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パリにボン・マルシェという百貨店がある。観光的にも有名なので、パリに来た人は知っているだろう。左岸のセーブル=バビロンという地下鉄駅を降りてすぐのところ。パリで初めての百貨店としても有名だ。確か、1830年代に創設されたのだと記憶する。現在のような百貨店イメージをつくったのもここだと言われている。パリには他にもいくつかの有名な百貨店があるが、個人的にはここが一番好きである。一階の食料品売り場は、質、量、親切度でパリ一番かと思う。ちょっとしゃれたテイクアウト飯をするときは、ここの惣菜でという気持ちなる。
それ以外に、ボン・マルシェの特色は全体に漂うイギリス趣味である。昔から感じていたのだが、何とこの夏からのキャンペーンが、まさにそのイギリスど真ん中。フランスの人がイギリス文化に触れて、それを形容するとき、「very british」と言うことがある。どうして「イングリッシュ」と言わないのか知らないが、ブルトン人がフランスにやってきた大昔からのフランスとの関係によるのかもしれない。ちなみに、画家ゴーギャンたちがコミューンをつくったことでも知られるブルターニュ半島は、そのブルトン人が支配した土地である。
ともかく、この9月のボン・マルシェは「very british」なのだ。その言い方を下敷きにして現在のキャンペーンのコピーが「So London」となっている。そして、そのメインキャストが、あのブライアン・フェリー。ロキシー・ミュージックの時代から聞いてきたダンディーなポップ・ロッカーである。なんせカッコイイ。こんな男に生まれてきたかったNo1である。そのブライアン・フェリーのいくつかのポーズがポスターを飾り、ウインドーに貼られている。このブログは、書いた内容にあった写真を載せないのを原則としているが、今回だけは、禁を侵し、2点の載せることしよう。
さて、フランスとイングランドの関係は、歴史的に複雑なものがある。大昔のブルトン人の時代はともかく、海峡の向かいの国が、フランスに先駆けて近代国家を築いていったこともある。それに対する、一種の憧れ?嫉妬?というのはあったのではないか。たとえば18世紀のパリにはそんな気分があった。それを19世紀、20世紀も引きずっているようにも感じる。ともかく、すべての分野で互いに意識し合ってきたことは間違いないだろう。極端に言えば、ブリティッシュと違った文化をつくろうちょいう意識がパリにあったのではないかとも思う。ぼくが惹かれるのは、フランス(パリ)の見るイギリスである。もちろん、それはパリ風に改変されている。そして、日本人のぼくはフランス風ブリテンを日本的に見る、この重層する文化イメージの感じがいいのだ。なかなかわかってもらえないが。ともかく、いわば近代の香りを残すボン・マルシェがイギリス趣味として選んだのが、ブライアン・フェリーであるところが、さすがというほかない。まあ、これは左岸の7区という伝統的な生活様式を残す地区の話ではあるのだが。
早いものでこちらにきてもう1ヶ月近く。ヴァカンス王国フランスの夏も終わっていく。近所の閉まっていたカフェや店も開いてきて、平常の姿になりつつある。研究の方は(なんせ、在外研究で来ているので)少しずつ。ただし、研究のやり方が従来とかなり変わってしまった。ネットに開かれた膨大なアーカイブのおかげである。多くの資料(マニュスクリまで)がネット上で検索、そして閲覧できるようになって、ある意味で、研究はどこでも、いつでもできるようになってしまったからである。もちろん、手に取らなければならない資料もあるので、ここにいることが便利なのは言うまでもないが、昔のように、探すことからしてアナログなやり方は、基本的になくなりつつあるということだろう。
ただし、そうやって電子的なものだけでやっていると、現物の資料とともにわかってくる時代感覚というか、そんな能力を落とすような気もする。ピンポイントで検索でき、それだけを引き出してくるからだ。それもデジタル形式で。紙の手触り、奥付けの出版情報、本や雑誌の匂い、その雑誌であれば、そこに掲載された別の論文や記事といったものに接することはない。引き出された資料は、そこにあるテーマを論理的に説明・解釈する「意味」としてだけ現われる。学術的という論理の世界は、こうした意味の世界なので、悪いということはできないが、世界に論理的意味を与える言説が、知として特権化されることが学術ということであれば、ぼくは少し納得できない。世界は信じがたく多くのものを抱えているからだ。ぼくは美術史をやっているが、そうした歴史に関係するためには、資料の時代的手触りといったものは必要であるに違いない。こんなことを考えながら、研究所に行くのである。
まあ楽しみは、そこに付設されている食堂で昼ご飯を食べることである。フランス語でカンティンヌという学食や社食、あるいは給食のことなのだが、レストランの高いパリでは格別の安さで質も悪くはない。毎日、メインが4種類用意され2、5ユーロほど。当然、前菜とデザート(ぼくは取らないが)、そして飲み物という、日本で言うフルコースの昼食となる。トータル5〜6ユーロ。半分くらいの人はワインなどを飲んでいる。機内食で出てくるあれで、だいたい1€以下。ぼくは学食を始め、給食ものが好きなので、好奇心がうずうず。それに毎日ピザがメインにあって焼いたものを出してくれるのがうれしい。ピザがおいしくないパリでは、値段を考えれば格別のピザである。こんなところで、ぼくのピザ心が満足されるとは思わなかった。そうして満腹になると、机に戻ってウインドウズの画面に向かおうという気持ちが少し萎える。そんなことで、どうしたらうまく研究体制に入れるのか、まだ試行中なのである。
短期間で来るときには、まあ一人ということもあるが、毎日のように映画館に行くのに、今回はまだ3回だけ。アパートの近くに、少し前まで「サン・ランベール」(現在はチャップリン)と言っていた名物映画館があるのに、まだ一度も行っていない。一番落ちのいい映画がかかっているので、行きたいのだが、夕食を食べてしまうと、4階から下に降りるのがおっくうになる、それだけのことなのだが。「おっくう」って標準語なのだろうか?ともかく、常連になるつもりだ。とりあえず、来週にはパスなど買って、イラン映画「別れ」とかイタリア映画「静かな生活」などを見ようかと思っている。
あまり面白くない日記風の文章になってしまった。昨日は土曜日だったこともあって、ベルヴィルという界隈のタイ・レストランで、知り合った日本の人たちと、食べ過ぎ、飲み過ぎたせいかもしれない。それとも夏が終わっていくせいか。
「緑の光線」を見た。夕日が海岸線に沈む直前に、太陽が緑色の光を放つ、その光線のことだ。珍しい気象現象らしい。エリック・ロメールの映画のタイトルとなり、映画でもその光が映しだされていた。その光線を、下ノルマンディーのクタンヴィルという小さな避暑地の海岸で目撃したのだ。シャッターを押したが、映ってなかった。ぼくが見たのは、光線というより、太陽が緑色になったという感じで、「緑の太陽」あるいは「緑の夕日」といった感覚だが、初めてなので、見終わったあとの感動は、いうまでもがな。夕日が水平線にしだいに沈み始めていき(この光景も素晴らしい)、空が朱色と青色の光に覆われ、最後に、それも一瞬だけ緑の光が、太陽が・・・。
自分の感覚で太陽が緑と感じたら、そのように描けばいいと書いたのは、明治43年の高村光太郎だった。緑色の太陽は美術における反自然主義的な主張のキーワードだったのだが、こうして実際に目撃すると、自然は人間の想像力をはるかに超えることがわかる。反自然主義よりも自然主義のがずっと大きい考え方だとわかる。こんなことを書いていると、「緑の光線」の魅力が失われる。翌日は、雲が多くて見ることはできなかった。
週末を過ごしている、この海岸地帯は、これもロメールの「海辺のポリーヌ」という名作の撮影が行われたところで、いかにもフランスらしい海岸の避暑地(こちらの思う)。加えて、美味しい食べ物。最初の日の夕食は、ここの主人が釣ってきたサバの蒸しオーヴン焼き。次の昼はムール貝とフライド・ポテト、夜は牡蠣。このあたりの名産である。そして、それぞれの食べ物にピッタリのシードル、ワイン、そしてカルヴァドス。リンゴの産地でもあるノルマンディーはグルメ地方なのだ。こんな食事の間に何年かぶりの水泳。あ〜あヴァカンス。
そのついでに、この地方でも知られた教会、クタンスという町のノートルダム聖堂を、友人でアーティストのジェーン(昔はジェニーと言っていたのだが)のお母さんが案内してくれた。彼女はプロのガイドで、知識は半端ではなかった。前にはモン・サン・ミシェルのガイドもしていたそうだ。ここは、その観光の聖地に近いところなのだ。行こうと思ったが、夏は人が多すぎるので冬に行こうということになって、近くのクタンスという町へ。
ノルマンディーの教会建築のことはまったく知らなかったけど、もともとのローマン様式(古代ローマの建築に発するが、ヨーロッパ各地でさまざまな地域性をもつ)がフランス王の征服によってゴシックへと変わっていった痕跡がはっきりとわかり、すごく面白かった。というのも、お母さんの配慮で聖堂内部に入ることができ、建物の内部を見ることができたからである。概観は華麗なゴシックだが、内部は、その前のローマンを残しているところも多かった。ローマンといっても、ノルマンディーのそれはかなり重たい感じだ。それが華麗なゴシックに変わる。そのとき北ヨーロッパは真のカトリック王国を確立することになったのではないか、そんなことを想像させる。
あと、ちょっとだけジェーンのことを書こう。彼女のことは、この4月に精華の卒業生たちの展覧会のパンフレットに少しだけ書いた。京都の室町アートギャラリーで行われた「美しき町」というグループ展だ。少し前にジェーンから送られたフランスの田舎町でのワークショプと、「美しき町」のイメージがリンクしたこともあった。 彼女は7年前、1年ほど京都にいて親しくしていた。カーンという町の美大を卒業して、アーティストを目指していた。その彼女がちょっとした障害を克服し、2年前には母親となり、再びアーティストへの強い希望を持ち活動しているのである。そんな彼女の姿は、「アートとともに生きる」ことの意味を考えさせてくれたのである。日本で一度展覧会ができたらと思う。
そんわけで、短い週末のノルマンディーは終わった。フランスのヴァカンスはあと少し。
パリに来てやっと落ち着いた。来年の3月まで住むことになるアパートに入り、地域の雰囲気もそれなりにつかめ、生活のペースもできた。長い滞在が2度目なので、すんなりいくことはありがたい。ただし、滞在許可証の手続きが残っているのだが。住むのはパリの15区。地下鉄12号線のヴォージラールという駅近く。モンパルナス駅の裏の方。地図でいうと南。中流上の地区のようだ。だから、白人が主流で、ちょっと庶民的な「おフランス」の雰囲気である。。近くにも魅力的な地区(とくに、コメルス通り)もある。その通りのカフェで、今の季節、よく晴れた日、夕方に飲むビールは最高だ。日本では夕方にビールを飲まないが、こちらではそうもいかなくなる。
借りることになったヴォージラールの日本の友人のアパートは、前回の滞在時に出会い、その後何年も親しくしていたロシア・フランスのカップルが住んでいた同じ建物だった。こんな偶然って、ないよね。ともかく、驚愕!その夫婦とは10年以上連絡することができなかったのだが(北米に行ってしまったため)、偶然の魅惑の力は二人を発見させてくれた。ネット時代ということもあるが、連絡がついた!10数年という年月は、いろいろなことが起こると、いまさがながらしんみりする。再び巡り会ったこのカップルとは終生つきあっていくだろう。2年前にフランスに戻り、リヨンに住んでいるという。ダンナの方はすっかりえらい研究者になっているようで、これもうれしかった。
今のアパートに入るまで、1週間だけ、ヴァカンスで留守になった友人のアパートにいた。こちらは、ヴォージラール界隈とはまったく違った雰囲気。アフリカ、アラブ、そしてアジアからの人が多い。お世辞にも「おフランス」と言えるところではない。民族が混在する、今のフランスの現実を映し出す界隈なのだ。こんな街にいると、ぼくもどこから来たのかわからなくなる感じがする。そのことが気分いいと思うこともある。コスモポリタン(世界人)とかノマド(流浪の民)ということを感じ、うれしくなるのだ。近代のひとつの果たせぬ夢の生き方だった。もちろん、日本の特殊性、そんなものは通用しない。ただ、ひとりの人間という感じなのだ。だから、気軽でもある。まあ、つらく厳しい現実を経験せず、わがまま放題に暮らしてきた人間が、コスモポリタンとかノマドと言ったところで、知識人の頭でっかちにすぎないし、そんなことが実際できるわけもない。でも、その界隈には、国を離れ異国でぎりぎりの生活をおくる、あるいは、世界を難民しながらやっとパリにたどり着いた人もいるだろう。そんなことを考えると、コスモポリタンなどと思い出したことが恥ずかしくもなる。
妙に話になってしまったが、こんなことをずっと考えていたわけではない。いつも考えているのは、ご飯のことである。何を食べようか。短い期間でも住むとなると、やはり家飯となる。ぼくは米を食べたいと思わないので苦労はない。ともかく、毎日サラダを食べている(もちろん肉や魚も)。何といっても、こっちはオリーヴ・オイルにあう野菜がふんだんにある。日本では値のはるアンディブ(チコリ)、アーティチョークは安いし、もちろんズッキーニ(クルジェットという)も。キノコ類も豊富だ。秋に入るとそのバリエーションはさらに増える。パリの外飯は、基本的には高いし、値段に見合っていない。もちろん、美味しいものはあるに決まっているし、美味しいが,
―といってB級グルメ派のせいかフランスで星のついたレストランに入ったのは、長く来ているのに1回しかない―コスパフォーマンスにちょっと納得がいかない。そんなこともあって、久しぶりに夫婦でスーパーやマルシェ(路上市)で買い物をしていた最初の10日間だった。
昨日パリに着いた。インチョンからの大韓航空はがらあき。あんな少ない乗客の国際便に乗ったことはない。どうしてだろう?と、ちょっと、漠然とした不安に。アテンダントたちがすごく感じがよかったし、全体に前に比べて、すごく進化していたのに。パリに日2便という問題か、それともアシアナ航空とサービスを競っているせいなのか?そんなことも親切で綺麗なアテンダントに聞きたかったが、もちろんできず、音楽を聴いていた。というのも、機内ミュージックのSeo In-Young(誰だとは識別できないのだが)の「セス」(?)というバラードが最高で、繰り返しイヤフォンで聴いていたのだった。眼の方は関空で買った松本清張の『網』。軍隊の記憶を引きずる人間たちの欲望と憎悪、そして捩じれた愛情が戦後の政治と絡まるという筋書きなのだが、途中から、一度読んだことのある小説だとわかってきた。そういえば、松本清張は短編を除いてほとんど読んでいるので、再読になるのは仕方がないか。というより、歳をとってくると再読、再視聴ということは少なくないのだ。その上、そのことを後半になって思い出すのである。まあ、パリとはまったく関係がないが、到着までの機内は、韓流ムードの中での日本戦後史の気分だったのだ。
飛行機は夜の9時にシャルル・ド・ゴール空港に着き、乗客が少ないのであっという間に荷物が出てきて入国。夏時間のせいもあるが、まだ明るい。いつも思うことだが、やっぱりパリだ。この言葉の感じを伝えるのはひどく難しいが、都市の個性という平凡な言葉を使うしかない。もちろん、パリの個性を伝えるのも難しい。ただし、気持ちのいい乾燥度については、そのまま。湿った夏の日本から来るとなおさらだ。そして、世界の天気でチェックした7月のパリよりは暑かったが、それでも快適。かけ布団を首までかけて、冷房なしで寝れるなんて、これ最高でしょう?(誰に尋ねているのか?)。
知り合いの15区のアパートに入るまで6日あるので、それまで別の友人の19区のアパートに。ここの夫婦は1週間のヴァカンスで太平洋沿岸の町に。その空きアパートに10時到着。やっと夜の暗さになったころ、眠たくなって、時差の関係か、今日の朝は6時前に起きてしまった。それではと、家内と、18世紀のルドウーの名建築、ロトンドのあるラヴィレット運河の周辺を散歩。こんなの初めて。「こんなの」というのは、朝早く家内と散歩するということだが、何か老夫婦になった感じもして、少し戸惑う気分も。ヴァカンスの季節なのに、カフェやパン屋は開いていて、そこでオリーヴ・パンとハムとグルイエール・チーズのサラダを買って朝食。これがまた「パリ!」。繰り返すと嫌みになるのがわかっていても、パリだ。ともかく、この都市で2回目の長め滞在をする。このブログもこれからは、その滞在記のようなものに。
フランスのビザをとるのは大変だ。この8月からの在外研究のために出かけるフランスでは、3ヶ月以上の滞在ということで入国にビザがいる。公的な受入れ先は4月の初めに決まっていたので、あとは受入れ先を管轄する役所(パリでは警察)の許可だけで、これですっきりと思っていたら、その書類(受入れ同意書)がなかなかこない。近年久しぶりの大焦り。7月15日までには、東京のフランス大使館にビザ申請しなくてはならず、研究所にメールを打ちまくった。そうしているうちに、やっと警察から書類が届いたとのこと。ただし、当日までに原本は間に合いそうもない。といっても、申請日ギリギリなので、15日に東京のフランス大使館まで。メールの添付で届いた同意書を見せたら、原本が届いたら送って、とあっさり。これで、無事8月1日に出発できることになった。書類のイライラ加えて、この暑さなのでぐったり。書類は15日に届いた。どうして、その同意書が遅くなってしまったのかもやっとわかった。5月初めに研究所から警察に送ったぼくの同意書が、どこかに消えてしまったらしい。フランスの役所仕事らしい。初めてパリに滞在したときの「滞在許可証」取得の大変さをあらためて思い出した。でも、この歳になってブツブツとフランスの役所仕事の悪口を書いてみても仕方ない。日本人という、あるいは教授や研究者という妙なプライドを脇にやり、世界中からフランスに来る外国国籍の一人という意識をもつよい機会だったということにしよう。こんなことを、あらためて意識したのだった。
7月の前半はフランスのビザのことばかり考えていたためかどうか、フランス人たちとの昼食会に招待された。フランスのフレデリック・ミッテラン文化大臣の入京にあわせた20人あまりのこじんまりとした昼食会。大学やフランス人のBD作家たちとの関係からマンガとBDのことで仕事をしてきた縁で、京都フランス領事館の総領事カミヤマさんが呼んでくれたのだと思う。大臣列席の会なのに、服装もラフ(クールビズの感じではない)で、ああ、こうした会合もあるのかと、妙に感心した。隣に座らされたのだが、話題の流れの関係で大臣とは少ししか話す時間はなかった。昔、テレビの映画番組の司会をやっていたときの雰囲気が残っていて何かほっとした。
何やかんやで、行く前からお・フランスになっているのである。フランスのことを長くやってきたが、その経験をストレートに語ることにどこか躊躇するところがあって、よく「おフランス」とう言い方をしてしまう。それは、日本人のフランスという国や文化の測り方のねじれに関係しているのだと思う。明治以来、文化的憧れの一等国であった一方、それだけにフランス経験をもつ日本人のフランス振りは、どのように屈折しようと、一種の高級スノビズムをまとってしまっている。こう書くぼく自身が、そうだとも思う。
外国の旅行記や滞在記で一番書かれた国はフランスだろうし、ぼくもけっこう読んできた。前回のブログに書いた横光利一の「欧州紀行」でさえ、そんな感じがある。多くのフランス体験者の仕事、年齢、目的等々の差があるとはしても、そこにはどこか高級なものを相手にしてきたという意識がにじみ出ているのがフランスの体験記である。その意識が帰国後にかもしだすのが「お・フランス」の気分だった。「お・ドイツ」や「お・アメリカ」とは絶対言わず、フランスだけに「お」をつけること。これは長いフランス文化、それだけでなくヨーロッパ受容の重要な歴史の一面だろう。ただ現在、そうした近代的「お・フランス」の歴史が大きく変化していることも間違いない。ラーメン店に列び、日本のマンガやアニメ文化のオタクになる若いフランス人たちがつくり出しているフランス文化の一面を、フランス文化として経験するいまの若い日本人には、もう「お・フランス」のねじれ感覚はないのではないか。その感覚は、懐かしくもあるが、一昔前のことにしておきたい。とすれば、これからのフランス文化受容は、どんな感じになっていくのか、8月からの滞在で見てみたいところでもある。
ともかく、ビザのことばかり考えていた7月前半だったが、そうしたら、ピザを食べたくなった。いつもピザを食べたいのだが、今回は特別な願望となったのだった。ビザとピザという、完全にウケナイ親父ギャグだが、ピザ好きゆえに、ピザへの欲望が、この暑さの中でさえ湧いてきたのである。この食べ物のことは、このブログに何度も書いているので、特別なピザを発見しないかぎり書かないようにしようと思っていたのだが、ビザがピザとつながってしまうとは!
French Libraryとしては、少しであっても本については触れておくことにしよう。いつものぞく銀閣寺道の古本屋で300円で買った滝井孝作の『俳人仲間』という本がすごく面白かった。俳句をかじっているというだけでなく、滝井孝作という作家の資質と日本文学の私的記録文の魅力が、言葉を「読ませ」、俳人たちと滝井のつくった俳句仲間の世界が生き生きとして伝わってくるのだ。そんなこともあって、6月末につくった駄句2句、恥ずかしながら、載せてしまうことにする。
*マルクスに兄などおらぬと夏布団
*蝦蛄むく手つき年代記のかたり方
有季定型でやっているのだ。横光利一がヨーロッパでは俳句ができない、といったことを書いていたが、どうなんだろうか。
*ここに書いているブログを投稿しようとした直前、フリーズ(error413)!2日たってやっと修復されたが、それまでの文章の3分の1しか保存されてなかった。というわけで、最初の部分を除いて書き直し。6月という月は、1年でいちばんハードだ。陰暦で水無月。水のない月と思ってしまうが、「水の月」なのだ。その水(梅雨)と、休日のないこと、天候がうっとうしいので身体のスイッチ調節に苦労する、そんな月である。その月も今日で終り。水無月のせいか、3週間前に初めて血尿というのを経験した。尿に薄い赤ワイン色の血が混じった。ネットで検索すると、「絶対に検査だ!」ということが書いてある。なんとなく原因は想像できたのだが、とりあえず病院へ。原因は不明から癌まで、それも内蔵から泌尿器官までと多様である。何ごとも楽観的なので心配はしなかったが、ただし、MRIやCTといった現代の医療テクノロジーによる検査そのものがちょっとした不安をおこす。ギュンギュンという音を響かせながら、身体の奥を映像として暴きだす、そのことが不安をおこすのである。比喩的に言うと「悪い箇所を見つけようとする」冷徹な機械の機械としての意思のようなものにちょっとふるえるのだ。こうした検査は、この歳になると何度も受けてきたが、いつもそんな感じになる。
MRIやCTに比べると、内視鏡での検査は機械的意思の冷徹さの程度が低い。自分の胃や腸の内部映像を画面で見ることができるからかもしれない。もちろん、自分のものとは思えないのだ。どうして自分の内部器官を自分のものと思えないのか?鏡の中の自分は、自分の映像だと信じられるのに、内側の器官は、どうして?そんなことを考える。でもMRIの断面図に比べて、内視鏡でのリアルな画像は何と人間的なことか。ぼくは検査中にいつも画面を見せてもらう。去年、久しぶりに食道・胃、そして腸の検査をしたが、胃の内壁のピンク色の綺麗さは、われながら感激した。外の皮膚は荒れているのに、内側がこんなに綺麗だとは。でも、自分の胃だと確信できない。内蔵を自己化するにはどうしたらよいのだろうか?これは深い哲学の問題となるはずだ。
さてさて、フリーズした前は何を書いていたんだろう。数日前のことなのに忘れている。記憶力減退の問題か?それとも、ブログという言葉のままに書く電子書記形式の問題か?真っ白なパソコン画面は、紙と比べるとどうやら痕跡を感じさせないようだ。6月後半の手帳を見る。そこで、思い出した。ここ1週間の暑さのことを書いたのだった。睡眠調整がうまくいかないこと、蚊にかまれること、掻くことなど、たいしたことではなかった。7月になってしまった。そんな過ぎた6月、いつも行く古本屋で横光利一の『欧州紀行』(昭和12年)を買い、ついでにネット文庫で『旅愁』も読んだ。昔から気になっていたのに、横光を読んだことがなかったのは、「新感覚派」という日本の文壇的ネーミングがうっとうしかったのかもしれない。ぜんぜん「新感覚派」ではなかった、というより、その意味合いが文章からは伝わってこなかった。でも、あまたと書かれた欧州体験談の中では少し変わっている感じは受けた。欧州という「本格的」な文化風土に悩むところは、近代日本でよくある体験ものの型なのだが、横光の妙な開き直り方とひねくれ方が面白かった。近代日本の欧州コンプレックスとその反転との弁証法と言ってしまっては身も蓋もないが、横光は、その弁証法をただただ個人で引き受けると思ってしまっているところが変わっているのだと思う。『欧州紀行』には、高浜虚子や岡本太郎も登場する。それとあのナチスのオリンピックの様子(その取材が大きな目的だった)も。憂鬱に沈み込みながら、現在にも興味を引くエピソードをちゃんと書いているのは、ジャーナリズム的感覚がしっかりしていたからかもと、現代的に考えてしまう。ひょっとしたら憂鬱を書くことも、近代のジャーナリズム的身振りなのかもと考える。相も変わらずはまっている(言い方がおかしいか?)、最近ソ・ジソプの魅力を発見した。「カインとアベル」というドラマのおかげだが、そのジソプがハン・ヒョジュと映画で共演するという。贔屓の俳優二人のラブドラマで、韓国では秋に公開らしい。日本公開は来年だろうから、帰国してから見る楽しみがある。日本より早くパリで公開されたらうれしいのだが。パリで韓国語の教室に行こうかと思っている。別の筋からの韓国というのも興味があるのだ。パリの韓国人はどんな感じなのか、そんなことにすごく興味があるのだ。