2011年11月27日日曜日

現代アートとチョコレート、リヨンと村木くん


このブログを書いているのは近所のユルスナール・メディアテーク。パリ市のWiFiが2時間使えるので、ここに。アパートでの接続が現在できないのだ。これで2度目。ネットを使えないと苦しい。仕事をするにしても、ネットからの情報が不可欠だし。まあ、ぼくの接続トラブルは完全な環境を整えない限り完全解決にはいかない。不便だが、あと4ヶ月くらいなので我慢することにしよう。
ここ何日か、アートをけっこう見た。リヨンのビエンナーレ、それから、パリ伝統のサロン、そして昔の、17世紀オランダの絵画と装飾文字。この都市にいると、自然にアートに触れることになる。そのうえ、これは書き飽きたが、パリはとにかく催しが多い。「文化の狂乱」。アートはその重要な構成物だ。そのアートと書いているものは、ただし、なかなか複雑である。日本語でも、しだいに美術という言葉に代わってアートが使われるようになったが、これはどちらかというと現代アートというギョウカイの美術のことを指しているようで、日展なんかの公募展にあまりアートという言葉は使わない。でも、欧米は、すべてがアートなので(当たり前だが)、その識別がポスターくらいではわからない。第一、アートということ自体、現在何を意味しているのかを説明、そして分析できる人だって多くはないだろう。そのアートの3つを見たというわけである。
少し前にやっていたパリFIAC(国際現代アート見本市)。世界の一流の画廊が集まり、自分のところのアーティストの作品を売ろうとする、文字通りのフォワール(Foire=見本市)である。現在、ヨーロッパではスイスのバーゼルのものが一番力があると言われてるが、ぼくにはわからない。とにかく、現代アートの現状を知ろうとするには、こうした大きな見本市に行く必要があると言われているので、アートに関心がある端くれとして、気持ちがそそられたが、入場料32ユーロ(3500円ほど。高すぎる!)、そのうえ入るのに長い行列で1時間以上は待たなくてはならないというので、結局行くのをやめた。行った人に聞くと、やっぱり1時間半並んで会場は大混雑。世界的だけのことはある。現代アート業界の商売の場は、いまや一般の人にとっても大イベントとなっている。結局、そのFIACに行く代わりに、同時期にやっていたチョコレート見本市に行った。入場料は3分の1、待ち時間半分のこの甘い見本市と現代アートのそれとの違いは、ほんと何だろう。試食のチョコレートを口に入れながら考えてしまった。ほんとは違うけど、何かこう書くと、いかにもの感じがするでしょう。実際に考えたのは、このブログを書いていてのこと。会場のカカオの香りにくらくらしていただけなのだ。
現代アートとチョコ。文化的価値の違い?文化的にチョコレートの方が下?そんなことはない、原理的に。そうした時代は終わった。とすれば、こんな違いを考えること自体が実際は無意味なのだという結論に行きつく。いろいろな、それもものすごい量の、何かを主題=文化的商品として活動するギョウカイという場があり、それらが同時・平行存在していて、それぞれが人を引きつけ、経済規模を大きくしようとして、さまざまなイベントを打つ。現代アートもそうしたギョウカイのひとつである。ただし、この業界は、ぼくなどの予想をはるかに超えて、21世紀に入って急速に拡張してきた感じがする。
一昔前は、現代アートのフランスでの一般認知度はかなり低いものだったと、ある社会学者が報告している。しかし、それから10年以上たって、事態は急速に動いているようだ。たとえば、パリ第1大学の美術史学部は何千人という学生が登録しているそうだが、その入学理由のトップは現代アートが好きだからだということだ。同大学に勤める教授がこぼしていた。ぼくたちの世代のように、ドラクロワの、印象派のという学生に代わって現代アートが美術史、あるいは美術を学ぶことの大きな動機になってきたのだ。そういえば、日本でも変化は確かにある。大学では現代アートを勉強したい人が増えてきたし、大きなフェスティバルも盛んでかなりの観客を集めている。最近では、ツマリ、名古屋、瀬戸内、横浜などなど、どこも予想以上の人を集めているという。現代アートは社会に根ざしてきた?と、楽観的に考えることもできる。でも、ちょっと違うと思っている。要は、文化的イベントをすることが定着してきたと行った方がいいだろう。ある意味「もの」は何だっていいのだ。
ここを勘違いしている人も少なくないし、その作品やフェスティバルをめぐって、昔と同じような議論の仕方をしている。現在、現代アートと呼ばれているものは、20世紀のアバンギャルドの続きではない。昔、美術と呼ばれていたものは、現在、後期資本主義のイベント欲望のメカニズムが要求するスペクタクル性を身につけてきたと言っていい。徹底的な消費の快楽である。昔のアートが、基本的には、消費に背を向けるという矛盾の中に存在していたことを考えれば、素直になったのかもしれない。だから、大きな現代アートの催しは、その意味で面白い。
こんなことを感じながら(これは同時進行)、リヨンのビエンナーレとかサロンとかを見たのだった。リヨンはもう10回目になるのか。昔、一度見て、ブライアン・イーノの作品に感激したことがある。世界のビエンナーレからすれば、中規模なのだろう。でも、こうしたフェスティバルは出品者が多いので気に入るものもいくつかある。とにかくわがままだが、自分の趣味にあうものがあればいいのだ。今年はアルゼンチンの女性が総合ディレクターということもあって、ラテンアメリカの作家が多いような気がした。ぼくは二つが気に入った。ひとつはポーランドのロベルト・クスミロウスキーという人の、おそらく記憶をモチーフにした巨大な閉ざされた図書館とアルゼンチンのディエゴ・ビアンキの混乱をテーマとしたインスタレーション。現代アートの質のよいスペクタクルだった。それから何といっても、ビエンナーレの関連プログラム「レゾナンス」(リヨンの80近い会場で行われているのだが)での、あの(前にここで書いたことがあるから、あの、なのだが)村木くんの作品。細やかな手仕事によってインスタレーションをする、その作品は現代アートの会場でも、きちっと見させていた。巨大な作品とは、別の意味で、スペクタクルになっていた。見に来たフランス人は「日本的美しさを感じる」と感心していた。そういえば、ビアンキの作品も、ぼくには「アルゼンチンらしく」感じた。サッカーで知るアルゼンチン的感性である。昔は、何かインターナショナルなスタイルがあると信じられていたけど、そんなものはなっかたのだろう。もちろん、グローバルなシステムはある。現代アートもそうしたシステムで動いているが、そのシステムをつくる個々はあくまで個々なのだと思い知らされる。ひょっとしたら、現代アートは、システムと個とのしのぎあいをしているギョウカイかとも思う。伝統の美術のことは次に書くことにしよう。

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