もう、お盆。お墓に行って先祖参り。暑いけど、夏の朝の線香の香りは気持ちがいい。すごく規則的な生活をおくっている。といっても、遅寝、遅起で、起きると身体に汗がびっしょり。昼ご飯を食べて、銀閣寺のSECOND HOUSEというケーキ屋カフェで仕事。空間がゆったりしていて、店員もやさしくて、居心地がいいのだ。つい長居をしてしまうが、仕事がはかどる。そして、夕食前に家に。少し間があって、テレビの前に。そんな生活が3週間近く。もちろん、オリンピックのテレビ観戦のせいだった。「せいだった」と人のせいにしている書き方だが、夏休みのこともあって、ついつい、見てしまうのだ。6月のユーロ(ヨーロッパ・フットボール選手権)ではしゃいでしまって、リズムが狂ったので、ロンドンはほどほどにと考えていたのに、結局、かなり見ることになってしまった。スポーツ観戦趣味の人間には、オリンピックは、すべてをまとめて、それもレベルの高いものを見れるので、ほんと楽しい。そんなわけで、あっと言う間に8月半ば。お盆になっていたのだ。
そのオリンピックについて書くこと(言いたいこと)は山ほどあるが(誰もが同じだろう)、ごく簡単に、そして、ごく私的に感動したゲーム3つ(いまのところ)だけをあげておく。3番:日本男子サッカーの3位決定戦と決勝戦。フットボールという残酷さを見せてくれたという意味で。どちらもオリンピック・ゲームの清潔イメージを少し裏切ってくれた。でも、こんなのもあっていいではないか。韓国は言うまでもなし(韓国語習っているので読めた、変にうれしかった)。ブラジルの方は、ラファエロ(マンUの)と4番(名前忘れた)とのピッチ上での口論。互いにかばい合わないスピリットだった。2番:男子陸上800メートル。マサイ族出身というケニアのルディシャ選手の走りのすごさ。長いストライド、凛々しい顔。ああ〜、アフリカの草原をああいう風に走るんだと、空想を膨らませてくれた。世界新記録だったが、そんな物差しを超えた走りだった。1番!:男子フェンシング準決勝。見慣れていないので、ああいった最後のヒトツキみたいなことがよくあるのかどうか知らないが、ともかく、最後の最後、数秒のドラマをつくった太田選手の迫力。これが意識的なものだったら、どうしよう。目の中に焼き付いてしまった。
近代オリンピックは国民国家化された世界の政治的枠組みの中での国威発揚の場と言われる。戦争の近代を裏返しにした、平和と世界協調を旨とする祭典。暴力なしで、国を意識しながらも世界が協調することは素晴らしいことだ。近代コスモポリタニズムの具現化である。だから、オリンピックは政治を排除する、しようとしている。おそらく、ナチスのベルリン・オリンピックの反省もあったのだろう。もちろん、政治排除をうたわなかったら、たいへんなことになってしまうだろう。これほど、プロパガンダとして有効な場はないからだ。話題の、3番にあげた試合の韓国の選手がその手のものと考えるかもしれないが、あれは政治的といっても日韓の政治ローカリズム。オリンピックの巨大な政治性システムがわかってない子供の内向けのパーフォマンス。
政治排除に代わって、今は商業主義である。グローバル経済に支配される。コカコーラが復活しているのは(個人的な印象だが、これはぜひ調べてみたい問題である)、オリンピックと無関係でないような気がする。オリンピックのグローバル経済化。それを国の意識というローカリズムが支える。ただし、このローカリズムを宣伝することは、経済的にも当然禁止だ。金を払わないで宣伝するなというわけだ。だから、女子レスリングの吉田選手の所属する会社ALSOKの応援団のほほえましさが印象的だった。ほんとうは、会社ののぼりや垂れ幕を掲げたいのだろうが、10人近くの応援団の面々は、「総合警備保障」と書かれた青いハッピを着ていただけなのだ(でも、けっこう目立った)。だから、ローカリズムは、日本でいえば団結力という国民的特性や、とりわけ、個人の問題、選手と支えた人たちの「人間的絆」を強調する。これは日本だけのことではないが。こうして、オリンピックは、一方でヒューマン・ドラマの大劇場ともなる。思わず、涙が出てくることもある。テレビ向きだ。放送権で成立しているオリンピックは、こうした劇場化をますます進めることになるだろう。実際の競技の劇場化(映像の取り方、インタビューのあり方、放送時間等々)も進んでいる。次のリオでは、ちょっと違ったオリンピックを見てみたくなる。あのラテンな気質丸出しの。
と、こんなことを考えながら、オリンピック観戦していたのだ。そしてお盆になり、明後日は大文字。秋だ。
来週から10日ほどパリに。いつもの図書館に行き、いつもの資料をチェックする予定にしている。昔から頭にあったテーマで原稿を書き出したのだが、そうすると調べなくてはならない項目がますます増えてくるのだ。まあ、テーマの時間的スパンが長いということもあるのだが、あるテーマを追うということはこういうことだ。完全に資料を揃えてなどと考えると、これは先がない。どこかで区切りをつけないといけないのだが、それがなかなかふんぎれない。気持ちを区切るためにパリの図書館に行くということなのかもしれない。短い期間だが、映画やイベントも見たくなるし、知り合いにも会いたいし、イブラヒモビッチやチアゴが入ったPSGの試合も見てみたいと、好奇心が増してくる。チケットが取れるかどうか。そういえば、今週末からはプレミアも始まる。なんか、スポーツイベントと暮らしているような気もする。
2012年8月14日火曜日
2012年7月26日木曜日
動物園、夏休み
6月にユーロ2012漬けになって、その間、韓流系をほとんど見なかった。こんなに長く韓流ドラマを見なかったことはなかった。そのせいか、不思議に積極的に見る気持ちが薄れてきた。ただし、ハン・ヒョジュとイ・ジソプの新作映画(「ただ君だけ」)は、もちろん見にいった。予告をYouTubeで見ていて、イメージが膨らまなかったのであまり期待はしてなかったが、やっぱりダメ。シナリオ、映像、二人の俳優の使い方も平凡。ハン・ヒョジュのよさがぜんぜん出ていない。韓国映画のパワーはダウンしているのかもしれない。この映画のこともあって、このところ韓流ドラマを積極的に見る気持ちになれないのだ。寝る前の楽しみが減っている。ただし、ハン・ヒョジュは現在二つの映画を撮っているとのこと。そろそろ、「アリバイ・ナイト」(映画自体は大したことないないのだが、彼女がすごく光っていのだった)以上の映画を見たい。
この7月は東京で唐ゼミの新作公演を見たり(トクさんがよかった)、松山での仕事のついでに、近郊にある「とべ動物園」や大正の町並みが残る内子町というところに行ったりと、久しぶりに少し遠くに出かけることになった。やっぱり、何かをすれば、何かにぶつかる。松山の場合は動物園と「象」だった。一緒に仕事をした相手の奥さんが象ファンで、有名な象の写真を撮ってきて、と頼まれたらしい。それに同行。動物園なんか、ほんとに久しぶり。何十年も行っていない。松山のとべ動物園は象とその飼育がよく知られているらしく、その象たちをお目当てに多くの人がやって来るとのこと。その動物園に、前日の仕事関係者(大人4人)で猛暑の中の動物園に行ったのだ。ぼくの頭にある昔の動物園と違って、サービスがすごく進んでいた。いい意味では生態がよく見える、ということだが、小さな施設で生態を見るって、それは見せ方がエンターテイメント化しているということだろう。動物園も、文化化という現在の消費文化世界の潮流を受けているのかと、複雑な気持ち。もう昔の動物園が持っていたいかがわしさはない。楽しげな感じ。逆に、残酷さが深まっている。
もうひとつ考えてしまったのは、動物たちの出自についてである。アフリカ象、アフリカのカバ、サイ等々、動物の檻や柵には種としての動物の出身地が書かれているのだが、その詳細を見ると、多くの動物は「日本生まれ」なのだった。帰ってから女房に、そのことを言ったら「そんなこと知らなかったの!」とバッサリ。でも、ぼくの頭の中では、アフリカ像はアフリカから連れて来られた動物だとばかり思っていた。それが、ほとんどの動物が日本の動物園で生まれた、あるいは日本の他の動物園から移された動物たちだったのだ。種ということを考えなければ、これは日本産の象である。それも、動物園という特殊な環境で生まれ育てられた動物たちが、現在の日本の動物園の動物たちなのである。この現象を何と言ったらよいのだろうか。
動物のことをあまりにも知らないので、少しウィキで調べてみたが、野生の動物は危機的のようだ。
近代西洋に誕生した(18世紀末というのが一般的)動物園は、現在世界に2000園、訪問者数は年3億5000万人とフランスのウィキに報告されている。そうなると、世界の動物園の「野生」動物の数と、アフリカ始め世界に生息する動物の数はどちらが多いのかと考えてしまう。もちろん、現在は野生の象の方が多いのだろうが、いつの日か、動物園の方が多くなってしまうこともあるのではないか。この200年で、人間は野生動物を捕獲し飼いならしてきたことは間違いないのだ。動物の過度のペット化である。野生動物も犬や猫のように人間をなぐさめるペットになる日も来るのだろうか。ただし、ペットはかならず人間に復讐するようになるのではないか。ペットという人間の心のはけ口にされた動物が怒らないわけはない。「猿の惑星」のモティーフだ。加えて、象牙のためのアフリカ象の殺戮。夏なのに、ほんと、寒くなってくる。
7月を、こんな風に過ごしていたら夏休みに入ってしまった。秋になると、しなくてはならないことが多くなる。書き始めているものもあるし、シャルダンのシンポの準備もしなくてはならない。夏休みはありがたい。
シャルダンのシンポは、9月に東京の三菱1号館美術館で行われる、日本初のシャルダン展を記念して。この18世紀フランスの画家には思い入れがある。昔、研究していたことがあるだけでなく、身の回りをモティーフとした絵が、文字通り「身の回りのこと」と思わせるような絵画的映像を創り出した、平凡の平凡ということを可視化した画家だからだ。それから、愛(め)でたくなるようなマテリアル。お気に入りのアーティストなのだ。何年も前から、いわゆる「美術」ということがめんどくさくなってはいるが、シャルダンは別。もちろん、他に何人もいるのだが。そうした画家も、実は、このところあまり見にいかない。去年も結局ルーヴルに行かなかった。美術史の専門家ということですぐに入場できるという特権もいやだが、美術が文化的になっていることも、ちょっとなのだ。上でも触れた消費社会における物事の「文化化」(観光化ともつながる)に馴染めないのかもしれない。差異を消そうとするシステムに違和感があるのだ。動物園もそうだった。ルーヴルのシャルダンも実はそうした面がある。ここには修復という問題も関わっている。これについては、ここで一度書くことにしよう。
この7月は東京で唐ゼミの新作公演を見たり(トクさんがよかった)、松山での仕事のついでに、近郊にある「とべ動物園」や大正の町並みが残る内子町というところに行ったりと、久しぶりに少し遠くに出かけることになった。やっぱり、何かをすれば、何かにぶつかる。松山の場合は動物園と「象」だった。一緒に仕事をした相手の奥さんが象ファンで、有名な象の写真を撮ってきて、と頼まれたらしい。それに同行。動物園なんか、ほんとに久しぶり。何十年も行っていない。松山のとべ動物園は象とその飼育がよく知られているらしく、その象たちをお目当てに多くの人がやって来るとのこと。その動物園に、前日の仕事関係者(大人4人)で猛暑の中の動物園に行ったのだ。ぼくの頭にある昔の動物園と違って、サービスがすごく進んでいた。いい意味では生態がよく見える、ということだが、小さな施設で生態を見るって、それは見せ方がエンターテイメント化しているということだろう。動物園も、文化化という現在の消費文化世界の潮流を受けているのかと、複雑な気持ち。もう昔の動物園が持っていたいかがわしさはない。楽しげな感じ。逆に、残酷さが深まっている。
もうひとつ考えてしまったのは、動物たちの出自についてである。アフリカ象、アフリカのカバ、サイ等々、動物の檻や柵には種としての動物の出身地が書かれているのだが、その詳細を見ると、多くの動物は「日本生まれ」なのだった。帰ってから女房に、そのことを言ったら「そんなこと知らなかったの!」とバッサリ。でも、ぼくの頭の中では、アフリカ像はアフリカから連れて来られた動物だとばかり思っていた。それが、ほとんどの動物が日本の動物園で生まれた、あるいは日本の他の動物園から移された動物たちだったのだ。種ということを考えなければ、これは日本産の象である。それも、動物園という特殊な環境で生まれ育てられた動物たちが、現在の日本の動物園の動物たちなのである。この現象を何と言ったらよいのだろうか。
動物のことをあまりにも知らないので、少しウィキで調べてみたが、野生の動物は危機的のようだ。
近代西洋に誕生した(18世紀末というのが一般的)動物園は、現在世界に2000園、訪問者数は年3億5000万人とフランスのウィキに報告されている。そうなると、世界の動物園の「野生」動物の数と、アフリカ始め世界に生息する動物の数はどちらが多いのかと考えてしまう。もちろん、現在は野生の象の方が多いのだろうが、いつの日か、動物園の方が多くなってしまうこともあるのではないか。この200年で、人間は野生動物を捕獲し飼いならしてきたことは間違いないのだ。動物の過度のペット化である。野生動物も犬や猫のように人間をなぐさめるペットになる日も来るのだろうか。ただし、ペットはかならず人間に復讐するようになるのではないか。ペットという人間の心のはけ口にされた動物が怒らないわけはない。「猿の惑星」のモティーフだ。加えて、象牙のためのアフリカ象の殺戮。夏なのに、ほんと、寒くなってくる。
7月を、こんな風に過ごしていたら夏休みに入ってしまった。秋になると、しなくてはならないことが多くなる。書き始めているものもあるし、シャルダンのシンポの準備もしなくてはならない。夏休みはありがたい。
シャルダンのシンポは、9月に東京の三菱1号館美術館で行われる、日本初のシャルダン展を記念して。この18世紀フランスの画家には思い入れがある。昔、研究していたことがあるだけでなく、身の回りをモティーフとした絵が、文字通り「身の回りのこと」と思わせるような絵画的映像を創り出した、平凡の平凡ということを可視化した画家だからだ。それから、愛(め)でたくなるようなマテリアル。お気に入りのアーティストなのだ。何年も前から、いわゆる「美術」ということがめんどくさくなってはいるが、シャルダンは別。もちろん、他に何人もいるのだが。そうした画家も、実は、このところあまり見にいかない。去年も結局ルーヴルに行かなかった。美術史の専門家ということですぐに入場できるという特権もいやだが、美術が文化的になっていることも、ちょっとなのだ。上でも触れた消費社会における物事の「文化化」(観光化ともつながる)に馴染めないのかもしれない。差異を消そうとするシステムに違和感があるのだ。動物園もそうだった。ルーヴルのシャルダンも実はそうした面がある。ここには修復という問題も関わっている。これについては、ここで一度書くことにしよう。
2012年7月7日土曜日
私的アーカイブ2ー叔母と鴨居羊子さん
ユーロ2012が終わった。面白くて興奮したが、この歳になると、さすがヨーロッパの時間差を暮らすのは疲れる。ドリンク「眠眠打破」をよく飲んだ。変なドリンクだ。終わると、どっぷりな梅雨。東アジア的湿気が身体にまとわりついて(発見されたヒッグス粒子みたいだが、こんな比喩は許されるのだろうか?)、4月以降のおフランスな気分も解けていく。
このプラウザがBloggerでサポートされなくなったと、表示されている。そのうちぼくのブログは自然消滅していくのか?湿気よりも粘っこい感じで、ネット世界が透明でないことに不思議な気持ちが・・・。ともかく、更新しておかなくてはと、義務感のようなものがあるが、なかなかアイデアが湧いてこない。そこで前々回の祖母の話がよかったという人がいたので、似たような話をまた再録してみる。再録というのは、前に書いた文章をここに再録することだが(少し直して)、今度は叔母の話。祖母の次女、ぼくの母親の妹だ。以前、鴨居羊子さんの展覧会のカタログに書いたものである。ブログは個人的な備忘録だが、もうひとつアーカイブだとも思うようになってきたこともある。これまでの文章を載せておくのも悪くはないなと感じ始めているのだ。
叔母と鴨居羊子さん
昭和52年の7月31日だったそうだ。ぼくの母の妹、清水左都子が亡くなったのは。少しあとのことかと思っていたが、もうひとりの叔母に聞いたら、その年だったという。そういえば、ぼくが大学院生の頃だった。その日、大阪の千里山の自宅で葬式が行われた。ひどく暑い日だった。そのことと、もうひとつのことを鮮明に覚えている。棺の前でうなだれ座り続けている女性の姿だ。その人が鴨居羊子さんだった。叔母からもよく名前を聞いていたが、見るのは始めてだった。もちろん、挨拶はできなかった。
叔母佐都子と鴨居羊子さんは大阪の女子専門学校(女専)での同級生だった。日本が緊迫した戦時になっていく時代である。この二人ともうひとりの仲良しがいて、あわせて女専の三奇人と言われていた、と祖母から聞いた。そのハイライトが、水のない冬のプールで裸に近い格好で踊った事件だったそうだが、ともかく、戦時中なのに、けっこうトンデいたのだ。鴨居さんのエッセイを読むと、少女の頃から少し変わっていたようだが、叔母も女学校のころから札付きだったという。そんな二人が女専で出会ったのだから、気が合うことになったのだろうと想像する。卒業後の二人の交流についてほとんど知らない。「ようこさんが」とか「かもいさんは」と話す叔母の声が耳の奥にいまでも響いているだけである。
戦後、鴨居さんは大阪で夕刊紙の記者となり、それから読売へ、そしてデザイナーとして自立していったが、叔母の方も出版の仕事にはいっていった。京都にあった全国書房という出版社に勤め、そこで組合をやって首切りにあい、続いて大阪の繊維の業界紙に勤めた。そこもあわなかったらしく、しばらくして、昭和30年代の中頃のことだろうか、スポーツウエア社という、メンズファッションの業界雑誌を発行する会社をたちあげた。メンズという言葉が定着し始める時代である。ただし、すごく苦労していたことを覚えている。独身の女性が一人で会社を仕切っていくは大変だったのだろう。ぼくの大学生のころに一度倒産したが、もう一度メンズファションの業界雑誌を立ち上げた。その数年後、最初に書いた、7月31日の光景となるのだ。
独身でパワフルに仕事をしていた叔母だが、会社が大変になるまでは短歌も熱心に詠んでいた。ぼくの祖母で、叔母の母親の影響である。ここらは鴨居さんとその父親との関係に似ていると、この文章を書いていて感じている。その祖母清水千代はアララギに影響をうけた歌人で、昭和11年に「どうだん」という歌誌を創刊し、同名の結社もつくった。ちなみに、その初期の表紙絵は祖母の奈良女高師の後輩の小倉遊亀さんの手になるものだった(前々回のブログに書いたこと)。その後、朝倉摂さんにも描いてもらったりと、小結社の歌誌にすれば豪華な表紙だった。
その誌上で、女専時代から短歌を詠み始めた叔母は、戦後、前衛短歌へと突き進んでいく。いま思えば、叔母は戦後の左翼文化の気分に包まれていたのである。そんな人に従来の伝統短歌があわなかったのは当然かもしれない。寺山修司が歌人として登場してきた頃でもあり、前衛が美しく生きていた時代である。ただ、叔母の前衛性は、単に観念的なものではなかったはずだ。一人で会社を経営していく女性にとって、文化的前衛はおそらくリアルな生きる血となっていたのだと思う。
鴨居さんは寡黙な人だったというが、叔母は割合と話し好きで、酒が入ると情熱的に文学論などを話す人だった。短歌だけでなく、映画、文学、音楽にもかなり詳しく、何も知らない田舎の高校生にいろいろなことを聞かせてくれた。そうした話しは、ぼくの深いところで何かを動かしてきたとも思う。
ぼくの頭のなかでは、叔母と鴨居さんとが重なる部分がある。ひとりは著名な下着デザイナー、もうひとりは無名の編集者だが、大正末期に生まれた女性のアバンギャルドな生き方にイメージが重なるのである。それは単に個人像のことだけでなく、戦後の働く女性のひとつの風景としても、なのだ。叔母はいつも前を向いて、何かをつくりたいと思っていた女性である。戦後の日本の風土は、そうした気持ちを大勢の女性たちに与えたのではないか。でも、それを実現できる人はきわめて少なかっただろうとも思う。鴨居さんの展覧会の背後には、そうした女性の戦後文化風景が広がっているはずなのだ。叔母に関して言えば、結局、自分の望みを十全にかなえられず亡くなってしまったように思うが、でも、それはそれだ。棺の前にうなだれていた鴨居さんも、そんな風に思っていたのではないか。最後に、ぼくの好きな叔母の歌をしるしておきたい。昭和34年のものである。
透きとほる鋼鉄にならむ雪よりも優しきものを葬らむときに
このプラウザがBloggerでサポートされなくなったと、表示されている。そのうちぼくのブログは自然消滅していくのか?湿気よりも粘っこい感じで、ネット世界が透明でないことに不思議な気持ちが・・・。ともかく、更新しておかなくてはと、義務感のようなものがあるが、なかなかアイデアが湧いてこない。そこで前々回の祖母の話がよかったという人がいたので、似たような話をまた再録してみる。再録というのは、前に書いた文章をここに再録することだが(少し直して)、今度は叔母の話。祖母の次女、ぼくの母親の妹だ。以前、鴨居羊子さんの展覧会のカタログに書いたものである。ブログは個人的な備忘録だが、もうひとつアーカイブだとも思うようになってきたこともある。これまでの文章を載せておくのも悪くはないなと感じ始めているのだ。
叔母と鴨居羊子さん
昭和52年の7月31日だったそうだ。ぼくの母の妹、清水左都子が亡くなったのは。少しあとのことかと思っていたが、もうひとりの叔母に聞いたら、その年だったという。そういえば、ぼくが大学院生の頃だった。その日、大阪の千里山の自宅で葬式が行われた。ひどく暑い日だった。そのことと、もうひとつのことを鮮明に覚えている。棺の前でうなだれ座り続けている女性の姿だ。その人が鴨居羊子さんだった。叔母からもよく名前を聞いていたが、見るのは始めてだった。もちろん、挨拶はできなかった。
叔母佐都子と鴨居羊子さんは大阪の女子専門学校(女専)での同級生だった。日本が緊迫した戦時になっていく時代である。この二人ともうひとりの仲良しがいて、あわせて女専の三奇人と言われていた、と祖母から聞いた。そのハイライトが、水のない冬のプールで裸に近い格好で踊った事件だったそうだが、ともかく、戦時中なのに、けっこうトンデいたのだ。鴨居さんのエッセイを読むと、少女の頃から少し変わっていたようだが、叔母も女学校のころから札付きだったという。そんな二人が女専で出会ったのだから、気が合うことになったのだろうと想像する。卒業後の二人の交流についてほとんど知らない。「ようこさんが」とか「かもいさんは」と話す叔母の声が耳の奥にいまでも響いているだけである。
戦後、鴨居さんは大阪で夕刊紙の記者となり、それから読売へ、そしてデザイナーとして自立していったが、叔母の方も出版の仕事にはいっていった。京都にあった全国書房という出版社に勤め、そこで組合をやって首切りにあい、続いて大阪の繊維の業界紙に勤めた。そこもあわなかったらしく、しばらくして、昭和30年代の中頃のことだろうか、スポーツウエア社という、メンズファッションの業界雑誌を発行する会社をたちあげた。メンズという言葉が定着し始める時代である。ただし、すごく苦労していたことを覚えている。独身の女性が一人で会社を仕切っていくは大変だったのだろう。ぼくの大学生のころに一度倒産したが、もう一度メンズファションの業界雑誌を立ち上げた。その数年後、最初に書いた、7月31日の光景となるのだ。
独身でパワフルに仕事をしていた叔母だが、会社が大変になるまでは短歌も熱心に詠んでいた。ぼくの祖母で、叔母の母親の影響である。ここらは鴨居さんとその父親との関係に似ていると、この文章を書いていて感じている。その祖母清水千代はアララギに影響をうけた歌人で、昭和11年に「どうだん」という歌誌を創刊し、同名の結社もつくった。ちなみに、その初期の表紙絵は祖母の奈良女高師の後輩の小倉遊亀さんの手になるものだった(前々回のブログに書いたこと)。その後、朝倉摂さんにも描いてもらったりと、小結社の歌誌にすれば豪華な表紙だった。
その誌上で、女専時代から短歌を詠み始めた叔母は、戦後、前衛短歌へと突き進んでいく。いま思えば、叔母は戦後の左翼文化の気分に包まれていたのである。そんな人に従来の伝統短歌があわなかったのは当然かもしれない。寺山修司が歌人として登場してきた頃でもあり、前衛が美しく生きていた時代である。ただ、叔母の前衛性は、単に観念的なものではなかったはずだ。一人で会社を経営していく女性にとって、文化的前衛はおそらくリアルな生きる血となっていたのだと思う。
鴨居さんは寡黙な人だったというが、叔母は割合と話し好きで、酒が入ると情熱的に文学論などを話す人だった。短歌だけでなく、映画、文学、音楽にもかなり詳しく、何も知らない田舎の高校生にいろいろなことを聞かせてくれた。そうした話しは、ぼくの深いところで何かを動かしてきたとも思う。
ぼくの頭のなかでは、叔母と鴨居さんとが重なる部分がある。ひとりは著名な下着デザイナー、もうひとりは無名の編集者だが、大正末期に生まれた女性のアバンギャルドな生き方にイメージが重なるのである。それは単に個人像のことだけでなく、戦後の働く女性のひとつの風景としても、なのだ。叔母はいつも前を向いて、何かをつくりたいと思っていた女性である。戦後の日本の風土は、そうした気持ちを大勢の女性たちに与えたのではないか。でも、それを実現できる人はきわめて少なかっただろうとも思う。鴨居さんの展覧会の背後には、そうした女性の戦後文化風景が広がっているはずなのだ。叔母に関して言えば、結局、自分の望みを十全にかなえられず亡くなってしまったように思うが、でも、それはそれだ。棺の前にうなだれていた鴨居さんも、そんな風に思っていたのではないか。最後に、ぼくの好きな叔母の歌をしるしておきたい。昭和34年のものである。
透きとほる鋼鉄にならむ雪よりも優しきものを葬らむときに
2012年6月23日土曜日
描写とレジメーユーロ1012を見ながら
目をつぶっていたら6月が始まっていた。<中旬も過ぎてしまった。書き始めたのが2週間以上も前なのだ。この時差は文章の季節感に違和感を与えるかもしれないが、始めから書き直すのは疲れる。そんなわけで、今回は書きついできたブログである。ご苦労さん?誰に。途中で今日、明日に書いていることを赤字で挟んでおこう。文章の時間制をリアルにしたいと思ってのことだが、おそらく、複雑になって読みにくくなるだろうとも思うが。ひとつの実験?>
家の近くの哲学の道の蛍も増えてきた<終息し始めている>。先週からユーロ2012が始まった。<決勝最終ラウンドまで進んだ>。WOWOWにも加入し、万全の体制で生中継をできるだけ見ている。ヨーロッパ時間的生活は大変だが、これは避け難い。W杯以上の面白さ!ただし、当然授業はするし、自分の勉強もしなくてはいけない。大変なのだ。大変という漢字では、大変さの楽しさはあまり伝わらない(伝える方法がないものか)。加えて、ネットでのニュースも追うので時間が必要となる。ブックマークには、フランス、イギリス、イタリアの3つの新聞とネット系のサッカー情報サイトが入っていて、大きな大会ではチェックしている。<このところギリシャとフランスの選挙も追ってしまったので、これも大変だった。左翼がどうなるのかに興味があるのだ。日本では左翼も右翼も死んでいて、その言葉さえも死語になりつつあるが。そのこと自体はいいことだと思うのだが、でも、芸能界的やわなマーケッテイング社会になっていて、やっぱりこの選択はないだろうと思う。つまらないのだ。いっそ、マーケッティング社会そのものになればと思うのだが。>さて、ネットのニュースのことだがを読むのが大変なのだ。情報量の多さということだけではない。ヨーロッパの記事は日本とは違って量が多いからだ。これはサッカーに関してだけでなく、あらゆる分野に共通している。
デリダという、一部では有名なフランスの哲学者が、どこかで「日本はレジメの国だ」ということを書いていたと思う。さすが!といってもデリダはあまり好きではないが(観念論的なところが)。
そのデリダが言うように、日本の記事は短かくて読みやすい。ヨーロッパ(フランスがベースになっている)と日本の大きな違いは、物事に対して言葉をどのように発していくかのスタイルの違いでもある。文化というより文明的な差異だろうと思っている。
たとえば、サッカーの場合、試合翌日のスポーツ欄には、当然試合のことが書かれているのだが、日本のような、写真と簡単な試合の経過報告、簡単な戦術分析ではないのだ。試合の様子が詳しく細かく書かれるのが通例だ。といっても、試合だけの戦略分析というだけでなく、ピッチや選手の様子まで含めた、言ってみれば、試合のすべてが、言葉で記述・説明されるのだ。少し大げさだとはしても、日本と比べた場合、そんな風に感じる。ネットにも、試合速報というのが必ずあって、そこでは、映像ではなく(権利問題で放映できないので)言葉で1分ごとにピッチ上の様子が記述されていく。だから、必然、速報は長くなる。読むのに時間がかかる。もちろん、言葉の問題があるのだが、フランス語を日本語と同じように操ることができたとしても、新聞を読むのに日本より2〜3倍はかかるだろう。語学がぼくのように半分以下の能力だと、サッカーの記事だけですごく時間がかかってしまう。さすが、プルーストの国だ。
どうして、こんなことになっているのか。それは文化といったような曖昧なものの違いではなく、というより、文化だとすれば、それを支えている言葉の問題なのだと思っている。おそらく、ここを考えていないと、西洋と日本、西洋と東洋といった図式は、たいして意味のないものになるだろう。言葉の、あるいは世界と言葉との関係への態度の問題なのだ。Facebookで「いいね!」と書く、Twitterでつぶやくといったスタイルが、西洋でも爆発的に広がってきた今、記述スタイルは単純化していくのかもしれないが、でも、現実を言葉で表していこうという西洋のスタイルは、まだまだ大きく変わらない感じがする。ユーロ2012の話が大げさになってきた。でも、続けよう。
つまり、西洋には「描写」という記述の伝統があるのだ。現実のある場面を、写真のように言葉で表してしまうのが「描写」という記述の手法である。専門的に言うと、古代ギリシャでの「エクフラシス」という言葉の手法の伝統を引くものだが、この「描写」が19世紀の自然主義の時代に入って、ますます精密化したのである。いわば、「言葉で遠近法絵画を描く」。そうしたイメージだろうか。写真では時間はかからないがーしかし、写真に映し出されたものを、写真のように見るためにはすごく時間がかかるのだが、写真は「一瞥の」映像と考えられているー、言葉は時間がかかる。しかし、西洋では、この時間がかかることを今でもやっている。これはどういったことなのだろうか。説明するためには、覚悟を決めなくてはならないので、ここではやめておくが、基本的には私が世界とどのように取り結ぼうとするのかの態度の問題だろうと思う。
ところが、日本には、この「描写」の意識がきわめて薄い。デリダの言うようにレジメの国である。日本の曖昧さのひとつは、ここにも由来しているだろう。言葉に信頼を置いていないためか?普通、そんな風に感じる。小さな社会から政治・経済まで、言葉は「本当のこと」ではなく、何かの暗示にすぎない。「こうした理由で反対です」と言ったところで、それは文字通りのものではない。そんなことは身の回りにもうんざりするぐらいある。でも、それは言葉を信頼していないためなのだろうか?ぼくには、その逆だと思える。実は、けっこう言葉を信じているはずなのだ。ただ、その信じ方が、言葉そのものの意味に対してではなくーたとえば、リンゴといったらリンゴそのものだけではなく、リンゴと私の歴史や記憶といったものも含めたリンゴという言葉といったらよいかー、そうした言葉には信頼を置いているはずなのだ。
長い間、和歌が思想を決定してきた国である。そして江戸時代からは、俳句も出てきた。そうした短い、とりわけ俳句のようなイメージ性の強い言葉による詩によって、現実が捉えられてきたのだ。それは日常にも深く根ざしているだろう。17文字で世界を理解する(識る)なんて、「描写」をベースとする西洋において、考えることすらできなかったのではないか。だから、ある言葉、文章、話、何でももいい、それらを理解するためには、文字通りの言語的意味というより、感情や個人的な事柄等々、言葉に凝縮された発話者の歴史を「感じる」必要があるのだ。そして、その「感じる」ためには長々とした描写はいらない。こうした意味での言葉を日本人は信じているのではないか?
と、こんなことを、ユーロ2012を見ている間、そして呼んでいる間、考えたのである。この言葉とイメージのことは、長い間、真面目に考えたいと思ってきたことでもある。しかし、なななか進まない。哲学をしっかりやってこなかったためか?あるいは、ぼくの思考法がやはり「レジメ」のためか。ただし、「レジメ」は、感情を含むだけ、疲れる。まあ、そのことを気にすればの話だが。
<ついに、決勝ラウンド>。ヨーロッパ時間での生活も少し馴れてきた。試合が終わると朝。テレビの画面が映し出すポーランドやウクライナは夜。どちらも綺麗だ。向こうではパブかなんかでビールをぐいぐいやりながら、各国のサッカーファンが楽しくしていると思うと、一度、ユーロに行かなくてはと思う。まだ、一度も行ったことはない。6月は教師にとって休めない季節なのだ。そんなわけで、ポルトガルの優勝を願って、7月1日まで二つの時間を過ごすことにしよう。
家の近くの哲学の道の蛍も増えてきた<終息し始めている>。先週からユーロ2012が始まった。<決勝最終ラウンドまで進んだ>。WOWOWにも加入し、万全の体制で生中継をできるだけ見ている。ヨーロッパ時間的生活は大変だが、これは避け難い。W杯以上の面白さ!ただし、当然授業はするし、自分の勉強もしなくてはいけない。大変なのだ。大変という漢字では、大変さの楽しさはあまり伝わらない(伝える方法がないものか)。加えて、ネットでのニュースも追うので時間が必要となる。ブックマークには、フランス、イギリス、イタリアの3つの新聞とネット系のサッカー情報サイトが入っていて、大きな大会ではチェックしている。<このところギリシャとフランスの選挙も追ってしまったので、これも大変だった。左翼がどうなるのかに興味があるのだ。日本では左翼も右翼も死んでいて、その言葉さえも死語になりつつあるが。そのこと自体はいいことだと思うのだが、でも、芸能界的やわなマーケッテイング社会になっていて、やっぱりこの選択はないだろうと思う。つまらないのだ。いっそ、マーケッティング社会そのものになればと思うのだが。>さて、ネットのニュースのことだがを読むのが大変なのだ。情報量の多さということだけではない。ヨーロッパの記事は日本とは違って量が多いからだ。これはサッカーに関してだけでなく、あらゆる分野に共通している。
デリダという、一部では有名なフランスの哲学者が、どこかで「日本はレジメの国だ」ということを書いていたと思う。さすが!といってもデリダはあまり好きではないが(観念論的なところが)。
そのデリダが言うように、日本の記事は短かくて読みやすい。ヨーロッパ(フランスがベースになっている)と日本の大きな違いは、物事に対して言葉をどのように発していくかのスタイルの違いでもある。文化というより文明的な差異だろうと思っている。
たとえば、サッカーの場合、試合翌日のスポーツ欄には、当然試合のことが書かれているのだが、日本のような、写真と簡単な試合の経過報告、簡単な戦術分析ではないのだ。試合の様子が詳しく細かく書かれるのが通例だ。といっても、試合だけの戦略分析というだけでなく、ピッチや選手の様子まで含めた、言ってみれば、試合のすべてが、言葉で記述・説明されるのだ。少し大げさだとはしても、日本と比べた場合、そんな風に感じる。ネットにも、試合速報というのが必ずあって、そこでは、映像ではなく(権利問題で放映できないので)言葉で1分ごとにピッチ上の様子が記述されていく。だから、必然、速報は長くなる。読むのに時間がかかる。もちろん、言葉の問題があるのだが、フランス語を日本語と同じように操ることができたとしても、新聞を読むのに日本より2〜3倍はかかるだろう。語学がぼくのように半分以下の能力だと、サッカーの記事だけですごく時間がかかってしまう。さすが、プルーストの国だ。
どうして、こんなことになっているのか。それは文化といったような曖昧なものの違いではなく、というより、文化だとすれば、それを支えている言葉の問題なのだと思っている。おそらく、ここを考えていないと、西洋と日本、西洋と東洋といった図式は、たいして意味のないものになるだろう。言葉の、あるいは世界と言葉との関係への態度の問題なのだ。Facebookで「いいね!」と書く、Twitterでつぶやくといったスタイルが、西洋でも爆発的に広がってきた今、記述スタイルは単純化していくのかもしれないが、でも、現実を言葉で表していこうという西洋のスタイルは、まだまだ大きく変わらない感じがする。ユーロ2012の話が大げさになってきた。でも、続けよう。
つまり、西洋には「描写」という記述の伝統があるのだ。現実のある場面を、写真のように言葉で表してしまうのが「描写」という記述の手法である。専門的に言うと、古代ギリシャでの「エクフラシス」という言葉の手法の伝統を引くものだが、この「描写」が19世紀の自然主義の時代に入って、ますます精密化したのである。いわば、「言葉で遠近法絵画を描く」。そうしたイメージだろうか。写真では時間はかからないがーしかし、写真に映し出されたものを、写真のように見るためにはすごく時間がかかるのだが、写真は「一瞥の」映像と考えられているー、言葉は時間がかかる。しかし、西洋では、この時間がかかることを今でもやっている。これはどういったことなのだろうか。説明するためには、覚悟を決めなくてはならないので、ここではやめておくが、基本的には私が世界とどのように取り結ぼうとするのかの態度の問題だろうと思う。
ところが、日本には、この「描写」の意識がきわめて薄い。デリダの言うようにレジメの国である。日本の曖昧さのひとつは、ここにも由来しているだろう。言葉に信頼を置いていないためか?普通、そんな風に感じる。小さな社会から政治・経済まで、言葉は「本当のこと」ではなく、何かの暗示にすぎない。「こうした理由で反対です」と言ったところで、それは文字通りのものではない。そんなことは身の回りにもうんざりするぐらいある。でも、それは言葉を信頼していないためなのだろうか?ぼくには、その逆だと思える。実は、けっこう言葉を信じているはずなのだ。ただ、その信じ方が、言葉そのものの意味に対してではなくーたとえば、リンゴといったらリンゴそのものだけではなく、リンゴと私の歴史や記憶といったものも含めたリンゴという言葉といったらよいかー、そうした言葉には信頼を置いているはずなのだ。
長い間、和歌が思想を決定してきた国である。そして江戸時代からは、俳句も出てきた。そうした短い、とりわけ俳句のようなイメージ性の強い言葉による詩によって、現実が捉えられてきたのだ。それは日常にも深く根ざしているだろう。17文字で世界を理解する(識る)なんて、「描写」をベースとする西洋において、考えることすらできなかったのではないか。だから、ある言葉、文章、話、何でももいい、それらを理解するためには、文字通りの言語的意味というより、感情や個人的な事柄等々、言葉に凝縮された発話者の歴史を「感じる」必要があるのだ。そして、その「感じる」ためには長々とした描写はいらない。こうした意味での言葉を日本人は信じているのではないか?
と、こんなことを、ユーロ2012を見ている間、そして呼んでいる間、考えたのである。この言葉とイメージのことは、長い間、真面目に考えたいと思ってきたことでもある。しかし、なななか進まない。哲学をしっかりやってこなかったためか?あるいは、ぼくの思考法がやはり「レジメ」のためか。ただし、「レジメ」は、感情を含むだけ、疲れる。まあ、そのことを気にすればの話だが。
<ついに、決勝ラウンド>。ヨーロッパ時間での生活も少し馴れてきた。試合が終わると朝。テレビの画面が映し出すポーランドやウクライナは夜。どちらも綺麗だ。向こうではパブかなんかでビールをぐいぐいやりながら、各国のサッカーファンが楽しくしていると思うと、一度、ユーロに行かなくてはと思う。まだ、一度も行ったことはない。6月は教師にとって休めない季節なのだ。そんなわけで、ポルトガルの優勝を願って、7月1日まで二つの時間を過ごすことにしよう。
2012年5月21日月曜日
祖母と小倉遊亀さんのこと
1ヶ月に2回更新と決めたのに、この4月から、文章を書く気力が薄く、何度も書いてみたが、面白くなく削除ばかりした。そんな折り、ふと亡くなった祖母のことを思い出した。10年ぶりの中学のクラス会があり、昔を思い出す想像力に火がついたためか、それとも、これも1年ぶりに弟夫妻と父と母の墓参りにいったためか。はっきりしないが、祖母のことを強く思い出したのだ。それでブログに書いておこうと思ったが、そういえば、ずいぶん昔、小さな冊子に書いた祖母についての文章があることを思い出して、ちょっとだけ手直しをして、再録風にペーストすることにした。
これもずいぶん昔のことになるが、同僚だった山田俊幸さんが関西のサンケイ新聞夕刊に画家・版画家の装丁本についての連載をしていたことがある。そのとき祖母の歌集の装丁を日本画家の小倉遊亀さんが行った話をした。そうしたら、山田さんが、その歌集を連載で取り上げてくれた。すごく嬉しかったことを思い出す。その記事を見たとき亡くなった祖母がまだ生きているような気持ちになり、また、昔のお弟子さんに話すとずいぶん喜んでもくれたこともあった。個人的なことで恐縮だが、ぼくは祖母にずいぶん影響を受けて育ったのだ。
祖母は清水千代といい、明治二十六年に四国の丸亀に生まれ昭和六十一年に大阪で亡くなった、関西では少しは知られた女流歌人だった。歌をこころざしたのは奈良女高師(奈良女子大の前身)のころだそうだが、アララギの古泉千樫や島木赤彦に傾倒したものの特別な先生にはつかず、独学で自分の道を開いていった人だった。昭和十一年に結社「どうだん」を起こし、同名の同人誌に亡くなるまで情熱を傾けていた。歌づくりの姿勢は、見えたこと、あるいは見えることに忠実な、いい意味でも悪い意味でも日本近代の「写実」で、それを律儀に実践した人だった。
その祖母の女高師時代の二年下に小倉遊亀(当時は溝上)がいて、祖母をずいぶん慕っていたと伝え聞いている。小倉が祖母と一緒に歌を詠んでいたことは歌集『白木蓮』のあとがきに書かれているが、歌に熱を入れることになったのはおそらく女高師での祖母との出会いによってではなかったかと想像したりする。こんな文章を書くことになるのだったら、いろんなことを聞いておけばよかったと後悔するが、ともかく、小倉の手になる祖母の歌集の装丁からも小倉遊亀と祖母清水千代の友情のかたちが伝わってくる感じがする。祖母は小倉のことを「ゆきさん」と言っていたが、名前を口にするときのやさしい物言いからも二人の関係が想像できるのだった。
その「ゆきさん」は押しも押されぬ日本画の大家となり、祖母より15年以上長く生きて人生をまっとうした。ぼくは画家小倉遊亀の熱心なファンというのではないが、その絵を見るといつもそこにいくばくかの祖母を見てしまう。小倉の絵のもつハイカラさに祖母の生活スタイルや短歌のモティーフを重ねてしまうのだ。
たとえば、入浴後の三人の女性の様態を描いた「浴女」(昭和十四年作、東京国立近代美術館)のもつ日本的なモダン感覚。それは洋画からの影響といったレベルのことだけでなく、明治から大正時代に高等教育を受けた女性たちのライフスタイルにも関係することだと思う。彼女たちは西洋をひとつの触媒として伝統と現実を新しく解釈しようとしていたはずで、その意志は生のさまざまな局面に乱反射しているだろう。ぼくたちの二つ上の世代の女性たちの創造の新鮮さは、そんなところからきているのではないか。
そういえば祖母はいつも同じメニューの朝食を自分でつくり、それをかたくなに守っていた。雪印のバターを薄くぬったトースト、乱切りにした茹でじゃがいもをあっさりとマヨネーズであえたポテトサラダ、そしてリプトンの青缶の紅茶。こんな生活の小断片にも、祖母の世代の女性たちの新しい生のかたちへの希求を感じることができるのだ。小倉遊亀の朝食はしらないが、少なくとも画中の女性たちは誰もがリプトンの青缶が似合うそんな感じがするのだ。
これもずいぶん昔のことになるが、同僚だった山田俊幸さんが関西のサンケイ新聞夕刊に画家・版画家の装丁本についての連載をしていたことがある。そのとき祖母の歌集の装丁を日本画家の小倉遊亀さんが行った話をした。そうしたら、山田さんが、その歌集を連載で取り上げてくれた。すごく嬉しかったことを思い出す。その記事を見たとき亡くなった祖母がまだ生きているような気持ちになり、また、昔のお弟子さんに話すとずいぶん喜んでもくれたこともあった。個人的なことで恐縮だが、ぼくは祖母にずいぶん影響を受けて育ったのだ。
祖母は清水千代といい、明治二十六年に四国の丸亀に生まれ昭和六十一年に大阪で亡くなった、関西では少しは知られた女流歌人だった。歌をこころざしたのは奈良女高師(奈良女子大の前身)のころだそうだが、アララギの古泉千樫や島木赤彦に傾倒したものの特別な先生にはつかず、独学で自分の道を開いていった人だった。昭和十一年に結社「どうだん」を起こし、同名の同人誌に亡くなるまで情熱を傾けていた。歌づくりの姿勢は、見えたこと、あるいは見えることに忠実な、いい意味でも悪い意味でも日本近代の「写実」で、それを律儀に実践した人だった。
その祖母の女高師時代の二年下に小倉遊亀(当時は溝上)がいて、祖母をずいぶん慕っていたと伝え聞いている。小倉が祖母と一緒に歌を詠んでいたことは歌集『白木蓮』のあとがきに書かれているが、歌に熱を入れることになったのはおそらく女高師での祖母との出会いによってではなかったかと想像したりする。こんな文章を書くことになるのだったら、いろんなことを聞いておけばよかったと後悔するが、ともかく、小倉の手になる祖母の歌集の装丁からも小倉遊亀と祖母清水千代の友情のかたちが伝わってくる感じがする。祖母は小倉のことを「ゆきさん」と言っていたが、名前を口にするときのやさしい物言いからも二人の関係が想像できるのだった。
その「ゆきさん」は押しも押されぬ日本画の大家となり、祖母より15年以上長く生きて人生をまっとうした。ぼくは画家小倉遊亀の熱心なファンというのではないが、その絵を見るといつもそこにいくばくかの祖母を見てしまう。小倉の絵のもつハイカラさに祖母の生活スタイルや短歌のモティーフを重ねてしまうのだ。
たとえば、入浴後の三人の女性の様態を描いた「浴女」(昭和十四年作、東京国立近代美術館)のもつ日本的なモダン感覚。それは洋画からの影響といったレベルのことだけでなく、明治から大正時代に高等教育を受けた女性たちのライフスタイルにも関係することだと思う。彼女たちは西洋をひとつの触媒として伝統と現実を新しく解釈しようとしていたはずで、その意志は生のさまざまな局面に乱反射しているだろう。ぼくたちの二つ上の世代の女性たちの創造の新鮮さは、そんなところからきているのではないか。
そういえば祖母はいつも同じメニューの朝食を自分でつくり、それをかたくなに守っていた。雪印のバターを薄くぬったトースト、乱切りにした茹でじゃがいもをあっさりとマヨネーズであえたポテトサラダ、そしてリプトンの青缶の紅茶。こんな生活の小断片にも、祖母の世代の女性たちの新しい生のかたちへの希求を感じることができるのだ。小倉遊亀の朝食はしらないが、少なくとも画中の女性たちは誰もがリプトンの青缶が似合うそんな感じがするのだ。
2012年4月24日火曜日
新縄文食、現代アートって?
時差の克服と口実をつけてだらだらしていたら、講義も始まり、桜も散り、これは少ししっかりしないといけない、と、少し身体と気持ちを締めるために、まずはベルトを一穴分絞り、8ヶ月中断していた新縄文食再開に向けて準備。新縄文食というのは、エネルギー供給を体内の糖質からではなく脂質から行うという、ローカーボ・ダイエットの一種だが、江部康二さんという医者のネーミングが面白かったのと、続けていると体重がうまい具合に減っていくので、長く続けてきた食事法である。糖尿病の食事法から考えついたとかで、なるべく炭水化物系を食べないというだけの簡単なもの。ぼくは循環器系の病気になるのがいやなので、この食事法をやっているのだが、コレステロールや中性脂肪の値は確実に落ちる。朝と夜は体内で糖分になる米、小麦類胃、ビール、当然お菓子などは食べない、ライトな新縄文食だが、これまで数回行ってきた摂取カロリーを制限する一般的なダイエットよりは、ずっとストレスがない。それに、蒸留酒、肉等々はまったく問題ないからだ。もう7年近く続けている。この食事法については江部康二さんが『やせる食べ方』という本を書いていたと思う。
ダイエットという病については、一度まとめて書きたいが、今回は、現代アートというシステムのことを考えてみる。授業が始まって、そんな話をすることになったこともあるし、このブログでも折に触れて書いてきたので、そのまとめというか。といっても、書いていくと複雑すぎて、なかなか考えがまとまらなく、何回も書き直しているうちに10日以上が過ぎてしまった。その上、あんまり面白くもない。でも、整理ノートとしてはいいかと思い、ブログにあげることにした。
パリという都市で8ヶ月物事を観察していると、世界のいろんなものが見えてくる。やはり、いまだ世界の中心のひとつだ。そこで驚いたことのひとつに、現代アートの一種のブームがある。これはフランスだけのことではないだろう。現代アートというシステムが、これほど大きく成長したことは、ぼくには意外だった。その昔、といっても1990年代のことだが、フランスで現代アートをめぐる大論争があった。内輪の論争ではなく、新聞、雑誌、ラジオ等々、さまざまなメディアを舞台として、批評家、ジャーナリスト、キュレーター、研究者たち、だけでなく一般の人も巻き込んで、「現代アートとは何か」、「現代アートの価値とは」等々についてを何年にも渡って論争したのだ。ぼくの印象では、全体として現代アートに否定的な論調が多かったように思うが、その濃厚な(論争のない国から見ると)論争については、哲学者・批評家のイヴ・ミショー(Yves Michaud)が、報告記のような本も書いてもいる(『現代アートの危機』La crise de l'art contemporain, PUF, 1997)。非常勤でしていた大学での講読に参加していた学生たちと翻訳出版しようと思っていたが、ぼくの怠慢と出版のタイミングを失ってしまい、幻の翻訳に終わってしまった(みなさんご免なさい)。その本は単にジャーナリスティックな報告記ではなく、現代アートについて重みのある内容も書かれてもいるので、現代アートが華やかな現象になった現在でも、十分に読み応えのある本ではある。フランスでは多くの版を重ねているし、論争は、いまでも現代アートを考える上でのひとつのレフェランスになってもいる。
論争があった90年代には、現代アートは、今から見れば、まだ小さな世界だったと思う。その世界の規模をどのように測定したらよいのかわからないが、文化領域という枠で囲ってみても、社会での認知度はそれほど高くなかったはずだ。アートと言えば古典的な、あるいは近代アートのことであり、業界的には話題になっていたビエンナーレといったアートの祭典やスターたちも社会的認知度はそれほど高くなかったと思う。その現代アートが、文化の大きな領域として認知されてきたようなのだ。
たとえば、こんな話を友人に聞いた。フランス最大の美術史の学部をもつパリ1・パンテオンの何千人と言う規模を持つ美術史学部の70%以上の学生は、現代アートへの興味から入学してくるという。少し前まで、現代アートは、まともな研究対象ではないと思われてきた。それが、いまや!なのである。それに合わせてなのか、現代アートについての本の出版も盛んだ。フランスの最大書店フナック(FNAC)の棚には、毎年、その点数が増えていっている。
現代アートに人が集まる、ブーム、という現象は至る所で見ることができる。パリのアートフェアー(FIAC)に入るためには2時間以上列に並ばなければならなかったらしい。と、聞いたので、やめた。代わりに行ったチョコレート・フェアーは1時間。規模もそれほど変わらない。チョコレート以上?現代アートの画廊のオープニングもけっこうな人だ。また、現代アートの美術館と現代アートセンターがぞくぞく誕生している。1997年のスペインのビルバオ・グッゲンハイムにならってか、フランスにはメッスという田舎町に現代美術館。「建物はすごい」とのことだ。他の都市でも計画が進行中だという。
さらにさらに、ビエンナーレ、トリエンナーレという現代アート祭が世界にやたら増え、そこにやってくる人も格段に増えたと想像できる。去年、ぼくはリヨンしか行かなかったが、それでも6〜7年前に比べれば、規模が大きくなった感じがした。ちなみに、その報告記をネットで見ると、今年の入場者数は20万人とちょっと。この10年で倍増した。また、世界のビエンナーレの数は、現在、150を超える。それなりの規模をもっているものの件数だが、ローカルなものを入れれば、実際には、ずっと多いはずだ。こうした現代アートの祭典を社会現象として分析するだけでも、一冊の本が書けてしまうだろう。おそらく書かれているだろう。まだ読んではないが。もちろん、名所案内ならぬ現代アート(展覧会からビエンナーレまで)の観光ガイドブックもある。現代アートは、アカデミズムにも観光にも足場を置いているのだ。
リヨンもそうだが、ビエンナーレ、トリエンナーレは都市あるいは地域で行われるオリンピック型のイベントだ。ビエンナーレの起源ヴェネツィア(1895年)のそれが、19世紀の万博や大型の展覧会から想を得ていることは知られているが、その発想は近代オリンピック(1896年)にも通じる。つまり、近代的な都市イベントなのだ。ちなみに、初期のオリンピックでは芸術も競技種目だった。こうした近代のイベントが、観光という産業を成長させる大きな要因だったことも頭に入れておきたい。実際、世界的な観光代理店トーマス・クック社の基盤は万博ツアーの成功によるものだった。ビエンナーレ・ツアーはますます盛んになってきている。
ビエンナーレは、始めから観光に接続したのだ。といっても、本格的な観光イベントとなってくるのは、おそらく90年代後半のことではないだろうか。それまでは数も少なかった。ヴェネツィア・ビエンナーレの場合、ぼくの経験からだと(ヴェネツィア好きなので、80年代から行っているのだが)、このところ、「ヴェネツィアへ行くついでにビエンアーレから、ビエンナーレに行くためにヴェネツィアに行く」というような観光客も増えてきたように感じる。観光を目的としてビエンナーレを開催する都市が増えてくるのもわかる。アートツーリズムという言葉も生まれている。日本語だと「町おこし」ということになるのか。アートを見せたいからビエンナーレではなく、観光のためにアートを見せる。それは、アートの変質も生む。
現代アートの世界的活況と、その社会浸透の余波(?)は日本にも来ているようだ。愛知や横浜、ツマリや瀬戸内のフェスティバルも、想像以上の人数を集めたと聞いている。今日の新聞を見ると京都でもビエンナーレが計画されているという。出遅れている。それからアートフェアーのような催しも増えてきた。こちらは現代アートと経済の関係を表象する場である。そこでは巨大なお金が動いている(らしい)。ただし、現代アートというシステムは、いろんなものを含み込んでいるので、マーケットという視点からだけを切り取ってみても仕方がないが。ただし、現代アートのある部分が、画廊を媒介にして世界の金融市場に接続していることも間違いなく、そうした意味では、世界の投機機関、あるいは中国を始めとする新興国やアラブのオイルマネーも流れ込んでいる。教育、観光、経済などなど、さまざまな現実がモザイクのように組み合わさっているのが、現代アートというシステムなのだ思っている。
もうひとつの大きなモザイク・パートをあげておけば、アートの歴史に関わる部分である。ここでの結論を言ってしまえば、あるひとつの問いをたてることで(あるいは、たてさせたことで)、現代アートはモダンアートの歴史を引き継いだということである。「アートの価値」「アートの義務」「作品の自律性」「作品の思想性」といった、モダンアートが問いかけてきた(これもフィクションかもしれないが)問題意識を棚に上げ、「アートとは何か」という問いだけを引き継いだということだ。したがって、この問いに始めから答えはないし、答えることを強いることもない。ただし、この問いを抱えていることは間違いなく、そのことでモダンアートの継承権を獲得したのである。この権利が現代アートのひとつの価値を支えている。だから、現代アートは作品の価値とはあまり関係がない。その価値は金銭的数値、あるいはシステムへの参加の度合いだけで計られているからだ。ちょうどオリンピック出場歴の価値と同じように。
こうした価値問題を生産するのは、つまり現代アートとは何かという問いを発するのは、批評家、キューレーター、あるいは現代アートを研究者たちである。もちろん、直接、そんな問いなどをしないが、その作品評やアーティスト評のスタイルが、相変わらずモダニズムのそれなので、あまりピンとこない。そのピンとこないということも重要なのだ。「現代アートとは何か」という問いへとつながることになるからだ。90年代のフランスでの論争は、その典型だし、と考えれば、「危機」と命名された現象は、実は、モダンアート継承の一種の儀式であったのかもしれない。
自分でもまとまらないことを書いてきてしまったが、 現代アートのシステムを構成するパートはまだまだあるし、考えなくてはならない問題も多い。また、このシステムの外にあるアートはあるのだろうかとか(あるのだが)、となると、システムは外部をもつということになり、とすれば、この外部でアートという命名権は何を根拠にしているのだろうとか、そんなことも考える必要があるだろう。実は、ここまで書いてきて、矛盾も多くなり頭も働かなくなった。新縄文食は糖分を減らすので、脳の働きが悪くなるのかもしれない。脳は糖分によって発達してきたと言われているからだ。ともかく、現代アートについては、もう一度続きを書こうかと思っている。少し甘いものを食べて。
ダイエットという病については、一度まとめて書きたいが、今回は、現代アートというシステムのことを考えてみる。授業が始まって、そんな話をすることになったこともあるし、このブログでも折に触れて書いてきたので、そのまとめというか。といっても、書いていくと複雑すぎて、なかなか考えがまとまらなく、何回も書き直しているうちに10日以上が過ぎてしまった。その上、あんまり面白くもない。でも、整理ノートとしてはいいかと思い、ブログにあげることにした。
パリという都市で8ヶ月物事を観察していると、世界のいろんなものが見えてくる。やはり、いまだ世界の中心のひとつだ。そこで驚いたことのひとつに、現代アートの一種のブームがある。これはフランスだけのことではないだろう。現代アートというシステムが、これほど大きく成長したことは、ぼくには意外だった。その昔、といっても1990年代のことだが、フランスで現代アートをめぐる大論争があった。内輪の論争ではなく、新聞、雑誌、ラジオ等々、さまざまなメディアを舞台として、批評家、ジャーナリスト、キュレーター、研究者たち、だけでなく一般の人も巻き込んで、「現代アートとは何か」、「現代アートの価値とは」等々についてを何年にも渡って論争したのだ。ぼくの印象では、全体として現代アートに否定的な論調が多かったように思うが、その濃厚な(論争のない国から見ると)論争については、哲学者・批評家のイヴ・ミショー(Yves Michaud)が、報告記のような本も書いてもいる(『現代アートの危機』La crise de l'art contemporain, PUF, 1997)。非常勤でしていた大学での講読に参加していた学生たちと翻訳出版しようと思っていたが、ぼくの怠慢と出版のタイミングを失ってしまい、幻の翻訳に終わってしまった(みなさんご免なさい)。その本は単にジャーナリスティックな報告記ではなく、現代アートについて重みのある内容も書かれてもいるので、現代アートが華やかな現象になった現在でも、十分に読み応えのある本ではある。フランスでは多くの版を重ねているし、論争は、いまでも現代アートを考える上でのひとつのレフェランスになってもいる。
論争があった90年代には、現代アートは、今から見れば、まだ小さな世界だったと思う。その世界の規模をどのように測定したらよいのかわからないが、文化領域という枠で囲ってみても、社会での認知度はそれほど高くなかったはずだ。アートと言えば古典的な、あるいは近代アートのことであり、業界的には話題になっていたビエンナーレといったアートの祭典やスターたちも社会的認知度はそれほど高くなかったと思う。その現代アートが、文化の大きな領域として認知されてきたようなのだ。
たとえば、こんな話を友人に聞いた。フランス最大の美術史の学部をもつパリ1・パンテオンの何千人と言う規模を持つ美術史学部の70%以上の学生は、現代アートへの興味から入学してくるという。少し前まで、現代アートは、まともな研究対象ではないと思われてきた。それが、いまや!なのである。それに合わせてなのか、現代アートについての本の出版も盛んだ。フランスの最大書店フナック(FNAC)の棚には、毎年、その点数が増えていっている。
現代アートに人が集まる、ブーム、という現象は至る所で見ることができる。パリのアートフェアー(FIAC)に入るためには2時間以上列に並ばなければならなかったらしい。と、聞いたので、やめた。代わりに行ったチョコレート・フェアーは1時間。規模もそれほど変わらない。チョコレート以上?現代アートの画廊のオープニングもけっこうな人だ。また、現代アートの美術館と現代アートセンターがぞくぞく誕生している。1997年のスペインのビルバオ・グッゲンハイムにならってか、フランスにはメッスという田舎町に現代美術館。「建物はすごい」とのことだ。他の都市でも計画が進行中だという。
さらにさらに、ビエンナーレ、トリエンナーレという現代アート祭が世界にやたら増え、そこにやってくる人も格段に増えたと想像できる。去年、ぼくはリヨンしか行かなかったが、それでも6〜7年前に比べれば、規模が大きくなった感じがした。ちなみに、その報告記をネットで見ると、今年の入場者数は20万人とちょっと。この10年で倍増した。また、世界のビエンナーレの数は、現在、150を超える。それなりの規模をもっているものの件数だが、ローカルなものを入れれば、実際には、ずっと多いはずだ。こうした現代アートの祭典を社会現象として分析するだけでも、一冊の本が書けてしまうだろう。おそらく書かれているだろう。まだ読んではないが。もちろん、名所案内ならぬ現代アート(展覧会からビエンナーレまで)の観光ガイドブックもある。現代アートは、アカデミズムにも観光にも足場を置いているのだ。
リヨンもそうだが、ビエンナーレ、トリエンナーレは都市あるいは地域で行われるオリンピック型のイベントだ。ビエンナーレの起源ヴェネツィア(1895年)のそれが、19世紀の万博や大型の展覧会から想を得ていることは知られているが、その発想は近代オリンピック(1896年)にも通じる。つまり、近代的な都市イベントなのだ。ちなみに、初期のオリンピックでは芸術も競技種目だった。こうした近代のイベントが、観光という産業を成長させる大きな要因だったことも頭に入れておきたい。実際、世界的な観光代理店トーマス・クック社の基盤は万博ツアーの成功によるものだった。ビエンナーレ・ツアーはますます盛んになってきている。
ビエンナーレは、始めから観光に接続したのだ。といっても、本格的な観光イベントとなってくるのは、おそらく90年代後半のことではないだろうか。それまでは数も少なかった。ヴェネツィア・ビエンナーレの場合、ぼくの経験からだと(ヴェネツィア好きなので、80年代から行っているのだが)、このところ、「ヴェネツィアへ行くついでにビエンアーレから、ビエンナーレに行くためにヴェネツィアに行く」というような観光客も増えてきたように感じる。観光を目的としてビエンナーレを開催する都市が増えてくるのもわかる。アートツーリズムという言葉も生まれている。日本語だと「町おこし」ということになるのか。アートを見せたいからビエンナーレではなく、観光のためにアートを見せる。それは、アートの変質も生む。
現代アートの世界的活況と、その社会浸透の余波(?)は日本にも来ているようだ。愛知や横浜、ツマリや瀬戸内のフェスティバルも、想像以上の人数を集めたと聞いている。今日の新聞を見ると京都でもビエンナーレが計画されているという。出遅れている。それからアートフェアーのような催しも増えてきた。こちらは現代アートと経済の関係を表象する場である。そこでは巨大なお金が動いている(らしい)。ただし、現代アートというシステムは、いろんなものを含み込んでいるので、マーケットという視点からだけを切り取ってみても仕方がないが。ただし、現代アートのある部分が、画廊を媒介にして世界の金融市場に接続していることも間違いなく、そうした意味では、世界の投機機関、あるいは中国を始めとする新興国やアラブのオイルマネーも流れ込んでいる。教育、観光、経済などなど、さまざまな現実がモザイクのように組み合わさっているのが、現代アートというシステムなのだ思っている。
もうひとつの大きなモザイク・パートをあげておけば、アートの歴史に関わる部分である。ここでの結論を言ってしまえば、あるひとつの問いをたてることで(あるいは、たてさせたことで)、現代アートはモダンアートの歴史を引き継いだということである。「アートの価値」「アートの義務」「作品の自律性」「作品の思想性」といった、モダンアートが問いかけてきた(これもフィクションかもしれないが)問題意識を棚に上げ、「アートとは何か」という問いだけを引き継いだということだ。したがって、この問いに始めから答えはないし、答えることを強いることもない。ただし、この問いを抱えていることは間違いなく、そのことでモダンアートの継承権を獲得したのである。この権利が現代アートのひとつの価値を支えている。だから、現代アートは作品の価値とはあまり関係がない。その価値は金銭的数値、あるいはシステムへの参加の度合いだけで計られているからだ。ちょうどオリンピック出場歴の価値と同じように。
こうした価値問題を生産するのは、つまり現代アートとは何かという問いを発するのは、批評家、キューレーター、あるいは現代アートを研究者たちである。もちろん、直接、そんな問いなどをしないが、その作品評やアーティスト評のスタイルが、相変わらずモダニズムのそれなので、あまりピンとこない。そのピンとこないということも重要なのだ。「現代アートとは何か」という問いへとつながることになるからだ。90年代のフランスでの論争は、その典型だし、と考えれば、「危機」と命名された現象は、実は、モダンアート継承の一種の儀式であったのかもしれない。
2012年4月5日木曜日
ワインとコーラの国

帰ってきた京都の桜は遅く、そして少し寒かった。パリが夏ような春だったこともある。そして、いつもの時差ボケ。歳とともに、これが長引くし、けっこうつらい。そして、やっぱりカルチャーショック。向こうが素晴らしくて、こちらが冴えないということではない。2つの文化の違いへの戸惑いだ。それほど長くはない滞在なのに、そんなことになるのは、パリ滞在にやはり馴染んでいたということだろう(「やはり」というのは、前のブログで同じことを書いたので)。でも、日本の日常(ぼくのだけど)にやっぱり早く馴染まないと、仕事もできないな、と思って、さっそく韓国映画を借りてきた。韓流ドラマではないのは、何を見たらいいのかわからなかったので、まずは映画からという気持ちになったのだ。そして、日本芸能界の典型、バラエティー(子供が録画しているので見さされる)やワイドショーをまったりと見る。NHKのニュースも芸能界バラエティー風だ。ニュースというのは新しい情報伝達ということだが、それが伝達以上に事件・出来事の説明・解説になっている。説明のために、あるストーリーが必要となる。その物語が平凡だ。事実の伝達という意識がフランスと違うように思う。いいとか悪いとかではない。それぞれの文化の問題である。それから、馴染みの喫茶店やレストランに行き、職場に行き、近くのコンビにと、去年の8月までの習慣を再履修しているのだ。これも楽しい。来週からは授業も始まる。8ヶ月の記憶は、少しずつ後退していき、いつもの「いつも」が始まるのだろう。
こんな1週間を過ごしつつ、パリ滞在記のようになった8ヶ月間のブログで書き忘れていたこともあるな〜と思って、その余録を書いてみることにした。
パリはどうでしたか、と会う人ごとに聞かれる。一種の挨拶だが、こうした経験を人に伝えるのは難しい。すべてが何となく自慢話になって、聞く人をうんざりさせてしまうことが少なくない。そういうことでは、ブログがあってよかったとも思う。この私的「的」な現代の日記は、なかなかいいと最近思い始めた。
パリのラーメンのことは書いたが、フランスといえば、グルメ、ワイン、ファッションというのが定番。ラーメンや日本食のことは書いたが、おフランス・グルメについてはほとんど書いてこなかった。ファッションは別にして、フランスにいれば誰でもグルメに挑戦ということになるので、ぼくもそれなりに観察・実践をしてきた。
とくにワインは必須なので、何とかワイン通になろうと最初の頃は気を入れた。といっても、フランス高級ワインはうるさい人も情報も多いので、チープなワインの通になろうと思い、5ユーロ(550円くらい)までのワインの通になろうと思ったのだ。これは挫折した。結局、そうしたワインでは、そんなに差がないという、当たり前のことがわかっただけだった。そうしたワインは「味わう」という感覚も薄い。評判のチープワインを友人が持ってきてくれたが、美味しいが、含みはもうひとつ。それから、少しレベルを上げ、6〜10ユーロ前後までのワインへと上昇。やっぱり、こっちの方がうまかった。「うまかった」というのは「飲む」という動詞に接続していて、「味わう」ということではない。もちろん、辛口甘口、ぶどうの種類、重たいもの軽いもの等々のバラエティーには富んでいるように思えた。このクラスはやっぱり「味わう」という感覚のちょっと手前。グラスを回し香りを嗅ぎなんてことをしても、ひどくは変わらない。やっぱり、15ユーロ(1600円)は出さないと、グルメ的ワインにはぶつからないというのが結論だ。何か、すごくつまらない話になってしまった。これも時差ぼけ?
こんなこと書いてみたけど、実は、ワインについてあまりわからなかったのだ。ただし、ひとつわかったことは、フランス人もワインに詳しくないということである。ぼくはここを勘違いしていた、そのことがわかったのだ。彼(彼女)たちとワインを飲むと、けっこう講釈をしてくれる。この地方のここのワイナリーは、とか、このぶどう種云々等々。その講釈に戸惑わさせられていたのだ。でも、それは話だけの場合が多いということらしい。ワイン屋の店員が教えてくれた。ほとんどが口だけだよ、と言うのだ。ほんとうに味を知っている奴なんか、ちょっとしかいないよ。安心して!と、本当に安心させてくれた。ワインのフランス的呪縛から解かれたのだった。
もうひとつ驚いたのは、コカコーラを飲む人の多さだ。ファンタやオランジーナといったソフト飲料をはるかに超えている。それも、この10年近くでかなり増えてきたような印象。ガキから熟年まで。カフェでレストランで、コカを飲んでいる人を見ないことはない。ちょっとしゃれた料理にもコカ。日本よりはるかに多い。え〜、コカコーラでご飯?と、何人かに聞いてみたが、理由はよくわからない。身体にいいと言う人もいたが、どうもこじつけ。フランスの人はこのことにあまり気づいていないようだ。ワインの国フランスはコカコーラの国でもある。おフランスになりたい人は、コカを常飲することだ。ぼくには何か変だが、これも多様性との共生という現フランス社会の理念の、無意識的実践なのか。ワインとコカの共存を見ていると、フランスが美食の国とは思えなくなってくる。もちろん、何回か行った1つ星以上の高級レストランでコカを飲んでいる人は見たことはないが。ソムリエとのワイン談義で始まる、そうしたレストランも、多様性のひとつということかもしれない。
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