2010年7月21日水曜日

フットボールについて

ともかく暑い!身体もふらふらする。書きたいこともあるが暑さに負ける。そこで前々回に予告したフットボールについての文章を載せる。少し前に勤める大学の冊子に書いたものを修正した文章である。W杯の熱狂が去ったが、メモランダムとして書いておく。
フットボールというスポーツが世界中の人を熱狂させるのは、競技そのものにおいてだけではない。このスポーツが「世界の現実」とでもいうものを過激に抱え込んでいるからである。少なくとも、ぼくはそう考えている。「世界の現実」とは政治、経済、文化などのすべてを、そしてその矛盾までも含み込んだ現実そのもののことである。したがって、フットボールとはけっして幸せなスポーツなどではないのだ。
フットボールが世界の表象であることは、たとえば、グローバリゼーションという現代のキーワードをいち早く実現したことからもわかる。たとえば、イングランドやイタリアのチームでは、同国人がひとりも先発に入っていないことも稀ではない。日本では想像できないことである。このことが良いか悪いかには意見があるだろうし、このところ自国保護主義的動きが目立ってきてもいるが、グローバリゼーションとは究極、こうした姿にもなるのだ。ナショナリティーという近代的概念がフットボールでは崩れ始めている。しかし、そのことによってクラブチームのプレーの質とスペクタクル性は飛躍的に向上し、大きな金銭を大量に生みだすことにもなる。金融工学の手法にも似ている。だから、弱者も大量に生みだすことにもなる。そうした弱者にアフリカの若者たちがいる。前回書いておいたことである。
ヨーロッパのチームにはアフリカの優れたプレイヤーが数多くいることは誰でも知っている。ただし、そうしたスター選手の蔭に、挫折した、それだけならいい、エージェントにだまされて悲惨な境遇に陥った無数のアフリカの若者たちが存在するのだ。W杯が南アで行われるので、この問題を日本のサッカー・ジャーナリズムはどのように取りあげるのかと注意していたのだが、僕の目にはほとんど入ってこなかった。NHK・BSでルポジュタージュとしてとりあげたのを見たときは、さすが、NHKだと、W杯での中継の節度も含めて妙に感心した。この問題に関心がある人は番組でも紹介されていたfootsolidaire(フットソリデール)というパリに本部を置く組織のHPにアプローチしたらどうだろう。
実は、スター選手にも苦悩がないわけではない。FIFAが「差別撲滅キャンペーン」をするのは、それだけ黒人選手に差別が酷いということだ。黒人選手への汚い言葉は、ぼくもスタジアムで耳にしたことがある。彼ら成功者にとってもそうしたことがあるのだ。アフリカのプレイヤーたちは、先の若者のことや差別のことなど、すべてをわかったうえで、ピッチの上を躍動するのだ。世界の現実の矛盾を背負いながら、一人の人間として、選手としてピッチを駆け巡るのだ。たとえば、ドログバの見事なシュートやパスが感動的なのは、それが世界の現実に亀裂を入れ、希望の回路を幻想させてくれるからである。

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