2011年12月27日火曜日

フランスのクリスマス、いざアルゼンチン、よいお年を!


少し文字を大きくしてみた。読んでくれる人を増やしたいと色気がでてきた。これで増えるわけはないことはわかっていても、「パリ便り」風のこのブログ(来年の3月までだけど)を、やはり少しは届けたいと、ギャラリー・ラファイエットのイリュミネーションを見たあと、ふと思ってしまったのだ。それから、自分の名前も出した。横文字で。こうした気取り(?)を早くなくしたいと思うのだが、変にかっこをつけたいという、結局、ガキ的な心持ちが歳をとっても出てくることに、いやな感じもあるのだが。「いくつになったの!」と天国の祖母の声が聞こえてきそうだ。
と、書き出してはや1週間近く過ぎてしまった。クリスマス(ノエル)の季節で街がそわそわしていたのだ。ぼくのような通過者がそれに合わせなくても、と思うのだが、前にここで書いたジェニーというアーティストが実家にクリスマスをしに来ないかと誘ってくれたので、クタンヴィルというモンサンミシェルに近い海岸町に行ってきた。夏に「緑の太陽」を見たところである。冬の海岸は映画「男と女」の1シーンを思い出させて、何か懐かしかった。つい、あのメロディーを口ずさんでしまった。
そのクリスマス・パーティーは、日本の正月と同じ。親戚一同が集まり、ごちそうを食べる。フランスは、思いの他、家族的な国である。とくに田舎は。だから、食べ物も基本的に手作り。フォアグラに始まり、牡蠣(これは名物)、軽く薫製にしたサーモン、そして鳥(何の鳥か聞き忘れた)、テーズにデザート。そのそれぞれに合う上等なワインが出てくるのだから、これをグルメと言わず何と・・・という雰囲気。ちなみに、フォアグラと牡蠣は手作りではありません。料理として加工するという意味での手作り。苦しくなったのは言うまでもない。
ついでに、モン・サン・ミシェルにも行ってきた。初めてだった。車で遠くに見えてきたときには、オオオ、となったが、着いてしまうと、少しイメージが違った。あくまで海に浮かぶ教会を見るところだったのだ。ジェニーのお母さんがガイドをやっていたこともあって、かなり細かく説明してくれた。なかなかためになった。ある様式が移り変わるときに生じる、形式間の衝突と調和。中世から近世のヨーロッパでは、もちろんロマネスクからゴシック。そこに地方色が絡まる。この色合いが少し理解できたような。
帰ってきたパリはひっそり。クリスマス休暇のためだろう。年末からお正月と、今年は家の掃除がないので足腰をこすりながら元旦を迎えることもない。こちらは正月気分はないので、淡々と年が終わっていく。
そして、年末から正月明けは、画家を追いかける旅行が待っている。けっこうハードな旅行になりそうだ。ひとつはロンドンのレオナルド展。二つの「岩窟の聖母子」(ルーヴルとロンドン・ナショナル・ギャラリーの作品)が並んで展示されている。こんなことはほとんどないので、これはマスト!行かなくてはと、1ヶ月ほど前に予約チケットを探したらソルド・アウト!でも、何とかチケットを手に入れ、弾丸旅行をすることにした。疲れそうだが、何かを求めるというのはこういうことだと思い、決行することに。
レオナルドは、ぼくにとって最高の画家である。絵というものが、世界を説明するのではなく捉えることができることを、初めて見せてくれたのはレオナルドだと思っている。それが絵画というものだと考えているのだが、そんなことをできる人は、ほとんどいなくなってしまった、と思っている。ピカソやマティスは世界を捉えているのではなく、絵画を捉えている。ロスコは絵画を象徴のレベルで考えた。中世の画家たちのように。現代の絵画は、もうレオナルドのようなことはできないだろう。写真は、絵画とは決定的に違う。世界を捉えようとしているというより、世界を重複化しようとしているといった方がいい。最後の大きなレオナルド展というふれこみに、心がざわめき、弾丸旅行になったのだ。
弾丸旅行するためには、ハード(経済性も含めて)さを必要とする。ユーロスターで往復したのでは弾丸にならないので、8時間かかるバスにした。若い頃の旅行のスタイルがいまだトラウマになっているとも思う。疲れ果てることがわかっているのに、昔のバックパッカー・スタイルが染み付いているのだ。となると、これは実際に旅行するというより、もはや幻想の旅行になっているかもしれない。きっと、そうなのだろう。実際の旅行以上に、頭の中で旅行している、というより、頭で旅行を楽しんでいるといったらよいか。もう少し、想像力が大きく、もっと妄想力があれば、実際の旅行などしなくてもよくなるかもしれない。おそらく、それが理想の旅行といえないこともない。
そのロンドンから帰ってから、アルゼンチンに行くことにしている。エゼキエル・リナレスという画家の足跡を追いかけるためだ。10年来の夢でもあったことである。スライドで見ただけなのに、見たいという気持ちが薄まらなかった画家である。フランシス・ベイコンに似ている所があるが、決定的に違う。ラテン・アメリカのもつ独自性、たとえば「百年の孤独」のイメージ、そんなものと共通する絵画のような気がしたのだった。そのことはブログで報告するつもり。本でも書きたいくらいだ。
日本でもパリでも、アルゼンチンのイメージはタンゴ、サッカー、パタゴニア?あるいは、日本の将来を暗示するような破綻国家?ともかく情報が少なかった。パリにはたっぷりあるかと思ったら、これがこれが。とくに、美術の領域は。ただし、リヨン・ビエンナーレがそうだったように、アルゼンチンの現代アートを見る機会は多くなったような気もしているが。ただし、リナレスは、現代アートといった舞台に上がったことはあまりない画家だ。世界は広い。こちらにいて一番感じることである。ぼくの持っている情報の少なさ、ものの知らなさ、がっかりしてしまうが、逆に、世界にはまだまだ素晴らしいことがあるのだと思えることは楽しい。ぼくにとって、リナレスは世界の広さの証左である。
そんなわけで、ブログを読んでもらったみなさん、よい年を!


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