2011年7月2日土曜日

血尿、横光利一、いつもハン・ヒョジュ


*ここに書いているブログを投稿しようとした直前、フリーズ(error413)!2日たってやっと修復されたが、それまでの文章の3分の1しか保存されてなかった。というわけで、最初の部分を除いて書き直し。
6月という月は、1年でいちばんハードだ。陰暦で水無月。水のない月と思ってしまうが、「水の月」なのだ。その水(梅雨)と、休日のないこと、天候がうっとうしいので身体のスイッチ調節に苦労する、そんな月である。その月も今日で終り。水無月のせいか、3週間前に初めて血尿というのを経験した。尿に薄い赤ワイン色の血が混じった。ネットで検索すると、「絶対に検査だ!」ということが書いてある。なんとなく原因は想像できたのだが、とりあえず病院へ。原因は不明から癌まで、それも内蔵から泌尿器官までと多様である。何ごとも楽観的なので心配はしなかったが、ただし、MRIやCTといった現代の医療テクノロジーによる検査そのものがちょっとした不安をおこす。ギュンギュンという音を響かせながら、身体の奥を映像として暴きだす、そのことが不安をおこすのである。比喩的に言うと「悪い箇所を見つけようとする」冷徹な機械の機械としての意思のようなものにちょっとふるえるのだ。こうした検査は、この歳になると何度も受けてきたが、いつもそんな感じになる。
MRIやCTに比べると、内視鏡での検査は機械的意思の冷徹さの程度が低い。自分の胃や腸の内部映像を画面で見ることができるからかもしれない。もちろん、自分のものとは思えないのだ。どうして自分の内部器官を自分のものと思えないのか?鏡の中の自分は、自分の映像だと信じられるのに、内側の器官は、どうして?そんなことを考える。でもMRIの断面図に比べて、内視鏡でのリアルな画像は何と人間的なことか。ぼくは検査中にいつも画面を見せてもらう。去年、久しぶりに食道・胃、そして腸の検査をしたが、胃の内壁のピンク色の綺麗さは、われながら感激した。外の皮膚は荒れているのに、内側がこんなに綺麗だとは。でも、自分の胃だと確信できない。内蔵を自己化するにはどうしたらよいのだろうか?これは深い哲学の問題となるはずだ。
さてさて、フリーズした前は何を書いていたんだろう。数日前のことなのに忘れている。記憶力減退の問題か?それとも、ブログという言葉のままに書く電子書記形式の問題か?真っ白なパソコン画面は、紙と比べるとどうやら痕跡を感じさせないようだ。6月後半の手帳を見る。そこで、思い出した。ここ1週間の暑さのことを書いたのだった。睡眠調整がうまくいかないこと、蚊にかまれること、掻くことなど、たいしたことではなかった。7月になってしまった。

そんな過ぎた6月、いつも行く古本屋で横光利一の『欧州紀行』(昭和12年)を買い、ついでにネット文庫で『旅愁』も読んだ。昔から気になっていたのに、横光を読んだことがなかったのは、「新感覚派」という日本の文壇的ネーミングがうっとうしかったのかもしれない。ぜんぜん「新感覚派」ではなかった、というより、その意味合いが文章からは伝わってこなかった。でも、あまたと書かれた欧州体験談の中では少し変わっている感じは受けた。欧州という「本格的」な文化風土に悩むところは、近代日本でよくある体験ものの型なのだが、横光の妙な開き直り方とひねくれ方が面白かった。近代日本の欧州コンプレックスとその反転との弁証法と言ってしまっては身も蓋もないが、横光は、その弁証法をただただ個人で引き受けると思ってしまっているところが変わっているのだと思う。『欧州紀行』には、高浜虚子や岡本太郎も登場する。それとあのナチスのオリンピックの様子(その取材が大きな目的だった)も。憂鬱に沈み込みながら、現在にも興味を引くエピソードをちゃんと書いているのは、ジャーナリズム的感覚がしっかりしていたからかもと、現代的に考えてしまう。ひょっとしたら憂鬱を書くことも、近代のジャーナリズム的身振りなのかもと考える。
相も変わらずはまっている(言い方がおかしいか?)、最近ソ・ジソプの魅力を発見した。「カインとアベル」というドラマのおかげだが、そのジソプがハン・ヒョジュと映画で共演するという。贔屓の俳優二人のラブドラマで、韓国では秋に公開らしい。日本公開は来年だろうから、帰国してから見る楽しみがある。日本より早くパリで公開されたらうれしいのだが。パリで韓国語の教室に行こうかと思っている。別の筋からの韓国というのも興味があるのだ。パリの韓国人はどんな感じなのか、そんなことにすごく興味があるのだ。

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