2011年10月4日火曜日

ラ・ニュイ・ブランシュ、文化の狂乱


あっという間に2ヶ月がたってしまった。何かのんびりやっているな、と思う。結婚記念日ということも、その数日前から思い出す。普段は後でなのに。時間があるというのはこうしたことか。初めてのこともあるし、ちょっとはりこんで、しっかりしたビストロで昼食。食前酒、ワイン(それもボトル)、コーヒーまで付いたフルコースで42ユーロ。安い!これがなかなかのものだった。そして、夜はパリ名物となってきた「ラ・ニュイ・ブランシュ」(英語でホワイト・ナイト)へ何人かの知り合いと。
10月の最初の土曜日の夜から朝まで、パリと郊外のいくつもの地区で繰り広げられる現代芸術祭とでもいったらよいか。10年前にパリで始まり、現在では世界の大都市でも行われるようになってきたとのこと。初めてなので楽しみにしていたのだが、とにかく人が多い。パリでは4つの地区に、いくつあるかわからないほどの展示やイベント。ゲスト・アーティストの展示場などは長蛇の列。歩いているだけで疲れてしまい、腰も痛くなる(軽いヘルニアなのだ)。4〜5カ所、比較的人の少ない、といっても並ぶのだが、教会や劇場といった会場に入ってみる。まあ、大きなビエンナーレにあるのと大差なく、目新しいものでない。要は、アイデアのある文化的イベントである。アイデアというのは、1日、オールナイト。地下鉄もバスも朝まで運行。カフも。若い人たちには楽しそうだ。仲間とわいわいと。そして、放逸は現代芸術によって文化的放逸となり、おそらくつかの間の恋愛もそうしたことになるのだろう。結局、人ごみをうろうろしながら、深夜のカフェで、いつもは禁止しているビールとフリット(ポテト・フライ)を。10年ぶりくらいの深夜のビールとフリットはほんとに美味しくて、ラ・ニュイ・ブランシュって素晴らしい!と感激してしまう。何のことやら。
パリは文化にあふれている。すぎている。ジャン・クレールという批評家が最近出した『文化の冬』(フラマリオン社)という言い方が的を得ているような気もするが、現在の文化熱狂がどうなっていくのかはまだわからない。ともかく、今は、あまりにも文化と称するイベントや催しが多くて、いまや何が文化なのかわからなくなっているのだ。クレールはそれに警告を鳴らしているのだが、確かに、文化に、というよりそのように呼ぶことに飽きてきたという感覚はある。ここにいるととくに思う。もちろん日本でも、ここ10年あたりから何でも文化だ。京都という小さな都市にいても、文化的イベントや催しはやたら増えてきている。パリはその何十倍ではないか。メディア的話題を持つものから、地区の小さなイベントまで、毎日文化的な何かをやっている。そして、どこも人が集まっている。そういうぼくも情報誌を見ながら、来週は「ジョルジュ・ブラッサンス」祭りに行こうとか、あのコンサート・シリーズ(ひとつ予約している)、あのアートフェアー、マンガフェアー、画廊や美術館のオープニング、あるいはカンヌで賞を取った映画とか、近いところでは、地区のバザー(イベント付き)と、何かきょろきょうろしているのだ。こうなったら、パリの深夜の、行ったことはないが、金と欲望がむき出しになるエロスの世界も文化ということになるだろう。もちろん、性の文化史という言い方があるくらいだから、文化なのだが。
ともかく、文化という言葉は便利だ。「それは何ですか?」「文化です」と、これで何か要領を得てしまう、そんな時代になってきた。そして、文化を生産的(人を豊かにする)と考える傾向が強いので、文化という言葉はますます増殖する。でも、近年の文化バブルに接していると、そろそろ立ち止まって考えてもいいかと思う。文化って、そんなにいいことなのか?って。別の言葉を使おうよ、ということでもあるのだが、なかなか思いつかない。研究者の業界も、アングロサクソン系発のカルチュラル・スタディーズ以来、モットーは文化だ。学問を民主化しようという善意の民主主義が、何かを曇らせているとも思う。学問が差別的であるということを隠そうとする時代になったのか。
その「文化」という日本語は、「便利」という言葉とかなり近い意味をもっていた。文化包丁、文化住宅等々、近代合理主義が生活様式の中に入り込んでいく過程で、広く使われるようになった概念である。でもそこには、ちょっと平板でつまらないという感覚があった。その「便利」という意味が、今では変質し、いい意味で「人間的」といった積極的なものになってしまった。でも、文化に参加すればするほど、そうでないこともわかってくる。「人間的」というのには2つの意味があるだろうが、豊かという意味での人間的であることは、知的な動物であることを前提にしているが、文化は、逆に、人間の欲望や怨念をむき出しにする舞台と化している。それを生産的とするなら、文化の反乱は文明化された人間社会の欺瞞(というなら)を明らかにする逆説的な言説ではある。だから疲れるのかもしれない。
ともかく、文化をまじめに受け取らないようにしよう。というより、文化という言葉を少し控えるようにしたいと思う。といっても、このブログは、15年もののカルヴァドス(リンゴのドライ・リキュール)を飲みながら書いている。フランスの豊かな酒文化の逸品だ。結局、メディア文化と後期資本主義のマネー・ゲームの中に生かされるぼくたちは、文化から逃れられないのかもしれない。このブログは読みにくいように書こうとしているのだが、それはブログを文化としないようにしたいためなのに、書きながら、この日曜日のパリ・サンジェルマンとリヨンでのパストーレのシュートを思い出しているのだから、文化になってしまうのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿