2011年3月31日木曜日

遅い桜

そろそろブログ更新を、と考えていたら大災害。その日は東京の森ビル49階にいて揺れに酔ってしまったが、刻々と流されてくる映像に比べればどうってことはない。エレベーターが動きだし、1時間30分ほど歩いてホテルまで。JR東海が運行していたので翌日、京都に戻った。静かだった。あとは、テレビばかり見ていた。ネットもチェックした。出張でソウルに行ったが、カフェに入って英字新聞を熟読していた。外国の友人からお見舞いのメールもきた。そんな風にしているうちに3月も終わる。普段は、桜のことなんかを気にするのに、この春はほとんど気にならない。今日、哲学の道の桜を始めて見たら、まだ蕾だった。今年の京都の桜は遅い。
3月は年度末だったので、書類や報告がけっこう多かった。でも、今回は、その客観的な報告書きは気持ちを落ち着かせた。不思議だ。現実味のない報告という報告、形式にそった文言や数値。その現実味のなさに、普通、あきあきしていて適当にやっているのだが、その形式のための形式は、この災禍を前にしてみると、形式としてのリアリティーがあるように感じたのだ。3月11日から溢れ出している膨大な言葉と映像。それらはもちろん、現実を伝えようとしたり、起こったことの何かを伝えようとしているのだが、リアリティーがない。リアリティーと言っているのは、物事が物事そのままに表象されていると幻想させる力の度合いのことだが、映像にのる津波は、原発は、また被災地は、そのような力をもっていないと感じてしまうのだ。情報社会と言いながら、ぼくたちは、ヴァーチャルという言葉を使いながら、実に暢気な情報社会を生きてきたものだと思う。物事を物事として伝える技法を真剣に考えてこなかったということだろう。変に安らいでしまった報告書のような、形式のための形式の技術だけを磨いてきたようにも思う。ぼくもそのひとりである。つくづく知的怠慢だと思う。明日からは4月だ。

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