2011年3月9日水曜日

携帯電話

携帯が故障してしまった。ズボンのお尻のポケットに入れていたのが失敗だったらしい(でも、これまでもしていたことなのに・・・)。朝起きて携帯を手にとると「しばらくお待ち下さい」のメッセージが間断的に点滅するだけで、ウントモスントモ。結局、データは完全消失し新しいものに取り替えることに。それからが大変。電話番号の記憶を携帯に頼っているので、身内の携帯の番号さえわからない。実はメモリーカードも入れてなかったのだ。いっときの情報孤独。長い時間ではなかったが、不思議な気分だった。ともかく、パソコンで通信したことのある人には連絡し、携帯だけの人には、知り合いに聞いてもらっているが、連絡したい人の番号とアドレスがわからない人もいる。かかってくるのを待っているだけである。そんな私的携帯問題があった数日後、例の携帯カンニング問題。言いたいことはいっぱいあるが、カンニングした受験生を悪質な犯罪者のように追い込んでいくことには違和感が強い。こんな感じをもっている人も少なくないのではないか。
携帯をもって何年になるのか忘れてしまったが、いろいろ機種は変えてきた。でも進化した携帯機能をフル活用しているわけではない。むしろ、電話とメール(大半はパソコンだが)に限定されている使い方で―といっても通話回数はきわめて少ない―、ガラパゴス化した日本携帯の恩恵はまったく受けてない。ネットもゲームも音楽もしない。というのも、ケチなせいか、携帯でネットにアクセスしてお金を払うのがいやなのだ。でも、何の不都合もない。レストランを探すのだって、レストランだから当然誰かと一緒なので、かならず検索してくれる人がいるからだ。携帯での情報取りは他人任せ。その方が楽しい。この携帯情報音痴(?)は、携帯を駆使する人にとって、「期待の地平」(携帯達人であることを理解してほしいという)を実現してくれる人になる。ゲットした情報を「すごい!」と感心すると、何故か喜んでくれるのだ。無能が喜ばれるという逆説?
携帯といえば、韓流ドラマで面白い働きをしている。携帯電話やメールが話しの展開を運ぶ役割を担っているのだ。とにかく、携帯の場面が頻繁に登場する。愛情の確認、愛の終りの電源切り、返信なしの場合の愛への不安、秘密の共有等々、携帯がドラマを運ぶのである。ナレーターである。その上、ドラマで見るかぎり、韓国の人は人の携帯に出る、あるいは見る。メールなんかだと内容を読んでしまうことも少なくない。これは日本でも、浮気の確認に使われるシーンとしてあるが、韓国の方がずっと多い気がする。ともかく、
携帯よって物語は複雑さを増し、愛情は絡み合っていく。あたかも、愛情の複雑を象徴するかのように。これは恋愛ドラマの場合。他のジャンルでも使われているのだろう。こうなると携帯は単純にコミュニケーション・ツールなどと言ってられないことになる。物語性の重要なパートを担っているのだ。携帯社会というのはこうしたことなのだろうか。
携帯について書いてみると、いろいろなことがヤマほどあることに気がつく。前任校(女子大だった)で1分間で100文字打つ学生がいると噂があり、すごいということになっていたが、ひょっとしたら今では常識なのかもしれない。とすると、親指の働きがすごく進化しているということに違いない。そうなると、他の指はどうなのだろう。パソコンをしているので指の運動機能はすごく進化しているのだろう。つまり、携帯やパソコンの発達は指という末端の身体を変えているということだ。そのうち、キーボードに適応する手と指になっていくのだろうが、どのような形か見てみたい。テクノロジーは身体を疎外するといった言説を聞くことがあるが、その逆のこともあると、携帯のことを考えていると思う。昔は鉛筆ダコというのがあったが、若い人たちは携帯ダコがあるのだろうか?
さて、今日はチャンピオンズ・リーグのアーセナルとバルサの第2レグ。現在スカパーを中断しているので、見るのは数日後。なんとかアーセナルにとは思うが・・・それからこの10日にハン・ヒョジュが「トンイ」のNHKでの宣伝のために来日するとのこと。これもチェックしなくてはならない。
去年の11月から有料で見てきた「トンイ」が今週終わる。1週間の気持ちのいいリズムをつくっていたので終わると寂しい。それからメディア芸術オープントークと大正イマジュリィの全国大会。来週はソウルにも行く。3月らしからぬ3月を過ごしているような。


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