ると、3月は春休みなのにいろいろな用事が書き込まれているし、4月は、それ以上に詰まっている。この4月から役職をすることになって、予定表がつまってきたのだ。となると、外食の機会も多くなる。いけないとわかていても、ついワインを飲み過ぎてしまう。酒が弱いわりには40過ぎからお酒の美味しさを知ってしまった不幸か?
相変わらずダラダラ書いているが、この1ヶ月の間で一番驚いたことは、少女時代のコンサートだった。行けなくなった人から買わないかと言われて買ったのだが、これがなかなか「勉強」になった。「勉強」なんて言い方をするのは研究者の嫌みなところだが、年寄りということもある。家内に一緒に行こうよと誘うがあっさり拒否。もう1枚あまっていたので、何人かの若い知り合いに声をかけたのだが、KPOPに興味ある人がいない。ぼくは孤独に韓国ファンをやっているので、同類の仲間がいない。少女時代はパリのKPOPフェスティバル(1年ほど前のこのブログに書いた)で一度見たのだが、そのときは2PMや4MINUTEに負けていていたので、最盛期は終わったのかと思っていたら、ライブは違った。驚いたのは、すべてが映像化されていることだった。ステージ背後の大きなスクリーンに映る、物語仕立てから抽象的なものまでの多様な映像、ライティング、水や火による仕掛け、埋め尽くしたファンが同じリズムで振る薄紫の電子団扇、そして少女時代という9人の歌と踊り。これらが一体化して構成されるステージは、コンサートというより立体的映像ショウだった。少女時代自体も映像と化していた。ぼくが現在のライヴ・シーンに疎いためもあるのだろうが、コンサートがこんなにも変容したことに驚いたのだった。ただ、後半のファンサービス(ステージからのファンとの交流)が過剰で、ファンでない者が行く所ではないのかもしれないと、寂しく感じたが、満足。
去年より平日が忙しくなってきたこともあって、週末は家にずっといるようになっている。3月までは、大学の仕事がない日は、銀閣寺道にあるケーキ屋カフェで仕事をするというのが日常になっていたのだが、平日の疲労感があるのか、用事がないときは家で過ごすことが多くなってきた。去年から書き続けている原稿のスピードをあげたいということもある。面倒くさく時間がかかるテーマで、ほんと書き終えることができるのか、とか、ほんとに面白いことなのかどうかもわからなくなっている。この感じは、2年前から読んでいるプルースト『失われた時を求めて』の読書と似ている。もちろん日本語(井上究一郎訳、ちくま文庫)でだ。ふとしたことから読み始めた、この有名な長編はなかなか前へ進まない。新幹線とか飛行機で読もうかと旅行に持っていくが、どうも読む気になれない。結局、プルーストは家で横になって読む、というスタイルに落ち着いてしまった。となると、家にいないときは読まないので、また家にいても、面白いテレビ番組とか原稿のことがあると読まないので、時間がかかっているのだ。その上、読み出すと眠たくなってくる。といって退屈というわけではない。プルーストの長くうねりのある緻密な文体(日本語だが)や、描かれる貴族社会のリアリティーが眠気を誘うとしか思えない。それも、気持ちのいい浅い眠りへと。こんな断続的読書が2年近く続いているのだ。自分でも驚く。こんな読書をするのは始めてだ。やっと7巻の終り(ちくま文庫は全10巻)まで来た。今書いているぼくの原稿も、似たようなペースである。まだ10ヶ月ほどだが。現在、予定の半分近く。プルーストを読み終える頃に、完成させよう。そんな気持ちになっている。
さて、もうすぐ連休。それがどうしたということだが、フットボール・シーズンの終りを告げる季節なのだ。プレミアリーグに数年前のようにはわくわくしないのは、アーセナルの凡庸さのせいである。ただし、パリ・サンジェルマン(PSG)に何十年かぶりに力が戻ってきたので中継を見るようにしている。昔、ジョージ・ウェアーがいた時代を思い出す。バルサとの第2レグは、見応えがあった。加えて、フランスのナショナル・チームも上昇中。3月のスペインとの試合は負けたけど、ここ10年くらいで一番だった。ともかく、もうすぐフットボール・シーズンも終り、自分の原稿とプルーストのスピードをぐんとあげようと思っているのだが。
久しぶりにイタリアを旅行してきた。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア。水の都はビエンナーレ見学も兼ねてときどき訪れていたのだが、ローマとフィレンツェはほんと久しぶり。精華の学生9人と知り合いの熟年世代4人とぼくの14名の往復11日間の短い旅である。旅行実施人数に少し足りなかったので、ぼくが添乗員の仕事も引き受けることになった。望むところである。旅行魂がうずいたのである。そのイタリア紀行を2回に分けて(と、思ってはいるが)。
というわけで、ローマでは何といってもカラヴァッジオ巡り。ますます神話化(観光化)する、この「絵画の破壊者」(プッサン)はやっぱり輝いていた。フランチェーゼ教会コンタレッリ礼拝堂の「聖マタイ」も、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のチェラージ礼拝堂「聖ペテロ」も、何も変わらず、カラヴァッジオだった。ローマ自体が変わらないのだ。そのポポロ広場は、あの忘れがたい映画「マイ・プライベート・アイダホ」(1991年、ガス・ヴァン・サント監督)の中で、母探しをする主人公マイク(リヴァー・フェニックス)が石のベンチに寝てしまったところである。確か、広場のオベリスクの脇だったと思ったのだが、ベンチはなかった!あれは小道具だったのか、それともぼくの勘違いか。もう一度見なくては。カラヴァッジオを見るついでに、もちろん、現地ガイドのフランチェスコさんのアドバイスを受けて、ベルニーニとボロミーニの建造物も。もちろん、バロック天井画も。そのひとつコルトーナの壮大な天井画のあるバルベリーニ宮は、「ローマの休日」のオープニングに出てきたところと、ガイドの説明。そのシーンを覚えてないので、これもツタヤで借りなくては。旅行に行くと、舞台が登場する映画をもう一度見たくなるのだ。ともかく、ローマ・バロックを1日半ほど見ると、その劇場性と現実のフィクション性への欲望と快楽などなど、神の名によるいかがわしさにくらくらしてくる。とくにお茶漬け好きの日本人はお腹がいっぱいになるようだ。そんなわけで、少しすっきりしたくなる。
そんな気分になったときに、ホテルで、白ワインの名産地、ローマ近郊のフラスカーティで「カラヴァッジオについて」(About Caravaggio)という展覧会のチラシを見つけた。20世紀のアーティスト25人のカラヴァッジオ解釈展とのこと。これは行かなくては!と、ガイドをキャンセルして、全員でフラスカーティへ。白ワインを飲みながら新しいカラヴァッジオ・イメージなんて、カッコイイ!でも、田舎町だから平凡な展覧会なんだろうなと期待はしていなかったが、何とびっくり!充実した現代アート展だったのだ。それに出品作家がなかなか豪華。人選が国際的であることに加えて、20世紀イタリアの大御所、グレゴリオ・シルティアンやレナート・グッツソ、ルチアーノ・ヴェントローネ、そしてアルテポーヴェラのピトレッティ、ウイーン・アクション派のヘルマン・ニッチュなどなど大物も多い。彼らのカラヴァッジオについての旧作新作が並ぶ、贅沢な展覧会だし、何百年もの時間を経て、過去の画家が新たに蘇るということも贅沢なことだった。カタログがまだできていないということで、帰ってからメールで注文したが、1週間たっているのに返事がない。これもイタリアである。(ここで、ブログ書きを中断。東京での大正イマジュリィ学会全国大会のための準備や急ぎのメールに時間を取られたからである。その大会の2日目、山口昌夫さんが亡くなったとの知らせが。学会の初代会長だったのだ。黙祷・・・)
と、東京から帰ってきて、続きを書き出した。旅行のことを時間軸で書いていくとどうも平凡になるが、ともかく、「カラヴァッジオについて」展を堪能したあと、当然フラスカーティの白を。寒い日だったので夏に比べると、もうひとつフラスカーティの気分が出ないが、でも本場だ。この本場という意識がぼくから抜けない。その場でという感覚がともかく気持ちがいいのだ。数杯飲んでいい気分に。バングラディシュからの花売り男と話をしてたら商売のバラを1本をくれた。このあたりちょっと脈絡がないが、話は続いている。続くように書くと長くなるので、経緯をはしょっているのである。ともかく、暗くなってフラスカーティからローマに帰り夕食。ホテルで紹介してくれたバブーズという安いが味はよいというレストラン。超高級なところに行ったことがないので何とも言えないが、イタリアは前菜や一皿目の料理が美味しすぎて、メインディッシュは少し物足りない。これは日本的感覚なのか。このバブーズも海鮮リゾットが逸品だった。ホテルに帰る前にカフェ・バー(庶民的な)でシメのリキュール(名前忘れた)である。毎日1回か2回は行ったので店員たちとすっかり仲良くなり、昔からの馴染み店のような気分。旅行者であることを忘れる。こうした感じがいいのだ。その店には、ビールをがんがん飲んでいるラガーシャツ姿の屈強な年配の男たちがいて気勢をあげていた。聞けば、ラグビーの6カ国対抗でイタリア戦を応援に来ているウェールズのファンたちだった。「こいつらはビールをよく飲む」と店員たち。2年前にワールドカップでのウェールズが記憶に残っていたので、話しかけてみるとすごく喜んでくれてたけど、一緒に飲もうとは言わない。ケチなのだ。外国のバーやカフェで面白い人に会える場なのがうれしい。パリのカフェもそうだった。
こんなことで、最初のローマは終わっていった。旅行というのは時間を郷愁する営みでもある。ローマから城塞都市オルビエートを経てフィレンツェへ。ここも久しぶり。ぼくはこのルネサンス・マニエリスムの都市にもうひとつ馴染めないのだが、イタリア美術紀行では必須である。ただ、気に入りのサンマルコ修道院は人気観光地になってしまい、フラ・アンジェリコの聖なる静寂を味わう空気はない。ヴァチカンがその典型、加えていろいろな規制。感じはよくなかった。
さて、久しぶりのフィレンツェで感激したのは、パンである。料理を注文するとついてくるパン。昔も食べたに違いないのだが、こんなに意識したことはなかった。パーネ・トスカーノ(トスカーナ風のパン)というのだそうだ。とにかく、味がない。料理のソースをつけたり、塩を入れたオリーヴオイルをつけてみたりと工夫はしたが、その味のなさの頑固さは、何も変わらない。一般的に言えばまずい!でも、味がまずいのではない。味がないのだ。究極の無塩パンなのである。これだけ味がないと、うまいと感じる事態への逆転がどこかにあるに違いないと思って、書いたように色々工夫をして、籠に入ってきたパンを全部食べた。でも、逆転はない。ひょっとしたら、この逆転がないことが逆転なのかと、一応は納得した。そこで、パン屋でこのパーネ・トスカーノを半分買って日本にもってきた。家内は、小片に切って焼いた上に魚のペースをのせて食べたら美味しかったと言う。おや?ぼくも食べたが、パンが美味しいのではなく、のせたものが美味しかったのである。引き立たせ役なのだろうか。そんなことで、この不思議なパンは2週間たって我が家で乾燥中。どんなに乾燥しても食べれそうなパンなのである。トスカーナ地方の人は不思議とは思わないだろうし、こんなに考えているとも思わないだろう。このことをヴェネツィアで聞くと、これはゲーテが好きだったパンだそうだ。ヴェネツィアのパンは塩味がききすぎてまずい!と言ったとか。どこに書いてあることなのかを聞き忘れたが。知っている人は教えて下さい。
いや〜、学年末は慌ただしい!あっという間に日が流れていく。「流れる」。1月はあっという間に過ぎ、節分も丸かぶりをすることなく終わった。と、流れるという言葉を使ってみたら、そういえば成瀬巳喜男の「流れる」という名画があったな〜、と思い出した。レンタルして久しぶりに、と思ったが、見る時間がない。そして、もうひとつ。似たタイトルのイタリア?映画があったように思うのだが、検索しても出てこないので、こちらは勘違いか?ともかく流れている感覚は嫌いではない。成瀬監督の映画ににはそんな感覚がよくある。「浮雲」もそうだった。それに刺激されたに違いないアキ・カウリスマキの「浮き雲」のシーンは今も頭の中に残っている。ということは、年が明けてから成瀬モードで過ごしていたのか。
美大系の大学にいると、学年末は学生たちの展覧会が多い。知り合いの学生(卒業生)の展覧会にはなるべく行くようにしているし、学内での終了発表会もある。そして、画廊のオープニングに行ってしまうと、二次会なんかがあって、ついつい飲み過ぎることになる。楽しいけど、その疲れが取れないのだ。控えよう!
さて、前回のブログ(何とお正月だった!)から今日までの手帳を見ていくと、やっぱり用事が多かったことがわかる。といっても、企業で働く人に比べれば大したことはないと思うが。そんな1月2月だったのだが、それでもピザを食べている。というより、いつもピザを食べたいと思っていると言った方が正確だが、そんな言い方をしたいのだ。そうして(何が?でも「そうして」という接続詞が合うのだ、ここでは)、久しぶりにぼくのイメージに近いピザ屋を見つけた。自分を「ピザに行き着いた者」と妄想しているので、ヘンな言い方だが、どんなピザでも美味しく食べれるし、満足はするのだが、やはり、イメージに近いピザというものがある。そんなピザ屋を発見したのだ。上賀茂神社の脇にあるPizza Pazzaというイタリア人の若い兄弟がやっている店である。映画監督タビアーニ兄弟には似てないが(年も違うし・・・「サン・ロレンツォの夜」はよかったな〜)、「イタリアの兄弟」って語感、何かいいよね。ともかく、小さな店でおしゃれでもなく気取ってもいない。最初は(1月に行ったとき)ここ美味しいのかな〜と、少しの不安感を覚えたのだがーというのも食べログでは点数が低かったのでー、ただ、店の壁に掛けられた小さなレリーフ絵というのか、それが目に入ったので、違いを感じたのだが。そこに彫られた都市風景を、見たことがあったのだ。ピザを食べながら聞いてみると、やはりパドヴァにある老舗カフェ「ペドロッキ」ではないか。あの(美術史をかじったことのある人には「あの」ということなのだが)、ジォットのスクロベーニ礼拝堂のある町の有名カフェ。聞いていけば、「イタリアの兄弟」はパドヴァ出身なのだった。
そのことがわかる前から、つまりピザを注文し、食べ始めてから、ピザの味が「これは!」であったので、いろいろ質問していったところパドヴァ出身とわかったのだった。生地の薄いイタリアのピザである。ロマーナ(アンチョビ入り)、マルゲリータ、あと1枚(何だったか)、勤め先の若い職員と一緒に食べたピザは、食べログへの不信感を増幅させることになったのだ(思わず、食べログに投稿してしまった)。そのあともう1度行き、そのときの4種類のチーズのピザも最高だった。
ぼくの見るところ、現在、日本のピザではやっているのはナポリ風(あるいは南イタリア風)という生地にモチモチ感のあるピザのようだ。ナポリがモチモチ感というのは知らなかった。少なくとも、ずいぶん昔にナポリとその周辺で何度も食べたマルゲリータにそんな印象はなかったのだが・・・。ともかく、日本のピザの多くは、ナポリなら「ナポリ風」と「風」がつくピザである。このことを悪く言うわけではない。本場を知っていることをひけらかそうというわけではないが、「ナポリ風」を「本物」に仕立て上げてはいないか。つまり「風」を本物とする思考だ。外から内へと入ってきたものは、どのようなものであれ内側では「風」なのだ。その「風」をいかにも「本物」のようにしてしまうことに違和感があるのだ。そうした志向なので、ピザはおしゃれなものになる。外のものは移植されると「おしゃれ」にはなるのだが。パリのお好み焼きも、フランス人(日本好きの)には「おしゃれ」である。店構え、サービス、もちろんピザ自体もおしゃれを志向する。でもね〜、どこかおかしい。日本のピザの多くは(といってもぼくの数少ない体験からにすぎないが)、「イタリア風」ピザなのである。そのことを自覚することが必要なのだ。「風」であることをわかった上で食べる。
ただし、たまに「風」でないものがある。Pizza Pazzaのピザはそんなことを考えさせてくれた。だから、日本では異端である。食べログにつけた4点は低かったと反省。
この1ヶ月あまりの食べ物のことでいえば、入試の監督で出張した広島の帰りに尾道に寄った。これは2月初めのこと。有名なラーメンも食べたかったし。その前に、まずは広島の広島焼き。いつも思うことだが、いまいちノリキレナイ。タレが甘すぎる。また、広島の牡蠣。それも身がふっくらしすぎていて、カキフライにはいいが、そのままレモンをかけて食べるにはモチャモチャしすぎ。ピザのモチモチ感志向と似ている。ぼくのような「おフランス」な人間には、やっぱりフランスの牡蠣ということになってしまう。日本にはカキフライ、牡蠣の土手鍋、酢の物等々、牡蠣料理にバラエティーがありすぎて、そのすべてに対応しようとして、ふっくら牡蠣になったのかと想像する。生で食べることだけを追求するフランスの牡蠣の方が、生としてなら、やっぱりずっとレベルが高いのではないか。でも、フランスではカキフライができないけどね。矛盾。
そうそう、尾道の話だった。駅の観光案内で「ラーメンの美味しい店はどこですか?」と聞いたら、駅構内のようなところにある2店を教えてくれた。おやおや、結託?そこで町を少しだけ歩いてみると、観光観光していて入る気にならない。観光好きなのに、演出過多だとひるむのである。そこで駅に戻って、案内してくれた2店目のラーメン屋に。醤油ベースで美味しかった。
尾道は懐かしい町である。林芙美子ではない。ぼくは尾道からすぐのところにある因島で生まれたのだ。祖母と母が疎開した関係である。2歳までしかいなかったので、暮らした記憶はなかった。そこで、どんなところかを見に、大学生のとき始めて行った。尾道で降りて船に乗った。日立造船があって(今もあるのか?)、ミカン畑もあったように思う。祖母の知り合いもまだいて、泊めてもらい、子供の頃の話を聞いた記憶だけがある。祖母が詠んだ因島の歌がいくつもあり、それが島の記憶ともなっている。そんなわけで、尾道は、自然、ノスタルジックになる。それに、ほんとに久しぶりなのに、あまり変わっていない。おそらく、祖母や母がぼくを背負って歩いた波止場から駅までの感じは、いまでもあるように感じた。それと、何十年かぶりに乗った広島から尾道までの山陽線の昔風のこと。田舎の山間、田園をうねる線路の具合、トンネル、駅(改装はされても)などなど・・・日本には戦前が連続しているところがあるんだ、と感じた。祖母や母も同じような揺れを、その風景の中で感じていたのだろう、そんなことを想像させる山陽線だったのだ。
この1ヶ月あまりの記憶が、こんなことだとは。他にも、印象に残るだろうと思ったことはあったのに、いざ、書こうとすると、何が面白かったのかが曖昧になってしまう。身の回りを流れていく時間とは、そんなことなのだろう。といっても、来週は久しぶりのイタリア旅行だ。11日間の美術巡り。解説同行。ローマ・フォレンツェ・ヴェネツィアの定番である。コンタレッリ礼拝堂のカラヴァッジオ、ベルニーニの彫刻、パルミジァニーノ、ブロンティーノ。ローマとフォレンツェは何年ぶりだろう。また、冬のイタリアなんて、何十年ぶりである。毎日ピザを食べよう。イタリア語も少し復習して。帰ってきたら3月か〜。
年末に書いて中断、年を越してしまった文章1。
久しぶりに風邪を引いた。今年の2月あたりに人生で始めての風邪と自覚する風邪を引いて以来だ。そのときに風邪とはこうしたものなのか、と、少し実感したせいで、数日前からの何となくだるい寒い感じが風邪だとわかったのである。酒がききすぎてしまう。10日ほど前、忘年会で韓国焼酎を飲んで奇妙な酔いを経験したときに、おそらく風邪は始まっていたのかもしれない。といって、一般的な風邪の特徴、咳や鼻水といった症状はないのだが。そんな風邪の間も外での会合に出かけてしまうので、症状が完全回復しないのかもしれない。年末だから仕方がないか。と、書いて一時中断していたら、あっと言う間のほんとの年末。我が家の大掃除の日々が始まった。まずは本の整理。
研究者としては、それほど多くの本を持っているわけではないが、でも、毎年本は増えていく。知り合いには狂蔵書家も少なくないが、その悲喜劇を見ていると、そして、何よりもネット上で本まで読めてしまう時代になり、本の時代の終りの始まりが始まったような気もする。というわけで、今年の本棚の掃除は、いらない本は売る(買ってもらう?)という掃除の方法にした。もちろん、一部だが、それでも、必要な本、不必要な本と決めていく脳心理的負担が結構ある。でも、そんなことしていたら終わらないので、もう2度と読まないだろうという本は外に出すことにした。それで、買い取りをしている古本屋に何軒か電話。そうすると、すべて引き取れませんというところやハードカヴァーの小説は難しいというところなど、いくつか条件があることがわかった。そうか〜、今や電化製品はお金を払って引き取ってもらうんだもんな〜、本もそういう時代に入ってきたのだろうとため息。古本屋との話の中でひとつ驚いたのは、現在、日本の古本の多くは中国に送られているということだった。えええ〜!おそらくそれは本としてではなく、紙としてなのか?そんなことで、3日かけて書棚と本の整理が終わった。
文章2。
12月になると、新聞・雑誌・ネットでさまざまなジャンルの2012年度ベスト、といった企画が出てくる。昔から、この手の企画が好きなのだが、この頃はどうもベストに選ばれているものがばらばらで、どこかしまりがないし、ベスト10などに入っているものを知らない場合も多い。CD売上げ1位はAKB48の「真夏のsounds good!」と書かれていてもまったく実感がない。当たり前だ、興味がなかったので仕方ない。ぼくの場合で音楽の1位を押すとしたら、といっても今の音楽を聴いてないので1位というより、今年出たCDはこれしか聴いてないのだが、Terakaftというアフリカはマリ出身の、砂漠のロックと紹介されているグループの「Kel Tamadheq」という新アルバム。このテラカフトについては、このブログで1度書いたことがある。これまで知らなかったノリで不思議な酔いに誘ってくれる。
本では『聞く力ー心をひらく35のヒント』という阿川佐和子の本が2位に入っていた。紀伊国屋の数字だ。ちなみに1位は東川篤哉の『謎解きはディナーのあとで3』。こちらはまったく知らない。ライトな推理もの?2位の「聞く力」は週刊文春に連載していた対談を集めたものなのかと思ったら違っていて、対談の経験をもとにした書き下ろしらしい。たまに文春を買うけど、この対談は読まない。どこか胡散臭くて、活字を眼でさっと追うだけで、何か読む気がしなくなっていた。でも、これだけ売れるのは、当然、何かはあるんだろうけど、1番はタイトルだろうな。「・・・の力」。何かはやっている。そして、もうひとつは「心」か。「力」の方は4〜5年前から(もっと前?)何にでも「力」を付ければいいというわけで、ぼくたちの業界も「力」ばやりだ。大学力、人間力、理解力(これは昔からあったまともな言い方でややこしい)等々、他にもいくつかある。悩むことも力らしくて、いつの間に、日本は「力」が好きな国になったのだろう。力がないので、自信がないので、「力」ということだろうが、別に力なんてなくたっていいと考えないのだろうか。ぼくとしては、「力」というイデオロギーが体質に合わない。こんなことを書いてしまうのは、ぼく自身が権力的なのかもしれないが。いいことではない。もちろん、弱いことがいいわけではなく、強さとか弱さといった2元論が怪しいのだ。物事はそんなにすっきりしない。ベストについて書いていたら、他の方向に行ってしまった。ともかく、阿川佐和子の対談集の人生論的臭さがね。
と、考えて、ぼくの本ベスト10は?と考えると、やっぱり1位は、何回か前のブログに書いた『北朝鮮で考えたこと』(テッサ・モーリス-スズキ、田代泰子訳、集英社文庫)である。いつか、こうした旅行記を書いてみたい。旅行記のスタイルの可能性を考えさせてもくれた。あとは?といって、強烈な印象をもった本は少なかった、というより、あまり読まなかったのだ。これも前に書いたが、解釈ということに疲れてきたのである。ある現象について政治的、経済的、文化的な意味を引き出してくること。そのことが面白いと思わなくなってきたのだ。意味は重要だが、意味を考えることが重要な事象と、そうでない事象があるだろう。メディアやネットを通して誰もが意味を考える、解釈の民主主義になることは、逆に、解釈が感情や隠れたイデオロギーのアリバイとなり、さらに、解釈そのものの多様性が失われ1元化してしまうという不幸に陥る、それが目の前に見えてきたような感じもする。というわけで、あと1冊だけ、ベスト2ということだが、あげておくと、こちらは専門といったらいいか、フランス語の昔の本で『ドラクロワの手紙』(Lettres de Eugène Delacroix 1815-1863, A.Quantin, Paris, 1878)。フィリップ・ビュルティーという批評家の本である。まあ、マニア、研究者向けの本。でも、読んだというより、ペーパーナイフでベージ上部を切りながら(フランス綴じなので)パラパラと見ていったのだ。口絵の銅版、そしてタイポグラフィーが綺麗で、序文からは同時代人の熱も伝わる。いい読書(見?)だった。古本屋で安く買ったのだ。これも感激した。
あと、書くべきベストは、映画、サッカー、韓流、食べ物ということになるか。
と、ここまで書いてきて中断してしまったのだ。そして、ここからは1月3日。
ともかく、年末の掃除とガラス拭きで節々がギシギシして、夜には年末・正月用のお楽しみとして借りた韓流ドラマ「ジャイアンツ」を見始めてしまったことも、ブログ中断の原因。ドラマははまった、というより、はめさせられた。全60話。ソウルの江南地区開発を舞台として、貧困、裏切り、復讐、成功、そして愛の物語、そこに現代史が絡む。まあ、韓流ドラマの王道である。家内と子供の反感(反韓ではなく、こっそり見ることに)もかなりなもの。でも、パソコンで、自分の書斎でひっそりと見る内密な時間の快楽である。だからいっそう熱も入る。こんな単純でいいのだろうか。そんなことで、正月も過ぎてきたのだ。さて、
このブログを見てもらっているみなさん、明けましておめでとうございます!2013年が、みなさんにとってよい年となりますよう!
ぼくもよい年にしたいと思います。そのためにはまず健康。誓いはたてないが考えていることはある。これまでの人参ジュースと水素水(これはまだ4ヶ月ほどだが)に加えて、もうひとつ何か毎日の食べ物を見つけたい。何がいいでしょうね?それから新縄文食の徹底化。こうした身体維持に加えて、脳の維持のために何かをする予定。中世記憶術の実践?ブログのいっそうの長文化。嫌われる!でも書くことは、何といっても脳を刺激する。自分の研究のスピードアップ。韓流ドラマを減らそう。そのかわり韓国語の予習復習はしっかりと。新しいピザ屋も見つけよう。それから、これまでの関心事にもうひとつ何かを加えたいとも思う。何?運動、情熱がわかない。現代アート、もう少し見ることに。でもこれは新しい関心事ではない。正月が終わるまで考えることにしよう。
イラン北部1970年(平氏撮影)
前回書いた韓国小旅行に刺激されたからか、11月は美術館や画廊に少し足が向いた。フェルメール。確かにターバンの女性は綺麗だけど、あんなに持ち上げることにちょっと。グレコ、うんうん、専門家以外なら、数点見ればいいんじゃないの、宮永愛子さん、綺麗に昼寝できそうとか、エルミタージュ、ロシアの美術館も苦しそうだな〜とか、そうそう昔から知り合いのMarieさんの凝った版画、そのモダニズムへの転向はどこまで行くんだろうとか、10月に京都に来たジェニーの写真、フランス人だな〜?、家内の書、ガンコだな〜、とか、また、何かの折り、ボルタンスキーのことを考えて、一度会ってみたいな〜とか、まあ、見たり聞いたりすると、刺激はある。学生のつくったものを見ても同じ。アール・ブリュットな感じがあるのが面白いことも。無鉄砲ということだが、少しずつ、それが消えていくことも少なくない。こんなことを手帳を見ながら、やけに寒い12月に思い出していた。
そんな11月でもあったのだが、1ヶ月以上も前のことなのだ。さすが、慌ただしい。手帳にはいろいろな行事が書きつけられている。日程表が真っ白なのは寂しいが、黒くなるとため息。中庸というのはなかなかない。やっぱり年末?まあ、この季節は忙しい方がいいけど。そんな季節、町には選挙カーが走り、日本政治のワイドショー的光景が繰り広げられている。政治に興味はあるが、何もかもピンとこない。日本の右を向いていく流れも、ただ、言葉に力のない政治家の自尊心の勘違いか、あるいは有名病のため?それを論評する批評家や研究者にもリアリティーがない。誰もかもが日本を強くするって力むけど、その強い日本ていうのが何なのか誰もわかってない気がする。考えてないのだ。ぼくは日本が強くなって欲しくないので、こうした言説に一番違和感があるが、それも言葉のリアリティーが何かを考えてないためだし、それを言葉にすることへの無自覚もあるだろう。この前ちょっと聞いたメディア批評をしていた若い人もそうだった。メディアや新しい文化について話しても、話し方が普通、伝統的語法なので新しくはない。こんなことを書いていくと疲れるので、別の話題にしよう。
このブログを、ぼくにとっての備忘録のひとつにしようかと思ったのは少し前からだが、それは、書いたものを残したいということではなく、年齢とともに記憶能力が退化してきたことを自覚しようと思ってのことである。パソコンの中に前に書いたものや、書いたけど印刷されなかったものなんかもあって、普通読まないのだが、読むと、ああこんなこんな感じで書いてていたのだと、自分が書いたのに、人が書いたような気になることもある。それが面白いこともある。そこで、今回、ネタがなかなか見つからないことがあって、池垣さんという、昔から知り合いで現在同僚の作家のことを、何かに載せるというので書いたことがあったが、活字にならないので、ここに転写張り付けすることにした。彼がバルセロナに滞在していたときの話。2009年夏のことだ。寒いので、夏の暑いバルセロナを思い出したこともある。読んでみると結構硬い。ウ〜ン。入れるとこれまで最長の字数になって、また、「ブログ、長過ぎる〜」と数少ない読者(見者?)に言われるけど、そこは・・・。では!
池垣タダヒコ、あるいはバルサのドローイング
池垣タダヒコを初めて見たのはいつごろ、どこで、だったのか。画廊だったのか、美術館だったのか。ピカピカに光る銅製のオブジェの向こうでもじもじしていたのが池垣だと知ったのは、もう少しあとになってのことである。京都で発行されていた『A&C』という展覧会時評を中心とした美術雑誌に少しだけ関わっていた、1980年代後半から90年代始めの頃だと思う。
その雑誌は、いま振り返れば、なかなかのものだった。美術の地域性を、中央主義的視点の裏返しとしてみるのではない、そんな視点を育もうとしていたからだ。そうした雑誌が出たことと、当時の京都の若いアーティストたちの熱気とは無縁でなかっただろう。その熱がどういうものであったのかは、これから検証される必要があるだろうが、池垣もその熱圏のなかにいた。そして、ぼくはその熱で身体を温めていたのである。それから20年あまり、長尾浩幸の紹介で個人的にも知ることとなり、同じ大学で教えることにもなった。でも、髪が白くなったとしても(もともと白かった?)、池垣タダヒコは変わっていない。その話し方も、ものへの姿勢も。
池垣タダヒコについて書くことになって、こんなことを思い出していたのだが、書きたいのはこうした交友録的なことではない。前から気になっていた池垣のドローイングのことである。その現場を初めてみたと感じた4日間のことである。場所はバルセロナ。
バルセロナ
2009年8月。パリからの飛行機がカタルーニャの乾燥した風景のなかに吸い込まれてから半時間後、プラット空港のターミナルに池垣がにこにこしながら手をふっていた。40年ぶりのバルセロナだった。夏休みをとって、在外研修中の池垣を訪ねたのである。
ぼくにとって、この都市はひとつの憧れである。それはガウディではなく、「バルサ」(FCバルセロナ)とスペイン内戦がかきたてた夢のためである。なのに、どうしてこんなに長く訪れることがなかったのか。記憶のなかに漂っていた街はもちろん近代化されていた。フランスの建築家ジャン・ヌーベルのトーレ・アグバルの存在感がバルセロナを不確実な未来の夢へと妖しく誘い、そして、バルサの本拠地カンプ・ノウもきれいになっていた。
その一方で、記憶のバルセロナもしっかり存在していた。歴史を重みとして持続させる西洋の美徳だ。池垣はその美徳といっしょに暮らしていた。アパートはとびっきりのバルセロナ、夜に活気づく飲食街と歴史的記念建築物が混在するゴシック歴史地区にあった。その一角で、前からの住人のように暮らしていたのだ。
ドローイング
遅い朝を起きると、シャッシャッサッーといった感じの音がかすかに耳に入る。キッチンの隣の部屋で池垣がドローイングをしているのだ。「ブエノス・ディアス」と正式な「おはよう」を言いその部屋に入ると、大きなテーブルの上に、線と色で覆われたA4ほどのデッサン紙が何枚も重ねられている。タンクトップのシャツと半ズボン、頭には手ぬぐいを巻いていたかは覚えがないが、昔からここで描いていたように、描き続けている。「何か食べる?」と聞きながら手を動かしている。
池垣にはいつも何かを描いている印象がある。京都でもそうした姿を時々目にする。会議、コーヒータイム(彼はあまり飲まないが)、雑談のとき、おそらく一人でいるときもそうなのだろう。それをドローイングと言ったが、ほんとはちょっと違うことなのだとも思う。
ドローイングはフランス語ではデッサンである。日本ではどちらも使われているが、二つはいくぶんニュアンスを異にするようだ。ドローイングの方が自由でデッサンが目的をもった態度といったような。この違いは、日本の美術を考えるとき面白い問題になるのだろうが、どちらとも美術作品の基礎になるものであることはいまでも変わらない。しかし、池垣タダヒコのそれは、基礎とか何かのためにといった、美術としてのドローイングというのとは少し違うのだ。この意味合いを説明するのは難しい。ドローイングのためのドローイング?それは描線や形象表現の訓練ともなるが、池垣のものはそうとはいえない。落書き?線をひくことの原初的な意味でならば、そうかもしれない。そうした落書きのように、池垣のドローイングは「生きる」ことと関係しているような描くことだと思っている。
人間は誰もが線をひく、あるいは色をぬる。赤子が母親の白い胸を生えたての爪でこするように、もう少し歳がいけば、紙や板や壁に鉛筆やクレヨンで何かを書きなぐってしまうように、さらに大人なっても、意味なく紙に線や形象を描いてしまうように。人間は生まれてから死ぬまで線をひいたり形を書いたりしている。それは人間が何かとつながるための、あるいは何かへと自分を解放しようとする、つまり世界と私のつながりを求め確認する行為のように思う。池垣のものも、そうしたたぐいのものではないのか。ただし、アーティストとしての意識が、少しだけ作品化させる。ドローイングの前のプレ・ドローイング。でも作品よりも、「つながり」の感覚が強い。そうしたものを毎日、バルセロナで行っていたのだ。
バルサ
ドローイングがそうしたものであれば、土地(人間関係も含めて)という意味は小さくはない。バルセロナでのドローイングは、池垣とバルセロナとの生きる関係を綴るだろう。ぼくが見たのはそうしたドローイングの現場だった。そして、そこに痕跡された入り組んだ線描は、ぼくのなかで、その都市バルセロナのある事柄につながってしまった。
カンプ・ノウのバルサ、それもメッシとイニエスタを中心とする特別なパス回し。もちろん、バルサのパスはゴールへと向かう論理によって組み立てられているが、それだけではない。メッシはピッチの上で池垣について言った意味でのドローイングを楽しんでいるはずだ。それはフットボーラーとしてのメッシが生きることでもあるだろう。もちろん、そこからゴールが生まれればいうことはない。そのとき、ボールによる見えないドローイングは資本主義経済に組み込まれ巨大な利益を生むドリブルとなる。でも、それは結果だ。ぼくたちフットボールのファンが楽しむのは、パス回しそのものなのだ。
池垣とぼくはもちろんカンプ・ノウに行った。そして、メッシはそのようなドリブルを何度もしかけた。スタジアムの上の方からみていると(安い席だったので)、バルサのパス回しがますます池垣の線に重なった。池垣もハイになって、カメラでピッチを追っていた。翌朝、バルサなドローイングをすることになるだろう。
バルセロナの夏の、それもバルサを見たような場合の高揚感はなかなかさめない。こんなときは冷たいカタルーニャのスープ、ガスパッチョが一番なのだが深夜の食べ物ではない。結局、ゴシック地区の池垣の行きつけのバールでセルヴェーサ(ビール)。若い頃のメキシコ経験が京都人池垣に何を植えつけたのか。そんな話しを聞きたいと思ってもいたが、バルサのあとのバールではあまり意味はない。冷えたセルヴェーサを飲むだけだ。
そして翌朝、池垣タダヒコは同じようにシャッシャッサッーとやっていた。昨夜のバルサのせいか、前の日よりも手の動きが速いような気がした。やっぱり!
これを書き出したのは、KTXという韓国の新幹線の中。光州ビエンナーレを見て、その翌日ソウルに帰るところだった。と、ここまで書いて、ブログのネタにと、10月の記録をチェックしようと、システム手帳をバックパックから取り出そうとしたら、これが、ない!ない!ない!鞄の方も探すけど、同様。そうだ、これは前夜のホテルに忘れてきたに違いないと、そこからアタフタ劇。パスポートが入っているのだ!
ホテルに電話をするが、フロントは韓国語しかわからない(もっと早くから韓国語を勉強しておくんだった)。結局、車掌さん(KTXの車掌は英語ができる)に頼んで電話をしてもらうと、あった!とのこと。そこで、途中のイクサンという駅から再度、光州に戻ることに。青い革表紙のシステム手帳は、ぼくにとっての必要不可欠物、これがないと何事も始まらないというものだ。パスポート以外にも大切な物や記録がぎっしり。その日、6時にソウルで精華のマンガを卒業した韓国の学生と、彼の女友達と約束をしているので、こちらも変更の電話。7時半にしようと。そして、再びこのブログを光州行きのKTXの中で書き始めたのだ。Wi-Fiが無料。完璧だ。ここで光州到着。次は日本に帰ってからの文章。
ただ、そのあとも大変だった。光州のホテルへのタクシーが道に迷うは(5分のところが40分近くかかってしまった)、光州からソウルに戻る列車も少ない。ソウルに予定時間に到着できないことがわかる。日本の新幹線の常識は外国では通用しないのだ。地下鉄のように到着・発車する新幹線は、すごいのか、ヘンなのか?というわけで、急遽、飛行機便に変更。何とか間に合いそうなソウル便があった!80000ウォン。韓国国内便は始めての経験である。もちろん、どうってことことはないが。結局、かなり遅れてソウルのホテルに着いたが、ジェオンくんとユジンさんはやさしく待っていてくれた。1日の走行距離はかなりのもので、その上、早足で歩いたので疲れたが、こうした経験も、旅行好きとしては楽しかった。
ともかく、2年ぶりに韓国にやってきたのだった。光州ビエンナーレを見ることが一応の目的。1年に1回くらいは、大きな現代アート・フェスを見ておこうと、観光ついでに来たのだった。前回(7〜8年前)の印象がよかったので、来ようという気になったのだ。前回よりパワーが薄い感じだったが、こうしたフェスは出展者が多いので、気に入ったものはかならずある。今回は、台湾とインドネシアの作家の物が気に入った。台湾のTu Wei-chengの動画前史を物理的に可視化した作品である。前史を造形することに意識的で、書かれたテクストよりずっと楽しめた。あとは、インドネシアのAgung KurniawanのThe Shoes Daiaryという作品。アディダスの靴に個人史を重ねたところが秀逸。ぼくがアディダス好きだからなのか。他にもまあまあのものがあった。こうしたフェスでいつも思うのは、数多い映像作品にどう対処したらよいのかである。コマーシャル映像のように30秒(もう少し短いか)に1回ほどは、刺激的な「ツカミ」があれば暗い空間に留まるのに、アート系には、そうした感覚は薄い。なので、自然、部屋に入ったときに「おおお!」と思わない限り、退出してしまうのだ。といっても、「ツカミ」とか、おしゃれといった事態を超えた映像作品はあるし、何度も経験した。光州にはなかったが。メイン会場を歩いたあと、同じ敷地にある美術館でリー・ウーハンの回顧的展覧会もやっていて、懐かしい!感じにちょっと浸った。このモダンな世界は現在の現代アートにどうのように繰り込まれているのか、ノスタルジーとともにそんなことを感じながら会場を散歩したのだった。
現代アートの世界はますますテーマを広げていっている。哲学、文化論、政治・経済学、科学、メタ・アート論などなど。といっても、言葉によるものはまれだから、イメージの表象力に頼ることになる。イメージ信仰。フランソワ・ダゴニェの言う「イメージのエクリチュール」が生み出す意味を読み取ることを要求するアート。ただし、このエクリチュールによって世界の何を掴み、何を理解しようというのだろうか。これは重要な批評的問題だ。このことについて誰かちゃんと書いている人はいないのだろうか。アートはほんとうに批評性を持っているのだろうか。何を言いたいのかはわかることも多いし、面白いものも少なくはないが、それがアートの外に流通する他の文化的言説とどこが違っているのか、そんなことをしっかり書いている人はいるのだろうか。そもそも、真面目にこんなことを考える必要があるのだろうかとも考える。
ビエンナーレあるいはトリエンナーレといった現代アートの祭典も、このところ形式化されてきたようにも思う。様式化。見る方も安心。作る方も見せ方を心得ている。こうした調和的な関係がはっきりしてきた感じもする。造形的な質は高いが(見せる、ということだが)、その「美的質」が何なのかが意識されていることはあまりない。そうしたアートの深い問題(?)に答える前に、この現代アート・フェスの様式化は、新しい観光資源としてますます発展していることは確かなのだ。そうした視点でのフェスも世界中で多い。アヴァン・ギャルドが終わってしまったいま、現代アートは、そうした文化消費の先端を担うことになっているのか。アート・ツーリズムが新しい旅行形式だとしたら、現代アートは文化のアバンギャルドということにもなる。芸術のアバンギャルドが文化のアバンギャルドへと変身している。その文化のことは何回か書いたので、といってもまとまっていないが、ここでは書かないが、アートが文化へとスライドしているとすれば、もっと面白い文化領域はある。そこでアートはそれほどの文化ではない。このあたりのことを一度はしっかり書きたいとは思うのだが・・・。
そんなことを考えながら光州ビエンナーレを半日近く見て回ったのだが、今回は、これまでしてみたいと思っていたことがいくつかできて、かなり楽しい旅行になった。ビエンナーレも素直に、この旅行的楽しさのひとつとしておくのがよいのかもしれない。楽しめたのは韓国の卒業生たちのおかげである。
まずは、インディーズ系のバンドを見ることができた。初日、ちょうど夕食を食べたホンデ界隈でロックフェスをやっていて、シン・ジヨンさんとキム・スヨンさんが予約をしておいてくれたのだ。彼女たちのお気に入りバンド、クライング・ナット(Crying Nut)。長いキャリアがあるというだけになかなかのパフォーマンス。ともかくノリがいい。アコーデオンが入っているのも気に入った。もうひとつハックルベリー・フィン(Huckleberry Finn、時間の関係で2曲しか聞かなかったのだが)もストリングスの入った編成がしゃれていた。まあ、そんなわけで、ホンデ地区の人気ピザ店でピザを食べ、そのあとライブ。最高の夜だった。韓国でピザの定点観測をやっているが、人気店の人気の理由はわからなかった。ぼくのランキングでは味はB+。ランキングは最高がAA、次にA+、A、そしてB+、Bと続く。これまでのAAはまだ2店だけ。だから。普通のピザだったのだ。何年もソウルでピザを食べていると韓国のピザのレベルはかなり上がってきたのはわかる。ただし、グラスワインのバラエティーが少なすぎるのはなんとかしてもらいたい。韓国はボトル主義らしい。
光州では、これまた精華のマンガの卒業生で現在は大学で教えているイー君とイホ君が、光州名物の豚料理のレストランに。これは美味しかった。そして、よもやま話。翌日(パスポートを忘れた日)は、昼に駅の食堂で、長い間食べたいと思っていたラーミョン(ラーメンのことだが、韓国ではインスタント・ラーメン)を注文。黄色のアルミ製の一人鍋に入ったラーミョンは、チープがチープであることを恥じらいもなく主張する、そのいさぎのよさが感動ものだった。味?そうしたことを言わないのがチープであるということだ。
そのチープの反対、おしゃれで高級なワインバーにも入った。ソウルのインサドンの北側の地区。現代アートのギャラリーやおしゃれなカフェがある、グローバルおしゃれ感覚の店がある界隈。以前入った庶民的なワインバーとは違い、こちらはセレブが来てもよさそうな、あるいは韓流スターが来てもおかしくないような雰囲気である。まあ、ユジンさんがいたから入れたとも言えるが。そのワインバーでは、ボルドーやブルゴーニュなんかは高くて(前日のラーミョンのことが残っていたためかもしれない)とても頼めない。結局、チリワインに。悪くない選択だった。ここでも、マルゲリータをつまみとして注文(B+)。そのおしゃれなワインバーで、ぼくとジェオンくんは日本語で、ユジンさんとはフランス語で。彼女は5年以上もフランスのアヌシーの美大で映像を勉強して帰ってきたばかりなのだ。すごく感じのいい人だし、作品もなかなか。
そして最終日に感動の2時間が。韓国で始めて映画館に入る。チョンロ3路のロッテシネマ。イ・ビョンホン主演、助演が何とハン・ヒョジュという理想の映画。ユジンさんも推奨だった。記録的な観客動員になっているとか。タイトルは「光海、王になった男」。字幕はないが楽しめた。ハン・ヒョジュの出番は少なかったし、「トンイ」のときの方がよかったが、悪くはなかった。調べてみると、この映画はこの秋、パリで行われている、これまでに類のない「韓国映画フェスティバル」のオープニングを飾っているとか。ハン・ヒョジュはこれまで映画に恵まれなかったが、やっといい映画にでることができたと、素直にうれしい。でも、ますます人気がでてきて、長年のファンからすれば、やっぱりちょっとね。イ・ビョンホンはさすが。これで、チャン・ドンゴンを超えた。
世界は広い。韓国も行くたびに新しいことがある。