目をつぶっていたら6月が始まっていた。<中旬も過ぎてしまった。書き始めたのが2週間以上も前なのだ。この時差は文章の季節感に違和感を与えるかもしれないが、始めから書き直すのは疲れる。そんなわけで、今回は書きついできたブログである。ご苦労さん?誰に。途中で今日、明日に書いていることを赤字で挟んでおこう。文章の時間制をリアルにしたいと思ってのことだが、おそらく、複雑になって読みにくくなるだろうとも思うが。ひとつの実験?>
家の近くの哲学の道の蛍も増えてきた<終息し始めている>。先週からユーロ2012が始まった。<決勝最終ラウンドまで進んだ>。WOWOWにも加入し、万全の体制で生中継をできるだけ見ている。ヨーロッパ時間的生活は大変だが、これは避け難い。W杯以上の面白さ!ただし、当然授業はするし、自分の勉強もしなくてはいけない。大変なのだ。大変という漢字では、大変さの楽しさはあまり伝わらない(伝える方法がないものか)。加えて、ネットでのニュースも追うので時間が必要となる。ブックマークには、フランス、イギリス、イタリアの3つの新聞とネット系のサッカー情報サイトが入っていて、大きな大会ではチェックしている。<このところギリシャとフランスの選挙も追ってしまったので、これも大変だった。左翼がどうなるのかに興味があるのだ。日本では左翼も右翼も死んでいて、その言葉さえも死語になりつつあるが。そのこと自体はいいことだと思うのだが、でも、芸能界的やわなマーケッテイング社会になっていて、やっぱりこの選択はないだろうと思う。つまらないのだ。いっそ、マーケッティング社会そのものになればと思うのだが。>さて、ネットのニュースのことだがを読むのが大変なのだ。情報量の多さということだけではない。ヨーロッパの記事は日本とは違って量が多いからだ。これはサッカーに関してだけでなく、あらゆる分野に共通している。
デリダという、一部では有名なフランスの哲学者が、どこかで「日本はレジメの国だ」ということを書いていたと思う。さすが!といってもデリダはあまり好きではないが(観念論的なところが)。
そのデリダが言うように、日本の記事は短かくて読みやすい。ヨーロッパ(フランスがベースになっている)と日本の大きな違いは、物事に対して言葉をどのように発していくかのスタイルの違いでもある。文化というより文明的な差異だろうと思っている。
たとえば、サッカーの場合、試合翌日のスポーツ欄には、当然試合のことが書かれているのだが、日本のような、写真と簡単な試合の経過報告、簡単な戦術分析ではないのだ。試合の様子が詳しく細かく書かれるのが通例だ。といっても、試合だけの戦略分析というだけでなく、ピッチや選手の様子まで含めた、言ってみれば、試合のすべてが、言葉で記述・説明されるのだ。少し大げさだとはしても、日本と比べた場合、そんな風に感じる。ネットにも、試合速報というのが必ずあって、そこでは、映像ではなく(権利問題で放映できないので)言葉で1分ごとにピッチ上の様子が記述されていく。だから、必然、速報は長くなる。読むのに時間がかかる。もちろん、言葉の問題があるのだが、フランス語を日本語と同じように操ることができたとしても、新聞を読むのに日本より2〜3倍はかかるだろう。語学がぼくのように半分以下の能力だと、サッカーの記事だけですごく時間がかかってしまう。さすが、プルーストの国だ。
どうして、こんなことになっているのか。それは文化といったような曖昧なものの違いではなく、というより、文化だとすれば、それを支えている言葉の問題なのだと思っている。おそらく、ここを考えていないと、西洋と日本、西洋と東洋といった図式は、たいして意味のないものになるだろう。言葉の、あるいは世界と言葉との関係への態度の問題なのだ。Facebookで「いいね!」と書く、Twitterでつぶやくといったスタイルが、西洋でも爆発的に広がってきた今、記述スタイルは単純化していくのかもしれないが、でも、現実を言葉で表していこうという西洋のスタイルは、まだまだ大きく変わらない感じがする。ユーロ2012の話が大げさになってきた。でも、続けよう。
つまり、西洋には「描写」という記述の伝統があるのだ。現実のある場面を、写真のように言葉で表してしまうのが「描写」という記述の手法である。専門的に言うと、古代ギリシャでの「エクフラシス」という言葉の手法の伝統を引くものだが、この「描写」が19世紀の自然主義の時代に入って、ますます精密化したのである。いわば、「言葉で遠近法絵画を描く」。そうしたイメージだろうか。写真では時間はかからないがーしかし、写真に映し出されたものを、写真のように見るためにはすごく時間がかかるのだが、写真は「一瞥の」映像と考えられているー、言葉は時間がかかる。しかし、西洋では、この時間がかかることを今でもやっている。これはどういったことなのだろうか。説明するためには、覚悟を決めなくてはならないので、ここではやめておくが、基本的には私が世界とどのように取り結ぼうとするのかの態度の問題だろうと思う。
ところが、日本には、この「描写」の意識がきわめて薄い。デリダの言うようにレジメの国である。日本の曖昧さのひとつは、ここにも由来しているだろう。言葉に信頼を置いていないためか?普通、そんな風に感じる。小さな社会から政治・経済まで、言葉は「本当のこと」ではなく、何かの暗示にすぎない。「こうした理由で反対です」と言ったところで、それは文字通りのものではない。そんなことは身の回りにもうんざりするぐらいある。でも、それは言葉を信頼していないためなのだろうか?ぼくには、その逆だと思える。実は、けっこう言葉を信じているはずなのだ。ただ、その信じ方が、言葉そのものの意味に対してではなくーたとえば、リンゴといったらリンゴそのものだけではなく、リンゴと私の歴史や記憶といったものも含めたリンゴという言葉といったらよいかー、そうした言葉には信頼を置いているはずなのだ。
長い間、和歌が思想を決定してきた国である。そして江戸時代からは、俳句も出てきた。そうした短い、とりわけ俳句のようなイメージ性の強い言葉による詩によって、現実が捉えられてきたのだ。それは日常にも深く根ざしているだろう。17文字で世界を理解する(識る)なんて、「描写」をベースとする西洋において、考えることすらできなかったのではないか。だから、ある言葉、文章、話、何でももいい、それらを理解するためには、文字通りの言語的意味というより、感情や個人的な事柄等々、言葉に凝縮された発話者の歴史を「感じる」必要があるのだ。そして、その「感じる」ためには長々とした描写はいらない。こうした意味での言葉を日本人は信じているのではないか?
と、こんなことを、ユーロ2012を見ている間、そして呼んでいる間、考えたのである。この言葉とイメージのことは、長い間、真面目に考えたいと思ってきたことでもある。しかし、なななか進まない。哲学をしっかりやってこなかったためか?あるいは、ぼくの思考法がやはり「レジメ」のためか。ただし、「レジメ」は、感情を含むだけ、疲れる。まあ、そのことを気にすればの話だが。
<ついに、決勝ラウンド>。ヨーロッパ時間での生活も少し馴れてきた。試合が終わると朝。テレビの画面が映し出すポーランドやウクライナは夜。どちらも綺麗だ。向こうではパブかなんかでビールをぐいぐいやりながら、各国のサッカーファンが楽しくしていると思うと、一度、ユーロに行かなくてはと思う。まだ、一度も行ったことはない。6月は教師にとって休めない季節なのだ。そんなわけで、ポルトガルの優勝を願って、7月1日まで二つの時間を過ごすことにしよう。
2012年6月23日土曜日
2012年5月21日月曜日
祖母と小倉遊亀さんのこと
1ヶ月に2回更新と決めたのに、この4月から、文章を書く気力が薄く、何度も書いてみたが、面白くなく削除ばかりした。そんな折り、ふと亡くなった祖母のことを思い出した。10年ぶりの中学のクラス会があり、昔を思い出す想像力に火がついたためか、それとも、これも1年ぶりに弟夫妻と父と母の墓参りにいったためか。はっきりしないが、祖母のことを強く思い出したのだ。それでブログに書いておこうと思ったが、そういえば、ずいぶん昔、小さな冊子に書いた祖母についての文章があることを思い出して、ちょっとだけ手直しをして、再録風にペーストすることにした。
これもずいぶん昔のことになるが、同僚だった山田俊幸さんが関西のサンケイ新聞夕刊に画家・版画家の装丁本についての連載をしていたことがある。そのとき祖母の歌集の装丁を日本画家の小倉遊亀さんが行った話をした。そうしたら、山田さんが、その歌集を連載で取り上げてくれた。すごく嬉しかったことを思い出す。その記事を見たとき亡くなった祖母がまだ生きているような気持ちになり、また、昔のお弟子さんに話すとずいぶん喜んでもくれたこともあった。個人的なことで恐縮だが、ぼくは祖母にずいぶん影響を受けて育ったのだ。
祖母は清水千代といい、明治二十六年に四国の丸亀に生まれ昭和六十一年に大阪で亡くなった、関西では少しは知られた女流歌人だった。歌をこころざしたのは奈良女高師(奈良女子大の前身)のころだそうだが、アララギの古泉千樫や島木赤彦に傾倒したものの特別な先生にはつかず、独学で自分の道を開いていった人だった。昭和十一年に結社「どうだん」を起こし、同名の同人誌に亡くなるまで情熱を傾けていた。歌づくりの姿勢は、見えたこと、あるいは見えることに忠実な、いい意味でも悪い意味でも日本近代の「写実」で、それを律儀に実践した人だった。
その祖母の女高師時代の二年下に小倉遊亀(当時は溝上)がいて、祖母をずいぶん慕っていたと伝え聞いている。小倉が祖母と一緒に歌を詠んでいたことは歌集『白木蓮』のあとがきに書かれているが、歌に熱を入れることになったのはおそらく女高師での祖母との出会いによってではなかったかと想像したりする。こんな文章を書くことになるのだったら、いろんなことを聞いておけばよかったと後悔するが、ともかく、小倉の手になる祖母の歌集の装丁からも小倉遊亀と祖母清水千代の友情のかたちが伝わってくる感じがする。祖母は小倉のことを「ゆきさん」と言っていたが、名前を口にするときのやさしい物言いからも二人の関係が想像できるのだった。
その「ゆきさん」は押しも押されぬ日本画の大家となり、祖母より15年以上長く生きて人生をまっとうした。ぼくは画家小倉遊亀の熱心なファンというのではないが、その絵を見るといつもそこにいくばくかの祖母を見てしまう。小倉の絵のもつハイカラさに祖母の生活スタイルや短歌のモティーフを重ねてしまうのだ。
たとえば、入浴後の三人の女性の様態を描いた「浴女」(昭和十四年作、東京国立近代美術館)のもつ日本的なモダン感覚。それは洋画からの影響といったレベルのことだけでなく、明治から大正時代に高等教育を受けた女性たちのライフスタイルにも関係することだと思う。彼女たちは西洋をひとつの触媒として伝統と現実を新しく解釈しようとしていたはずで、その意志は生のさまざまな局面に乱反射しているだろう。ぼくたちの二つ上の世代の女性たちの創造の新鮮さは、そんなところからきているのではないか。
そういえば祖母はいつも同じメニューの朝食を自分でつくり、それをかたくなに守っていた。雪印のバターを薄くぬったトースト、乱切りにした茹でじゃがいもをあっさりとマヨネーズであえたポテトサラダ、そしてリプトンの青缶の紅茶。こんな生活の小断片にも、祖母の世代の女性たちの新しい生のかたちへの希求を感じることができるのだ。小倉遊亀の朝食はしらないが、少なくとも画中の女性たちは誰もがリプトンの青缶が似合うそんな感じがするのだ。
これもずいぶん昔のことになるが、同僚だった山田俊幸さんが関西のサンケイ新聞夕刊に画家・版画家の装丁本についての連載をしていたことがある。そのとき祖母の歌集の装丁を日本画家の小倉遊亀さんが行った話をした。そうしたら、山田さんが、その歌集を連載で取り上げてくれた。すごく嬉しかったことを思い出す。その記事を見たとき亡くなった祖母がまだ生きているような気持ちになり、また、昔のお弟子さんに話すとずいぶん喜んでもくれたこともあった。個人的なことで恐縮だが、ぼくは祖母にずいぶん影響を受けて育ったのだ。
祖母は清水千代といい、明治二十六年に四国の丸亀に生まれ昭和六十一年に大阪で亡くなった、関西では少しは知られた女流歌人だった。歌をこころざしたのは奈良女高師(奈良女子大の前身)のころだそうだが、アララギの古泉千樫や島木赤彦に傾倒したものの特別な先生にはつかず、独学で自分の道を開いていった人だった。昭和十一年に結社「どうだん」を起こし、同名の同人誌に亡くなるまで情熱を傾けていた。歌づくりの姿勢は、見えたこと、あるいは見えることに忠実な、いい意味でも悪い意味でも日本近代の「写実」で、それを律儀に実践した人だった。
その祖母の女高師時代の二年下に小倉遊亀(当時は溝上)がいて、祖母をずいぶん慕っていたと伝え聞いている。小倉が祖母と一緒に歌を詠んでいたことは歌集『白木蓮』のあとがきに書かれているが、歌に熱を入れることになったのはおそらく女高師での祖母との出会いによってではなかったかと想像したりする。こんな文章を書くことになるのだったら、いろんなことを聞いておけばよかったと後悔するが、ともかく、小倉の手になる祖母の歌集の装丁からも小倉遊亀と祖母清水千代の友情のかたちが伝わってくる感じがする。祖母は小倉のことを「ゆきさん」と言っていたが、名前を口にするときのやさしい物言いからも二人の関係が想像できるのだった。
その「ゆきさん」は押しも押されぬ日本画の大家となり、祖母より15年以上長く生きて人生をまっとうした。ぼくは画家小倉遊亀の熱心なファンというのではないが、その絵を見るといつもそこにいくばくかの祖母を見てしまう。小倉の絵のもつハイカラさに祖母の生活スタイルや短歌のモティーフを重ねてしまうのだ。
たとえば、入浴後の三人の女性の様態を描いた「浴女」(昭和十四年作、東京国立近代美術館)のもつ日本的なモダン感覚。それは洋画からの影響といったレベルのことだけでなく、明治から大正時代に高等教育を受けた女性たちのライフスタイルにも関係することだと思う。彼女たちは西洋をひとつの触媒として伝統と現実を新しく解釈しようとしていたはずで、その意志は生のさまざまな局面に乱反射しているだろう。ぼくたちの二つ上の世代の女性たちの創造の新鮮さは、そんなところからきているのではないか。
そういえば祖母はいつも同じメニューの朝食を自分でつくり、それをかたくなに守っていた。雪印のバターを薄くぬったトースト、乱切りにした茹でじゃがいもをあっさりとマヨネーズであえたポテトサラダ、そしてリプトンの青缶の紅茶。こんな生活の小断片にも、祖母の世代の女性たちの新しい生のかたちへの希求を感じることができるのだ。小倉遊亀の朝食はしらないが、少なくとも画中の女性たちは誰もがリプトンの青缶が似合うそんな感じがするのだ。
2012年4月24日火曜日
新縄文食、現代アートって?
時差の克服と口実をつけてだらだらしていたら、講義も始まり、桜も散り、これは少ししっかりしないといけない、と、少し身体と気持ちを締めるために、まずはベルトを一穴分絞り、8ヶ月中断していた新縄文食再開に向けて準備。新縄文食というのは、エネルギー供給を体内の糖質からではなく脂質から行うという、ローカーボ・ダイエットの一種だが、江部康二さんという医者のネーミングが面白かったのと、続けていると体重がうまい具合に減っていくので、長く続けてきた食事法である。糖尿病の食事法から考えついたとかで、なるべく炭水化物系を食べないというだけの簡単なもの。ぼくは循環器系の病気になるのがいやなので、この食事法をやっているのだが、コレステロールや中性脂肪の値は確実に落ちる。朝と夜は体内で糖分になる米、小麦類胃、ビール、当然お菓子などは食べない、ライトな新縄文食だが、これまで数回行ってきた摂取カロリーを制限する一般的なダイエットよりは、ずっとストレスがない。それに、蒸留酒、肉等々はまったく問題ないからだ。もう7年近く続けている。この食事法については江部康二さんが『やせる食べ方』という本を書いていたと思う。
ダイエットという病については、一度まとめて書きたいが、今回は、現代アートというシステムのことを考えてみる。授業が始まって、そんな話をすることになったこともあるし、このブログでも折に触れて書いてきたので、そのまとめというか。といっても、書いていくと複雑すぎて、なかなか考えがまとまらなく、何回も書き直しているうちに10日以上が過ぎてしまった。その上、あんまり面白くもない。でも、整理ノートとしてはいいかと思い、ブログにあげることにした。
パリという都市で8ヶ月物事を観察していると、世界のいろんなものが見えてくる。やはり、いまだ世界の中心のひとつだ。そこで驚いたことのひとつに、現代アートの一種のブームがある。これはフランスだけのことではないだろう。現代アートというシステムが、これほど大きく成長したことは、ぼくには意外だった。その昔、といっても1990年代のことだが、フランスで現代アートをめぐる大論争があった。内輪の論争ではなく、新聞、雑誌、ラジオ等々、さまざまなメディアを舞台として、批評家、ジャーナリスト、キュレーター、研究者たち、だけでなく一般の人も巻き込んで、「現代アートとは何か」、「現代アートの価値とは」等々についてを何年にも渡って論争したのだ。ぼくの印象では、全体として現代アートに否定的な論調が多かったように思うが、その濃厚な(論争のない国から見ると)論争については、哲学者・批評家のイヴ・ミショー(Yves Michaud)が、報告記のような本も書いてもいる(『現代アートの危機』La crise de l'art contemporain, PUF, 1997)。非常勤でしていた大学での講読に参加していた学生たちと翻訳出版しようと思っていたが、ぼくの怠慢と出版のタイミングを失ってしまい、幻の翻訳に終わってしまった(みなさんご免なさい)。その本は単にジャーナリスティックな報告記ではなく、現代アートについて重みのある内容も書かれてもいるので、現代アートが華やかな現象になった現在でも、十分に読み応えのある本ではある。フランスでは多くの版を重ねているし、論争は、いまでも現代アートを考える上でのひとつのレフェランスになってもいる。
論争があった90年代には、現代アートは、今から見れば、まだ小さな世界だったと思う。その世界の規模をどのように測定したらよいのかわからないが、文化領域という枠で囲ってみても、社会での認知度はそれほど高くなかったはずだ。アートと言えば古典的な、あるいは近代アートのことであり、業界的には話題になっていたビエンナーレといったアートの祭典やスターたちも社会的認知度はそれほど高くなかったと思う。その現代アートが、文化の大きな領域として認知されてきたようなのだ。
たとえば、こんな話を友人に聞いた。フランス最大の美術史の学部をもつパリ1・パンテオンの何千人と言う規模を持つ美術史学部の70%以上の学生は、現代アートへの興味から入学してくるという。少し前まで、現代アートは、まともな研究対象ではないと思われてきた。それが、いまや!なのである。それに合わせてなのか、現代アートについての本の出版も盛んだ。フランスの最大書店フナック(FNAC)の棚には、毎年、その点数が増えていっている。
現代アートに人が集まる、ブーム、という現象は至る所で見ることができる。パリのアートフェアー(FIAC)に入るためには2時間以上列に並ばなければならなかったらしい。と、聞いたので、やめた。代わりに行ったチョコレート・フェアーは1時間。規模もそれほど変わらない。チョコレート以上?現代アートの画廊のオープニングもけっこうな人だ。また、現代アートの美術館と現代アートセンターがぞくぞく誕生している。1997年のスペインのビルバオ・グッゲンハイムにならってか、フランスにはメッスという田舎町に現代美術館。「建物はすごい」とのことだ。他の都市でも計画が進行中だという。
さらにさらに、ビエンナーレ、トリエンナーレという現代アート祭が世界にやたら増え、そこにやってくる人も格段に増えたと想像できる。去年、ぼくはリヨンしか行かなかったが、それでも6〜7年前に比べれば、規模が大きくなった感じがした。ちなみに、その報告記をネットで見ると、今年の入場者数は20万人とちょっと。この10年で倍増した。また、世界のビエンナーレの数は、現在、150を超える。それなりの規模をもっているものの件数だが、ローカルなものを入れれば、実際には、ずっと多いはずだ。こうした現代アートの祭典を社会現象として分析するだけでも、一冊の本が書けてしまうだろう。おそらく書かれているだろう。まだ読んではないが。もちろん、名所案内ならぬ現代アート(展覧会からビエンナーレまで)の観光ガイドブックもある。現代アートは、アカデミズムにも観光にも足場を置いているのだ。
リヨンもそうだが、ビエンナーレ、トリエンナーレは都市あるいは地域で行われるオリンピック型のイベントだ。ビエンナーレの起源ヴェネツィア(1895年)のそれが、19世紀の万博や大型の展覧会から想を得ていることは知られているが、その発想は近代オリンピック(1896年)にも通じる。つまり、近代的な都市イベントなのだ。ちなみに、初期のオリンピックでは芸術も競技種目だった。こうした近代のイベントが、観光という産業を成長させる大きな要因だったことも頭に入れておきたい。実際、世界的な観光代理店トーマス・クック社の基盤は万博ツアーの成功によるものだった。ビエンナーレ・ツアーはますます盛んになってきている。
ビエンナーレは、始めから観光に接続したのだ。といっても、本格的な観光イベントとなってくるのは、おそらく90年代後半のことではないだろうか。それまでは数も少なかった。ヴェネツィア・ビエンナーレの場合、ぼくの経験からだと(ヴェネツィア好きなので、80年代から行っているのだが)、このところ、「ヴェネツィアへ行くついでにビエンアーレから、ビエンナーレに行くためにヴェネツィアに行く」というような観光客も増えてきたように感じる。観光を目的としてビエンナーレを開催する都市が増えてくるのもわかる。アートツーリズムという言葉も生まれている。日本語だと「町おこし」ということになるのか。アートを見せたいからビエンナーレではなく、観光のためにアートを見せる。それは、アートの変質も生む。
現代アートの世界的活況と、その社会浸透の余波(?)は日本にも来ているようだ。愛知や横浜、ツマリや瀬戸内のフェスティバルも、想像以上の人数を集めたと聞いている。今日の新聞を見ると京都でもビエンナーレが計画されているという。出遅れている。それからアートフェアーのような催しも増えてきた。こちらは現代アートと経済の関係を表象する場である。そこでは巨大なお金が動いている(らしい)。ただし、現代アートというシステムは、いろんなものを含み込んでいるので、マーケットという視点からだけを切り取ってみても仕方がないが。ただし、現代アートのある部分が、画廊を媒介にして世界の金融市場に接続していることも間違いなく、そうした意味では、世界の投機機関、あるいは中国を始めとする新興国やアラブのオイルマネーも流れ込んでいる。教育、観光、経済などなど、さまざまな現実がモザイクのように組み合わさっているのが、現代アートというシステムなのだ思っている。
もうひとつの大きなモザイク・パートをあげておけば、アートの歴史に関わる部分である。ここでの結論を言ってしまえば、あるひとつの問いをたてることで(あるいは、たてさせたことで)、現代アートはモダンアートの歴史を引き継いだということである。「アートの価値」「アートの義務」「作品の自律性」「作品の思想性」といった、モダンアートが問いかけてきた(これもフィクションかもしれないが)問題意識を棚に上げ、「アートとは何か」という問いだけを引き継いだということだ。したがって、この問いに始めから答えはないし、答えることを強いることもない。ただし、この問いを抱えていることは間違いなく、そのことでモダンアートの継承権を獲得したのである。この権利が現代アートのひとつの価値を支えている。だから、現代アートは作品の価値とはあまり関係がない。その価値は金銭的数値、あるいはシステムへの参加の度合いだけで計られているからだ。ちょうどオリンピック出場歴の価値と同じように。
こうした価値問題を生産するのは、つまり現代アートとは何かという問いを発するのは、批評家、キューレーター、あるいは現代アートを研究者たちである。もちろん、直接、そんな問いなどをしないが、その作品評やアーティスト評のスタイルが、相変わらずモダニズムのそれなので、あまりピンとこない。そのピンとこないということも重要なのだ。「現代アートとは何か」という問いへとつながることになるからだ。90年代のフランスでの論争は、その典型だし、と考えれば、「危機」と命名された現象は、実は、モダンアート継承の一種の儀式であったのかもしれない。
自分でもまとまらないことを書いてきてしまったが、 現代アートのシステムを構成するパートはまだまだあるし、考えなくてはならない問題も多い。また、このシステムの外にあるアートはあるのだろうかとか(あるのだが)、となると、システムは外部をもつということになり、とすれば、この外部でアートという命名権は何を根拠にしているのだろうとか、そんなことも考える必要があるだろう。実は、ここまで書いてきて、矛盾も多くなり頭も働かなくなった。新縄文食は糖分を減らすので、脳の働きが悪くなるのかもしれない。脳は糖分によって発達してきたと言われているからだ。ともかく、現代アートについては、もう一度続きを書こうかと思っている。少し甘いものを食べて。
ダイエットという病については、一度まとめて書きたいが、今回は、現代アートというシステムのことを考えてみる。授業が始まって、そんな話をすることになったこともあるし、このブログでも折に触れて書いてきたので、そのまとめというか。といっても、書いていくと複雑すぎて、なかなか考えがまとまらなく、何回も書き直しているうちに10日以上が過ぎてしまった。その上、あんまり面白くもない。でも、整理ノートとしてはいいかと思い、ブログにあげることにした。
パリという都市で8ヶ月物事を観察していると、世界のいろんなものが見えてくる。やはり、いまだ世界の中心のひとつだ。そこで驚いたことのひとつに、現代アートの一種のブームがある。これはフランスだけのことではないだろう。現代アートというシステムが、これほど大きく成長したことは、ぼくには意外だった。その昔、といっても1990年代のことだが、フランスで現代アートをめぐる大論争があった。内輪の論争ではなく、新聞、雑誌、ラジオ等々、さまざまなメディアを舞台として、批評家、ジャーナリスト、キュレーター、研究者たち、だけでなく一般の人も巻き込んで、「現代アートとは何か」、「現代アートの価値とは」等々についてを何年にも渡って論争したのだ。ぼくの印象では、全体として現代アートに否定的な論調が多かったように思うが、その濃厚な(論争のない国から見ると)論争については、哲学者・批評家のイヴ・ミショー(Yves Michaud)が、報告記のような本も書いてもいる(『現代アートの危機』La crise de l'art contemporain, PUF, 1997)。非常勤でしていた大学での講読に参加していた学生たちと翻訳出版しようと思っていたが、ぼくの怠慢と出版のタイミングを失ってしまい、幻の翻訳に終わってしまった(みなさんご免なさい)。その本は単にジャーナリスティックな報告記ではなく、現代アートについて重みのある内容も書かれてもいるので、現代アートが華やかな現象になった現在でも、十分に読み応えのある本ではある。フランスでは多くの版を重ねているし、論争は、いまでも現代アートを考える上でのひとつのレフェランスになってもいる。
論争があった90年代には、現代アートは、今から見れば、まだ小さな世界だったと思う。その世界の規模をどのように測定したらよいのかわからないが、文化領域という枠で囲ってみても、社会での認知度はそれほど高くなかったはずだ。アートと言えば古典的な、あるいは近代アートのことであり、業界的には話題になっていたビエンナーレといったアートの祭典やスターたちも社会的認知度はそれほど高くなかったと思う。その現代アートが、文化の大きな領域として認知されてきたようなのだ。
たとえば、こんな話を友人に聞いた。フランス最大の美術史の学部をもつパリ1・パンテオンの何千人と言う規模を持つ美術史学部の70%以上の学生は、現代アートへの興味から入学してくるという。少し前まで、現代アートは、まともな研究対象ではないと思われてきた。それが、いまや!なのである。それに合わせてなのか、現代アートについての本の出版も盛んだ。フランスの最大書店フナック(FNAC)の棚には、毎年、その点数が増えていっている。
現代アートに人が集まる、ブーム、という現象は至る所で見ることができる。パリのアートフェアー(FIAC)に入るためには2時間以上列に並ばなければならなかったらしい。と、聞いたので、やめた。代わりに行ったチョコレート・フェアーは1時間。規模もそれほど変わらない。チョコレート以上?現代アートの画廊のオープニングもけっこうな人だ。また、現代アートの美術館と現代アートセンターがぞくぞく誕生している。1997年のスペインのビルバオ・グッゲンハイムにならってか、フランスにはメッスという田舎町に現代美術館。「建物はすごい」とのことだ。他の都市でも計画が進行中だという。
さらにさらに、ビエンナーレ、トリエンナーレという現代アート祭が世界にやたら増え、そこにやってくる人も格段に増えたと想像できる。去年、ぼくはリヨンしか行かなかったが、それでも6〜7年前に比べれば、規模が大きくなった感じがした。ちなみに、その報告記をネットで見ると、今年の入場者数は20万人とちょっと。この10年で倍増した。また、世界のビエンナーレの数は、現在、150を超える。それなりの規模をもっているものの件数だが、ローカルなものを入れれば、実際には、ずっと多いはずだ。こうした現代アートの祭典を社会現象として分析するだけでも、一冊の本が書けてしまうだろう。おそらく書かれているだろう。まだ読んではないが。もちろん、名所案内ならぬ現代アート(展覧会からビエンナーレまで)の観光ガイドブックもある。現代アートは、アカデミズムにも観光にも足場を置いているのだ。
リヨンもそうだが、ビエンナーレ、トリエンナーレは都市あるいは地域で行われるオリンピック型のイベントだ。ビエンナーレの起源ヴェネツィア(1895年)のそれが、19世紀の万博や大型の展覧会から想を得ていることは知られているが、その発想は近代オリンピック(1896年)にも通じる。つまり、近代的な都市イベントなのだ。ちなみに、初期のオリンピックでは芸術も競技種目だった。こうした近代のイベントが、観光という産業を成長させる大きな要因だったことも頭に入れておきたい。実際、世界的な観光代理店トーマス・クック社の基盤は万博ツアーの成功によるものだった。ビエンナーレ・ツアーはますます盛んになってきている。
ビエンナーレは、始めから観光に接続したのだ。といっても、本格的な観光イベントとなってくるのは、おそらく90年代後半のことではないだろうか。それまでは数も少なかった。ヴェネツィア・ビエンナーレの場合、ぼくの経験からだと(ヴェネツィア好きなので、80年代から行っているのだが)、このところ、「ヴェネツィアへ行くついでにビエンアーレから、ビエンナーレに行くためにヴェネツィアに行く」というような観光客も増えてきたように感じる。観光を目的としてビエンナーレを開催する都市が増えてくるのもわかる。アートツーリズムという言葉も生まれている。日本語だと「町おこし」ということになるのか。アートを見せたいからビエンナーレではなく、観光のためにアートを見せる。それは、アートの変質も生む。
現代アートの世界的活況と、その社会浸透の余波(?)は日本にも来ているようだ。愛知や横浜、ツマリや瀬戸内のフェスティバルも、想像以上の人数を集めたと聞いている。今日の新聞を見ると京都でもビエンナーレが計画されているという。出遅れている。それからアートフェアーのような催しも増えてきた。こちらは現代アートと経済の関係を表象する場である。そこでは巨大なお金が動いている(らしい)。ただし、現代アートというシステムは、いろんなものを含み込んでいるので、マーケットという視点からだけを切り取ってみても仕方がないが。ただし、現代アートのある部分が、画廊を媒介にして世界の金融市場に接続していることも間違いなく、そうした意味では、世界の投機機関、あるいは中国を始めとする新興国やアラブのオイルマネーも流れ込んでいる。教育、観光、経済などなど、さまざまな現実がモザイクのように組み合わさっているのが、現代アートというシステムなのだ思っている。
もうひとつの大きなモザイク・パートをあげておけば、アートの歴史に関わる部分である。ここでの結論を言ってしまえば、あるひとつの問いをたてることで(あるいは、たてさせたことで)、現代アートはモダンアートの歴史を引き継いだということである。「アートの価値」「アートの義務」「作品の自律性」「作品の思想性」といった、モダンアートが問いかけてきた(これもフィクションかもしれないが)問題意識を棚に上げ、「アートとは何か」という問いだけを引き継いだということだ。したがって、この問いに始めから答えはないし、答えることを強いることもない。ただし、この問いを抱えていることは間違いなく、そのことでモダンアートの継承権を獲得したのである。この権利が現代アートのひとつの価値を支えている。だから、現代アートは作品の価値とはあまり関係がない。その価値は金銭的数値、あるいはシステムへの参加の度合いだけで計られているからだ。ちょうどオリンピック出場歴の価値と同じように。
こうした価値問題を生産するのは、つまり現代アートとは何かという問いを発するのは、批評家、キューレーター、あるいは現代アートを研究者たちである。もちろん、直接、そんな問いなどをしないが、その作品評やアーティスト評のスタイルが、相変わらずモダニズムのそれなので、あまりピンとこない。そのピンとこないということも重要なのだ。「現代アートとは何か」という問いへとつながることになるからだ。90年代のフランスでの論争は、その典型だし、と考えれば、「危機」と命名された現象は、実は、モダンアート継承の一種の儀式であったのかもしれない。
2012年4月5日木曜日
ワインとコーラの国

帰ってきた京都の桜は遅く、そして少し寒かった。パリが夏ような春だったこともある。そして、いつもの時差ボケ。歳とともに、これが長引くし、けっこうつらい。そして、やっぱりカルチャーショック。向こうが素晴らしくて、こちらが冴えないということではない。2つの文化の違いへの戸惑いだ。それほど長くはない滞在なのに、そんなことになるのは、パリ滞在にやはり馴染んでいたということだろう(「やはり」というのは、前のブログで同じことを書いたので)。でも、日本の日常(ぼくのだけど)にやっぱり早く馴染まないと、仕事もできないな、と思って、さっそく韓国映画を借りてきた。韓流ドラマではないのは、何を見たらいいのかわからなかったので、まずは映画からという気持ちになったのだ。そして、日本芸能界の典型、バラエティー(子供が録画しているので見さされる)やワイドショーをまったりと見る。NHKのニュースも芸能界バラエティー風だ。ニュースというのは新しい情報伝達ということだが、それが伝達以上に事件・出来事の説明・解説になっている。説明のために、あるストーリーが必要となる。その物語が平凡だ。事実の伝達という意識がフランスと違うように思う。いいとか悪いとかではない。それぞれの文化の問題である。それから、馴染みの喫茶店やレストランに行き、職場に行き、近くのコンビにと、去年の8月までの習慣を再履修しているのだ。これも楽しい。来週からは授業も始まる。8ヶ月の記憶は、少しずつ後退していき、いつもの「いつも」が始まるのだろう。
こんな1週間を過ごしつつ、パリ滞在記のようになった8ヶ月間のブログで書き忘れていたこともあるな〜と思って、その余録を書いてみることにした。
パリはどうでしたか、と会う人ごとに聞かれる。一種の挨拶だが、こうした経験を人に伝えるのは難しい。すべてが何となく自慢話になって、聞く人をうんざりさせてしまうことが少なくない。そういうことでは、ブログがあってよかったとも思う。この私的「的」な現代の日記は、なかなかいいと最近思い始めた。
パリのラーメンのことは書いたが、フランスといえば、グルメ、ワイン、ファッションというのが定番。ラーメンや日本食のことは書いたが、おフランス・グルメについてはほとんど書いてこなかった。ファッションは別にして、フランスにいれば誰でもグルメに挑戦ということになるので、ぼくもそれなりに観察・実践をしてきた。
とくにワインは必須なので、何とかワイン通になろうと最初の頃は気を入れた。といっても、フランス高級ワインはうるさい人も情報も多いので、チープなワインの通になろうと思い、5ユーロ(550円くらい)までのワインの通になろうと思ったのだ。これは挫折した。結局、そうしたワインでは、そんなに差がないという、当たり前のことがわかっただけだった。そうしたワインは「味わう」という感覚も薄い。評判のチープワインを友人が持ってきてくれたが、美味しいが、含みはもうひとつ。それから、少しレベルを上げ、6〜10ユーロ前後までのワインへと上昇。やっぱり、こっちの方がうまかった。「うまかった」というのは「飲む」という動詞に接続していて、「味わう」ということではない。もちろん、辛口甘口、ぶどうの種類、重たいもの軽いもの等々のバラエティーには富んでいるように思えた。このクラスはやっぱり「味わう」という感覚のちょっと手前。グラスを回し香りを嗅ぎなんてことをしても、ひどくは変わらない。やっぱり、15ユーロ(1600円)は出さないと、グルメ的ワインにはぶつからないというのが結論だ。何か、すごくつまらない話になってしまった。これも時差ぼけ?
こんなこと書いてみたけど、実は、ワインについてあまりわからなかったのだ。ただし、ひとつわかったことは、フランス人もワインに詳しくないということである。ぼくはここを勘違いしていた、そのことがわかったのだ。彼(彼女)たちとワインを飲むと、けっこう講釈をしてくれる。この地方のここのワイナリーは、とか、このぶどう種云々等々。その講釈に戸惑わさせられていたのだ。でも、それは話だけの場合が多いということらしい。ワイン屋の店員が教えてくれた。ほとんどが口だけだよ、と言うのだ。ほんとうに味を知っている奴なんか、ちょっとしかいないよ。安心して!と、本当に安心させてくれた。ワインのフランス的呪縛から解かれたのだった。
もうひとつ驚いたのは、コカコーラを飲む人の多さだ。ファンタやオランジーナといったソフト飲料をはるかに超えている。それも、この10年近くでかなり増えてきたような印象。ガキから熟年まで。カフェでレストランで、コカを飲んでいる人を見ないことはない。ちょっとしゃれた料理にもコカ。日本よりはるかに多い。え〜、コカコーラでご飯?と、何人かに聞いてみたが、理由はよくわからない。身体にいいと言う人もいたが、どうもこじつけ。フランスの人はこのことにあまり気づいていないようだ。ワインの国フランスはコカコーラの国でもある。おフランスになりたい人は、コカを常飲することだ。ぼくには何か変だが、これも多様性との共生という現フランス社会の理念の、無意識的実践なのか。ワインとコカの共存を見ていると、フランスが美食の国とは思えなくなってくる。もちろん、何回か行った1つ星以上の高級レストランでコカを飲んでいる人は見たことはないが。ソムリエとのワイン談義で始まる、そうしたレストランも、多様性のひとつということかもしれない。
2012年3月26日月曜日
Coming Home、フランスのジプシー

Coming Home。一度、この言葉をタイトルに使ってみたかった。もちろん、ベトナム戦争を内側から描いたジェーン・フォンダ主演のアメリカの大名画のタイトルである。確か日本語では「帰郷」だったはず。ジェーン・フォンダのファンだったので2度ほど見たか。彼女の映画では2番目に好きな映画だ。ちなみに、一番は「They shoot Horses, Don't They?」。本も訳されていて、そのタイトルは「廃馬を撃て」、だったと思う。それが映画の日本語タイトルは「ひとりぼっちの青春」。何とロマンチックな!ぼくの中で青春映画ベスト3のひとつである。
「ひとりぼっちの青春」は当然泣いたが、「帰郷」でも泣いた。シチュエーションは違うが、どちらも美しく残酷な映画である。そのComing Home的気分を、久しぶりに味わっている。「久しぶり」は、前回の長めの滞在が25年くらい前だから、それ以来ということだが、最初のこうした気分は学生時代、69年から70年にかけて、ヨーロッパからインドまで旅行したときのことだ。最初の外国旅行ということもあって、このときの旅の終りはすごくComing Homeな気持ちだった。そして、日本に帰る前のインドでの、何とも言えない切ない気持ち。そして、帰ってからのすごいカルチャーショック。そんな昔に比べれば、やっぱり歳をとったのだろう、これまでほどの感傷はないが、それでも・・・。
去年の8月からのパリ滞在も終わる。映画とは違って何のドラマもないが、といっても、滞在した土地を離れるのはやっぱり寂しい。今回は、この社会にすぐに馴染め、昔からここで暮らしてきたような気持ちにもなっていたこともあって、すごく長くいた感じもする。でも、去年の夏が昨日のような、すごく短い感覚も同時にあるのだが。フランス語にもあまり違和感がなく、といっても相変わらずヒアリングが下手でボキャブラリーも少ないが、それでも、こちらの人と話すときにすごく余裕があった。それから、多くの人と知り合った。ぼくの業界アカデミズムな人たちとの出会いは少なかったが、版画工房の元主宰者、映画監督、BD作家、先史考古学者、アルゼンチンの画廊主や批評家などなど。もちろん、昔からの知り合いとも、当然、ぐっと親密になった。それから、こちらの日本人。留学やワーホリで来ている若い人から何十年とこちらにいる人まで。いつも感じるのは、とにかく世界は広く多様だといということだ。そして、日本人もちじこまっているのではなく、広いところに目を向けている人も少なくないことも。この広さの感覚が好きなのだ。当たり前だが、日本ではなかなか得ることのできない感覚である。
こんな風に滞在を振り返っていたところ(感傷的?)、近所の名画座(旧サン・ランベール)で、フランスのジプシーの現実を撮ったドキュメンタリーと監督を交えた討論会をやるというので出かけた。ぼくたちの住む15区のアムネスティー人権委員会のジプシー支援グループの主催とのこと。帰国ということの感傷が、ジプシーの放浪感覚に接続したのかもしれない。
もともと、ジプシーにはすごく興味があった。セルビアの監督エミール・クリストリッツァの名画「ジタンの時間」や「白猫・黒猫」を始め、ジプシーを扱った映画をできるだけ見てきた。また、ジプシーキングなどのポップ・ジプシーミュージックなどもよく聴く。一般にジプシーの名を知らしめているのは、ヨーロッパの観光地での旅行者を狙うガキ集団。パリはとくに多い印象がある。物や金銭を盗られた人も多いはずだ。だから、世界中で評判が悪い。でも、このところパリではあまり目立たなくなってきたような気もするが。後で書く追い出し政策のためだろうか。
この、ぼくたちがジプシーと言っている民族の呼称はかなり複雑で、最近では「ロマ」という呼ばれ方をすることが多い。もともとインドからヨーロッパに入ってきた放浪の民である。そして、現在でもヨーロッパを放浪しているグループも多いという。そして、行く先々で迫害を受けてもいる。そのジプシーのフランスでの現実をフランスのベルナール・クランディーンストという無名のドキュメンタリー作家が撮った。タイトルは「ロマ、失われた道」。フランスにはジタンという言葉もあるが、ロマを使っている
のも、現在の呼称の趨勢だろう。他に同じようなドキュメンタリーがあるのかもしれないが、ぼくには初めてのジプシー・ドキュメンタリーである。パリ近郊に仮住まいをする集団のあまりにもひどい環境、にもかかわらず、もともといたルーマニアから移動せざるをえない現実。排斥する者と援助するもの。そんな生のジプシーを淡々と撮ったドキュメンタリーだ。
移動生活というスタイルのために近代国家に馴染めず、また、ジプシー自身、全体での民族アイデンティティーを確立しようとする運動が弱いため、集団は根無し草的になる。ナチ、それから社会主義国家での虐殺、迫害はユダヤ人などと同じだし、現在でも差別は根強いのに、人類史の負の歴史として大きな問題になったことは、ユダヤ人などに比べれば、それほど多くはない。ジプシーの民族的複雑さと、移動生活というスタイルが深く関わっているのだと思う。彼らを少数民族として認定し、国内に定住させる国もあれば、そうでない国もある。フランスでは、数年前から、サルコジ右翼政権の移民抑制政策のためだろう、ジプシーの国外退去政策が行われ、その故国ルーマニアへと送り返そうとしている。そのルーマニアでの差別がかなりひどいのでフランスにやってきたのだが。ドキュメンタリーは、そんなフランスのジプシーたちの日常を描いたものなのだ。討論会が終わったあと、作家と話す機会があり、彼からそのビデオを譲ってもらった。こんな世界の現実を目にできる機会が多いのも、パリという都市である。
そのフィルムの中にも、やっぱり音楽と踊りが出てくる。彼らはいつも歌い踊る。パリ郊外の、おそらく異臭の漂うだろう工場跡に仮住まいしていても、歌い踊る。世界の残酷さに対抗するような陽気な、でもうら悲しい音楽と踊り。フィルムにもしっかり写されていた。日本に帰れば、ジプシーにリアリティーはなくなるだろうが、記憶には刻まれた。
2012年3月20日火曜日
選挙とロック、パリのサロン・デュ・リーヴル

今年、フランス一番のイベントは大統領選挙である。昨年の社会党の候補者選出選挙で開始された2012大統領選は今年に入って現大統領ニコラ・サルコジがエンジンをかけ始め、大きな社会現象となってきた。この表現はちょっと違うな、というよりメディア化してきた、あるいはスペクタクル化してきたと言った方がいいか。現代の社会現象とはメディア(広い意味で)がつくるスペクタクルとしての現象でもある。だから、ほんとうはたいしたことないと思えばたいしたことないのだが、それがたいしたことになるところに今の社会の病理があると思っている。といって、病理を分析することも病理に浸ることもしたくないとなると、あとは、少なくともぼくの場合(このブログの場合だが)、このブログが社会の窪みになると考えて、現代の病理を引き受けてみようと考えるのだが、その言葉は難しい。「窪み」というのは、前にノルマンディーの田舎でのロックフェスのことを書いているときにふと思いついた言葉だが、何か気に入って、現代の病理を前向きに治療するひとつのキーワードにしたいと思ってきた。でも、なかなかどうしたキーワードなのかはいまだ説明できないのだが。
フランスの大統領選は、一応、政策論争である。一応というのは、そうした態を取っているとメディア的に見えるということだが、実のところ、実際に何が決定的なのかはわからないのではないか。若者たちは、日本と同じように政治に冷淡だとも言われている。何よりも、この国の昔から変わらない、右か左かという二者択一的思考がうっとうしいと思っているらしい。当然だが、といって若い世代が右/左という思考方法に変わる思考を提出してはいない。でも、フランスの選挙は日本のような無差別な芸能界的選挙ではない。少し前からの日本社会の芸能界化(テレビ的人気者が勝ち組といった感じの)は、ある意味で、近代イデオロギーを相対化するが、といって現実を前向きに変えることはまったくないだろう。思考の枠組みについての反省がまったくなく、日本という業界の仕組みと言葉にだけに依存しているからだ。大阪の市長が大阪復活を主張しても実現することはないだろう。その思考が、政治社会では新鮮だとしてもーというのも旧来の政治志向に芸能界の業界思考をもちこんだだけだからだがー日本という政治も含む芸能界社会のなかでは平凡なものにすぎず、そのことに気づいていない。まあ、その無知もすごいが。ただし、そうした思考法への反省のないことが、日本のナショナリズムなヒステリーをつくりだしている。ぼくは気持ち悪い。
フランスは、と言えばーそれほどフランスのことを知っているわけではないので、「と言えば」という言い方は、単純に、日本を基準とした対立的言い回しに過ぎないー政治世界に日本的芸能界の雰囲気は薄い。むしろ、近代イデオロギーが形式として生きている。その嘘くさいところが、若者の選挙離れを起こしているという。
そんなことを考えたロックバンドが8つ集まって、「ロックで選挙」というコンサートを行った。若い世代に選挙に関心を持ってもらうという意図だとか。そこに贔屓のテット・レド(このブログでも何度か書いている)が出演すると知って、さらに会場がラ・シガールという18区の旧劇場をコンサート会場にしたかっこういいホールということで、チケットを買った。テット・レド本来の音楽は聴けないだろうとは思っていたが、やっぱりその通り。かなり混乱したコンサートになった。といって、政治集会の雰囲気はなく、ちょっとした乱痴気ロックフェス。ロックが社会への「アンチ」ということを今でも信じているような雰囲気。立ち席の観客の奇妙な熱狂に少ししらけてしまった。
政治に参加するのは難しい、というより、政治のつまらなさに、どうして関わればよいのかわからないのだ。ぼくだけのことではないだろう。オルタナーティブということがいろんなジャンルで言われ実践されるが、いまだ政治に対してオルタナーティブな方法論を持つことができないというのが実際ではないのか。でも、少しはやっていかなくてはと思う。
そんなことを考えさせてくれた「ロックで選挙」コンサートから1週間ほどのち、ヨーロッパでもかなり大きなブック・フェアー(書籍見本市)に、友人のBD作家ジャン・クロードが萩尾望都さんと対談するというので、どうして?という感じで出かけた。アパートからバスで10分ほどのポルト・デ・ヴェルサイユにある見本市会場は、これまでにも何回か日曜散歩気分で出かけていて、行くたびに疲れて帰ってくるというパターンを繰り返したところである。国際都市パリが国際都市としての文化的、経済的イベントを発信する会場で、毎週、何か大きな見本市を行っている。この3月の目玉のひとつがブック・フェアー。フランス語でサロン・デュ・リーヴル。今年は、福島1周年もあって、日本は特別招待国。作家から漫画家まで20数人が招待されていて、日本のスタンドでは4日間さまざまなトークショーが行われる。基本的には、福島以後、日本の作家は何ができるのかという問題意識でのトークであったようだ。「あったようだ」なのは、萩尾さんの対談しか聞いおらず、あとは情報を見たに過ぎないからだが、たぶんそうだったと思う。ぼくは、こうしたいかにも作家がこれまで何かやってきたような意識をもつ問題設定が、気に入らない。萩尾さんみたいに、何も知らなかったので、これからしたいというならいいが、文学を書く人はちょっと考え違いをしているとぼくには見える。それは現代アートでも似たようなものだろう。
結局、感激したのは、アルゼンチンのスタンドで行われていたホセ・ムニョスというBD作家(世界的です)の対談と、そのあと、購入したムニョスのBD、近代タンゴの創始者カルロス・ガルデス物語に、デディカスとフランス語でいうイラスト入りサインをもらったことだった。上の写真は、そのデディカス。自慢したいのでのせることにしてしまった。一筆描きの人物がガルデス。そのBD作家ムニョスの、アルゼンチン近代の抑圧的政治と文化の関係を能弁に、ただし、超スペイン語的発音のフランス語で熱く語る対談での知性に感激。西洋の二元論と少し違った思考であったのがさすが。
でも、ブック・フェアーはやっぱり疲れた。今回は会場で家内とはぐれ歩きに歩いてしまったからだが、ともかく、文化は疲れるということだ。ただし、疲れていたら文化はできないということもある。その文化に疲れさせてくれるパリもあと10日ほど。帰ったら少し頑張ってみようと思うようにもなってきた。
2012年3月16日金曜日
メビウスの死

前回のブログでメビウス(ジャン・ジロー)のことを書いたあと、悲しい知らせが入ってきた。こんなに早くとは。こちらの新聞、テレビ、ネットは、メビウスへのオマージュであふれた。そのお葬式が15日に行われ参列してきた。フランスのお葬式は初めてだったが、やっぱりキリスト教を感じる。死者がもうひとつの生を生きるための儀式でもあった。最初に創世記の一節が読み上げられ、そのあと、いくつかの聖書の一節、そして近親者や友人たちの言葉、パイプオルガンの荘重な演奏等々。仏教では参列者はお線香だが、聖なる水というのか、棺に水をかけ死者を弔うのだった。
2009年に、京都に来たメビウス夫妻の姿を思い出していた。その後、パリやアングレームでも会ったが、いつも「京都はほんとに楽しい旅だった」と言ってくれた。最後の日本になってしまったのだ。出席者がメビウスに別れを告げるとき、奥さんのイザベルと少し話することもできた。彼女もすごく喜んでくれて、お互いに、A bientot!(ア・ビアントー)(また!)。「また会おうね」ということだが、ぼくはメビウスにもア・ビアントー!と言った。歳をとってくると、こうしたことも想像するようになる。
メビウスを知ったのは、大学で講演会をしようと思った頃だから、まだ4年前くらいか。名前は知っていたが、実際に作品を読んだことはなかった。フランスによく来ていたのにBD(バンド・デッシネ=フランスのマンガ)を手に取らなかったのは、日本のマンガに馴染みすぎて、その重厚な、それも文学的な雰囲気に(そんな感じをもっていたにすぎないが)近づけなかったのだ。でも、マンガミュージアムでのBDの展覧会、メビウスの来京、アングレームのフェスティバル等々、BDと接触するうちに、その面白さが少しずつわかってきた。そして、ぼくの頭の中にあったBDイメージが、あまりにも狭いこともわかった。もちろん、物語文学的なものもある。ただし、そうした作品以上に、映画に近い感覚があることがわかってくる。SF、ウエスタン、冒険もの、歴史物等々、映画が展開してきたレパートリーと重なる。そして、何よりも、絵を描く作家の力量がすごい。絵画とは違う、線でのデッサン(グラフィックといっても良いが)の力。その多様さも面白い。そんなBDの中で、メビウスはやはり群を抜いていたと思う。少ししか読んでないので偉そうなことは言えないが、BDというものが、こういう人にかかると、絵画と同等、というより、ある意味で絵画以上に普遍的な広がりをもったアートになってしまうんだな〜ということを感じてきたのだ。
そのメビウスは帰ってこないが、彼の残した作品は膨大にある。少しずつ、読んでいこうと思っている。そうすれば、今度会ったときに、もっと話ができるだろうと、そんな想像もする。葬式の日、パリの7区の教会にも春の花が咲いていた。
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