2011年10月28日金曜日

墓地とB級グルメ


やっと終わった。ラグビーのWCがである。感動的な決勝、フランス人の精神力の強さ。こんな言葉ばかりが踊ると、背中が痒くなってくるが、そうした面も確かにある。23日のパリの街は余韻が漂っていた。翌日の夜に行ったヴェトナム料理店は、なんとパリのスポーツバー街。そこには濃厚な前夜の香りが。そして、その通りは、どこかドアーズの傑作「ストレンジデイズ」(だったかな)のジャケットの通りと似ていた。そんことをラグビーの余韻の中に思い出したら、そうそう、一度、観光名所ジム・モリソンのお墓にも行かなくてはと思うのだった。
パリは市内に墓地が多い。多くの所に有名人が眠っているので、名所になっているが、この前の日曜日、そうそう決勝を見終わったあとだった、久しぶりにモンパルナス墓地を散歩した。サルトル/ボーボワール、デュラス、ゲーンスブールなど人気のお墓を回ってきた。他にも、本で読んだことのある女性の精神分析学者(文化論に多かった)も眠っていて、そこに写真で初めて顔立ちを知った。かわいらしい顔をしていた。ときどき写真や肖像があるのも日本とは違う。現代アート的なものもある。お墓は死者のモニュメントというのはわかるが、日本のような「無常」の演出がほしいとも思う。線香の香りに包まれた日本の墓地(お盆やお彼岸なんかのときだが)は、死者を思い出すと同時に、墓の前に立つ生きている人間の儚さのようなものを感じさせるが、モニュメントの前では思い出が強調される。ジム・モリソンのお墓(ペール・ラシェーズ墓地にある)に一度線香を立ててみようかなと思った。
話題を変えて、またも食べ物のことを。といっても、パリで本格グルメをすることはない。ラーメンのことを書いているのでわかると思うけど、星付きレストランは、若い頃の貧乏旅行のプライドとトラウマを抱えた人間には、どこか距離がある。もちろん、行ったことはあるが、そして美味しいとも思うが、自分から足がななかな向かないのだ。誰かに背中を押してもらわないと行かないのだが、そうして行ったは行ったで、どこか釈然としない気持ちをもってしまう。若い頃の経験とは恐ろしい偏見を植え付けるものだと、つくづく思う。
となると、日本でも同じだが、B級グルメを目指すことになる。でも、これは体力と資本主義の味覚経済学によって成立するものなので、ぼくのような歳になってしまうと、ほんとうはできることではないのだが、何かがかき立てる。戦争(第二次大戦)を体験した世代は、「飢餓」経験が食べ物への異様な執着となっていると野坂昭如が書いていたような気がするが、ぼくたちの団塊の世代は何だろう。よくわからないが、いつになってもB系に興味をもってしまう。戦争世代と違って、何かが賎しいということだろう。
ともかく、B級料理は、実際には、たいして美味しくはない。もちろん、美味しいという定義が問題なのだが、B級は味覚の強い刺激、あるいは食べる欲望の満たしによって美味しいと感じるようなレベルだろう。もちろん、ここに価値があることは十分わかっているが、それだけでは寂しい、グルメの国では何とかA級への階段を登ろうとも思っていたのだが、やっぱり、プライド=トラウマが許さなかった。というわけで、そんなところを探すのだが、美味しい所にぶつかることはあまりない。やっぱり、家で食べるのは別として、ハム、サラミ、肉の練り物、そしてパンとワインにつきてしまうのだ。加えて生野菜と果物。シンプル・イズ・ベストの原則だ。なので、こちらのB級は、文化的好奇心からということになる。ぼくの知らない料理方や食べ方があるところ。料理と食べ物の知識が氾濫している現在では、そうしたことを見つけることも難しい。というわけで、どこかすごい食べ物がないかと、図書館の帰りにうろうろしているのである。

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