2011年1月18日火曜日

境界のこと


今年は冬らしい冬だ。寒く雪も積もる。そういえば去年の夏は夏らしかった。こうした「らしさ」というのはかなり好きで気持ちはいいが、少し喉風邪をひいてしまった。ここ数日、夜中にゴホゴホやっていて睡眠不足。
メディア芸術オープントークで沖縄から京都と温度差17度を移動したためか、寒さと雪のためか。でもこれも悪くない。たまには風邪くらいひかなくては。ちょっとギアチェンジができる。何の?気分かな。何回ものうがいと何粒もの喉飴は気分を変えてくれる。どんな風に?気分なのでうまく説明できないけど、下に載せる文章のことを思い出させるようなことも、そうなのかもしれない。何年か前に、学生たちのグループ展のチラシ用に書いた「境界を超えて」という文章のことを強く思い出したのである。そうなったのは先週の週末の長谷川祐子さんの大学院プログラムでのワークショップとゲストのスプツニ子!さんの「タカシ」くんのことも関係しているかもしれない。少し変更しているが、ぼくの記録としても、このブログに残しておこうと思って、採録することにした。

「境界のむこうとこちら」
フランソワ・ダゴニェという哲学者の分類学に関する本が海外のネット書店から届いた日のことだ。海外から郵送されてくるものを受け取った日は、なぜか気持ちがいい。いくら睡眠不足でも、その日は少し高揚する。港や空港、大陸の鉄道駅にいるときも、似たような気持ちになる。どうしてなのか、と、長い間考えてきた。そんなこと考えなくてもよいのにそうしてしまうのは、その気持ちがぼくにとって大切なことだからだろうし、考えることで、気持ちが心の奥の方に入っていく感じもするからだ。それは、そこでぼくが境界に立っているからだろうと思う。結局は、郵便も、空港や駅も境界ということに関わっているのだ。あまりにもあたりまえすぎて、気づかなかったのか、というより、その境界に立つことの意味を実感するために長い年月がかかったということなのか。
境界は、こちらとあちらを分ける単なる地理学的な分類概念ではない。その場に立つものにとって、境界は向こうを見渡せる、あるいは渡っていけるという未来への欲望を生じさせる場であると同時に、こちら側を振り向く場ともなる。つまり、歴史を自覚する場ともなる。大袈裟に言えば、境界は「私」を時間と空間の交差点に置く場である。といっても、年を重ねると、境界を渡ってしまうことはけっこうきつい。できるのは、向こう側を眺めながら、後ろを振り向く、前後の繰り返し視覚運動くらいだ。「ノスタルジー」が生じる場でもあるのだが、このことに触れることはやめておこう。
ただし、境界という交差点は、一般には、制度として理解される。国と国、男と女、学校と社会等々、極論すれば、境界は世界という制度をつくりあげているものだ。というより、世界を制度という意味で考えれば、それは境界によって腑分けされた地図ともいえるのだ。
その意味では、アートもそうした境界のひとつである。しかし、アートは別の種類の境界ともなる。そこが面白いと思っている。制度的に固定された境界とは違って、新しく境界をつくる営為としても存在するからだ。その作品が世界に新しい線を引くのだ。そして、新しい、こちらとあちらをそこに打ち立てる。ときどき、その二つの界が人に混乱を起こすこともある。新しい境界はいつでも混乱したものだからだ。そうして、人はアート作品の向こうに新しい何かを見たくなる。そうした境界は気持ちのよいものだ。そうした境界をひくのに、現在はすごくよい時代であるように思っている。


0 件のコメント:

コメントを投稿