2010年9月19日日曜日

東京のこと、ダゴニェの読書

東京の1週間を過ごして帰ってきた。普通は日帰りか1泊の都市なので、こんなに長くいたのは初めて。昔、東京に3年半くらい住んでいたが、それ以後、長いこと、東京はどこか身体にフィットしないところになっていた。それが50過ぎてから気持ちに変化がでてきた。「イガイとイイ都市(マチ)だな〜」と感じるようになってきた。それは、東京が「コクサイ的」で何でもあるということではない。
ぼくには東京が国際都市とまったくみえない。外国の人間は多いが、ほとんどが日本人で(もちろん特別な地区はある)、それもむちゃくちゃたくさんの日本人がいる都市だと思う。もちろん、外国のものは何でもある。料理からファッション、文化、何でもだ。この「何でも」と「人の多さ」、そして「スピード」が都会なのだ。といっても、「何でも」の中の料理のことで言えば、東京のイタリアンはイタリアのイタリアンではなく、フレンチも同じ。ひょっとしたら本場より美味しいかもしれない。そんなところも、日本の都会を感じさせる。たとえば、知っている都市なら、パリやロンドンなんかは国際都市だ。マルチな人種と文化が日常化しているからである。東京には、この日常化がない。あくまで日本的だ。そして、この「日本の都会」というところがすごいのである。
同時に、ぼくにとっては懐かしさを感じる都市でもある。この感覚を細かく説明するためには、小説でも書く他ないのだろうが、とりあえず、東京が、日本がもちえた唯一の近代都会という観念の雰囲気をもっているためだろうか。東大は、そんな日本の都会を象徴する場所だった。それを表象するのは、本郷キャンパスを構成する擬古典的建物である。そこには日本近代の夢想と捻れが美しくも悲しく表出している。この表出性はノスタルジーを誘う。前へ前へとものごとを考えていた若い頃、東京が好きでなかった理由が、今回、ゆっくり滞在してみて少しわかったような気がする。もう住むことはないが、ときどき来てみたい都市になってきた。

ともかく、やっと夏が終わった。パリに12日、東京に6日、夏の後半は早かった。この秋は、秋らしくまとまって本を読んでみようと思う。
9月の東大での集中で、頭の論理的リハビリも少しできた。まずは、フランソワ・ダゴニェ(François Dagognet)という哲学者の本をまとまって読んでみようとも思っている。この哲学者の書くフレーズには、ぼくの関心と重なるところがあることがわかってきた。計量化、イメージ化されていく世界が、歴史的、批判的に検証されている(これまで読んだところでは)のだが、もっと早くから読んでおけばと、少し悔やまれる。現在読み進めているのは2冊。Le Catalogue de la vie, Puf(Paris), 1970. とEcriture et iconographie, J.Vrin(Paris), 1973. 日本語でも何冊か読めるようだ。自分がもやもやしていること、あるいは、漠然としたイメージしかないもの、そうした事柄を論理的に書いてある本に出会えるのは、そんなに多くはない。ダゴニェはそんな哲学者のようだ。本も一期一会ということか。

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